民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「世の中に絶えて化粧のなかりせば」 その2 林 望

2015年10月22日 00時10分57秒 | エッセイ(模範)
 リンボウ先生から「女たちへ! 」  林 望  小学館文庫 2005年

 「世の中に絶えて化粧のなかりせば」 その2 

 まず上品なる薄化粧の場合について論じる。
 私の意識の中では、地肌がすっかりファウンデーションというもので塗りつぶされているようなのは、まずもって「論外」なのである。
 それが、「真っ白」であれ、「明るい肌色」であれ、あるいは黒っぽさを強調するような色であれ、その形而上的な意味は変わらない。それをひとことで言えば、「自分の顔色の否定」である。即ち、色黒だから白く塗るということはその地肌が黒いというありのままの自己を受容できない意識であるということである。しわが多くなったからそれを塗りつぶして平らにするということは、その年を重ねてしわの目立つようになった自己をさながら認めたくないということである。
 これを、男の世界に移してみれば、たとえば、頭髪が禿げたからカツラをのっける、というようなことだ。カツラをのっけたとて、それで「禿げている自己」を消すことはできない。ただ文字通りの糊塗策弥縫(びほう)策であるにすぎない。女の人たちから見て、どうだろう、たとえば、もう真ん中が禿げてしまった中年男が、その禿げたところを隠そうとして脇のあたりからよいしょと髪を持ってきて、まるでフタでもするように反対側の脇まで延ばしておく、いわゆる「一九分け」みたいなのや、あきらかにそれと分かるカツラをのっけているのを見て、なんだかいじましいという感じを持つことがないだろうか。
 反対に、たとえば、評論家の三宅久之さんのように、天気晴朗、さっぱりと禿げて、美しく手入れされた顔を見たときに、「禿げておかしい」と思うだろうか。すくなくとも私は、「一九分け」や「カツラのせ」よりは、三宅久之さんの頭の「潔さ」を美しいと感じる。それは、ありのままの自分を妙な方策で隠したりせず、そんなことにこだわらない堂々たる人生を、その潔さの中から感じ取るからである。
 この意味で、女の厚化粧は、男の「一九分け」「カツラのせ」に匹敵する「自分隠し」であって、それはつまり、潔くないと感じざるを得ないということなのである。


「世の中に絶えて化粧のなかりせば」 その1 林 望

2015年10月20日 00時54分38秒 | エッセイ(模範)
 リンボウ先生から「女たちへ! 」  林 望  小学館文庫 2005年

 「世の中に絶えて化粧のなかりせば」 その1 P-101

 私は化粧ということが大嫌いである。世の中に化粧なんて下らないことがなくなってしまわないかと思う。
それは、反動でも石頭でもなく、「女は化粧」という「常識」の中に、悲しい差別が内在していると思うからなのだが、いっぽう、清潔であること、それは、ただ垢や汚れにまみれていないという物理的な清潔さのみをいうのではない。己というものに、真剣に対峙して、自己を受容するところから自信を持って等身大に生きる、その潔さこそがもっとも尊いのだ。

 テレビに、まるで歌舞伎の女形(おやま)みたいに真っ白に顔を塗りたくったオバサンが出てきて、彼女の作った白塗り化粧品を塗れと勧めるのを見た。ところがまた、口元はニコニコしつつ、目はちっとも笑っていない強面(こわもて)風のオジサンが出てきて、肌の汚れを完璧に洗い流す高価な洗顔石鹸のセットを買えと勧めるのも見た。
 これでは果たして、漆喰壁のごとく塗りたくったらよいのか、それとも、途方もなく高価な石鹸を用いて、素肌で勝負したらいいのか、世のご婦人方は甚だ迷うところではないかと思った。
 私自身は、「化粧という行為」そのものを好まない。化粧などという野蛮な風習がこの世からすっかりなくならないものだろうかと、そう思って暮らしている人間の一人である。

 中略

「僕が色気を感じるとき」 その4 林 望 

2015年10月18日 00時06分55秒 | エッセイ(模範)
 リンボウ先生から「女たちへ! 」  林 望  小学館文庫 2005年

 「僕が色気を感じるとき」 その4

 私の感じる形而上的な色気は、まず何はともわれ「品格ある話し方」である。いかに億万長者であろうとも、巴里の社交界でちやほやされようとも、あのナニガシ婦人に、私がまるっきり色気を感じないのは、彼女の言葉遣いが余りにも下品だからである。
 反対に、たとえばNHKの道傳愛子さんと話していると、心がへなへなとなるような色気を感じるのは、彼女の言葉遣いが天女のように上品だからである。
 また「飾らない素直さ」ということも形而上的色気の重要な要素である。
 いかにスイスの花嫁学校を卒業し、「ハイソな暮らし」に彩られていようとも、そのハイソ評論家なる女史に一切の色気を感じないのは、この人の態度の背後に、いたずらに背伸びして上品ぼっている哀しさが見え透いてしまっているからである。
 反対に、まるで素顔で、歯に衣着せずに物を言い、お世辞もお上手もないけれど中山千夏さんに爽やかな色気を感じるのは、彼女の態度がまったく背伸びのない等身大の自然だからである。
 同じ一度きりの人生、虚飾の色気で下らない男の気を引くのが幸福か、正々堂々虚飾を排し、品格ある暮らしをして、上等の男を得るのが幸福か。分かれ目はここのところである。

「僕が色気を感じるとき」 その3 林 望

2015年10月16日 00時05分40秒 | エッセイ(模範)
 リンボウ先生から「女たちへ! 」  林 望  小学館文庫 2005年

「僕が色気を感じるとき」 その3

 ここから類推して、たとえば、ボディコンスーツ、むせ返るように濃すぎる香水、裸同然にあらわな水着、ヘアヌード、鼻にかかった「色っぽい」声、などという、いわゆる「お色気満点」なるものに男は魅かれると思い込んでいる浅はかなる女たちがたくさん出現してもそれはそれで仕方があるまい。
 けれども、肝心なことは、仮に、そのような「仕掛け」に釣られて言い寄ってくる男がいるとしても、そういう男が果たして「共に語るに足る」人物であるかどうか、というこの点である。
 いっぽうで、女が「色気がない」と思っているなにごとかに男は思いがけず反応したりすることもある。
 たとえば、地味なスラックスを穿いて歩いている人のお尻や充実した太もものいかにも丸くたおやかな曲線、また、温泉などに行ってふとすれ違った湯上り女の上気したような素顔、スポーツで一汗かいて顔をごしごしとタオルで拭っているときの口元や首筋、香水とは無縁の女の体の自然な体臭、屈託なく無防備に大笑いをしている人の生き生きとした口の中、短く切り揃えられた若々しい爪先の桜貝のような色、そんなものに男たちは無上の色気を感じたりするのである。分かりますか。
 こうした天与の色気に比べたら、渋谷や歌舞伎町や銀座の裏町あたりをうろうろしている女たちの、ごてごてに飾り立て、鼻の曲がりそうな香水の匂いをさせ、いやらしい付け爪に妙な絵を描いたりしている作り物の風体など、ひとえに月の前の星に同じである。
 以上は言ってみれば「形而下的色気」だが、さて、このうえにまた「形而上的色気」というものがある。


「僕が色気を感じるとき」 その2 林 望

2015年10月14日 00時51分55秒 | エッセイ(模範)
 リンボウ先生から「女たちへ! 」  林 望  小学館文庫 2005年

「僕が色気を感じるとき」 その2
 
 私たち凡俗の男は、やっぱり、多少スタイルが悪くても、とびきりの美人でなくとも、同じ肌の色をして、同じように小柄で、どこにでもいる「隣のお姉さん」タイプの人を見たときに初めて現実的な意味での「色気」を感じるのである。(中略)
 ところが、その「隣のお姉さん」タイプの人が、どのように自己評価をしているかというと、たいてい、「スタイルが悪い」「顔も垢抜けない」とかいうふうに概して自己否定的で、どうかしてフジワラノリカみたいになりたいものだと思っていたりするのである。
 たぶん、あの花魁道中の中のぽっくりみたいように高い靴を履いて、足の長さを水増しして歩いている若い女たちは、それで15センチほどはフジワラノリカに近づいたつもりでいるのであるが、実際は歩きにくいものだから、変に膝の曲がったぶざまななりでよちよち歩いているじゃないか。はてさて、まことに笑うべきことである。もう分かっていないことおびただしいと言わねばならぬ。
 女が一般的に「色気」だと思っているものに男はそれほど反応しない。
 たしかにテレビを見ていると、胸もとに「谷間」をあらわにした女だの、ハイレグ水着で立っている女だの、たくさん出てくるから、ただ、ああいう凸凹のはっきりした、露出的な格好さえすれば男はそこに色気を感じるものだと女たちが誤解をするのも無理はない。