藤原愛子の日常茶飯事

前稲城市議・藤原愛子のもろもろな日々

記念日にしちゃいけない

2012年03月11日 | 雑感
今日、ブログを書く人は特に沢山いらっしゃるだろうと思います。

 3月11日。

 あの日のことは鮮明に覚えています。

 議会中で、私は建設部に聴きたいことがあって部長と話をしていました。新しく建設される住宅内の道路位置の確認をしていた時に、足元が揺れ始め、じょじょに強く激しい揺れになって、庁舎全体がゆがむようにぐらぐらミシミシと動き、机の書類は流れ落ちて棚の地図もなだれ落ちてきました。
 本来、来庁されている市民の方達の安全を優先にするとされていますが、実際はそんなすぐに行動にうつれない。
 女性職員は悲鳴をあげてうずくまり、体の大きな男性職員は、むりやり机の下に片方の肩だけいれている。

 私はそんな状況を立って、口あけて、ただ見ているだけ・・・。
 なさけない。

 市長候補に名乗りをあげて、事務所も構えていたときでしたが、事務所に帰ってからも、テレビの画面をみんなで凝視していました。
 なんて無力・・・。

 夕方から、リュックに水とパン、生理用品を詰めて、避難場所になっている中学校にいきました。消防団と市の職員が複数、緊張した面持ちで立っていました。
帰宅困難な人が徐々に体育館に来られていましたので、今度は稲城駅に向かいました。
 駅の改札口前には大勢の人。駅ビルのスポーツ施設からの水が改札近くの天井からびちゃびちゃ漏れている。
 避難場所への誘導は?と見ると、改札口に市の職員が黙って地図を渡してる。

 あのさ。住んでる人は中学校、わかるかもしれないけど、仕事に来ている人はほとんど知らないよ。それに真っ暗の道、誘導も少ない中、たどりつけないよ。
 それで、声を張り上げて「避難所に行く方!こちらへ!一緒にご案内します!」と言って、足の不自由なおば様につきそいながら、ぞろぞろと中学校にあるいていきました。
 途中、立っている職員に、声をあげて誘導するように言いながら。

 体育館の中には、若い女性達がけっこういらっしゃったので、生理用品にお困りのかたは?と一人ひとりに声かけて配ってまわりました。これは若い消防団員にはなかなか難しいことですね。

 何回か駅と中学校を行き来したあと、不安そうに歩いている人に声をかけていって、家まで歩く人などにパンと水を提供。
 このくらいしか出来ない。もっと困っている人はまちにあふれていたと思います。


 本日は、様々なところで追悼式典や、脱原発行動、講演、復興支援イベントが行なわれます。テレビも特集番組を一日やっています。

 この日をわすれてはいけない。
 
 でも、

 この日を単なる「記念日」にしてはいけない。

 これから、孤独や失業からの生活苦に耐えかねて、心が折れてしまう人、命を絶ってしまう人が、きっと沢山いらっしゃる。親御さんを失った子どもたちのこれからが、物心両面で閉ざされてしまうことが考えられる。

 今日のこの日を、これからの長い支援の改めてのスタートの日としませんか。

今、私は以前にも書きましたが、東北の主に有機農業生産者と、八木澤商店の樽支援(お醤油です)を毎月送金で応援しています。
 あと、脱原発。自然エネルギーの学習会などやっていますが、まだまだ、自分がやるべきことを模索しています。

 深い悲しみを、すぐに癒す方法を私は知りません。だから。

 できることを 息長く やっていきます。やっていきましょうよ。
コメント (3)
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