島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

72-6白河天皇皇女尊称皇后令子内親王

2020-11-08 | 天皇陵巡り
 
 第72代白河天皇は沢山の子供を作っていますし、一説には平清盛も崇徳天皇も白河の子だ、とも言われているぐらいです。
 皇后賢子との間だけで、第1皇子敦文親王(アツフミ)(2歳で夭折)・前回の第2皇女媞子内親王・第3皇子善仁親王(タルヒト)(後の第73代堀河天皇)・第4皇女禹卞眇堂ヲ(シンシ)と、今回の第3皇女令子内親王(レイシナイシンノウ)(1078~1144)の5人の子供がいます。
  写真は、もう3回目の上醍醐陵です
 
 令子内親王は1089年に1歳年下の同母弟堀河天皇の時に、第24代斎院に卜定(ボクジョウ)されましたが、1099年には病を理由に退下しています。
その後は甥にあたる第74代鳥羽天皇の准母となり、即位と共に皇后(尊称皇后)にもなりました。
 以後はのんびりと宮廷生活を楽しみ、父白河天皇崩御と共に52歳で出家し、67歳と比較的長生きして亡くなっています。
 
 令子内親王が葬られている上醍醐陵(カミダイゴノミササギ)は、母親賢子や同母姉媞子内親王と同じですので、もう紹介はしていますが、しんどかったです!
 先ずは、昔は女人禁制で女はここまでだった麓の女人堂で、入山料600円を払います。
 
 ここからひたすら登って登って喘ぎながらたどり着いた上醍醐寺内西国33カ所第11番札所准胝堂(ジュンデイドウ)は、昭和43年に再建されたのですが、最近(2008年)に落雷で焼失して、今はこんな原っぱです。
 
 こんな山の上に国宝の薬師堂も立っていましたが、もう私も家内もふらふらでした。
 
 醍醐水も湧いていて、少し口に含みましたが、醍醐味と言うほどでもありませんでした。
 
 開山堂に向かう坂道に、やっと「白河天皇皇后外二方御陵」の石柱がありました。
ちょっと登るよ開山堂で、せっかく登ったのにその横から石段を降りると、上醍醐陵が見えてきました。
 しんどかったです!!

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする