「『心迷う』、そのときに…。」つまり、何かあったときに、「『何で? どうして…? え~っつ?」と思うとき、「あ~っ! これが、大切なのだ。」、というのです。
その「迷う心、右往左往する心。」が、私達の人生、私たちの心の善悪、自分の『思い』を見直す、『大事なとき』だというのです。 (う~ん。 いきなり、『深い』ことを言うなあ…。)
すなわち、「先の読めない人間は、迷い重ねて、我が人生行くもの…。 心『迷う』今こそ、なすべきことは、何なのかなあ?」と『現実』(真実)を見直す、とても大事な機会(チャンス)だというのであります。
(う~ん。 しかし実際には、心が、『迷って』いるときというのは、心が『右往左往』してしまっていて、心を『見直す』などという余裕は、私には、とてもなく、とにかく、『現場対応』で、あの手この手を打って、『裏目』の連続となりました…。)
今次、安倍改造内閣においては、史上最多タイの5名の女性閣僚の誕生となりました。
それとともに、日本の現代社会を象徴するような事実が、女性たちの男性に対する体力格差が、どんどん、どんどん縮小していることでありましょう。
国際スポーツの日本代表レベルを比べた場合、男子のほうが、はっきりと女子より高いランクにいるのは、体操だけではないだろうか?
あとは、ほとんど、ありとあらゆるスポーツで、男子より女子の方が強いか、だいたい似たような水準にあります。
しかも、この傾向は、年を追って強まっています。
かって、世界のトップ・テンに常連的に顔を出し得いた男子マラソンが、めったに国際大会で上位入賞できなくなったのを尻目に、女子マラソンでは、シドニー、アテネとオリンピックで二大会連続優勝していたのは、象徴的であります。
北京オリンピックでも、日本の女子サッカーチームは、ノルウェー・チーム、中国チームに完勝しています。
女子ソフトボールでの優勝も記憶に新しいところであります。
日本では、そうとう昔から、知的能力、その中でも、非常に重要な学習意欲や学習能力では、男子より、女子の方が、すぐれていた気がします。
その意味では、世界中のどの国に比べても、日本が、いちばん男性と女性の間の体力差を縮めている国だということを示唆する、オリンピックの結果ほど、驚きではありませんでした。
これが、日本は、世界一平等化圧力の高い国であることの、第1の例であります。
日本社会の特徴として、非常に平等化圧力が高い社会だということが挙げられます。
まず、男女の間で、生物学的に、ほとんど埋めようがないのではないかと思われていたであろう体力格差が、かなり縮小していうるという信ずべき根拠があります。
第2に、日本ほど、子供が、社会的に『成熟』している国はありません。
反面、おとなになっても、あまり成熟度が高まりません。 だから、日本では、小学校高学年から30代、40代くらいまでほぼ均質の社会的成熟度の人間たちが、似たような財やサービスを巡って世代を超え、必要に応じて、需給双方に顔を出す、独特なマーケットが形成されています。
第3の、そして、いちばん重要なポイントとして、『知的エリート』と『大衆』との間に、『知的能力格差』がないことであります。
まあ、知的エリートのほうが、多少は高いだろうという程度の差ですんでいるのです。 それでは、知的エリートたちには、一体、どんな『存在理由』があるのかというと、はっきりいって何もありません。
古今亭志ん生の不滅の名ゼリフを借りれば、『いてもいなくてもいいどころか、いるよりいないほうがずっといい連中』になってしまっています。
それで、何か困ることがあるのかといえば、これがまた、何一つ困ることはありません。
むしろ、世の中のありとあらゆる『差別』で、一番厄介なのが、知的能力の差に基づく『格差』であることを考えると、知的エリートが、知的エリートとして機能しない社会は『良い』ことずくめなのであります。
このところの健康論で「病気にならず、健康を維持するには、『副交感神経』優位の『ストレス』のない、穏やかな心で免疫力を高めること。」と述べています。
このことについて、ある方から「健康とは、健康診断で、『大丈夫です。』といわれるだけのことではなく、心と身体のバランスがよく、『心がいつも流れている』状態、『生きていること、人、ものとの出会いが楽しめている』状態。」をいうのです、とのメールをいただきました。
ふ~ん。 病気でないだけでなく「心と身体のバランス。」だというのですか? しかし、この『こころ』とか『意識』とかいうことになるとなかなか面倒なことになりますねえ。
「もっと、心の『内面』的なものを見ていきたい。」などという友人たちの意見に、『日本経済の躍進』などと相変わらず云っている私は、たじたじとなっています。、