島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

72-5白河天皇皇女尊称皇后媞子内親王

2020-11-06 | 天皇陵巡り
 
 第72代白河天皇(1053~1129)(在位1072~1086)と賢子(1057~1084)の間に最初に産まれた皇子は夭折、2番目に産まれたのが今回の第1皇女媞子内親王(テイシ・ヤスコナイシンノウ)(1076~1096)です。
  上醍醐陵へは写真のような山道をひいこらひいこら登りましたが、秀吉の醍醐の花見もかなり上まで茶店を作っていたようです
 
 3歳で斎宮となり、伊勢にも下向しましたが、母賢子が亡くなったので退下して京都に戻っています。
同母弟であった第3皇子が1086年に8歳で即位して第73代堀河天皇になったので、同母姉媞子はその准母として入内し、中宮にもなっています。
二人が異母姉弟ならば本当に結婚できたかもしれません。
  登る途中の滝でしばし休憩、登っても登っても着きませんが、途中何人かの人も登って行きました
 
 それでも天皇の同母姉で非配偶の后(尊称皇后)には、反対する人もたくさんいましたが、これも父白河天皇が強引に推し進め、以後院政期にある准母立后の始まりとなったようです。
前例がない物はなかなか決まりませんが、先例さえつければ結果は付いてくる、今の日本もそうですよね。
 媞子は1093年には女院となり、郁芳門院(イクホウモンイン)と呼ばれています。
  なんとかたどり着いた、母賢子などの制札です
 
 
 
 媞子内親王は母親似で、綺麗で優美であり、21歳で多分処女のまま没した時には、父白河天皇は悲しみのあまり出家したそうです。
 御陵は山の上ですが、火葬塚は北区紫野西野町の北大路に面した、今宮神社の前ぐらいの建物の間にあって、まあまあにぎやかですが通りすぎてしまいそうな所です。
 
 一応皇后ですので、母賢子や妹令子内親王他と共に上醍醐陵(カミダイゴノミササギ)に葬られています。
山の上まで往復4時間の遠く長い道のりでしたが、合葬されているので、いっぺんに4人分の陵墓を廻ったことに成るので、良しとしました。

       返事
花水木さん:春よりは少ないですが、
    秋でも花粉症の処方はしていますよ。

コメント
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