![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/c4/b1ebce2db71887d5bacc1861fd44f48e.jpg)
第72代白河天皇(1053~1129)(在位1072~1086)と賢子(1057~1084)の間に最初に産まれた皇子は夭折、2番目に産まれたのが今回の第1皇女媞子内親王(テイシ・ヤスコナイシンノウ)(1076~1096)です。
上醍醐陵へは写真のような山道をひいこらひいこら登りましたが、秀吉の醍醐の花見もかなり上まで茶店を作っていたようです
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/3e/b9013ee148930cba81fa312b47fe8f6d.jpg)
3歳で斎宮となり、伊勢にも下向しましたが、母賢子が亡くなったので退下して京都に戻っています。
同母弟であった第3皇子が1086年に8歳で即位して第73代堀河天皇になったので、同母姉媞子はその准母として入内し、中宮にもなっています。
二人が異母姉弟ならば本当に結婚できたかもしれません。
登る途中の滝でしばし休憩、登っても登っても着きませんが、途中何人かの人も登って行きました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/72/e1edafc9924814ed7ebed14fdf7d63c0.jpg)
それでも天皇の同母姉で非配偶の后(尊称皇后)には、反対する人もたくさんいましたが、これも父白河天皇が強引に推し進め、以後院政期にある准母立后の始まりとなったようです。
前例がない物はなかなか決まりませんが、先例さえつければ結果は付いてくる、今の日本もそうですよね。
媞子は1093年には女院となり、郁芳門院(イクホウモンイン)と呼ばれています。
なんとかたどり着いた、母賢子などの制札です
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/70/754d41108dd566e00c8b39036899744a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/db/9aa30ed478fad4600c2e3e09b3ec513e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/9b/77040c30bb8d60c4b5dcf793e4a91f6b.jpg)
媞子内親王は母親似で、綺麗で優美であり、21歳で多分処女のまま没した時には、父白河天皇は悲しみのあまり出家したそうです。
御陵は山の上ですが、火葬塚は北区紫野西野町の北大路に面した、今宮神社の前ぐらいの建物の間にあって、まあまあにぎやかですが通りすぎてしまいそうな所です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/95/a80b9d4204c0696b1bff59f83255b8d1.jpg)
一応皇后ですので、母賢子や妹令子内親王他と共に上醍醐陵(カミダイゴノミササギ)に葬られています。
山の上まで往復4時間の遠く長い道のりでしたが、合葬されているので、いっぺんに4人分の陵墓を廻ったことに成るので、良しとしました。
返事
花水木さん:春よりは少ないですが、
秋でも花粉症の処方はしていますよ。