大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

真田山陸軍墓地

2018年12月17日 | 史跡
昨日、「西南戦争と大阪」との講演会に参加。

明治10年、西郷隆盛が起した西南戦争は、士族反乱最後のもので日本の近代化に大きな影響を与えた戦争であり、この戦争を契機に言論による主張が大きな潮流となった。
自由民権運動が活発化し、やがて国会開設、帝国憲法発布へと進み近代国家成立を見る事となった。

大阪は、征討総督府が大阪に置かれ征討総督進発後は参謀部となり、軍需物資の徴発輸送と兵員の輸送、大阪砲兵工廠での武器弾薬製造、軍靴製造、船舶の手配等兵站基地の役割を担った。
また、大阪陸軍臨時病院が設置され、神風連の乱で熊本鎮台にて負傷療養中の者を委託治療し負傷200人・戦死60人および西南戦争での入院8569人・負傷5990人・平病者2579人・死亡者942人を数え、埋葬人名簿では実質976名が真田山陸軍墓地に埋葬されている。

真田山陸軍墓地
明治4年開設。日本最初の陸軍墓地。戦前には90ヶ所ほど存在。
世界での2例目(最初は南北戦争後のアーリントン墓地)。

面積は約8千坪あったが昭和3年小学校用地として3千坪譲渡。
約5100基余の墓碑と納骨堂(昭和18年築・約8千柱、写真上右)があり現存する陸軍墓地では日本最大規模。

被葬者は、全国にまたがっており、屯田兵や各鎮台(仙台・東京・名古屋・大阪・広島・熊本)の銃創等による死亡、コレラや脚気による死亡者や軍役夫、俘虜(日清戦争・第1次世界大戦)も含む。
この頃には、脚気は麦飯で治ると知られていたが軍医は脚気はウイルスとの考えを変えず犠牲者は多かった。

墓地は、A~Iの9つのゾーンに分けられ、西南戦争関係はBゾーン(写真上)に多い。
西郷軍は賊軍となったため、西郷軍の兵の墓碑には、賊徒の文字が刻まれている。
反面、官軍側の警視隊等将校の墓碑は立派で内務省所管となっている。

墓碑のほとんどは和泉砂岩のため剥落等の風化による劣化が進み、また今年の台風21号による倒木により墓石が転倒し、吉村大阪市長が保存に向けて国との交渉を始めている。
崩壊の危機にある墓碑は、5100基の内3分の2に及んでいる。

遺族により建て替えられている墓碑も見受けられるが、文字も見えなくなっている墓碑も多く早急に文化財に指定する等保存活動を開始すべきと思いました。

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