島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

21-1雄略天皇

2017-11-05 | 天皇陵巡り
  
 第20代安康天皇が義理の息子の眉輪王に殺されたために、安康天皇の弟の大長谷命(オホハツセノミコト)は仇を討とうと兄のクロヒコノミコを誘いましたが、賛同しなかったのでこの兄を切り殺し、もう一人の兄シロヒコノミコものんびりしていたので、生き埋めにして殺してしまいました。(この結果第19代允恭天皇の皇子5人中4人は死亡)
   
 続いて、オホハツセノミコトは兄の安康天皇の殺害犯のイトコの眉輪王が逃げ込んだ家臣の家を包囲したため、家臣と眉輪王は自害して果てました。
 また以前紹介したように、第17代履中天皇の息子であるイチノベノオシハノミコはイトコにあたりますが、これを猟に誘って射殺し飼い葉桶につめて、その舎人と共に埋めていますし、イチノベノオシハノミコの弟である御馬皇子(ミマノミコ)も日本書紀では殺しています。
   
 こうして大長谷命は、大和の長谷(ハツセ)に朝倉宮(奈良県桜井市)を造って第21代雄略天皇(ユウリャク)として天下を治めました。
 兄の紹介してくれた叔母にあたるワカクサカベノミコを妻としましたが、子は出来ませんでした。
又眉輪王をかくまった家臣の娘カラヒメを妻として二人の子をもうけていますが、このうち白髪命(シラガノミコト)が次の第22代清寧天皇に成りました。
 日本書紀では、その他に2人の妃から2皇子と1皇女が産まれていると書いています。
   
 こうして雄略天皇は他にもいろんなことがあった後に、古事記では124歳(書紀では62歳)で亡くなって、大阪府羽曳野市にある丹比高鷲原陵(タジヒノタカワシノハラノミササギ)に葬られました。
   
 陵南の森図書館に車を置いて、すぐ近くの雄略天皇陵まで歩きました。
この陵は元々円墳だったのを、無理矢理前方部を付けて前方後円墳なおしたようで、文久の修陵の時の絵図はまったく違った形をしています。

     返事
花水木さん:私も自分を小さく撮っていますが、
    それでもその立ち姿があまりにも爺さんなので・・・。
     天皇陵巡りにパフェはなかなか難しいので、堪忍して下さい。
    他の話の時にはなるべく入れるようにしますが、食べた後に写真撮影を思い出すことが多いです。
大雪男さん:昨日は遅くまでかかって、最後は寝てしまいました。
    4≠Qソフトバンクと予想は当たりませんでしたので、今日の競馬もまだダメです。
    まあ丸く収まった結果ではありますね。

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1 コメント

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Unknown (花水木)
2017-11-06 15:14:34
先生、ダメよダメダメ(古いけど)
画像が前回とほとんど変わらず,,素人目には更新してないと勘違いされますよ。(私がそうですからね)

古墳は、ドローンなどを使った、上からの写真でないと
その様子が平面では理解できないのが残念です。
今回は辛口ばかりですみません。
でも、読む私は、いつも贔屓目でございます。
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