5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

日本語でアニメをつくる

2010-09-05 22:37:52 |  文化・芸術
スタジオじぶりのポッドキャスト「じぶり汗まみれ」に、新しく公開される高畑勲監督の劇場版「赤毛のアン」について、監督自身の試写会での挨拶がアップされている。「日本語でアニメを作ることについて」語っているのだが、制作者の「言葉」への考え方が現れていて面白かった。引用してみたい。


「どうかしている」日本の翻訳TVアニメ

「赤毛のアン」の場合もそうだが、高畑監督は、欧米の原作作品を日本のアニメにしようという企画が提案されてると、「饒舌なセリフが面白い原作を、TVアニメにするなど、どうかしているぞ」と内心思うのだそうだ。

日本のアニメ製作では、「先にセリフ録音をしたものに絵を付ける」外国式とは違って、「絵を描いた後にセリフをアフレコする」のが普通だ。日本では声優のテクニックが高いこともあるが、「日本語の特徴」によってそれが可能になっている。

他の国では、TVであろうが映画であろうが、今でも殆どが先に録音をしないと駄目なのは、たいていの言語にはフレーズの「揺れや動き」があるからだ。どこかを膨らましたり伸ばしたりして表現の強調が行われる訳だ。欧米式は「饒舌なセリフ回し」には適した製作方法ということになるだろう。

しかし、日本語は、極端な「膨らまし」や「伸縮」をすると却っておかしくなる言語。日本語は、早口かゆっくりかの違いがあるだけでフレーズの長さは決まる。長さが決まるから、監督がストップウオッチを押して時間計算ができるのである。先に設計ありという日本方式には、監督の細かい労力が前提になるということか。

「どうかしている」という点の二つ目は、原語の問題。

アンという主人公は、カナダのプリンスエドワード島に住む大人しい住民の中に混じって「表情豊かに」「言葉多く」まわりを魅了する女の子だ。

カナダ人の表情でカナダ人の仕草をしながら「英語」をしゃべるのなら問題は無いのだが、日本語で製作し日本人の観客に見てもらうというのであるから、主人公が日本語を喋っても違和感のない(日本的な)仕草と表情にしなければならない。なおかつ、「表情豊かに、おしゃべりに」というアンの条件をすべて満たせということだから、これがどれほど難しいことか。

オール吹き替えだった昔のディズニーアニメの大げさは、使われた日本語の不自然さから来るもの。原語の英語で見れば「大げさ」が不自然でないのだ。ヘタな作り方をすると「おかしくなる」のは当然なのである。

「特殊な言語体系をもつ日本語」


例えば、万葉集の中に出てくる「恋」という文字は「こひ」と訓で読ませるが、同じ歌の後半には、「孤悲」と違った漢字をつかって表している。離れていて焦がれる気持ちがつよい日本人の「恋心」を表現するのに、ぴったりの漢字使いではないか。

音声言語を「映像」や「意味」と繋げて使っている例であり、こうした使い方を大昔から持ち続けている日本民族に「漫画」が発達しないわけがないのだ。こんなおかしな言語体系をもつ民族はほかにはいないと断言できる。だから大事にしたいのだ。

云々。


地のセリフの「プレレコ」と「アフレコ」、ストップウオッチによる作品設計など、すべてが「コトバ」に関するもの。始めて知ることも多く、聴いていてナルホドと納得した。

高畑版「赤毛のアン」は全50話で放映されたTVシリーズのうち、第1~6話を劇場版として1989年に再編集したものの蔵出し上映。9月2週からは名古屋でも上映されるというから、時間を見つけて見てみたい。



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