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「フラガール」―未来は我々民衆が切り開いていくものだ

2007年10月08日 00時56分00秒 | 映画・文化批評
 この6日の土曜日は、久々に早く帰宅してテレビを見ました。見たのは当日夜9時から放映された映画「フラガール」です。実はこの映画、劇場公開の時にも見たいと思いながら、ついつい見そびれてしまっていた映画でした。

 映画のあらすじを簡単に言うと、1965年の福島県いわき市で、常磐炭鉱の相次ぐ閉山で寂れゆく街の活性化にと、地元経済界が誘致に乗り出したハワイアンセンターに、次の人生の活路を見出そうとした炭鉱夫の娘たちの、実話を基にしたお話です。
 数千人の解雇と引き換えにたった500人しか雇われないハワイアンセンターに、「もうこんな東北の田舎でくすぶっているのは嫌だ」と応募した紀美子(キャスト―以下同じ:蒼井優)や小百合(山崎静代)たち、ド素人の娘たち。その彼女らにダンスを教えるために東京からやってきた女性ダンサーも、かつては歌劇団女優として鳴らしたものの、その後落ちぶれて借金まみれになった平山まどか(松雪泰子)。
 この、使い物にならない素人ダンサーたちと、まったく教える気のないインストラクターの両者が、次第にやる気を出してきて、紀美子の兄(豊川悦司)や母(富司純子)を始め、最初はセンター誘致に無理解だった周囲の人間をも変えて行く。その中で一人前のダンサーと再びプロのインストラクターに生まれ変わっていく、というストーリーです。その中に、炭鉱落盤事故で小百合の父が無くなったり、まどかを追いかけてきた借金取りを紀美子の兄が追い返したり、という話も適度に挿入されて、なかなか面白い映画でした。

 ダンサーの一人に南海キャンディーズのシズちゃん(山崎静代)を登用したのが、この映画の一つのミソかも。最初は鈍くさかったシズちゃんですが、最後には結構サマになっていた。それなのに、ブログの人物評を見たら、他の女優はみんな結構ベタ褒めなのに、このシズちゃんだけは余り好くは書かれていない。これはいくら何でもちょっと可哀相。あの渡哲也とコンビを組んでの缶コーヒー「ジョージア」のCMでイメージを悪くしたのかなあ。私はあのCM結構好きだったのに、何故か直ぐに放送されなくなった。あと欲を言えば、最初のボタ山の背景などが、如何にも映画のセットみたいな感じで、少し興ざめ。これは以前見た映画「血と骨」の時にも感じた事だけれど、もう少し一工夫が欲しい所です。
 それと、フラダンスに対する認識を新たにさせてくれた事も、この映画を見てよかった点です。私が今まで抱いていたフラダンスのイメージは、プールサイドでハワイアンソングに合わせて波の様に踊る、というものでした。しかしこれはあくまでフラダンスの形式の一つ(フラ・アウアナ)でしかなかったのです。映画の最後の方でリーダーとなった紀美子が踊ったのは、もう一つの形式のフラ・カヒコという、古来からハワイ民族に伝わる力強い踊りでした。こちらは後に白人征服者によって抑え込まれ、それに代ってフラ・アウアナが広められて、今のフラダンスのイメージとして定着していった事も、映画を見た後で調べて初めて知りました。

 映画の全体的なイメージとしては、90年代に見た映画「ブラス!」や、まだ見ていませんが同じ様な舞台設定の映画「ひだるか」、浅野温子主演のテレビドラマ「コーチ」を彷彿とさせるものがありました。ストーリーそのものは反リストラのリベンジ・コメディーで割りと単純ながらも、そこに込められた「みんな違ってみんな好い、誰でも人間として生きる価値がある、価値の無い人間など存在しない」というメッセージには、いつも励まされます。

 確かに、この映画も穿った見方をすれば、米国や国際石油資本(石油メジャー)が日本市場を手に入れるために仕掛けてきた戦後の経済構造改変(石炭から石油へのエネルギー革命や高度経済成長政策)を無批判に「時代の流れ」の一言で済ましている、或いは、炭鉱資本による雇用切捨て隠蔽策でしかないハワイアンセンター誘致を無批判に肯定しているとか、そういう面での批判は、挙げればいくらでもあります。映画の中にも、紀美子と仲良しだったダンサーが、メンバーから抜けて北海道の夕張炭鉱に越していく家族についていく場面がありますが、これも今の夕張の行く末を思うと、「この選択は果たして良かったのか?」という気持ちに一瞬なります。
 しかしそこで思うのは、たとえそうであったとしても、この映画が訴えていたもう一つの主題、紀美子の母親が「私らの時代は、仕事は歯を食いしばってするもの=単なる苦役だったが、これからはこの子らの様に、人を喜ばせ自分も楽しむ、そういう仕事もあって良いのではないか」というくだりにこそ、この映画のもう一つの真骨頂があるのではないでしょうか。本来、仕事とは斯くあるべきものなのだ。それが何故今、苦役になってしてしまっているのか? 仕事を苦役に歪めてしまっているのは一体誰か? そして、本来の仕事を歪めているものから取り返し、自分たちの人生と未来を作っていくのも、実はこの私たちの力にかかっているのではないのか、と。

 同じ様な事は、前に話題を呼んだテレビドラマの「ハケンの品格」にも言えるでしょう。確かにあのドラマは、番組スポンサーのCMを見たらもう一目瞭然の通り、テンプスタッフやヒューマンといった派遣会社の御用番組です。派遣の仕事はみんなあんな大企業本社の綺麗なオフィスワークみたいなのばっかりで、そこでは篠原涼子扮する主人公の大前春子みたいなキャリヤウーマンが我が世の春を謳歌していて、正社員はダメ人間ばかり、と。但し、それはあくまで上辺だけであって、特に99年からのアウトソーシング原則自由化以降は、偽装請負や労災隠しや、グッドウィルのデータ装備費問題に見られる様な派遣・請負会社による中間搾取(給与ピンハネ)や、ネカフェ難民の温床ともなっている「日雇い派遣」の現実や、正社員自体のワーキングプア化といった、本質問題はそこには一切出てきません。
 しかしそれでも、派遣・請負労働が本質的には労働ニーズの多様化などではなく企業の飽くなきコストダウンの要請に因るものであり、しかも、その底にあるのは公正な競争では決してなくて「ズルしても出し抜いた方が勝ち」という考え方である事は、そのドラマからも充分見てとれます。だから、あのドラマは派遣御用の思惑をも超えて、視聴者から支持されたのです。視聴者はその中で、大前春子の突っ張りキャラに溜飲を下げながら、同時に「彼女の限界」をも認めた上で尚且つ、彼女やダメ派遣スタッフの森美雪に、私も含めて声援を送っていたのです。どこぞの誰かは、私の大前春子評の一面だけを取り上げて、派遣会社の太鼓持ちみたいなピント外れの批判を自分のブログで展開しているようですが。

 そんなこんなも含めて、「フラガール」や「ブラス!」などの映画や「コーチ」「ハケンの品格」などのテレビドラマの、一番底に流れているのはメッセージは、「誰でも人間として生きる価値がある」「仕事とは本来人を喜ばせ自分にとっても楽しいものである筈だ」であり、「そういうものを目指して未来に向かっていくのだ」「未来は我々民衆が切り開いていくものだ」というものであり、そして、これこそが今の平和憲法が示す主権在民・個人の尊厳・幸福追求権・生存権などの理念をストレートに謳い上げたものだという事を、私は見てとりました。

(参考資料)
・映画「フラガール」公式サイト・ブログ
 http://www.hula-girl.jp/index2.html
 http://blog.excite.co.jp/hula-girl/
・映画「フラガール」を応援する会
 http://www.iwaki-fc.jp/hulagirl/index.htm
・映画紹介「ブラス!」
 http://ginnews.hb-arts.co.jp/3-10/screen.html
・映画「ひだるか」製作上映委員会:三井三池争議の歴史など
 http://www.hidaruka.com/
・フラダンスのちょっといい話:フラダンスの歴史など
 http://kennkou-daiichi.com/hura/hurarekishi.html
・「ハケンの品格」が現実にどこまで切り込めるか
 http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/9ba54b30517d33ce69204ab548264552
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