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1995.9内蒙古正藍旗でパオに泊まる

2023年02月15日 | 旅行
<中国を行く>   1995.9 内蒙古正藍旗でパオに泊まる


クビライ・カアンの上都・正藍旗へ
 内蒙古自治区の省都フホホトはモンゴル語で、「青い城」の意味だそうだ。勝手な想像だが、ゴビで遊牧をしていたモンゴルの遊牧民がフホホトに来て、砂利混じりの短い草しかはえていないゴビに比べ、一面に広がる青々とした草原を見入って名付けたのではないだろうか。地名は、そこに住む民の思い入れを表すことが少なくない。モンゴルの遊牧民は、この草原で馬、羊、牛、山羊、駱駝の五畜に思う存分草を食べさせることができる、そう思った瞬間、「青い城」がひらめいたのではないだろうか。
 しかし、私たちが見たフホホトは高層ビルが建つ大都市で草原がない。王昭君の墳墓から見渡す郊外は畑だった。
 草がなければ遊牧風景も見られない。遊牧がなければ移動式テント式住宅のパオ(中国語=モンゴル語ゲル)は不要である。省都フホホトに草原も遊牧もパオもないことを予想し、事前に草原、遊牧、パオを見聞きできる場所を希望しておいた。
 もう一つ、やや無謀な希望も伝えた。それはフホホト→北京への走破である。
 1206年、チンギス・カン(1162?-1227?)はカラコルムを首都とした西アジア、東ヨーロッパに至るモンゴル帝国を興した。
 1251年、チンギス・カンの4男トルイの長男モンケ(1209-1259)が4代皇帝カアンに就く(2代オゴディから皇帝の意味のカアンが称号になる)。モンケは南宋転戦中に病死し、3男フレグはイランでイルハン朝を治めていたので、次男クビライ(1215-1294)と4男アリクブケ(1219-1266)が5代カアンを宣言してしまう。兄弟の骨肉の争いは古今東西よく起きる。1264年、アリクブケが降伏し、クビライが5代カアンとなる。
 クビライ(フビライと覚えたがクビライが原語に近いようだ)は根拠地だった正藍旗南部の町を「上都」に格上げし、夏の都とした。
 当時は更地だった現在の北京に冬の都である「大都」を建設する。大都造営は1267年から始まり、完成まで26年かかったそうだ。フビライ率いるモンゴル軍は上都と大都を夏冬ごとに走り抜けていたことになる。
 正藍旗はいまも遊牧が行われていて、パオの暮らしも見聞きできる。正藍旗に寄れば最初の希望と二番目の希望がかなう。いっそのこと正藍旗のツーリスト・パオに泊まろうということになった。
 上都~大都=北京は直線で300kmぐらいらしい。
 モンゴル軍は最短コースを走ればいいが、私たちは車で悪路を走り、途中、食事や宿泊があるので、フホホト~正藍旗≒650km、正藍旗~承徳≒360km、承徳~北京≒250kmのコースになった。
 正藍旗では草原を100kmほど走り回ったので、650+360+250+100=1360kmの走破になった。青森~岡山、鹿児島~東京がおよそ1360kmである。モンゴル族が西アジア、東ヨーロッパまで馬で走り抜けたのに比べれば、小さな挑戦のようである。


到着は25:00+真夜中の歌舞晩会
 朝9:00、8:00出発の予定より1時間遅れでフホホトのホテルを出発する。
 現地ガイドとの打ち合わせが長引いいたためである。ガイドは、北京までの走破の途中で外国人には通行許可が必要な区域があり許可を取るので苦労した、車を2台確保するので苦労したなどなどを理由に、料金の割り増しを言い出したのである。ガイドともめていては旅がおもしろくなくなる。昨晩のホテルのトラブルが気になるので、結論は北京に無事着いてから出すことにし、折り合った。
 10数人乗りのガタが来てそうなマイクロバス2台の前に私たちが乗り、後ろはスーツケースである。あとで、2台だったことに感謝する。あるいは現地旅行社は事態を予想していたのかも知れない。
 フホホトは埃っぽくて、空気が少しよどんでいる。車、馬車、自転車、人が混在するなかを、運転手は西に向かって忙しそうに走る。郊外に出るとグングンとスピードを上げる。
 フホホト~正藍旗は650km、時速65kmで10時間、時速80kmなら8時間かかる。予定表ではフホホト8時出発、正藍旗17:00歌舞晩会、1時間遅れの出発に運転手は気合いを入れているようだ。
 10:00ごろから低い山がぐーと近づく。表土がむき出しで、川筋だろうか、幾筋もひだひだにえぐれている。道の両側は大麦だろうか?、畑が広がっている。
 11:00ごろに町を通り抜ける。車は少なく、馬車が多くなる。道ばたのあちらこちらで人々が作業したり、談笑したり、くつろいだりしている。
 12:30ごろトイレ休憩、低い山並みが続いていて、山裾に民家が並ぶ。
 13:45に集寧の餐庁で昼食をとり、1時間ほど休憩する。たまに車が通るが、ほとんどが馬車である。


 16:30を過ぎたころから山が遠ざかり、平原が広がり出す。馬、牛、羊、山羊を多く見かける。やがて畑はほとんど見えなくなる。舗装された道路はいつの間にかぼこぼこの道になり、揺れがひどくなる。水たまりもあるようで、ときどき水をはねる。
 次第に薄暗くなる。日が落ちと右も左も前も後ろも闇になった。遠くに民家の灯りらしいのがかすかに見えるが、運転手は構わず走り続ける。まだ相当遠いらしい。真っ暗だと口数も少なくなる。携帯電話もナビもない時代、頼みの綱は運転手しかいない。運を天に任せる気分で、到着を祈る。
 到着予定から2時間以上過ぎた20:30ごろ、私たちが乗る車が泥の凹みにはまって動けなくなってしまった。みんなで車を押すが、タイヤが空回りするだけで凹みから出られない。後ろの車の運転手がロープでつないで引っ張り、合わせて車を押し、ようやく凹みから脱出できた。2台で走行するのは不測の事態への備えだったのかも知れない。
 凹みから出られて歓声を上げたが、難題が解決したわけではない。空に満天の星が輝くものの、地面は四方八方すべて闇である。どこが道路かも分からない。パオに着けるのだろうか、今夜はマイクロバスで夜を明かすことになるのだろうか、不安がよぎる。
 運転手はひたすらある方向に向かって走る。23:30ごろ、民家らしい灯りを見つけた運転手は、家人を起こして道を聞く。どうやら方向が少し違ったらしい。道路も定かではなく、真っ暗な闇を走るのだから、わずかな向きのミスでも大きな誤差になる。


 25:00少し前=夜中1:00少し前、はるか前方に灯りが見えた。疲れ切った運転手も安堵の声を出す。パオが並んでいる。運転手がクラクションを鳴らすと何人かが飛び出してきた。
 何とかたどり着いたことを喜び合いながら、泊まるパオを割り振り、スーツケースを運び込む。一息する間もなく、大きなパオに集合する。
 ツーリスト・パオの経営集団?は、ブルタラというらしい。ブルタラのホストが歓迎の挨拶をするあいだに皿に食事が並べられ、ホストが大きな骨付きの羊の肉を肩にあてて小さな刀でスライスし、羊肉をみんなに配る。
 眠気まなこの若い女性がとりどりの色の衣装を着て現れ、歌いながら踊りを披露する。これが予定表にあった歌舞晩会らしい。
 9時から25時まで悪路に揺られ続けているから、できれば横になって休みたい。しかし、ホスト側も歌と踊りつきの晩餐を供しなければ契約違反となりかねないのであろう。ほどほどのところで、ホストに大幅に遅れてしまったことを詫び、遅れたにもかかわらず熱烈な歌舞晩会を催してくれ十分に楽しんだ、疲れているし明日の予定もあるので休みたいと伝え、26:30ごろ=真夜中の2:30ごろ、散会にしてもらった。
 ツーリスト・パオの一隅にトイレ、シャワー、蛇口が並んでいる。歯を磨き、パオに戻ってあっという間に眠りに落ちた。
 (2023.2)

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