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小沢一郎マニュフェスト修正に怒り 二・二六事件に擬えて
まずは時事通信の記事を読んでいただこう。
≪ マニフェスト修正を批判=「二・二六事件は政治の責任」-小沢氏
民主党の小沢一郎元代表が塾長を務める「小沢一郎政治塾」の開講式が11日午後、都内で開かれた。小沢氏はあいさつで、菅直人首相の政権運営に関し「われわれは、国民の生活を守るんだという名の下に政権を委ねられたことをもう一度、自分の胸に問いたださないといけない」と述べ、首相が掲げる衆院選マニフェスト(政権公約)見直しを批判した。
小沢氏は、旧陸軍の青年将校が反乱を起こした二・二六事件に触れ「事件を忘れてはならない。それが(起きたのは)国民の生活をきちんと守り切れなかった政治家と政治の責任だ」と指摘。「生活苦、貧困が、そのような悲劇をもたらした。だから私は『国民の生活が第一』だというスローガンを掲げた」と強調した。
強制起訴をめぐり、党執行部が自身の処分を検討していることなどについての言及はなかった。(2011/02/11-17:13)時事通信 ≫
二・二六事件の事件経緯より、そのような事件が起きる時代背景乃至は社会背景を小沢一郎が引き合いに出した「二・二六事件」なのだと思う。
たしかに、時代背景乃至は社会背景は似ている。具体的に青年将校らの軍の蜂起を例えたわけではないだろう。ただ、「二・二六事件」後、陸軍の横暴独走を許し、太平洋戦争に突入させてしまった政治家及び政治の責任を痛感し、権力の暴走的独走は国民を予期せぬ方向に導いてしまう、その程度には語ったのだと思う。
政治の貧困、公務員天国、経済不況の長期化、就職難、国民の格差拡大、地方の経済疲弊、大企業の暴走的利益追求姿勢等々、細かい部分ではかなり違うが、現象的には非常に似ている。
ただ、時代背景乃至は社会背景が似ていても、当時の国民の経済的底力と今の底力に大きな差異があることが、国民が真から怒り行動しない問題点なのだと筆者は思っている。問題点と云うか、その分国民が豊かさを享受する「経済的糊代」を抱えている、と云う事も出来る。
此処が国民と小沢一郎が語る危機感とのズレなのだと思っている。 政治の貧困、公務員天国、経済不況の長期化、就職難、国民の格差拡大、地方の経済疲弊、大企業の暴走的利益追求姿勢など、本来であれば国民がエジプト並の怒りをあらわにしても良さそうなものだが、全然そのような雰囲気は醸成されていない。少なくとも現状は。
日本人が生活主義者となり、家族単位の保護主義者になっている。特に都会においては国民の格差拡大、地方の経済疲弊、経済不況の長期化、就職難などが直接的影響から遠く、筆者の目から見ると、わが世の春を未だ謳歌している感がある。 シャッター街を映像で見ても、“あら大変ね”だけの世界で対岸の火事そのものだ。炬燵でヌクヌクしながら豪雪地帯の難行苦行を景色として観ているだけである。
筆者の僅かな空間での感覚だが、都会の人間、時には地方の人間も含めて、親世代が有する経済的蓄積の支援を受けて生活主義を満たしている傾向があるのではないかと疑っている。 あくまで全般的傾向の話だが、己の貧困を感じさせない親世代の蓄積の支援が、実は己のタコの足だと気づくことは少ないのだと思う。マクロ経済を語っても、今ひとつピンとこない現象は、この国民のヘソクリ経済が意外なパワーで日本経済を救っている。延いては、国民が貧乏で虐げられていると気づかない、元凶なのかもしれないと、フト思うのである。
多くの読者の方々には釈迦に説法になるだろうが、「二・二六事件」を簡単に説明しておこう。YAHOO知恵袋に妥当な解説があったので引用しておく。
≪質問:2.26 事件 ①この時代背景と ②起きた原因 ③結果どうなった? ④その時総理大臣は何を...≫
≪回答:226事件については本気で答えたら文庫本が一冊できるくらい長くなるので、手短に。
①NY発の世界恐慌の波をまともに受けて深刻な不況になり農村が荒れて娘の身売りなどが頻発、五・一五事件や血盟団事件などのテロも頻発、数年前に満州事変もあってどうも暗い空気が流れていた時代でした。
②当時の陸軍は、「皇道派」「統制派」という派閥に分かれて険悪な雰囲気がありました。その「皇道派」の親分である真崎甚三郎という人が教育総監という地位を辞めさせられ、真崎を慕っている皇道派の陸軍将校が激怒、またその前に陸軍士官学校事件という事件などで後に226事件の主犯格になる磯部浅一、村中孝次が陸軍をクビになり、統制派による皇道派追い出し工作に皇道派の一将校、相沢三郎中佐が白昼に永田鉄山軍務局長を惨殺します。皇道派は陸軍のあちこちにはいたのですが、精神論をぶちまけるだけで何もしないのに苛立った現場の青年将校たちが「我々が行動を起こして天皇陛下の回りに いる重臣(君側の奸)を殺して昭和維新を起こそう」と計画、その時皇道派の青年将校が多かった陸軍第一師団の満州派遣が決定してしまいます。満州に派遣されたら「昭和維新」など起こせないと焦った青年将校たちは、2月26日に行動を起こしました。彼らは秘密裏に計画、唐突に事件が起こったと思われがちですが、彼らの動きは一部の人に感づかれていて、憲兵隊が彼らの行動を監視していたので、2月26 日に行動するという情報も手に入れた憲兵もいたようです。しかし、東京憲兵隊のトップが皇道派、つまり青年将校のシンパなのでほとんど握り潰されたと言ってもいいでしょう。また、横須賀駐屯の海軍(横須賀鎮守府)も新聞記者からの情報で「近いうちに行動を起こす」と察知、「その時」が起こった時のシミュレーション行い実際に 事件が起こったら海軍の陸戦部隊を東京に派遣、ものすごい素早い行動を起こします。この横須賀鎮守府のトップが米内光政に井上成美というコンビで、彼らは のちに海軍トップのコンビになって戦争反対、昭和20年の終戦へのキーパーソンになります。
③226事件は結局昭和天皇の断固とした態度で鎮圧され、のちに行動を起こした青年将校のほとんどは処刑されますが、皇道派の人はほとんど軍の中央から左遷されてしまい、統制派が完全に実権を握りました。陸軍はここで反省しなければいけなかったのですが、反省どころか政治への介入を強めて陸軍の発言力を強めます。また、事件自体は数日で鎮圧されますが226事件の後遺症、特に心理的ショックは大きく「陸軍に反対したら暗殺されるのではないか」というPTSDのよう な状態が出来てほとんど誰も陸軍に逆らうことはできなくなります。昭和天皇の側近だった木戸内大臣も「また226事件を起こされるのが怖かった」と言ってますし、青年将校に襲撃されて重傷を負った鈴木貫太郎も総理になっ た時は陸軍に対してかなりビビっていたことが伺えます。陸軍も226事件を利用してプレッシャーを与えたフシがあり、昭和19年のことですが事件で辛くも命拾いした首相の岡田啓介が東条内閣打倒を狙って裏工作をしていた時、東条に呼び出され「これ以上動くとどうなっても知りませんよ」、つまり「もう一回226事件みたいなのを起こさ れて死にたいのですか」と間接的に脅しをかけています。昭和天皇も226事件にはかなり神経質になっていたようで、戦後になっても「226事件が起こって○○周年」の時になると不穏な空気はないか尋ねていたと 言われています。
④質問の意味がよくわからないのですが、当時の首相岡田啓介は暗殺を免れはしたものの、226事件を契機に陸軍の動きを抑えるいいチャンスだと思った、しか し誰も陸軍に首輪をはめる人はいなかったと戦後の回顧録で述べています。当時の岡田の心境は彼の回顧録に詳しく書かれています。岡田から見た226事件の観点も貴重なので興味があれば見て下さい。≫
*2・26事件前後の時代年譜(参考)
昭和6年 9月18日 満州事変
昭和7年 1月28日 上海事件
3月 1日 満州国建国宣言
5月15日 五一五事件(犬養首相殺害)
昭和 8年 3月27日 国際連盟を脱退
昭和 9年 3月 1日 溥儀が満州国皇帝となる。
昭和11年 2月26日 二二六事件
昭和12年 7月 7日 蘆溝橋事件
昭和13年 4月 1日 国家総動員法公布
昭和16年12月 8日 日本軍真珠湾を奇襲
昭和20年 3月17日 硫黄島の日本軍玉砕
8月15日 玉音放送。終戦。
8月30日 マッカーサー、日本に到着。
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