先日、聖徳太子ウオーキングに参加の際帝塚山古墳に立ち寄りました。
帝塚山古墳
4世紀末~5世紀初頭の大阪市内唯一の前方後円墳。国の史跡指定。
現存してる大きさは全長88mですが、当初の規模は、全長120m・後円部の直径57m、高さ10m・前方部の幅50m、高さ8mであったと推定され、内部構造や副葬品などは不明ですが、二段築成の墳丘には円筒埴輪列や葺石、周濠の跡も確認されている。
(写真下左・前方部から、写真下右・後円部から)
現在は、帝塚山古墳は一つだけだが、明治時代までは俗に「大帝塚」と「小帝塚」と呼ばれる大小二つの古墳があり、被葬者は不明であるが、この地に館を持っていた古代豪族の大伴氏の大伴金村とその子の墓とされていた。ただし築造年代判明後、大伴金村は6世紀前半の人物で年代が合致しない。
大帝塚の方は取り壊されていて現在の帝塚山学院の敷地となり、小帝塚の方が帝塚山古墳として現存している。
元はたんに「塚」または「手塚」「手塚山」と呼ばれていたが、摂津名所図会(1796年)に「帝塚山」の記載がみられることから、江戸時代後期にはすでに「帝塚山」と呼ばれていたとも指摘されている。
明治31年に行われた陸軍特別大演習では、明治天皇が帝塚山から御統監されたことを記念する天皇駐蹕碑(写真上右・題字は閑院宮載仁親王、碑文は藤澤南岳、大正3年住吉村の建立)が墳丘上に建っている。
以前来た時には中に入れませんでしたが、今回は上に登ることができたことは幸運で、記念に登山証明書を求めました。
帝塚山古墳
4世紀末~5世紀初頭の大阪市内唯一の前方後円墳。国の史跡指定。
現存してる大きさは全長88mですが、当初の規模は、全長120m・後円部の直径57m、高さ10m・前方部の幅50m、高さ8mであったと推定され、内部構造や副葬品などは不明ですが、二段築成の墳丘には円筒埴輪列や葺石、周濠の跡も確認されている。
(写真下左・前方部から、写真下右・後円部から)
現在は、帝塚山古墳は一つだけだが、明治時代までは俗に「大帝塚」と「小帝塚」と呼ばれる大小二つの古墳があり、被葬者は不明であるが、この地に館を持っていた古代豪族の大伴氏の大伴金村とその子の墓とされていた。ただし築造年代判明後、大伴金村は6世紀前半の人物で年代が合致しない。
大帝塚の方は取り壊されていて現在の帝塚山学院の敷地となり、小帝塚の方が帝塚山古墳として現存している。
元はたんに「塚」または「手塚」「手塚山」と呼ばれていたが、摂津名所図会(1796年)に「帝塚山」の記載がみられることから、江戸時代後期にはすでに「帝塚山」と呼ばれていたとも指摘されている。
明治31年に行われた陸軍特別大演習では、明治天皇が帝塚山から御統監されたことを記念する天皇駐蹕碑(写真上右・題字は閑院宮載仁親王、碑文は藤澤南岳、大正3年住吉村の建立)が墳丘上に建っている。
以前来た時には中に入れませんでしたが、今回は上に登ることができたことは幸運で、記念に登山証明書を求めました。
手塚山古墳、いずれ行ってみたいところです。
大阪には古墳が多くあり、百舌鳥古市古墳群は世界遺産にもなりました。
コレラの近くに立つと往時のことが思われ、まさにロマンです。