島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

秋の京都を少し

2020-11-13 | 京都から
 
 仕事帰りに、京都の南、駐c辺りをブラブラして、陵墓参考地を巡りました。
この辺りは、丁度天皇陵巡りで差し鰍ゥってる鳥羽離宮があった所です。
 京都南ICを降りて帰ってきた時には、すぐに渡る写真の鳥羽大橋辺りは、鳥羽伏見の戦いで、私の曾祖父の兄が敗れた場所でもあります。
 
 別の日、墓参りの帰りに清水寺から祇園まで、ブラブラしました。
新型コロナ感染者が最近また増え始めていて、良いのか悪いのか判りませんが、京都の観光客や修学旅行生は確実に増えています。
 以前バス観光で登った大雲院の祇園閣も、秋空に映えていました。
 
 二寧坂にある忠コ夢二下宿先の隣の甘党「かさぎ屋」で、家内はぜんざいですが、私はこの宇治金時(800円)。
食べ進めると、底から小豆と白玉が出てきます。
何故かキーンとはならないですが、少し冷えたので、熱いお茶をいただきます。
やっぱり氷は冬でも美味しい!!
 
 別の日、大原の三千院ではなく、横の御陵を巡ってから、向かいの実光院(ジッコウイン)(500円)に入りました。
 
 この庭を眺めながら、実光院限定の八つ橋饅頭でお抹茶(300円)をいただきます。
私たち以外はちょっとカッコよいアベックの二組だけで、その人たちを少し気にしながら、ゆったりした至福の時が流れます。
 
 
 部屋の欄間には、江戸時代の狩野派絵師の「三十六詩仙」と、綺麗な胸をしている天女が描かれていました。
 
 お庭の秋を、少し件p的に撮ってみました。
 
 少し分かりにくいですが、柿と紅葉と一緒に、白っぽい不断桜が咲いていました。
 
        翁ひとり
      京都   大原実光院 symbol7
     コロナにつかれた  翁がひとり
     ユニクロのダウンに  手製のマスク
     意思の弱さに  ゆれていた
      京都   大原実光院  
     コロナにつかれた  翁がひとり~

コメント (3)
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73⁻1堀河天皇

2020-11-10 | 天皇陵巡り
 
 第72代白河天皇の第1皇子は夭折、第2皇子は法親王に、賢子との間の第3皇子が善仁親王(タルヒトシンノウ)です。
 白河天皇の皇太子は異母弟実仁親王(サネヒト)(1071~1085)で、2歳にして立太子してますが15才で没しました。
 すると白河天皇は8歳の善仁親王を立太子させ、即日自分は譲位して善仁親王を即位させて、第73代堀河天皇(ホリカワ)(1079~1107)(在位1086~1107)がうまれました。
  写真の堀河天皇陵、山の上に第66代一条天皇と一緒に葬られています
 
 これは白河天皇の父後三条天皇の遺言で、立太子の約束をされていたもう一人の異母弟輔仁親王(スケヒト)(1073~1119)を立てるのではなく、自分の直系に依る皇位継承を望んだからでした。
その為、堀河天皇即位後も皇子が産まれるまでの17年間は皇太子を置かずに、幼い堀河天皇に代わって父白河上皇が政治を執る院政が開始されました。
  一条天皇と同じ陵と言っても、それぞれの陵名は違っていました
 
 堀河天皇は准母に前回の媞子内親王を迎え、中宮としては1091年に叔母にあたる30歳まじかで19歳も年上の篤子内親王(トクシ)(1060~1114)が入内しています。
最後に入内し女御になった、はとこの藤原苡子(イシ)(1076~1103)との間に第74代鳥羽天皇が産まれています。
  写真は、御陵の正面です
 
 8歳で天皇に成った堀河天皇ですので、在位期間は20年以上と長く、長ずるに従い政務に励むようになり、賢王と言われるようにもなりましたが、父白河上皇の院政体制が強化されてくると、父上皇との対立を避けて風流の道を歩むようになりました。
  御陵の前からの眺めは最高です
 
 堀河天皇在位期間の初めには、1087年後三年の役が、なんかあまり気持ち良くない結末で終息していますし、1099年康和荘園整理令(コウワノショウエンセイリレイ)も発令しています。(荘園制度と言うのも、私ははっきり理解はしていませんが)
  陵印も一条天皇と共通です
 
 堀河天皇の発病から崩御に至る約1ヶ月を、お傍にいた公家の日記から読み取ることが出来るそうで、堀河天皇は暖かい人柄だったようです。
 火葬塚は北区等持院東町にあって、嵐電北野白梅町からすぐの線路沿いの見落としそうな、この狭い参道の脇から入っていきます。
 
 垣根越しの正面から見ると、入り口に比べ塚自体は住宅には囲まれていますが広くありました。
 御陵は龍安寺の裏山の高い所で、一条天皇陵と共有している後圓教寺陵(ノチノエンキョウジノミササギ)(右京区竜安寺朱山)です。

         返事
花水木さん:京都の水道水は琵琶湖のたまり水、
    美味しくありませんので、他所の水道水のうまさにびっくりすることはありました。
    でも、どんな技術か知りませんが、
    最近の京都水道水は美味しくなったと思っています。
    単に私の舌が年とっただけかもしれませんが。

    
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72-6白河天皇皇女尊称皇后令子内親王

2020-11-08 | 天皇陵巡り
 
 第72代白河天皇は沢山の子供を作っていますし、一説には平清盛も崇徳天皇も白河の子だ、とも言われているぐらいです。
 皇后賢子との間だけで、第1皇子敦文親王(アツフミ)(2歳で夭折)・前回の第2皇女媞子内親王・第3皇子善仁親王(タルヒト)(後の第73代堀河天皇)・第4皇女禹卞眇堂ヲ(シンシ)と、今回の第3皇女令子内親王(レイシナイシンノウ)(1078~1144)の5人の子供がいます。
  写真は、もう3回目の上醍醐陵です
 
 令子内親王は1089年に1歳年下の同母弟堀河天皇の時に、第24代斎院に卜定(ボクジョウ)されましたが、1099年には病を理由に退下しています。
その後は甥にあたる第74代鳥羽天皇の准母となり、即位と共に皇后(尊称皇后)にもなりました。
 以後はのんびりと宮廷生活を楽しみ、父白河天皇崩御と共に52歳で出家し、67歳と比較的長生きして亡くなっています。
 
 令子内親王が葬られている上醍醐陵(カミダイゴノミササギ)は、母親賢子や同母姉媞子内親王と同じですので、もう紹介はしていますが、しんどかったです!
 先ずは、昔は女人禁制で女はここまでだった麓の女人堂で、入山料600円を払います。
 
 ここからひたすら登って登って喘ぎながらたどり着いた上醍醐寺内西国33カ所第11番札所准胝堂(ジュンデイドウ)は、昭和43年に再建されたのですが、最近(2008年)に落雷で焼失して、今はこんな原っぱです。
 
 こんな山の上に国宝の薬師堂も立っていましたが、もう私も家内もふらふらでした。
 
 醍醐水も湧いていて、少し口に含みましたが、醍醐味と言うほどでもありませんでした。
 
 開山堂に向かう坂道に、やっと「白河天皇皇后外二方御陵」の石柱がありました。
ちょっと登るよ開山堂で、せっかく登ったのにその横から石段を降りると、上醍醐陵が見えてきました。
 しんどかったです!!

コメント (1)
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72-5白河天皇皇女尊称皇后媞子内親王

2020-11-06 | 天皇陵巡り
 
 第72代白河天皇(1053~1129)(在位1072~1086)と賢子(1057~1084)の間に最初に産まれた皇子は夭折、2番目に産まれたのが今回の第1皇女媞子内親王(テイシ・ヤスコナイシンノウ)(1076~1096)です。
  上醍醐陵へは写真のような山道をひいこらひいこら登りましたが、秀吉の醍醐の花見もかなり上まで茶店を作っていたようです
 
 3歳で斎宮となり、伊勢にも下向しましたが、母賢子が亡くなったので退下して京都に戻っています。
同母弟であった第3皇子が1086年に8歳で即位して第73代堀河天皇になったので、同母姉媞子はその准母として入内し、中宮にもなっています。
二人が異母姉弟ならば本当に結婚できたかもしれません。
  登る途中の滝でしばし休憩、登っても登っても着きませんが、途中何人かの人も登って行きました
 
 それでも天皇の同母姉で非配偶の后(尊称皇后)には、反対する人もたくさんいましたが、これも父白河天皇が強引に推し進め、以後院政期にある准母立后の始まりとなったようです。
前例がない物はなかなか決まりませんが、先例さえつければ結果は付いてくる、今の日本もそうですよね。
 媞子は1093年には女院となり、郁芳門院(イクホウモンイン)と呼ばれています。
  なんとかたどり着いた、母賢子などの制札です
 
 
 
 媞子内親王は母親似で、綺麗で優美であり、21歳で多分処女のまま没した時には、父白河天皇は悲しみのあまり出家したそうです。
 御陵は山の上ですが、火葬塚は北区紫野西野町の北大路に面した、今宮神社の前ぐらいの建物の間にあって、まあまあにぎやかですが通りすぎてしまいそうな所です。
 
 一応皇后ですので、母賢子や妹令子内親王他と共に上醍醐陵(カミダイゴノミササギ)に葬られています。
山の上まで往復4時間の遠く長い道のりでしたが、合葬されているので、いっぺんに4人分の陵墓を廻ったことに成るので、良しとしました。

       返事
花水木さん:春よりは少ないですが、
    秋でも花粉症の処方はしていますよ。

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文化の秋

2020-11-04 | ノンジャンル
 
 今週は文化の秋
新装なった京都市京セラ美術館開館記念展「京都の美術250年の夢」(1600円)に予約して行ってきました。
平日なら予約なしでも入れそうです。
 
 現代美術は伸び悩んでいますが、昭和初期ぐらいまでの京都関係の作者や作品はまあ立派ですね。
しかし1600円の値打ちはちょっとでしたし、館内のレストランに並んだのですが、手違い(こちらが悪いかもしれませんが)で飛ばされたので、ちょっとムッとしてやめました。
 
  
 鷹ヶ峯光悦寺の秋の朝は、まだ少し紅葉には早いですが、さすが!
京都の秋、観光客も少しは増えてきています。
 
 家内と孫Ⅲ-1と、京都の北から京都駅まで市営バスの旅、バスは去年のようには混んではいませんが、京都駅にはそれなりの観光客。
それでも京都駅の上にあがると、ほとんど人はいません。
京都駅の上から、京都タワーを見下ろすというわけにはいきませんが、土台のビルよりは高いか。
 
 京都駅屋上に続くエスカレーターは、朝早いせいかガラガラの独占状態。
孫Ⅲ-1はバスも好きですが、それよりも好きなエスカレーターに、昇っては下りるのエンドレスでした。
 
 
 文化の日は、同級生が出品している「創工会」の展覧会に出かけました。
今年は新型コロナの影響で規模は縮小されていますが、いつもの大きな展覧会場より、この銀閣寺南の実業家の邸宅跡「和中庵」の方が、場所も雰囲気も良かったような気がします。
 
 「和中庵」渡り廊下から見下ろす秋も、少し早いが風情がありました。
帰りは、京都では30年以上前からあった長崎チャンャ刀E皿うどんの店で、チャンャ唐ニ皿うどんを二人でシェアして食べましたが、長崎や五島で食べてたチャンャ刀E皿うどんの味をまだ覚えてる私には、やや文化?の違いか、頼りなく思えました。

        返事
花水木さん:まあ昔は、
    兄嫁を弟が貰うこともよくあったようですし、
    お古やお下がりも悪くはないですかね。
     新型コロナで東京オリンピックは中止になっても、
    来年の今頃には、もう普通の疾患になっていると思っていますが、
    私の予想や診断はあてになりませんかね。
大雪男さん:老人施設で発生すると、
    私も死活問題になりますが、
    皆注意深くなってますので、
    注意しながら行動するで、私も良いと思っています。
     プロ野球の世界からは、なんか引き気味になっています。
    ドラフトは良かったのですが、果たして阪神が上手に育てられるのか、
    不安になっています。

コメント (1)
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