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民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「椿」 佐野 洋子

2013年12月18日 00時26分59秒 | エッセイ(模範)
 「佐野洋子」 追悼総特集 100万回だってよみがえる  文藝別冊  2011年

 「椿」 佐野 洋子 単行本未収録コレクション P-106

 「女ってわかんないよなあ」
 と言ってそいつは泣いた。本当に泣いたの。昔、男は泣かなかった(そうだ)。
両足をかかえて、ズボンのひざこぞうのあたりで本当に目から出た水をふいて、
頭ぐりぐり動かして鼻すすったから、私がクリネックスをひき抜いて、「ほら」とわたすと、
「サンキュー」と言って、鼻をチーンとかんだ。まつ毛があっちこっち五、六本ずつ鼻水でかたまっていた。

 「だってよう。俺、本当にほれてたんだぜ。俺、毎日見てて、これは夢かもしれない。
こんないい女が俺のこと好きなはずがない。何かの間違いかもしれないって、思っちゃうんだよ。
 すげえ楽しかった。天気がよくて少し風吹いたりして、あいつが横にいて、
あいついつだって静かにひっそりしていてさあ、それで、千回も万回も言ったんだ。
俺変なところあったら直すから何でも正直に言ってくれよなって。
嘘言われたりごまかされたりしたくなかったんだ。
そりゃ人間だもん、気が変わることだってあるし、それは仕方ないよな、
でもあっちこっちかけ持ちなんていやだし、あいつにだって嘘つかせたくなかったからなあ」

 そいつは、「クリネックス」と私に言った。私はクリネックスをわたした。目をふくのかと思ったら、
そいつは、クリネックスを目の前に広げて、じっくりと真っ白い紙を見ている。
「あいつをクリネックスにしたら、すげえブランド物になるなあ、白いビロードよりすべすべして、
ひんやりしていて、俺さわるのびくびくしたもんなあ」
 と言うと、ていねいに四つに折って、そっと目をふいているの。

「あなた鈍感だったんじゃない。彼女、それとなくサインを送っていたと思うなあ」
「それがないから、女はわかんねぇって言ってるだろ。
 昨夜(ゆうべ)だよ、昨夜少し雨降ってたの知ってる。俺心配でさあ、ぬれて風邪ひいたりしたらやだろ、傘もってなかったし、早く帰ろうって言ったんだ。
だいじょうぶだって、少し雨にぬれた方が気持ちいいって。あいつのふちに小さい水玉が光って、
俺、また、ぼーとしちゃった。俺のことまだ好きかよってきいたら、当たり前じゃない。
何でそんなこと聞くのって、あいつだんだん少しづつほわっとひろがるようにちゃんと俺見て笑ったんだ。前の日と全然変わらなかった。
 それで俺、またうっとりしてさあ、あいつのこと見とれていたら、
俺の目の前でポトッと頭落っことしてしまったの。何の前ぶれもなく、ポトッだよ。
仰天しちまってさあ、心臓が止まったよ。もう俺のこと一瞬にして嫌になったんだな。
少しづつ具合が悪くなってみたいな、それなりの別れ方ってあるじゃない。
それが、急にポトッだよ。何で、今まで笑ってて、ポトッと頭落とすんだよう」

 そいつは、またズボンで涙をふいた。
「女ってわかんねえよなあ」
 昔、男は泣かなかったんだよ。私はクリネックスをもう一枚ひき抜いてやった。
 ふーん、白い椿だったんだあ。