第63代冷泉天皇(950~1011)と藤原伊尹(コレタダ)(924~972)の娘懐子(カイシ)(945~975)との間に産まれた第1皇子が師貞親王(モロサダシンノウ)です。
叔父の第64代円融天皇(959~991)(在位969~984)の即位と共に、1歳にもならずして立太子したのは藤原師輔(モロスケ)(909~960)の長男で外祖父に成った伊尹の威光です。
平野神社の裏手の住宅街の道路に道標を見つけました。
師貞親王は父冷泉天皇と同じく、藤原元方(モトカタ)の怨霊にとりつかれ(村上天皇第1皇子なのに広平親王(ヒロヒラ)が立太子出来なかった外祖父元方の恨み)、主に色好みの乱心が伝えられています。
それでも円融天皇の譲位を受けて即位し、17歳で第65代花山天皇(カザン)(968~1008)(在位984~986)となりましたが、その時にはもう外祖父伊尹も母懐子も亡くなっていました。
写真の御陵は大通りから一歩外れているだけですが、静かな住宅地の中でした。
こんな天皇を献身的に支えたのが二人の賢臣、外祖父伊尹の五男で懐子の同母弟義懐(ヨシチカ)(957~1008)と乳母の子である藤原惟成(コレナリ)(953~989)で、関白は先代からのしょせんはよそ者頼忠(ヨリタダ)であったので、実際はこの二人によって革新的な政治も行われたようです。
花山天皇は大納言藤原為光(タメミツ)(師輔の9男なので、伊尹や兼家は異母兄)の娘で女御の藤原忯子(シシ)(969~985)への寵愛ぶりが有名ですが、忯子は妊娠8か月で17歳で亡くなってしまったので、花山天皇は失意のどん底に落とされたそうです。
これが契機となった花山の出家願望を利用した、兼家の自分の孫一条天皇への早期皇位移動の策略によって、だまされた形で、花山天皇はわずか2年で、19歳で出家してしまいました。
義懐・惟成も一緒に出家したそうです。(寛和の変)(カンナノヘン)
出家後も花山院の色好みは変わらず、母・娘と関係を持って親子丼で二人共に子を作ったりして励んでますが、仏道修行にも励み、観音霊場を巡礼し、現在の西国三十三ヶ所巡礼の祖を作り、これが私の奈留島121ヶ所ゴミ箱霊場観光巡りにも脈々と受け継がれています?。
花山天皇は20年以上の法皇生活後40歳で亡くなり、制札では紙屋川上陵(カミヤガワノホトリノミササギ)(北区衣笠北高橋町)に葬られていますが、陵印では何故か紙屋上陵で川が有りません。
返事
花水木さん:死亡診断書はしょっちゅう書いていますが、
出生届は私もほぼ知りませんでした。
昔の育児書なら松田道雄さんのですかね。
toitenlabeeさん:昔から真剣に偉い人だと思ってましたが、
妹の産まれた時のことを憶えてるって、さすがですね!
私にも2歳下の弟がいますが、全く憶えていませんよ。
大雪男さん:忘れてるのは、
自分で提出しなかったからですかね。
最近の結婚届もカラフルですよ。
第1戦;無人の外野席にボールが跳ねた7回で、寝ました。
第2戦;すぐに競馬中継に集中しました。
第3戦;孫たちが来てくれたので、ほぼ観ずにすみました。
今年は早々と終わりましたが、毎年6月には終わってるので・・・。
ボーアが左投手を打てそうな気はしませんが、
それでも頑張れと思う、阪神ファンですが、試合はしばらく観ません。
ちゃんとした育児書を読んだのではないですが
雑誌のコラムとか暮らしの手帖にも掲載されたりしていました。
そんあんだろうな~と頭では解っていれも、慣れない初めての育児で悩み多き子育てでした。
長男が体弱かったので
今で言う虚弱体質でしょうか。
各種アレルギーも出て、週一で病院通いしてました。
道標の後ろの花壇に、大量の水入りペットボトル。
猫除けでしょうか?