今回の旅で特に印象に残った山寺のことを書いておきたいと思います。
宝珠山阿所川院立石寺(通称山寺)
一般的には山にある寺を山寺と呼んでいるが、山形では山寺と言えば、古刹「宝珠山阿所川院立石寺」と共にその歴史と文化を育んできた集落のことである。
開山の慈覚大師円仁は、794年下野の国(現在の栃木県)に生まれ、8歳にして仏門に入り、15歳で比叡山を尋ね天台宗祖最澄に弟子入りする。後に最澄の遺志を継ぎ第三代天台座主となる。
承和5年(838年)最後の遣唐使の一員として唐に渡り10余年中国の寺院を巡礼し天台仏教、密教の何たるかを学び、曼荼羅や経典、その解釈や修行法等を日本に持ち帰った。
830年前後、当寺この山里を仕切っていたのはマタギの頭領磐司磐三郎。円仁は磐司磐三郎に殺生を説き、この山里が如何に仏の御山に相応しいかを諭し、磐司磐三郎は円仁の想いを受け入れマタギをやめ山寺を明け渡し秋田阿仁へ去ったそうです。
864年円仁は比叡山で入寂、遺骸は比叡山を飛び立ち紫雲の雲に乗り出羽の国立石寺に向かった、との伝説を裏付けるように昭和23、24年にかけて慈覚大師が入定なされている立石寺境内開山堂脇下の入定窟の学術調査の際、中から五体分の遺骨と円仁そっくりの木造頭部が見つかった。この木造頭部は国の重文に指定。
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5月26日12時50分山寺の入り口着。
石段76段で東北随一の根本中堂へ。さらに20段上って参拝。
根本中堂は、1356年の再建でぶな材の日本最古の建物。本尊は薬師如来坐像で50年に一度開帳される秘仏、伝慈覚大師円仁の作。比叡山から分灯された不滅の法灯は、ご本尊の両脇の燈籠内で灯し続けられている。
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芭蕉・曽良像、日枝神社、鐘楼と念仏堂(写真下左)を通って山門へ。
山門から1015段とも1018段ともいう石段を上り始めます。
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間もなく三途の川の番人奪衣婆(写真上右)のいる姥堂、石段脇には死者を弔う墓碑や慰霊碑が数多く立っています。
両側からの岩で道幅が極端に細くなっていることから四寸道と呼ばれるところを通ってせみ塚へ。
芭蕉が奥の細道で山寺を訪れた際、直感的に詠んだ句は、「山寺や 岩にしみつく 蝉の声」だったそうですが、後の推敲の末「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」となったそうです。
その句をしたためた短冊を埋めて石の塚を建てせみ塚と呼んでいる。
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せみ塚の近くに弥陀洞があり、距離的には参道の中間くらいです。
弥陀洞とは、風雪に削り取られた岩塊の窪みや出っ張りが阿弥陀様に見えることから呼ばれており、この辺りには宗派を超えた祈りの岩塔婆が数多く見られます。
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いよいよ仁王門です。
嘉永年間(1848~53年)に再建された仁王門は、間口4間、奥行き2間半あり左右に金剛仁王尊像が安置されている。
しばらく上りますと分岐点、石段をそのまま上って行くと奥之院へ、左手の坂道が五大堂へ向かいます。私は五大堂への緩やかな坂道へ。
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五大堂の手前の開山堂と開山堂の左手の崖の上に写経を納める赤い小さな衲経堂(この崖の下が入定窟・現在は近づけません)。
開山堂の右手の狭い通路を上って行きますと五大堂。
薄暗い五大堂の先には明るく開けた空間、そこまで行きますと遠くの美しい山並みと眼下に山寺の街並みが開けています。
奥之院へ向かおうとしていましたら、相棒が追い付いてきました。
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私は奥の院へ、相棒は下山。
開山堂前から坂道を上り、石段に戻りますと休憩所がありましたので、一息入れ見上げます奥之院が見えています。
すぐに奥之院13時30分着、所要時間40分。
奥之院(正式名如法堂)は、明治5年再建、本尊は慈覚大師がいつも背負っておられた三寸七分の釈迦牟尼仏と多宝如来坐像。
その左隣の大仏殿には像高5mの金色の阿弥陀如来像を祀っている。
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大仏殿左手上の塔頭華蔵院の巌洞には三重小塔(高2.5m)があり、室町時代の永正16年(1519年)の銘があり、国の重文としては一番小さい。
石段を下る途中の塔頭中性院・金乗院・性相院・観明院を左手に見ながら仁王門まで下り小休止。
引き続き念仏堂まで下って駐車場へ。
伊賀上野の父の実家の宗派は、天台宗真盛派(真盛上人は伊賀上野出身)ですので今回の山寺訪問を天国から見ていてくれたのではないでしょうか。
宝珠山阿所川院立石寺(通称山寺)
一般的には山にある寺を山寺と呼んでいるが、山形では山寺と言えば、古刹「宝珠山阿所川院立石寺」と共にその歴史と文化を育んできた集落のことである。
開山の慈覚大師円仁は、794年下野の国(現在の栃木県)に生まれ、8歳にして仏門に入り、15歳で比叡山を尋ね天台宗祖最澄に弟子入りする。後に最澄の遺志を継ぎ第三代天台座主となる。
承和5年(838年)最後の遣唐使の一員として唐に渡り10余年中国の寺院を巡礼し天台仏教、密教の何たるかを学び、曼荼羅や経典、その解釈や修行法等を日本に持ち帰った。
830年前後、当寺この山里を仕切っていたのはマタギの頭領磐司磐三郎。円仁は磐司磐三郎に殺生を説き、この山里が如何に仏の御山に相応しいかを諭し、磐司磐三郎は円仁の想いを受け入れマタギをやめ山寺を明け渡し秋田阿仁へ去ったそうです。
864年円仁は比叡山で入寂、遺骸は比叡山を飛び立ち紫雲の雲に乗り出羽の国立石寺に向かった、との伝説を裏付けるように昭和23、24年にかけて慈覚大師が入定なされている立石寺境内開山堂脇下の入定窟の学術調査の際、中から五体分の遺骨と円仁そっくりの木造頭部が見つかった。この木造頭部は国の重文に指定。
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5月26日12時50分山寺の入り口着。
石段76段で東北随一の根本中堂へ。さらに20段上って参拝。
根本中堂は、1356年の再建でぶな材の日本最古の建物。本尊は薬師如来坐像で50年に一度開帳される秘仏、伝慈覚大師円仁の作。比叡山から分灯された不滅の法灯は、ご本尊の両脇の燈籠内で灯し続けられている。
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芭蕉・曽良像、日枝神社、鐘楼と念仏堂(写真下左)を通って山門へ。
山門から1015段とも1018段ともいう石段を上り始めます。
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間もなく三途の川の番人奪衣婆(写真上右)のいる姥堂、石段脇には死者を弔う墓碑や慰霊碑が数多く立っています。
両側からの岩で道幅が極端に細くなっていることから四寸道と呼ばれるところを通ってせみ塚へ。
芭蕉が奥の細道で山寺を訪れた際、直感的に詠んだ句は、「山寺や 岩にしみつく 蝉の声」だったそうですが、後の推敲の末「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」となったそうです。
その句をしたためた短冊を埋めて石の塚を建てせみ塚と呼んでいる。
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せみ塚の近くに弥陀洞があり、距離的には参道の中間くらいです。
弥陀洞とは、風雪に削り取られた岩塊の窪みや出っ張りが阿弥陀様に見えることから呼ばれており、この辺りには宗派を超えた祈りの岩塔婆が数多く見られます。
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いよいよ仁王門です。
嘉永年間(1848~53年)に再建された仁王門は、間口4間、奥行き2間半あり左右に金剛仁王尊像が安置されている。
しばらく上りますと分岐点、石段をそのまま上って行くと奥之院へ、左手の坂道が五大堂へ向かいます。私は五大堂への緩やかな坂道へ。
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五大堂の手前の開山堂と開山堂の左手の崖の上に写経を納める赤い小さな衲経堂(この崖の下が入定窟・現在は近づけません)。
開山堂の右手の狭い通路を上って行きますと五大堂。
薄暗い五大堂の先には明るく開けた空間、そこまで行きますと遠くの美しい山並みと眼下に山寺の街並みが開けています。
奥之院へ向かおうとしていましたら、相棒が追い付いてきました。
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私は奥の院へ、相棒は下山。
開山堂前から坂道を上り、石段に戻りますと休憩所がありましたので、一息入れ見上げます奥之院が見えています。
すぐに奥之院13時30分着、所要時間40分。
奥之院(正式名如法堂)は、明治5年再建、本尊は慈覚大師がいつも背負っておられた三寸七分の釈迦牟尼仏と多宝如来坐像。
その左隣の大仏殿には像高5mの金色の阿弥陀如来像を祀っている。
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大仏殿左手上の塔頭華蔵院の巌洞には三重小塔(高2.5m)があり、室町時代の永正16年(1519年)の銘があり、国の重文としては一番小さい。
石段を下る途中の塔頭中性院・金乗院・性相院・観明院を左手に見ながら仁王門まで下り小休止。
引き続き念仏堂まで下って駐車場へ。
伊賀上野の父の実家の宗派は、天台宗真盛派(真盛上人は伊賀上野出身)ですので今回の山寺訪問を天国から見ていてくれたのではないでしょうか。