島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

12≠P景行天皇

2017-06-11 | 天皇陵巡り
   
 前々回11≠Pで書いたように、第11代垂仁天皇は寵愛してたものの裏切られた最初の妻サホヒメとの間にも一人皇子がいましたが、さすがに裏切った妻の子ではなく、二番目の妻日葉枢Q命(ヒバスヒメ)との間の第二皇子 大帯日子淤斯呂和気命(オホタラシヒコオシロワケノミコト)、書紀では大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケスメラミコト)を次の天皇、第12代景行天皇(ケイコウ)にしました。
  
 第12代景行天皇は纏向日代宮(マキムクノヒシロノミヤ)(奈良県桜井市)に都を移し、日本書紀では在位60年で106歳で崩御(古事記ではなんと137歳です)、この山辺道上陵(ヤマノベノミチノエノミササギ)(天理市)に葬られたそうです。
  
 この拝所の後方すぐに広がる小山が、近くにある祖父の第10代崇神天皇陵よりも大きく、前方後円墳では8番目の大きさの渋谷向山古墳(シブタニムカイヤマコフン)、4世紀前半の築造なので古墳時代前期ですが景行天皇陵です。
 天皇家の始まりを暦的に良い紀元前660年にしてしまった古事記や日本書紀によると、第12代景行天皇は計算上紀元300年頃になっていますが、陵の歴史学的年代ともだいぶ合ってきました。
  
 第12代景行天皇はイナビノオオイラツメとの間に5人の子をもうけ、その内の一人が有名な日本武尊(ヤマトタケル)になります。
 またヤサカノイリヒメノミコトとの間に4人の子をもうけ、その内の一人が次の第13代成務天皇(セイム)になりました。
 そのほかに計7人の妻に計21人の名前のある子をもうけましたが、それ以外にいちいち書き留めないが合計80人の子を、景行天皇はもうけたそうです。
 80人の子供の内3人だけが、今で言う話題の宮家をついで、それ以外の子は全て各地の地方官に任命したそうです。(女の子は地方官にしたのではなく、多分有力者に嫁がしたんでしょうね)
  
 横から拝所を眺めると、周濠に突き出たようにあることが分かりますでしょう。
 この景行天皇の業績は、古事記にはたくさん子を作ったこと以外あまり記述がなく、景行記のほとんどは息子の日本武尊の武勇伝に当てられています。
 日本書紀では、九州遠征に自ら出かけたり、都を滋賀県坂本の志賀高穴穂宮(シガタカアナホノミヤ)に移したことなども書かれています。
 まあ80人の子の男女比が47:33として、今の世で100歳以上生きて総理大臣をして、男の子を全員都道府県知事にしていたら、安倍総理以上にやりたい放題でしょうね。
  
 車を停める所がないので、周濠近くの道路に車を置いて家内に残ってもらい、走って拝所まで行ってきました。
 自動ブレーキや警告音、急発進しない装置など付いた老人向け日産ノートにもだいぶ慣れてきました。
車を撮るのに、ナンバープレートを隠す意味が解かりません、ナンバーから素人が簡単に持ち主を探すことが可能なんでしょうかね?
 と言いつつ、隠しています。

     返事
花水木さん:もう少し回が進むと、
    夫婦で同じ陵に入ってる天皇も出てきますよ。
大雪男さん:ゴールデンウイークに私が予想した
    阪神・広島・ヤクルト・ベイスター・中日・巨人も
    あながち夢ではないかもしれませんね。
     今回交流戦途中の予想は
    広島・阪神・中日・ベイスター・ヤクルト・巨人に訂正します。

コメント (1)
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11-2垂仁天皇皇后

2017-06-07 | 天皇陵巡り
  
 この地図、中央の駅が近鉄西大寺駅、右に平城京跡、地図を離れた少し下方に前回の垂仁天皇陵、上方三つの前方後円墳の一つが今回の第11代垂仁天皇皇后の日葉枢Q命(ヒバスヒメ)の陵です。
したがってこの垂仁天皇夫婦の陵は、歩ける範囲の距離にありました。
  
 今年のゴールデンウイークの上天気の日に、近鉄西大寺駅から歩いて、この辺りの陵を巡りました。
三つの陵が軒を連ねる、綺麗で散歩には絶好の地に佐紀陵山古墳(サキミササギヤマコフン)、すなわち日葉枢Q命の狭木之寺間陵(サキノテラマノミササギ)はありました。
  
 前回書いたように、夫の垂仁天皇に謀反を起こした妻のサホヒメの遺言に従って、垂仁天皇は丹波から4姉妹を妻に迎えましたが、妹二人は姿かたちが醜いので丹波に返しました。
4姉妹の長女で綺麗な、古事記では氷羽州比売命(ヒバスヒメノミコト)、書紀では日葉枢Q命は、垂仁天皇との間に5人の子をもうけ、その内の一人が後の第12代景行天皇です。
  
 日葉枢Q命、なんとなく目にも耳にも心地よい響きの名前を持つこのお姫様、私は好感を持っています。
その死に際して、夫の垂仁天皇は弟である倭彦命の家臣の生き埋めのむごさを思いだし、「殉死の替わりになるものを」と、家臣の野見宿祢に命じて、家臣の替わりに埴輪を作って埋める習慣を作ったようです。

      返事
花水木さん:橘は東京では育たないのですね。
     皇居には左近の桜は植えられても、右近の橘は植えられないということは、
     やっぱり明治の東京遷都は間違いでしたね。

コメント (1)
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11≠P垂仁天皇

2017-06-03 | 天皇陵巡り
  
 自宅から急行奈良行の地下鉄に乗って一時間ほど、近鉄西大寺駅で普通に乗り換えて一駅、近くには唐招提寺もある尼ヶ辻駅で降りて、この道標に沿って歩きます。
  
 目線と同じ高さに立派な周濠を持つ前方後円墳が見えてきました。
鷺?の群れが巣を作っているのか、その糞で木々が白っぽく見える所もあります。
宝来山古墳(ホウライヤマコフン)、全国第20位の大きさの前方後円墳で、4世紀後半に築かれたようです。
奈良盆地の真ん中近くの平地に築かれているので、全容が見渡せて余計に立派に見えます。
 これが153歳で亡くなった(書紀では139歳)第11代垂仁天皇(スイニン)陵の菅原伏見東陵(スガワラノフシミノヒガシノミササギ)です。
 
 第10代崇神天皇の第3皇子で、母は大彦命の娘で御間城姫(ミマキヒメ)、古事記では伊久米伊理毘古伊佐知命(イクメイリビコイサチノミコト)、日本書紀では活目入彦五十狭茅天皇(イクメイリヒコイサチノスメラミコト)で、都を纏向珠城宮(マキムクノタマキノミヤ)(桜井市)に置いて即位し第11代垂仁天皇に成りました。
  
 最初の妻サホビメ(父崇神天皇の兄弟の娘なので従兄妹同士の結婚です)を寵愛していました。
サホヒメの兄サホビコノミコ(同じく従兄弟になりますね)が、妹に夫の垂仁天皇を殺す様に小刀を渡しましたが、サホビメは夫を殺すことが出来ず計画がばれてしまいましたので、二人とも垂仁天皇の軍勢に殺されてしまいました。
 死ぬ前にサホビメから推薦された姉妹を含め、垂仁天皇は計8人の妻との間に16人の子をもうけました。
  
 垂仁天皇から常世の国に非時香果(トキジクノカグノコノミ)を取ってくるように派遣された、家臣の田道間守(タジマモリ)が持ち帰った時には、垂仁天皇は亡くなっていました。
タジマモリは陵の前で泣き叫び続けて、自分も死んでしまいましたので、大きな周濠の中にあるこの小島に墓が作られたそうです。
 私はこのトキジクノカグノコノミは字づらから、なんとなくイチジクのことだと思ってしまいましたが、古事記では今に言う橘のことと書いてありました。
御所の紫宸殿の前に右近の橘があるのは、この故事かららしいです。
 小島の前には鳥居があって、その石碑には果祖神 田道間守と書いてあるように、タジマモリはお菓子屋さんの守り神でもあるようです。

 この垂仁天皇の御代には、野見宿祢(ノミノスクネ)と当麻蹴早(タイマノケハヤ)が角力を取って、ノミノスクネが勝ったと記されていて、これが相撲の始まりのようです。

    返事
花水木さん:五島の少し味は薄いが身は厚い鯖寿司も、
    京都の有名店の鯖寿司も、若い時より好きになっています。

コメント (1)
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