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民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「無名の人生」 その3 渡辺 京二 

2018年02月02日 00時02分20秒 | 生活信条
 「無名の人生」 その3 渡辺 京二  文春新書 2014年

 序 人間、死ぬからおもしろい その3 P-10

 江戸期の人間は自分というものにそんなに尊重していなかったろうということ。いいかえるなら、あまり自己執着はせず、自分というものを過大評価しなかった。俺なんか大した人間じゃない――。そこが現代人との大きな違いだろうと思う。

 今の人間は、威張ってかっこうをつける。政治家はむろん、テレビのコマーシャルやドラマに出てくるタレントも、一般の若者も、自分の個性を過大に評価しているのか、非常に演技的で表情も物言いも過剰になっています。それは、自分を非常に高く買っている証(あかし)なのでしょう。

 昔の人は皆、それほど自分にこだわらず、自分は平凡な人間だと考えていました。だから、とくに女性たちは、公衆の面前にしゃしゃり出るなどという気恥ずかしい真似はできない、という人が多かったのです。それに対して今は、誰もがスターやモデルみたいに振る舞って自己を顕示するのが喜びとなり、センターステージに立ちたくて仕方がない。

「無名の人生」 その2 渡辺 京二

2018年01月31日 00時07分45秒 | 生活信条
 「無名の人生」 その2 渡辺 京二  文春新書 2014年

 序 人間、死ぬからおもしろい その2 P-9

 江戸時代の人間は、今よりもずっと簡単に――簡単にというと語弊があるが、「生」に執着することなく死んでいきました。当時の文献を読んでみると、本当にあっさり死んでいる。すでに生きているときから覚悟が決まっているのでしょう。そもそも江戸時代の平均寿命が今と比べてずいぶん短かったということもあるでしょうが。

 私の女房は68歳で逝きましたが、そのとき「人生は長さじゃない」という言葉を残していきました。女房だって死にたくはなかったにちがいないが、覚悟のできる人間だったのでしょう。

 それはいいとして、江戸時代の人生は短かったかも知れないけれど、彼らには「短すぎる」という感覚はなかったはずです。さすがに30代で死ねば早死にと思っただろうけど、40過ぎればもう早死にとは言わず、ましてや50になると、これはもう非常にあっさりと死んでいった。

 では、あっさり死んで何事もなく死を受け入れていた江戸期の人と、そうではない今の人とはどこがちがうのか。

「無名の人生」 その1 渡辺 京二

2018年01月29日 00時29分52秒 | 生活信条
 「無名の人生」 その1 渡辺 京二  文春新書 2014年

 序 人間、死ぬからおもしろい その1 P-8

 だいぶ長生きしてしまいました。もうすぐ80代もなかばです。
 いつ80を越したのか。たしかに60までは「ああ、ここまで来たか」と自覚があった。けれども、60から一足飛びに80になったような気がします。いつの間に70代をすっとばして80を越したのか。それでも、もう少し生きていたい。
 
 考えてみると、友は死んでゆくし、周りは知らない人ばかりになりました。かといって、友が生きているときも、ほとんど行き来しなくなっていた。若いときとちがって、年を取るとあまり出歩かなし、もう相手のことも分かっている。いかに親しい友であっても、お互いにしゃべることはしゃべり尽くしたし、新しいことは何もない。退屈だ。人間というのは、「この人はどういう人かな」「え、こんな一面もあったのか」そこに好奇心が湧き、感動が生まれて付き合いをするものです。

 しかし、私はちょっと長生きしたものだから、2、3歳年上の人間はすでに死んでしまっています。ずっと若くて死んだのも多い。仮に彼らが生きていたとしても、ほとんど行き来がないから、死んでいるのと同じなのです。
 結局、これ以上長生きしても何も変わらない。この状況はどこかで打ち切ったほうがいい。それが「死」というものなのでしょう。しかし、そうは思っても、まだいきることに執着もあります。

「葬式は、要らない」 その14 島田 裕巳

2017年08月04日 00時06分44秒 | 生活信条

 「葬式は、要らない」 その14 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 村社会の成立と祖先崇拝 その2 P-75

 とくに江戸時代に入って、「寺請制度」が導入されたことは大きな意味をもった。
 すべての村人は、キリシタンや日蓮宗の不受不施派など、当時は危険視され禁教とされた宗教集団の信者でない証に、村内にある寺の檀家になることを強制された。各寺院は行政組織の末端に位置づけられ、いわば役所の戸籍係の役割を果すようになる。それによって、村人は必ずや仏教式の葬式をしなければならなくなり、戒名も授けられた。これを契機に、仏教式の葬式が庶民の間に浸透する。

 これは権力による信仰の強制であるわけだが、村人の側にもそうした信仰を受け入れる必然性があった。
 それぞれの村人は、必ずどこかの家に所属していた。家自体が共同体の性格をもち、家単位で水田を所有するとともに、家族全体が共同で耕作にあたった。家は生産の拠点であるだけではなく、後継者を確保する場であり、個人の生存は家によって支えられた。そうして家を創設した初代を中心とする先祖を供養する必要が生まれ、家の信仰として祖先崇拝が確立された。

 近世には、村全体は氏神によってまとまり、村を構成するそれぞれの家は祖先、祖霊によってまとまるという信仰体制が築き上げられた。寺請制度が受容されていくのも、それが祖先崇拝の信仰にうまく適合したからである。

「葬式は、要らない」 その13 島田 裕巳

2017年08月02日 00時14分15秒 | 生活信条
 「葬式は、要らない」 その13 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 村社会の成立と祖先崇拝 その1 P-75

 今でも、日本社会の特徴を指摘する際に、「村社会」ということばが使われる。村社会とは、内部でかたまって、ときに排他的な傾向を示す閉鎖的で規模の小さな社会のことである。

 (中略)

 近世の村落共同体は、稲作を大幅に取り入れ、新田開発を推し進めることで生産力を上げ、それにともなって共同体の結束を強化した。稲作には労働や水利の管理などの面で共同での労働が不可欠で、村の人々は集団として結束力を強める必要に迫られた。

 それは信仰のあり方にも影響を与えた。近代社会に入るまでは「神仏習合」が基本で、仏教と神道とは、それぞれの村のなかで役割分担をしながら併存していた。仏教の方は、葬式仏教として村人の葬式や法事・供養を担当し、一方神道の方は、氏神祭祀を営んで村を統合する役割を果たした。そのため村には、菩提寺としての仏教寺院と、氏神としての神社とが併設される体制が築かれていく。