大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

大阪シティーウオーク 第1回

2018年06月04日 | 大阪シティーウオーク
6月2日、第1回大阪シティーウオークに参加。
大阪シティーウオークは、大阪市が主催で全5回大阪市内を毎回ロングとショートに分かれて歩きます。
第1回のロングコースは16.4キロとショートコース7.1キロ。

私達は、ショートコースを申込み、コースの花博記念公園鶴見緑地から城北公園までの旭区内7.1キロを歩きます。
ショートコースは、鶴見緑地中央広場⇒山のエリア⇒緑地西橋⇒新森中央公園⇒九軒長屋⇒千林商店街⇒大宮神社⇒旧淀川堤防跡⇒大阪工業大学メモリアルゲート⇒(ゴール)城北公園 桜広場

集合地の鶴見緑地中央広場には、多くのウオーカーが燦燦と降り注ぐ太陽の下に集まっています。
皆さん陽射しを避けて木陰に入っておられますので、私達もそれに倣います。
ロングコースの方達がスタートされ、ショウトコース組の挨拶(現在の日なたの温度31.3度)
が始まり、鶴見緑地のマスコットたちと共に元近鉄球団の佐野選手が登場し、ひとしきり参加者を笑わせたあとストレッチ。

10時15分スタート。
鶴見緑地公園内を一回り、途中にはアジサイが色とりどりに咲き始めており、風車の丘ではマリーゴールドが満開。緑地西側の緑地西橋(明治6年木造の心斎橋を更迭の橋に付け替え、数か所の橋として転用されたもの)を渡って一般市街地へ。

大阪信愛女学院から北へ、新森中央公園で小休止。
本ウオークを手伝っておられる地元のボランティアの方達から、この公園の周辺には弥生時代の遺跡があり森小路遺跡と呼ばれている、と。

京阪千林駅から千林商店街の中を西へ、大宮神社から淀川の堤防近くまで北へ進み、大阪工業大学メモリアルゲート(片岡初代校長が設計した大阪中央公会堂をモチーフにして建造された正門)から西へ。
間もなく城北公園着12時15分。

桜広場でゴールのスタンプと完歩証を頂き昼食。
その後、公園内の満開の花菖蒲を鑑賞して帰途に。

本日は、風車の前のマリーゴールドや紫陽花が満開の鶴見緑地から花菖蒲が咲き誇る城北公園までをウオーク。途中旭区内の古い町並み・商店街や遺跡を巡りました。
初めての町を歩き、レトロな街並み・迷路のような大きな千林商店街の一端や森小路遺跡等を知ることができ、最後には本当に美しい花菖蒲まで見ることができ相棒共々大満足のウオーキングになりました。
関係者の皆様有難うございました。次回以降もよろしくお願いします。
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南東北の旅 その4

2018年06月01日 | 南東北の旅
今回の旅で特に印象に残った山寺のことを書いておきたいと思います。

宝珠山阿所川院立石寺(通称山寺)
一般的には山にある寺を山寺と呼んでいるが、山形では山寺と言えば、古刹「宝珠山阿所川院立石寺」と共にその歴史と文化を育んできた集落のことである。

開山の慈覚大師円仁は、794年下野の国(現在の栃木県)に生まれ、8歳にして仏門に入り、15歳で比叡山を尋ね天台宗祖最澄に弟子入りする。後に最澄の遺志を継ぎ第三代天台座主となる。
承和5年(838年)最後の遣唐使の一員として唐に渡り10余年中国の寺院を巡礼し天台仏教、密教の何たるかを学び、曼荼羅や経典、その解釈や修行法等を日本に持ち帰った。

830年前後、当寺この山里を仕切っていたのはマタギの頭領磐司磐三郎。円仁は磐司磐三郎に殺生を説き、この山里が如何に仏の御山に相応しいかを諭し、磐司磐三郎は円仁の想いを受け入れマタギをやめ山寺を明け渡し秋田阿仁へ去ったそうです。

864年円仁は比叡山で入寂、遺骸は比叡山を飛び立ち紫雲の雲に乗り出羽の国立石寺に向かった、との伝説を裏付けるように昭和23、24年にかけて慈覚大師が入定なされている立石寺境内開山堂脇下の入定窟の学術調査の際、中から五体分の遺骨と円仁そっくりの木造頭部が見つかった。この木造頭部は国の重文に指定。

5月26日12時50分山寺の入り口着。
石段76段で東北随一の根本中堂へ。さらに20段上って参拝。
根本中堂は、1356年の再建でぶな材の日本最古の建物。本尊は薬師如来坐像で50年に一度開帳される秘仏、伝慈覚大師円仁の作。比叡山から分灯された不滅の法灯は、ご本尊の両脇の燈籠内で灯し続けられている。

芭蕉・曽良像、日枝神社、鐘楼と念仏堂(写真下左)を通って山門へ。
山門から1015段とも1018段ともいう石段を上り始めます。

間もなく三途の川の番人奪衣婆(写真上右)のいる姥堂、石段脇には死者を弔う墓碑や慰霊碑が数多く立っています。
両側からの岩で道幅が極端に細くなっていることから四寸道と呼ばれるところを通ってせみ塚へ。
芭蕉が奥の細道で山寺を訪れた際、直感的に詠んだ句は、「山寺や 岩にしみつく 蝉の声」だったそうですが、後の推敲の末「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」となったそうです。
その句をしたためた短冊を埋めて石の塚を建てせみ塚と呼んでいる。

せみ塚の近くに弥陀洞があり、距離的には参道の中間くらいです。
弥陀洞とは、風雪に削り取られた岩塊の窪みや出っ張りが阿弥陀様に見えることから呼ばれており、この辺りには宗派を超えた祈りの岩塔婆が数多く見られます。

いよいよ仁王門です。
嘉永年間(1848~53年)に再建された仁王門は、間口4間、奥行き2間半あり左右に金剛仁王尊像が安置されている。
しばらく上りますと分岐点、石段をそのまま上って行くと奥之院へ、左手の坂道が五大堂へ向かいます。私は五大堂への緩やかな坂道へ。

五大堂の手前の開山堂と開山堂の左手の崖の上に写経を納める赤い小さな衲経堂(この崖の下が入定窟・現在は近づけません)。
開山堂の右手の狭い通路を上って行きますと五大堂。
薄暗い五大堂の先には明るく開けた空間、そこまで行きますと遠くの美しい山並みと眼下に山寺の街並みが開けています。
奥之院へ向かおうとしていましたら、相棒が追い付いてきました。

私は奥の院へ、相棒は下山。

開山堂前から坂道を上り、石段に戻りますと休憩所がありましたので、一息入れ見上げます奥之院が見えています。
すぐに奥之院13時30分着、所要時間40分。

奥之院(正式名如法堂)は、明治5年再建、本尊は慈覚大師がいつも背負っておられた三寸七分の釈迦牟尼仏と多宝如来坐像。
その左隣の大仏殿には像高5mの金色の阿弥陀如来像を祀っている。

大仏殿左手上の塔頭華蔵院の巌洞には三重小塔(高2.5m)があり、室町時代の永正16年(1519年)の銘があり、国の重文としては一番小さい。

石段を下る途中の塔頭中性院・金乗院・性相院・観明院を左手に見ながら仁王門まで下り小休止。
引き続き念仏堂まで下って駐車場へ。
伊賀上野の父の実家の宗派は、天台宗真盛派(真盛上人は伊賀上野出身)ですので今回の山寺訪問を天国から見ていてくれたのではないでしょうか。

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