島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

106-2正親町天皇皇子陽光太上天皇

2022-05-25 | 天皇陵巡り

 第106代正親町天皇(1517~1593)(在位1557~1586)の第1皇子で。母は万里小路房子(マデノコウジフサコ)(?~1581)の誠仁親王(サネヒト)(1552~1586)は、唯一の男の子であり、母の出もまあ良いので、次の天皇位は確定でした。

でも、父の譲位もままならぬ世であった為に、34歳まで生きたのに天皇位につくことなく亡くなりました。

 

 女房であった勧修寺晴子(カジュウジハルコ)(1553~1620)との間に13人もの子供をもうけ(まあ半分は夭折ですが)、そのうちの第1王子和仁親王(カズヒト)が誠仁親王の父正親町天皇の猶子になった後に第107代後陽成天皇(1571~1617)(在位1586~1611)となりました。

他にも第5王子興意法親王(コウイ)は織田信長の猶子に、第6王子智仁親王(トシヒト)は豊臣秀吉の猶子になっています。

  月輪陵は皇室ゆかりの泉涌寺(センニュウジ)内にあります。

 1586年余りにも突然に亡くなった誠仁親王ですが、遺児である和仁親王が第107代後陽成天皇になったので、実父として誠仁親王は太上天皇の尊号を追贈され、陽光太上天皇(ヨウコウ)となって月輪陵(ツキノワノミササギ)(東山区今熊野泉山町泉涌寺内)に葬られています。

  月輪陵の制札の一番目四条天皇以外は江戸時代の13人の天皇ですが、その次に陽光太上天皇月輪陵が刻まれていました。

 誠仁親王は織田信長が献上した二条新御所に住んでいましたが、本能寺の変(1582年天正10年6月2日)の時には、信長の長男信忠がこの二条新御所に立て籠ったために、誠仁親王一行は禁裏に逃げざるを得なかったという事件も起こっています。

それぐらい、正親町天皇と誠仁親王親子は織豊政権に近いところにいたようです。

  月輪陵の正面の門です。泉涌寺に入るには観光料が要りますが、泉涌寺内の月輪陵だけに行くなら無料で通してくれました。

         返事

Toitennさん:京都の刺身にも慣れてきましたが、

    やっぱり海沿いで食べる刺身は違います。

元商家の嫁さん:鮨富には行きたいですが、予約要がネックかも。

花水木さん:花水木さんのコメントが届いて、

    やっとgooブログ移行を実感しています。

       迷い まあよわれて ジンセイ 

       夢ね 夢よだから 今日も  

       誘い さあそわれたら 何処へでも  アモーレ~です


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2 コメント

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Unknown (Toitenlabee)
2022-05-25 23:26:02
34歳まで生きたのに、、、は、30うん年つとめたのに、鳴かず飛ばずだったアテクシのよう。
今おもえば、さっさと転職したらよかった。笑
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ややこしい・・・ (花水木)
2022-05-26 14:47:54
鎌倉殿の13人観てますか?
近隣の場所もあるので、気合を入れて観ていましたが、木曽義仲親子の悲劇の頃から観るに絶えず・・・。
ポツンと一軒家に変えました。
猶子って悲しいですね。

そして今までの頼朝や義経の人物像もかなり食い違い(私の知識が希薄なだけ?)
歴史上の出来事はあくまで推測で、学者さんの間でも意見が違うのが面白いですが。
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