島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

11≠P垂仁天皇

2017-06-03 | 天皇陵巡り
  
 自宅から急行奈良行の地下鉄に乗って一時間ほど、近鉄西大寺駅で普通に乗り換えて一駅、近くには唐招提寺もある尼ヶ辻駅で降りて、この道標に沿って歩きます。
  
 目線と同じ高さに立派な周濠を持つ前方後円墳が見えてきました。
鷺?の群れが巣を作っているのか、その糞で木々が白っぽく見える所もあります。
宝来山古墳(ホウライヤマコフン)、全国第20位の大きさの前方後円墳で、4世紀後半に築かれたようです。
奈良盆地の真ん中近くの平地に築かれているので、全容が見渡せて余計に立派に見えます。
 これが153歳で亡くなった(書紀では139歳)第11代垂仁天皇(スイニン)陵の菅原伏見東陵(スガワラノフシミノヒガシノミササギ)です。
 
 第10代崇神天皇の第3皇子で、母は大彦命の娘で御間城姫(ミマキヒメ)、古事記では伊久米伊理毘古伊佐知命(イクメイリビコイサチノミコト)、日本書紀では活目入彦五十狭茅天皇(イクメイリヒコイサチノスメラミコト)で、都を纏向珠城宮(マキムクノタマキノミヤ)(桜井市)に置いて即位し第11代垂仁天皇に成りました。
  
 最初の妻サホビメ(父崇神天皇の兄弟の娘なので従兄妹同士の結婚です)を寵愛していました。
サホヒメの兄サホビコノミコ(同じく従兄弟になりますね)が、妹に夫の垂仁天皇を殺す様に小刀を渡しましたが、サホビメは夫を殺すことが出来ず計画がばれてしまいましたので、二人とも垂仁天皇の軍勢に殺されてしまいました。
 死ぬ前にサホビメから推薦された姉妹を含め、垂仁天皇は計8人の妻との間に16人の子をもうけました。
  
 垂仁天皇から常世の国に非時香果(トキジクノカグノコノミ)を取ってくるように派遣された、家臣の田道間守(タジマモリ)が持ち帰った時には、垂仁天皇は亡くなっていました。
タジマモリは陵の前で泣き叫び続けて、自分も死んでしまいましたので、大きな周濠の中にあるこの小島に墓が作られたそうです。
 私はこのトキジクノカグノコノミは字づらから、なんとなくイチジクのことだと思ってしまいましたが、古事記では今に言う橘のことと書いてありました。
御所の紫宸殿の前に右近の橘があるのは、この故事かららしいです。
 小島の前には鳥居があって、その石碑には果祖神 田道間守と書いてあるように、タジマモリはお菓子屋さんの守り神でもあるようです。

 この垂仁天皇の御代には、野見宿祢(ノミノスクネ)と当麻蹴早(タイマノケハヤ)が角力を取って、ノミノスクネが勝ったと記されていて、これが相撲の始まりのようです。

    返事
花水木さん:五島の少し味は薄いが身は厚い鯖寿司も、
    京都の有名店の鯖寿司も、若い時より好きになっています。

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1 コメント

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Unknown (花水木)
2017-06-03 17:19:50
常世の国と言うのは、何処でしょうか?
その地の橘・・・とは、また興味深いですね。

余談ですが、息子のFacebookで両国寄席の4月1日、2日と口上が見れます。
師匠の口上に、橘の花とか松茸の事が出てきて笑えます。

橘はみかんの原種と言われ、北限は沼津市の戸田でしたが、家に移植して、実際には我が家が北限になります。
今年も沢山の花が付きました。
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