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1995.9内蒙古フホホト ラマ仏教寺院+回教寺院を歩く

2023年02月05日 | 旅行
<中国を行く>  1995.9 内蒙古自治区フホホト ラマ仏教寺院・五塔寺+回教寺院・清真大寺を歩く


 フホホトにおける漢民族化は信仰にも影響を及ぼしていているらしく、モンゴル人民共和国では回復しつつあるラマ仏教が内蒙古自治区では影を潜めているようだ。フホホトをガイドしてくれたモンゴル人や、このあと北京まで1300kmを走るのだが、その間に出会ったモンゴル人はいずれもラマ仏教とは縁がないようだし、ラマ僧を一人も見かけなかった。
 ガイドにラマ仏教寺院・五塔寺に案内してもらった(写真)。正式には「金剛宝座舎利宝塔(ジンガンパオツオゥシェリパオター)」である。軒下にモンゴル語・チベット語・梵語の経文が刻まれている。モンゴル語もチベット語も梵語も私には紋様にしか見えず、ガイドの説明がなければ見落としてしまいかねない。
 五塔寺の周辺は煉瓦造の住まいが建て込んでいて、すでに寺院の形式は失われ、この建物だけが名所旧跡として残っている。


 金剛宝座は基壇の上に建っている。平面は凸型に正面が前に出ている。壁面には短い軒が七段あり、彫りの深い印象を与えている。近づくと、基壇には獅子や龍、鳳凰、竜車をイメージさせる彫刻、壁面には段と段のあいだにさまざまな姿をした仏像が刻まれている(写真)。仏像の総数は1119にも及ぶそうだ。七段の短い軒の出は、仏像を風雨から守る庇のようだ。
 中の階段を上ると、金剛宝座の上に出る。四隅に五層の塔、中央に七層の塔が建ち、その四方にも仏像が刻まれている。塔にも仏像を風雨から守る短い軒が出ている。
 下に降り、少し離れたところから見上げると、遠目では仏像の様子は分からないが、建物全体を取り巻いているいくつもの庇が陰影を作り出していて、庇の瑠璃瓦の鮮やかさと仏像が彫られている壁面の煉瓦色との対比がいっそう際だち、それが建物の角や入り口のアーチに利用されている白い石に縁どりされて、端正な形と躍動する動きを印象づける。


 建物の脇に入場券を売る店があり、中をのぞくと土産物がところ狭しと並んでいる。特にラマ仏教を思わせるような品はなく、フホホトの町中のみやげ物やと同じような品ばかりだったが、何故か羅盤(写真)がおいてあった。じっと見ていたら「買い得だよ」といった意味の声をかけられ、買うことにした。
 言い値の2/3ほどで折り合いをつけたのだが、値段より、羅盤がどうして店にあるのか不思議である。羅盤の裏には「健身・旅遊・娯楽、多効能轉盤」とある。五塔寺を訪れた中国人が昔を懐かしんで買っていくのだろうか。


 次に回教寺院・清真大寺に向かった。中国ではイスラム人を回族と表記する。回族は55の少数民族の一つで、中国各地をあわせると1000万人ほどのイスラム人が住んでいるらしい。
 イスラム人はイスラム教を拠り所としている。イスラム教は、アラビア半島メッカで生まれたムハンマド(570ごろ-632)に唯一神のアッラーが啓示したクルアーンの教えを信仰する宗教である。イスラム教が北アフリカ、西アジア、インド、東南アジアなどの民族国家を席巻し、その後イスラム教を国教とした国も多い。
 中国はアジアのイスラム教国家と友好同盟を結んだことはあるものの、イスラム教に政権を委ねたことは一度もない。
 回族が少数民族として認められるまでに力を持ち得た理由は、イスラム人が商いに長けていたことにありそうだ。中国から西アジアを経てヨーロッパに至るシルクロード交易が盛んであったことは教科書で習う。その背景には東北アジア~中央アジア~西アジアの砂漠・草原を自由に行き来する遊牧民がいた。彼等は馬やらくだを機動力として豊かな実りと草を求めて移動するうちに東の物資を西に、西の物資を東に運び富を得るようになった。東西の文化交流の始まりである。
 中国は国家形成の当初から中華思想をとっていたから、献上してくる民族には寛大である。イスラム人がイスタンブールをおさえてから、ヨーロッパやアフリカの名品、珍品がイスラム人の手を経ることになり、次第に回族が重視されるようになったのであろう。
 代わりに中国の誇る陶器の数々がイスラム人の手を経てヨーロッパ渡ることになる。その結果、中国で回族が重視され、各地にイスラム人が住み始めたのではないだろうか。


 イスラム人はどこに住もうともアッラーの神のもとに一つの集団を形成しようとする。イスラム教では日に5回、メッカに向かい礼拝を欠かさない。イスラム人の居住地では礼拝の場であるモスク、礼拝を呼びかけるためのミナレット、身を清めるための沐浴所がつくられた。


 フホホトのイスラム人は、933年ごろ、この地にモスクに相当する礼拝殿、ミナレットに相当する6角4階建ての塔、沐浴室などを建てた。当初は簡素だったらしい。
 清6代皇帝乾隆(1711-1799)は大勢のイスラム人をフホホトに移住させた。イスラム人が増えれば礼拝者が増え、寄進も増える。1693年ごろから建て替え、建て増しが始まった。
 1789年にも増改築が進められた。1869年に講堂が建てられ、1920年代に改修改築が行われ、1939年ごろ塔が建てられたそうだ。それが現在に残る回教寺院・清真大寺である。
 礼拝大殿=モスクは北東向きに建てられている(写真)。大殿の南北に講堂があり、大殿=モスクの裏に南向きの浴室、南西側にミナレットに相当する望月楼が建つ。
 イスラム教の礼拝はメッカに向かい、額を床につけて祈る。メッカはフホホトの南西になるので、清真大寺では大殿の南西壁に設けられたミフラーブ(=聖龕)に相当する祭壇に向かって礼拝が行われる(写真)。額を床につけるため、床に絨毯が敷かれる。
 建物は中国の伝統建築を基本に、イスラム教の装飾芸術を取り入れたつくりになっている。壁面など記されたアラブ文字は、イスラム教の聖典であるクルアーンの引用のようだ。
 1939年に建てられたミナレットに相当する望月楼は、高さ約36m、下層は六角型3層のレンガ造で、頂部にはイスラム教のシンボルである三日月と星がかたどられているが、屋根の軒先は中国の伝統建築のように反り上がっている(写真)。
 内部にらせんの梯子が設けてあり、礼拝の呼びかけ人であるムアッジンが最上階に上り、礼拝を呼びかけるアザーンを発する。
 
 トルコ・イスタンブールのスルタン・アフメッド・ジャミー、別名ブルーモスクに代表される回教寺院モスクは、石造のドーム建築である。雨が降らない、木材が少なく石材が豊富、ドームは音響効果が高いなどの理由で、ドーム建築が発展した。
 対して、漢民族の伝統建築では、雨が多い、木材が豊富、風水思想、儒教思想で、木骨煉瓦積みの建物に瓦葺き切妻屋根、四合院形式が発達した。中国に住み始めたイスラム人は、中国の伝統建築を基本にイスラム様式を取り入れ、独特の回教寺院をつくりだしたようだ。
 礼拝大殿正面の壁時計はムハンマドが息を引き取った時間のまま止めてある。彼等にとって信仰は空間と時間を超えた意思の集まりであり、様式の漢化は些細なこと、そう訴えているように感じた。 
 (2023.2加筆修正)

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