古事記では、第21代雄略天皇には二人の子供しかおらず、その皇子は白髪大倭根子命(シラガノオホヤマトネコノミコト)のみです。
その皇子が大和の伊波礼(イワレ)に甕栗宮(ミカクリノミヤ)(奈良県桜井市)を造り、第22代清寧天皇として天下を治めましたが、太后も御子もいなかったようです。
したがって、清寧天皇が崩じた後天下を治めるべき人がいないため、17≠Q市辺押磐皇子(イチノベノオシハワケノミコ)の妹17≠Rの飯豊王(イヒトヨノミコ)が、一時期天皇になったかのように書かれていましたが、清寧天皇自身の陵はどこか書き忘れています。
日本書紀では、雄略天皇には他にも妃がいて、全部で4人の妻から1.清寧天皇2.稚足姫(ワカタラシヒメ)3.磐城皇子(イワキノミコ)4.星川稚宮皇子(ホシカワノワカミヤノミコ)5.春日大娘皇女(カスガノオオイラツメ)と5人の子が出来、その内異母兄弟の星川稚宮皇子の反乱を焼き殺して押さえて、清寧天皇が天下を治めています。
また春日大娘皇女は後に第24代仁賢天皇の后になり第25代武烈天皇を産んでいます。
また日本書紀では、清寧天皇が在位中に市辺押磐皇子の遺児である億計(オケ)と弘計(オケ)が見つかり、次の御世を譲るようにして、41歳で崩御し河内坂門原陵(コウチノサカドノハラノミササギ)(大阪府羽曳野市)に葬られました。
かくして兄弟や親族の殺しあいによって、允恭から安康・雄略・清寧と続いた家系は男系としては断絶しました。
返事
花水木さん:そんなこと言ったってえ~(少し甘えてみました)
天皇陵巡り、確かに同じような写真ですね。
周りの景色を入れたり、寄ったパフェを入れたり工夫します。
と言いながら、今回も前回と同じような写真ですみません!。
先生もなかなかやりますねえ。
又しても同じ様な画像ばかり・・・・・
もしかして、私が気付かない?とでも思ったのでしょうか。甘~い。
男系が絶えて、次は女系で繁栄していくのでしょうか?