大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

三光神社・玉造稲荷神社

2024年01月23日 | 史跡
1月20日から二十四節季の大寒に入っており、大寒らしく今週は今冬一番の寒さの到来で最高気温5,6度の日が続きます。
本日も朝から強風と低温ですので、相棒の買い物は徒歩5分のスーパーへ。
健康のため遠くまでの買い物でウオーキングを楽しむ、いつもの相棒の買い物のルート上には、三光神社と玉造稲荷神社があります。

三光神社
創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ、創建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。

当地は大坂城の出城(真田丸)のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城と名付ける塁を定め、本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと言い伝えられる真田の抜け穴が境内にある。
真田の抜け穴脇に真田幸村公の陣中指揮姿の銅像を昭和62年建立、その台座に信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より取り出した石(真田石)が使われている。

玉造稲荷神社
垂仁天皇18年(紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ、聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際祈願された。
その後のたびたびの焼失等の度、慶長8年に豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)が、元和5年に徳川幕府の大坂城代内藤紀伊守等が、また文久3年11月の大坂大火(新町焼)を経て、明治4年氏子・崇敬者により再建。
別称は豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されてきた。

玉造の名は、この難波に玉作部が存在していたことからで、日本書紀にも記述がある。
江戸時代に全国的に流行したお伊勢参り。伊勢参りが流行した当時の玉造は大坂以西の伊勢参り出発地であり旅立つ人、またそれを見送る人々でたいへん賑わっていた。

私たちも数年前伊勢街道(169km)を歩いてお伊勢さんへ行った際のスタートは玉造稲荷神社であったことを思い出しました。
買い物ルート上では、冬にもかかわらずきれいな花や実が生っていて、私たちの心を温めてくれています。


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