吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
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千葉の麻賀多神社に参拝してきました No018

2009-08-08 08:28:28 | 旅行
2009/09/24 (Thu) 18:25:31 記載

このシルバーウイークに
ある縁で千葉の麻賀多神社三社に参拝してきました。
この中で麻賀多神社と蘇我を結びつけるものについて
いくつかのヒントがありました。
霊的な感応なので、あくまで自分が納得したというだけの話です。
まず初日に挨拶ということで成田市台方の本殿に参拝後に
話しに聞く岡本天明感応の地である天之日津久社を探したら
右手が妙に夕日に輝くので吸い寄せられました。
見ると光の参道が出来ていて粋な計らいをしていただきました。
たぶん八大龍王神の計らいなのでしょう。
参考までに添付写真を付けておきます。
さてそれから舟形の麻賀多神社に参拝したのですが
この社の石灯籠は安永四年(1775年)に
近くの北須賀の氏子が寄贈したものでしたが、
北須賀という灯篭の文字から蘇我のイメージを強く受けました。
麻賀多神社に蘇我氏も関与していることは
間違いないだろうと思います。
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須賀と蘇我を結びつける蘇我氏来歴 No017

2009-08-08 08:28:20 | 日記
稲田宮主須賀之八耳神=足名椎=蘇我氏元祖で
稲田姫と素盞嗚尊の子供の
蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴=八島野命 以降
蘇我氏はなぜか歴史から姿を消す。
そして新たに武内宿禰の子供の蘇我石川宿禰で蘇我は復活する。
ここに藤原不比等が画策した秘密が隠されている。
天皇家は邇邇芸命が天孫降臨して神武天皇より始まるが
稲田宮主須賀之八耳=蘇我氏の方が古い由緒を持つからだ。
蘇我氏である武内宿禰は棟梁であるが、
この棟梁とは大王(おおきみ)のことである。
蘇我氏 物部氏 多氏 卑弥呼系一族などの連合から
棟梁=大王 つまり後の天皇を輩出していたのだろう。
ただ蘇我氏は物部氏を滅ぼし専制して
天皇の地位を奪おうとしたのを藤原氏が阻止したという
仮想的ストーリーのために改竄されたものと考えられる。
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聖徳太子と小野妹子と蘇我氏 No016

2009-08-08 08:28:18 | 日記
聖徳太子と蘇我氏について記載したついでに考えを述べると
聖徳太子と同時代で太子の側近の小野妹子についても
蘇我氏と繋がる可能性がある。
小野妹子は聖徳太子作成の「日出処天子」の
文言で知られる国書を携えて
隋に渡るが、隋で小野妹子は蘇因高と呼ばれたということだ。
蘇因高の蘇は蘇我で因高は妹子のことと思われる。
ところで蘇我馬子の子供は毛人である。
ところが小野妹子の子も毛人という。
また蘇我毛人はなぜか日本書紀では「蝦夷」となっているが
蝦夷も毛人も同義語である。
小野妹子についての年表は607年に隋に行き
裴世清をつれて608年には帰国し、
さらに裴世清の隋への帰国にも同行している。

蘇我馬子については596年飛鳥寺を建立記載の後の記録は
612年の堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式の記載となる。
もしかすると蘇我馬子が小野妹子として隋行したのかもしれない。

さて名前に子がつく男性名について馬子 妹子以外に知らない。
蘇我馬子=小野妹子かどうかはなんとも言えないが
小野妹子が蘇我氏系であることは十分考えられる
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蘇我氏と物部氏 No015

2009-08-08 08:28:10 | 日記
建速須佐之男命が高天原から追放されて足名椎、手名椎と出会う。
この足名椎は大山津見神の子であるが、
建速須佐之男命により稲田宮主須賀之八耳神(いなだみやぬしすがのやつみみのかみ)
と名付けられている。
ここで須賀と八耳という言葉が出てくるが、
この足名椎の子供の櫛名田比売命と建速須佐之男命の間の子である八島野命は
清之湯山主三名狭漏彦八島野命=蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴
(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまぬみこと)という。
つまり須賀=清=蘇我(読みはsuga)となっていて建速須佐之男命が
蘇我の養子となったように受け取られる。
また話が飛ぶが八耳は神八井耳命の系統に繋がるとすると聖徳太子も
厩戸豊聰八耳皇子ことから蘇我と同系統ということになる。
一般的にはこの須賀は建速須佐之男命が『吾れ此処に来て、我が御心“清々(スガスガ)し”』と
言った事からこの地名を須賀としたことにちなむとなっている。
しかしながら前述の通りこの地名の須賀が出雲の蘇我氏に繋がると感じている。

つまり神八井耳命─蘇我氏─建速須佐之男命─八島野命の関係が考えられる。
実際の記紀では
大山津見神─木花之開耶姫=瓊々杵尊─火遠理尊─鵜葺草葺不合尊─神武天皇─神八井耳命と
いう系統で考えると建速須佐之男命は天照大神・大山津見神の神代に登場しているが、
地上に追放された建速須佐之男命の活躍は神八井耳命以降となりそうである。

ところでもともと建速須佐之男命は物部氏の系統になると考えていた。
物部系である石上神宮の祭神の布留─布都斯─布都─宇摩志麻治命の系統で
布都斯は建速須佐之男命と同定されている。
※正しくは布都斯魂大神=素盞嗚尊の八岐大蛇を斬り給ひし十握劒の威霊を称奉る御名。

これらを元に考察すると建速須佐之男命は物部系の布都斯という人物であったが、
蘇我氏に婿入りし「須佐の王」となったというように読み取れる。
そして蘇我の系統としては八島野命に繋がっていき、
物部氏の系統は、
布都斯の息子の布都=大歳=天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊=大物主(大いなる物部の主)
として繋がっていったのではないかという気がする。
そして建速須佐之男命を中心とした蘇我氏物部氏連合軍は出雲を制圧し
大歳と八島野命は別々に勢力を広めていったのではなかろうか?

蘇我氏は勾玉と縁が深い一族で蘇我氏が勢力を無くすと同時に勾玉が作られなくなっている。
出雲の勾玉は玉造温泉として今に名を留めている。
さて三種の神器は「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」「天叢雲剣」であるが
これらを各氏族に当てはめると八尺瓊勾玉=蘇我氏 天叢雲剣=物部氏
八咫鏡=邪馬台国系の氏族に当たるのではないかと勝手に考えている。
良くわからないが鏡はもしかすると天忍日命や道臣命に繋がる大伴氏かもしれない。
また八尺瓊勾玉を献じたのは丹波国の桑田村の甕襲(みかそ)という人物という話もある。
出雲での氏族の結束が三種の神器で、
天皇とはその氏族から輩出された司祭ではなかろうか?
だとすると天皇が祭祀していた神とは、どういう神霊だったのかという疑問がわくが、
月読命 素盞嗚尊 天照大神と仮定したい。
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蘇我と須賀をつなぐもの No014

2009-08-08 08:28:08 | 日記
須賀神社や須我神社というものが各地にあり
ほぼ祭神は素盞嗚尊となっている。
この須賀は蘇我の事ではないかと推察しているが
その根拠をまとめてみたい。
まず「そが」と呼んで素盞嗚尊を祭祀しているのは
出雲大社内の素鵞社がある。
そが=すが=素盞嗚尊系という傍証にはなろう。
また大阪府南河内郡河南町一須賀にある「一須賀神社」は
蘇我氏の本支族がその祖廟として「宗我石川宿禰」を祀っている。
これも蘇我と須賀をつなぐ傍証となろう。
この「一須賀神社」では素盞嗚尊は祀られていない。
万葉集十二巻に
真菅吉 宗我乃河原尓 鳴千鳥 間無吾背子 吾戀者
ま菅よし宗我の川原に鳴く千鳥間なし我が背子我が恋ふらくは
という歌があるが、ここで「ますげよし」というのは
宗我=蘇我の枕詞となっている。
すが=菅=須賀と、そが=宗我=蘇我をつなぐ傍証のひとつだとする。
金比羅宮の摂社に真須賀神社というものがあるが
まさに真須賀は蘇我の枕詞であろう。

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蘇我氏と飛鳥 No013

2009-08-08 08:18:58 | 日記
蘇我といえば飛鳥だが、飛鳥の名前の由来についても
蘇我氏が関与していると考えている。
飛鳥は阿須賀とも書く。
和歌山の阿須賀神社は飛鳥山から名付けられたともいうが、
須賀=蘇我と考えると
飛鳥が蘇我氏から付けられた地名だということに納得できる。

また前記の三光鳥といい飛鳥といい蘇我氏のキーワードは鳥といえる。
実はこのキーワードの鳥は武内宿禰にも繋がる重要なキーワードである。
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蘇我氏と聖徳太子 No012

2009-08-08 08:18:48 | 日記
筆者の蘇我氏考察にも記載しているが
聖徳太子も蘇我系の中心人物だと考えているが、
この聖徳太子は斑鳩の宮を造営している。
この斑鳩というのは鵤(いかる)という鳥に由来しているが、
この鳥のさえずりは「月日星(つきひほし)」と聞こえるところから
三光鳥ともいうとのことだ。
日月星の三光は蘇我氏を現すと筆者は考えている。
詳しくは以下を読まれたい。
http://reyline.web.fc2.com/soga/soga.html
斑鳩が蘇我の本拠地として造営されたことは間違いない話であろう。
さて千葉の蘇我比神社の由緒書によると
蘇我一族は「春日神社」を守護神としていると記載されている。
にわかには信じがたい話ではある。
ただこれが真実だとすると春日=香菅=香須賀で
蘇我=菅=須賀から付けられた名前ということになる。
だとすると春日神は藤原氏ではなく蘇我の祖霊だったという
歴史を覆す話となってしまう。
この検証は今後の課題としたい。

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麻賀多神社が蘇我系なら継ぐ神霊は八大龍王 No011

2009-08-08 08:18:38 | 日記
筆者ホームページの「熊本霊ラインと中央構造線」でも考察したが
蘇我系の妙見神の顕現は八大龍王神として現われることが多いようだ。
当然、麻賀多神社が蘇我系ならば、
岡本天明の天日津久神社での感応にも
八大龍王神が関与しているはずだ。
調べてみると至恩郷の月の宮に岡本天明作の三貴神像があるが、
三貴神は八大龍王に乗って宇宙を駆けているそうである。
※「日月神示はなぜ岡本天明に降りたか」岡本三典 P146
またそのP63には矢野祐太郎氏の配偶者である矢野新女史が
千駄ヶ谷の友人の会合に出席した時に八大龍王神に感応して
「八大竜王、しばしこの場に鎮まりまします」と叫んでしまったそうだ。
それでどうした訳かと近所を散策していたら
そばの「鳩の森八幡」で偶然天明と出会い、
ここで天明からお筆さきを見せられたそうだ。
これが矢野新女史発案の筆先の奉賛会に発展したとの記載がある。
これも麻賀多神社が蘇我氏であるという傍証にはなりそうである。

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麻賀多神社と富と豊 No010

2009-08-08 08:18:28 | 日記
確認できている訳ではないが、
ネット検索によると前出の「古語拾遺」には、
富の命が忌部を率いて四国から当地へと
渡ったと記されているそうだ。
でも本当に富という文字なのだろうか?
豊ではないのかと改めて問いたい。
きっとトヨのキーワードが麻賀多神社のどこかに残っている筈だ。
ちなみにここから程遠くない鹿島神宮の祭神である武甕槌神は、
古事記及び先代旧事本紀では豊布都神(豊布津神)との記載がみえる。
ちなみにフル及びフツは物部系である。
筆者の蘇我氏考察でも記載しているが建速須佐之男命は、
物部氏の系統では血統は石上神宮の祭神より
布留─布都斯─布都─宇摩志麻治命の血統となる。
布都斯は建速須佐之男命と同定されている。
建速須佐之男命は物部系の布都斯という人物であったが、
蘇我氏系トヨに婿入りしたと考えている。
従って布津は物部とトヨの両方の血を引く。
それ故に豊布都神と呼ばれるのだろう。
當麻物部の拠点の二上神社でも豊布都神は祀られている。
武甕槌神がどういう神であるのかについては、
ここでは問わないが、建御雷とも書き、
建は建速須佐之男命の建でもある。
さて香取と鹿島とが原初においては同じ祭神であることは
神霊感応がある者なら気づいてもおかしくはない。
ところがこの両社は中臣氏が引き継いでいる。
中臣は中富でありこの富が曲者であろう。
タケ トヨ トミには繋がりがある。
だからと言って同属ではないし同じ信仰という訳でもない。
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今気づいたことですが、 麻賀多神社は六芒星 No009

2009-08-08 08:18:18 | 日記
神霊の不思議演出には慣れっこのはずですが、
下に「青麻神社の三光と六芒星」で記載した
青麻神社の紋は丸に麻の葉の六芒星でしたが
「日月神示の麻賀多神社」で記している
葉県成田市台方字稷山の麻賀多神社の紋も
丸の無い麻の葉紋の六芒星でした。
偶然に今 分かったので驚いているのですが
それで他にも数多いのかと思って検索してみました。
麻の葉でもきちんとした六芒星になっているものは
残念ながら少ないようです。
青麻神社は三光で見つけだした神社ですが、
麻賀多神社は神霊に呼ばれている神社で
その理由を調査している最中でした。
三光と六芒星を結びつける神社といえば
丹後一宮の元伊勢 籠神社ですが
これで私なりに繋がりました。
麻賀多神社祭神の稚産霊神は豊受神の親神となりますが
http://makata.jp/gosaishin.html
籠神社でいう豊受大神は真名井神社に降臨した神で
真名井は真渟名井=真瓊井で
ヌナ=渟名(ぬな)=瓊=ヒスイのことです。
豊受大神は穀物神であると共に羽衣トヨの一族の奉祭する神です。
トヨの一族は神功皇后に始まり蘇我氏と繋がる一族です。
三光の紋については2007年12月に掲示板にて
目黒の案山子さまから城南宮を紹介されてからの縁で
これまで調査してきましたが、非常にいい勉強になりました。

やはり麻賀多神社は勾玉にまつわる神社であることが
分かりましたし、豊受神の親神であることから
トヨの一族 蘇我氏との繋がりのヒントを戴きました。
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千葉の須賀という地名について No008

2009-08-08 08:09:08 | 旅行
今ネットで千葉の須賀という地名を調べてみた。
検索では以下のような地名が見つかった。
千葉県成田市北須賀
千葉県印旛郡 栄町 須賀
千葉県木更津市長須賀
千葉県九十九里浜本須賀
千葉県山武市本須賀
千葉県夷隅郡御宿町須賀

須賀という地名は九州にも存在するが
佐賀県小城市小城町松尾にある
須賀神社は関東から下向した千葉胤貞が
京都の祇園社(現・八坂神社)より分祀して
創建したものだそうだ。
もともと小城祇園社と呼ばれていたものが
明治に須賀神社と改名されたそうである。
千葉の須賀もどのくらい古いものなのか疑問が残るが
少なくとも千葉県成田市北須賀という地名に関しては、
1775年より古いことが分かっており
今後さらに蘇我との関係を調査する必要性も感じている。



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佐倉藩鎮守の麻賀多神社 No007

2009-08-08 08:08:58 | 日記
佐倉市鏑木町933に佐倉藩鎮守の麻賀多神社がある。
ここのパンフレットによると
麻賀多神社というのは「麻の國で多氏が賀す神の社」ということで
國造の伊都許利命も多氏一族と記載されている。
確かに神八井耳命の後裔はいくつかの系統に分かれていて
前回も記載しているが筆者は、
神武天皇─神八井耳命─多氏と
神武天皇─神八井耳命─蘇我氏
を別けて系統を調査している。
神八井耳命の八代孫といえば多氏系統とも
蘇我系統とも考えられる訳であるが
佐倉藩鎮守ともなれば由緒上は多氏系統の方が都合がいい。
桓武平氏を称する千葉氏は、多氏の後裔となっている。
結局のところ蘇我はこういう意味でも封印されてしまった訳である。
藤原氏の掛けた蘇我氏封印と蘇我氏に掛けられた汚名は
晴らすべき時が来ている。

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日月神示の岡本天明氏の自動書記開始の麻賀多神社 No006

2009-08-08 08:08:48 | 日記
岡本天明氏は麻賀多神社の摂社の天之日津久神社で
啓示をうけたそうだが
この麻賀多神社はもともと麻賀多真大神=マガタマ大神を
祀っているそうだ。
由緒としては応神天皇の御宇に神八井耳命八代孫の
印波国造となった伊都許利命=イツコリミコトが
奉斎したのが始まりらしい。
ところでこの成田市台方と船形は『 和名抄 』でいうところの
印旛郡八代郷に比定されているそうである。

今まで筆者は熊本の八代と繋がる武内宿禰-波多八代宿禰と
武内宿禰-蘇我石川宿禰を追っかけてきたが、
神武天皇─神八井耳命─多氏─健磐龍命⇒阿蘇氏系統と
神武天皇─神八井耳命⇒蘇我氏─建速須佐之男命─八島野命の系統を
筆者ホームページの「蘇我氏考察」で考察している。

さて千葉の蘇我町にある蘇賀比神社の由緒によると
この地域は第15代応神天皇より蘇我氏が国造に任命されたとある。

これらを考慮してこの麻賀多神社の由緒を考察すると
どうもこの神社は蘇我氏系神社だと感じられる。
キーワードは蘇我氏由来の勾玉と地名の八代と
神八井耳命八代孫ということと
第15代応神天皇より国造になっていることである。
このことから考えて伊都許利命も蘇我氏系である可能性がある。
だとすると日月神示は蘇我氏系の神霊の啓示となろう。
読み解くにあたりいくつかの考慮が必要かもしれない。

どういう意味かというと
例えば麻賀多神社に祀られていた勾玉は七個とあるが
実は八個ではないだろうか?
また七にちなんだ御縁起中の緒地名の
七台、七坂、七井戸、七干場、七兎田、七人百姓などの七は
八を封印しているようにも思える。
強い魔的な封印を感じるので審神しながら啓示を読み解かないと
とんでもない魔道に陥る可能性があるということだ。
蘇我氏に掛けられた封印は読み解くものをも迷わせる。
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青麻神社の三光と六芒星 No005

2009-08-08 08:08:38 | 日記
筆者ホームページの「蘇我氏考察」内に
三光の紋と六芒星の組み合わせとして
元伊勢籠神社の絵馬の紋を紹介したが
宮城県仙台市にある青麻神社の神紋も気になっている。
この神社は西暦852年に山城国より移り住んだ
海神族末裔の穂積保昌という人物が
日月星の三光を祀ったのが最初という。
この神社の神紋は麻の葉で六芒星を形作っている。
日月星の三光は武内宿禰⇒蘇我氏と引き継がれ
六芒星はユダヤ系民族(もしかすると伝説の徐福とか秦氏)に繋がる。
この二つを合わせた紋章は民族の和を表しているように思える。


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阿蘇ピンク石と宇土の地 No004

2009-08-08 08:08:28 | 日記
筆者のHPの『蘇我氏考察』
八代の中央構造線と熊本の中央構造線である金峰山南側の立田山断層(熊本霊ライン)とに
挟まれたこの地域で起こったことは、
増幅されて日本全国へ影響すると記載している。
この地域の特別性を見出した初代人物として蘇我石川宿禰と波多八代宿禰を考えている。
この地域の特別性を考える理由として
宇土市網津町馬門で「馬門石まかど石=阿蘇ピンク石」が採石されるが
この石をわざわざ大和まで運び石棺として使用していることもあげられる。
その最初として継体天皇稜と想定される「今城塚古墳」で
「馬門石(まかどいし)」の石棺片が見つかっている。
継体天皇と蘇我氏には繋がりがあるのではないかと考えているが、
蘇我石川宿禰かその後胤が大地のエネルギーの源である宇土の馬門石を
霊的な目的で使用した可能性は否定できない。
馬門石は阿蘇堆積層で凝灰岩層なのだが
なぜか宇土市網津町馬門の凝灰岩のみがピンク色になっている。
これもこの地域の特殊性のなせる業なのかもしれない。
また蘇我石川宿禰とこの地方との繋がりは八代の鏡町の印鑰神社の祭神が蘇我石川宿禰であることにみられる。
その兄弟に「八代」の地名と同じ波多八代宿禰がいることから推察している。
実は継体天皇は近江国=琵琶湖周辺出身とも言われているが
同じく琵琶湖周辺の速水の今の伊豆神社=延喜式内「波美神社」の祭神が波多八代宿禰である。
となりには波彌神社がある。
そばの近江國伊香郡の余呉湖の南側の波彌神社の祭神も波多八代宿禰となっている。
やはり継体天皇と蘇我石川宿禰及び波多八代宿禰には繋がりが感じられる。

※今城塚古墳では石棺に阿蘇ピンク石の他に兵庫県高砂市の竜山石及び
二上山白石も見つかっている。
なんで近場の二上山白石ではいけなかったのかがポイントだろう。
ちなみに兵庫県高砂市といえば生石神社の石の宝殿との関連も興味ある。

伊豆神社=延喜式内「波美神社」
〒529-0341 滋賀県長浜市湖北町速水1098
八幡宮=延喜式内「波彌神社」
滋賀県長浜市木之本町飯之浦511
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