yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1995.9内蒙古正藍旗でパオに泊まる

2023年02月15日 | 旅行
<中国を行く>   1995.9 内蒙古正藍旗でパオに泊まる


クビライ・カアンの上都・正藍旗へ
 内蒙古自治区の省都フホホトはモンゴル語で、「青い城」の意味だそうだ。勝手な想像だが、ゴビで遊牧をしていたモンゴルの遊牧民がフホホトに来て、砂利混じりの短い草しかはえていないゴビに比べ、一面に広がる青々とした草原を見入って名付けたのではないだろうか。地名は、そこに住む民の思い入れを表すことが少なくない。モンゴルの遊牧民は、この草原で馬、羊、牛、山羊、駱駝の五畜に思う存分草を食べさせることができる、そう思った瞬間、「青い城」がひらめいたのではないだろうか。
 しかし、私たちが見たフホホトは高層ビルが建つ大都市で草原がない。王昭君の墳墓から見渡す郊外は畑だった。
 草がなければ遊牧風景も見られない。遊牧がなければ移動式テント式住宅のパオ(中国語=モンゴル語ゲル)は不要である。省都フホホトに草原も遊牧もパオもないことを予想し、事前に草原、遊牧、パオを見聞きできる場所を希望しておいた。
 もう一つ、やや無謀な希望も伝えた。それはフホホト→北京への走破である。
 1206年、チンギス・カン(1162?-1227?)はカラコルムを首都とした西アジア、東ヨーロッパに至るモンゴル帝国を興した。
 1251年、チンギス・カンの4男トルイの長男モンケ(1209-1259)が4代皇帝カアンに就く(2代オゴディから皇帝の意味のカアンが称号になる)。モンケは南宋転戦中に病死し、3男フレグはイランでイルハン朝を治めていたので、次男クビライ(1215-1294)と4男アリクブケ(1219-1266)が5代カアンを宣言してしまう。兄弟の骨肉の争いは古今東西よく起きる。1264年、アリクブケが降伏し、クビライが5代カアンとなる。
 クビライ(フビライと覚えたがクビライが原語に近いようだ)は根拠地だった正藍旗南部の町を「上都」に格上げし、夏の都とした。
 当時は更地だった現在の北京に冬の都である「大都」を建設する。大都造営は1267年から始まり、完成まで26年かかったそうだ。フビライ率いるモンゴル軍は上都と大都を夏冬ごとに走り抜けていたことになる。
 正藍旗はいまも遊牧が行われていて、パオの暮らしも見聞きできる。正藍旗に寄れば最初の希望と二番目の希望がかなう。いっそのこと正藍旗のツーリスト・パオに泊まろうということになった。
 上都~大都=北京は直線で300kmぐらいらしい。
 モンゴル軍は最短コースを走ればいいが、私たちは車で悪路を走り、途中、食事や宿泊があるので、フホホト~正藍旗≒650km、正藍旗~承徳≒360km、承徳~北京≒250kmのコースになった。
 正藍旗では草原を100kmほど走り回ったので、650+360+250+100=1360kmの走破になった。青森~岡山、鹿児島~東京がおよそ1360kmである。モンゴル族が西アジア、東ヨーロッパまで馬で走り抜けたのに比べれば、小さな挑戦のようである。


到着は25:00+真夜中の歌舞晩会
 朝9:00、8:00出発の予定より1時間遅れでフホホトのホテルを出発する。
 現地ガイドとの打ち合わせが長引いいたためである。ガイドは、北京までの走破の途中で外国人には通行許可が必要な区域があり許可を取るので苦労した、車を2台確保するので苦労したなどなどを理由に、料金の割り増しを言い出したのである。ガイドともめていては旅がおもしろくなくなる。昨晩のホテルのトラブルが気になるので、結論は北京に無事着いてから出すことにし、折り合った。
 10数人乗りのガタが来てそうなマイクロバス2台の前に私たちが乗り、後ろはスーツケースである。あとで、2台だったことに感謝する。あるいは現地旅行社は事態を予想していたのかも知れない。
 フホホトは埃っぽくて、空気が少しよどんでいる。車、馬車、自転車、人が混在するなかを、運転手は西に向かって忙しそうに走る。郊外に出るとグングンとスピードを上げる。
 フホホト~正藍旗は650km、時速65kmで10時間、時速80kmなら8時間かかる。予定表ではフホホト8時出発、正藍旗17:00歌舞晩会、1時間遅れの出発に運転手は気合いを入れているようだ。
 10:00ごろから低い山がぐーと近づく。表土がむき出しで、川筋だろうか、幾筋もひだひだにえぐれている。道の両側は大麦だろうか?、畑が広がっている。
 11:00ごろに町を通り抜ける。車は少なく、馬車が多くなる。道ばたのあちらこちらで人々が作業したり、談笑したり、くつろいだりしている。
 12:30ごろトイレ休憩、低い山並みが続いていて、山裾に民家が並ぶ。
 13:45に集寧の餐庁で昼食をとり、1時間ほど休憩する。たまに車が通るが、ほとんどが馬車である。


 16:30を過ぎたころから山が遠ざかり、平原が広がり出す。馬、牛、羊、山羊を多く見かける。やがて畑はほとんど見えなくなる。舗装された道路はいつの間にかぼこぼこの道になり、揺れがひどくなる。水たまりもあるようで、ときどき水をはねる。
 次第に薄暗くなる。日が落ちと右も左も前も後ろも闇になった。遠くに民家の灯りらしいのがかすかに見えるが、運転手は構わず走り続ける。まだ相当遠いらしい。真っ暗だと口数も少なくなる。携帯電話もナビもない時代、頼みの綱は運転手しかいない。運を天に任せる気分で、到着を祈る。
 到着予定から2時間以上過ぎた20:30ごろ、私たちが乗る車が泥の凹みにはまって動けなくなってしまった。みんなで車を押すが、タイヤが空回りするだけで凹みから出られない。後ろの車の運転手がロープでつないで引っ張り、合わせて車を押し、ようやく凹みから脱出できた。2台で走行するのは不測の事態への備えだったのかも知れない。
 凹みから出られて歓声を上げたが、難題が解決したわけではない。空に満天の星が輝くものの、地面は四方八方すべて闇である。どこが道路かも分からない。パオに着けるのだろうか、今夜はマイクロバスで夜を明かすことになるのだろうか、不安がよぎる。
 運転手はひたすらある方向に向かって走る。23:30ごろ、民家らしい灯りを見つけた運転手は、家人を起こして道を聞く。どうやら方向が少し違ったらしい。道路も定かではなく、真っ暗な闇を走るのだから、わずかな向きのミスでも大きな誤差になる。


 25:00少し前=夜中1:00少し前、はるか前方に灯りが見えた。疲れ切った運転手も安堵の声を出す。パオが並んでいる。運転手がクラクションを鳴らすと何人かが飛び出してきた。
 何とかたどり着いたことを喜び合いながら、泊まるパオを割り振り、スーツケースを運び込む。一息する間もなく、大きなパオに集合する。
 ツーリスト・パオの経営集団?は、ブルタラというらしい。ブルタラのホストが歓迎の挨拶をするあいだに皿に食事が並べられ、ホストが大きな骨付きの羊の肉を肩にあてて小さな刀でスライスし、羊肉をみんなに配る。
 眠気まなこの若い女性がとりどりの色の衣装を着て現れ、歌いながら踊りを披露する。これが予定表にあった歌舞晩会らしい。
 9時から25時まで悪路に揺られ続けているから、できれば横になって休みたい。しかし、ホスト側も歌と踊りつきの晩餐を供しなければ契約違反となりかねないのであろう。ほどほどのところで、ホストに大幅に遅れてしまったことを詫び、遅れたにもかかわらず熱烈な歌舞晩会を催してくれ十分に楽しんだ、疲れているし明日の予定もあるので休みたいと伝え、26:30ごろ=真夜中の2:30ごろ、散会にしてもらった。
 ツーリスト・パオの一隅にトイレ、シャワー、蛇口が並んでいる。歯を磨き、パオに戻ってあっという間に眠りに落ちた。
 (2023.2)

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2017.5向島百花園・勝海舟生誕地・吉良邸跡・回向院を歩く

2023年02月08日 | 旅行
<日本を歩く>  2017.5 向島百花園+勝海舟生誕地+吉良邸跡+回向院を歩く


 東京には都立文化財庭園が9園ある。これまで小石川後楽園、浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園、六義園、旧岩崎邸庭園、旧古河庭園を歩いた(一部、HP「東京を歩く」に紹介)。向島百花園はまだ訪ねていない。フジが見ごろの5月、晴れた平日に出かけた。
 東武スカイツリーライン・東向島駅から西に7~8分歩く。
 瓦葺き切妻屋根の薬医門手前で、シルバー70円の入園券を購入する。薬医門の先に、支柱2本の上に切妻屋根を乗せた簡素な棟門が出迎えている(写真)。
 花の愛好家が多いようで、賑わっていた。
 江戸時代文化・文政期(1804~1830、徳川11代家斉1787-1837の時代)、骨董商を営んでいた佐原鞠塢(きくう)が、旗本屋敷跡に、交遊のあった大田南畝(おおたなんぽ=蜀山人)、大窪詩仏(おおくぼしぶつ)、酒井抱一(さかいほういつ)、亀田鵬斎(かめだぼうさい)らの文人墨客の協力を得て、四季折々百花が乱れ咲くという意味の百花園を開園した。
 当初は梅が主だったが、中国の詩経や万葉集などの古典に詠まれている植物を集め、四季を通じて花が咲くようになったそうだ。
 花の案内板、パンフレットには、1月~スイセン、2月~フクジュソウ、ウメ、3月~キブシ、ミツマタなどなどに続き、11月~カラタチバナ、モミジと年間を通して花が紹介され、梅まつり、虫ききの会、萩まつりなども案内されていた。
 目当てのフジは満開である。きれいな藤色が大きく垂れ下がっていた(写真)。藤棚の下では、愛好家がカメラを構えパチリ、向きを変えパチリ、角度を変えパチリと撮っていた。
 広さはおよそ10900㎡だから、およそ104m×104mに相当する。旗本屋敷はこのぐらいの広さだったのだろうか。旗本屋敷の痕跡はない。
 入口側の植栽には、春の七草、夏の七草、秋の七草などが植えられている。中ほどに藤棚、葛棚、つる物棚、ハギのトンネルが設けられ、四阿もつくられている。奥に池が設けられ、ハナショウブ、ハンゲショウが植えられている。野鳥や昆虫も多いらしい。
 芭蕉を始めとする句碑があちらこちらに配置されていて、句碑を眺めながら庭園を回遊することができる。
 江戸時代の文人墨客は四季折々の花に集まり、酒や料理を楽しみ、歓談したのであろうが、都立文化財庭園で酒盛りするわけにもいかない。庭園をぐるりと回遊し、フジをもう一度眺め、百花園を出た。


 東向島駅から東武スカイツリー線でとうきょうスカイツリー駅へ行き、スカイツリーを見上げながら半蔵門線・押上駅まで歩き、半蔵門線の錦糸町駅で降りて、2016年に開館したすみだ北斎美術館を訪ねた(写真)。
 ところが開館間もないためか、北斎人気のためか、長蛇の列だった。並ぶのも待つのも苦手なので北斎は次の機会に棚上げすることにした。


 両国エリアマップを見ながら、両国公園を探す。両国公園は勝海舟生誕地で、公園を囲む塀に勝海舟(1823-1899)の功績が紹介されている(写真)。
 父は旗本で、幼名琳汰朗は7歳までここで暮らしたそうだ(のち本所入江町、次に赤坂に転居)。
 紹介には、勝海舟が幕末~維新でどのような活躍をしたかが簡潔に描かれていた。
 勝海舟は教科書でも習い、小説やテレビ番組でも取り上げられる。1860年、日米修好通商条約批准書交換のため遣米大使をのせた咸臨丸を勝海舟が指揮して渡米したこと、1868年、西郷隆盛と会談して江戸無血開城に導いたことなどはよく見聞きする。江戸から明治へと歴史が動く舞台の重要人物の一人である。
 ついでながら、西南戦争で西郷が亡くなったあと西郷の名誉回復に努め、上野公園の西郷像設置に尽力したのも勝海舟である。


 両国公園の少し西に、吉良上野介義央(1641-1703)の屋敷を偲ばせるなまこ壁、黒塗りの門の本所松坂公園がある(写真web転載)。園内には吉良上野介の首を洗ったとされる「首洗いの井戸」が残され、吉良上野介像が置かれている。
 吉良上野介は高家旗本4200石で、もともとは鍛冶橋に住んでいて、1698年の大火後に呉服橋に移り、1701年、播磨赤穂藩主・浅野内匠頭による松の廊下での刃傷事件が起きたあと、呉服橋の屋敷は没収され、本所松坂の現在地を拝領して移り住んだ。
 本所松坂の屋敷は東西73間≒約132m、南北34間≒62m、広さ2,550坪≒8,400㎡だったが、公園は屋敷跡のごく一部である。
 元禄15年12月(グレゴリオ暦1703年1月)、忠臣蔵として人形浄瑠璃、歌舞伎、小説、映画に取り上げられる赤穂浪士の討入りで、吉良上野介は命を落とす。本所松坂に住んだのは1年半ほどだが、1934年、地元有志が発起人になり吉良邸跡の一部を購入して、本所松坂公園の整備が進められた。
 吉良上野介は有職故実の家柄として幕府から重用されていた。徳川5代綱吉(1646-1709)のころである。三河(現愛知県西尾市吉良町)に吉良家の領地があり、吉良上野介は善政を行っていて領民に慕われていたそうだ。
 2016年3月に兵庫県赤穂を訪ね四十七士を祀る大石神社を参拝した。忠臣蔵は大石内蔵助を始めとする赤穂浪士の視点で描かれていて、忠臣蔵を何度も見聞きしていると赤穂浪士の討ち入りに肩入れしたくなるが、史実は違うかも知れない。
  
 吉良邸跡から西に少し歩くと回向院がある(写真web転載)。
 1657年の振袖火事と呼ばれる明暦の大火では、大名屋敷500棟、旗本屋敷770棟、町屋400町(400万㎡)が焼け、焼死者10万人といわれる被害になった。
 徳川4代家綱(1641-1680)は、隅田川の対岸に遺体を葬る無縁塚を築き、念仏堂を建立した。これが回向院の始まりで、正式名は諸宗山無縁寺回向院である。
 ・・ついでながら、明暦の大火後に火除け地をつくり水路網を整備するなどの江戸復興を主導したのは、2代秀忠の子で、3代家光の異母弟であり、4代家綱の補佐役だった会津初代藩主・保科正之(1611-1673)である・・。
 その後も水死者、焼死者、無縁仏が回向院に埋葬された。1855年に起きた直下地震の安政大地震で倒壊家屋16000、死者4700人といわれる被害が発生、このときも犠牲者が回向院に埋葬された。
 本尊阿弥陀如来を祀る浄土宗だが、宗派を問わず埋葬され、家綱の愛馬を供養したことから動物も埋葬されるそうだ。
 1768年から境内で勧進相撲が興行され、現在の大相撲の始まりになり、1909年に旧両国国技館が建てられた。


 向島、両国あたりには教科書に登場する歴史の舞台が多そうだ。歴史を思い出したり、新しい知見を得たりしながらウオーキングを楽しみ、帰路についた。 
 (2023.2)

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1995.9内蒙古フホホト ラマ仏教寺院+回教寺院を歩く

2023年02月05日 | 旅行
<中国を行く>  1995.9 内蒙古自治区フホホト ラマ仏教寺院・五塔寺+回教寺院・清真大寺を歩く


 フホホトにおける漢民族化は信仰にも影響を及ぼしていているらしく、モンゴル人民共和国では回復しつつあるラマ仏教が内蒙古自治区では影を潜めているようだ。フホホトをガイドしてくれたモンゴル人や、このあと北京まで1300kmを走るのだが、その間に出会ったモンゴル人はいずれもラマ仏教とは縁がないようだし、ラマ僧を一人も見かけなかった。
 ガイドにラマ仏教寺院・五塔寺に案内してもらった(写真)。正式には「金剛宝座舎利宝塔(ジンガンパオツオゥシェリパオター)」である。軒下にモンゴル語・チベット語・梵語の経文が刻まれている。モンゴル語もチベット語も梵語も私には紋様にしか見えず、ガイドの説明がなければ見落としてしまいかねない。
 五塔寺の周辺は煉瓦造の住まいが建て込んでいて、すでに寺院の形式は失われ、この建物だけが名所旧跡として残っている。


 金剛宝座は基壇の上に建っている。平面は凸型に正面が前に出ている。壁面には短い軒が七段あり、彫りの深い印象を与えている。近づくと、基壇には獅子や龍、鳳凰、竜車をイメージさせる彫刻、壁面には段と段のあいだにさまざまな姿をした仏像が刻まれている(写真)。仏像の総数は1119にも及ぶそうだ。七段の短い軒の出は、仏像を風雨から守る庇のようだ。
 中の階段を上ると、金剛宝座の上に出る。四隅に五層の塔、中央に七層の塔が建ち、その四方にも仏像が刻まれている。塔にも仏像を風雨から守る短い軒が出ている。
 下に降り、少し離れたところから見上げると、遠目では仏像の様子は分からないが、建物全体を取り巻いているいくつもの庇が陰影を作り出していて、庇の瑠璃瓦の鮮やかさと仏像が彫られている壁面の煉瓦色との対比がいっそう際だち、それが建物の角や入り口のアーチに利用されている白い石に縁どりされて、端正な形と躍動する動きを印象づける。


 建物の脇に入場券を売る店があり、中をのぞくと土産物がところ狭しと並んでいる。特にラマ仏教を思わせるような品はなく、フホホトの町中のみやげ物やと同じような品ばかりだったが、何故か羅盤(写真)がおいてあった。じっと見ていたら「買い得だよ」といった意味の声をかけられ、買うことにした。
 言い値の2/3ほどで折り合いをつけたのだが、値段より、羅盤がどうして店にあるのか不思議である。羅盤の裏には「健身・旅遊・娯楽、多効能轉盤」とある。五塔寺を訪れた中国人が昔を懐かしんで買っていくのだろうか。


 次に回教寺院・清真大寺に向かった。中国ではイスラム人を回族と表記する。回族は55の少数民族の一つで、中国各地をあわせると1000万人ほどのイスラム人が住んでいるらしい。
 イスラム人はイスラム教を拠り所としている。イスラム教は、アラビア半島メッカで生まれたムハンマド(570ごろ-632)に唯一神のアッラーが啓示したクルアーンの教えを信仰する宗教である。イスラム教が北アフリカ、西アジア、インド、東南アジアなどの民族国家を席巻し、その後イスラム教を国教とした国も多い。
 中国はアジアのイスラム教国家と友好同盟を結んだことはあるものの、イスラム教に政権を委ねたことは一度もない。
 回族が少数民族として認められるまでに力を持ち得た理由は、イスラム人が商いに長けていたことにありそうだ。中国から西アジアを経てヨーロッパに至るシルクロード交易が盛んであったことは教科書で習う。その背景には東北アジア~中央アジア~西アジアの砂漠・草原を自由に行き来する遊牧民がいた。彼等は馬やらくだを機動力として豊かな実りと草を求めて移動するうちに東の物資を西に、西の物資を東に運び富を得るようになった。東西の文化交流の始まりである。
 中国は国家形成の当初から中華思想をとっていたから、献上してくる民族には寛大である。イスラム人がイスタンブールをおさえてから、ヨーロッパやアフリカの名品、珍品がイスラム人の手を経ることになり、次第に回族が重視されるようになったのであろう。
 代わりに中国の誇る陶器の数々がイスラム人の手を経てヨーロッパ渡ることになる。その結果、中国で回族が重視され、各地にイスラム人が住み始めたのではないだろうか。


 イスラム人はどこに住もうともアッラーの神のもとに一つの集団を形成しようとする。イスラム教では日に5回、メッカに向かい礼拝を欠かさない。イスラム人の居住地では礼拝の場であるモスク、礼拝を呼びかけるためのミナレット、身を清めるための沐浴所がつくられた。


 フホホトのイスラム人は、933年ごろ、この地にモスクに相当する礼拝殿、ミナレットに相当する6角4階建ての塔、沐浴室などを建てた。当初は簡素だったらしい。
 清6代皇帝乾隆(1711-1799)は大勢のイスラム人をフホホトに移住させた。イスラム人が増えれば礼拝者が増え、寄進も増える。1693年ごろから建て替え、建て増しが始まった。
 1789年にも増改築が進められた。1869年に講堂が建てられ、1920年代に改修改築が行われ、1939年ごろ塔が建てられたそうだ。それが現在に残る回教寺院・清真大寺である。
 礼拝大殿=モスクは北東向きに建てられている(写真)。大殿の南北に講堂があり、大殿=モスクの裏に南向きの浴室、南西側にミナレットに相当する望月楼が建つ。
 イスラム教の礼拝はメッカに向かい、額を床につけて祈る。メッカはフホホトの南西になるので、清真大寺では大殿の南西壁に設けられたミフラーブ(=聖龕)に相当する祭壇に向かって礼拝が行われる(写真)。額を床につけるため、床に絨毯が敷かれる。
 建物は中国の伝統建築を基本に、イスラム教の装飾芸術を取り入れたつくりになっている。壁面など記されたアラブ文字は、イスラム教の聖典であるクルアーンの引用のようだ。
 1939年に建てられたミナレットに相当する望月楼は、高さ約36m、下層は六角型3層のレンガ造で、頂部にはイスラム教のシンボルである三日月と星がかたどられているが、屋根の軒先は中国の伝統建築のように反り上がっている(写真)。
 内部にらせんの梯子が設けてあり、礼拝の呼びかけ人であるムアッジンが最上階に上り、礼拝を呼びかけるアザーンを発する。
 
 トルコ・イスタンブールのスルタン・アフメッド・ジャミー、別名ブルーモスクに代表される回教寺院モスクは、石造のドーム建築である。雨が降らない、木材が少なく石材が豊富、ドームは音響効果が高いなどの理由で、ドーム建築が発展した。
 対して、漢民族の伝統建築では、雨が多い、木材が豊富、風水思想、儒教思想で、木骨煉瓦積みの建物に瓦葺き切妻屋根、四合院形式が発達した。中国に住み始めたイスラム人は、中国の伝統建築を基本にイスラム様式を取り入れ、独特の回教寺院をつくりだしたようだ。
 礼拝大殿正面の壁時計はムハンマドが息を引き取った時間のまま止めてある。彼等にとって信仰は空間と時間を超えた意思の集まりであり、様式の漢化は些細なこと、そう訴えているように感じた。 
 (2023.2加筆修正)

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1995.9内蒙古フホホト 王昭君を想う

2023年02月02日 | 旅行
<中国を行く>  1995.9 中国・内蒙古自治区フホホト 王将君を想う


 1993年8月にモンゴル人民共和国のゴビ砂漠に暮らす遊牧民の住まい=ゲル(中国では包パオbaoと呼ぶ)を訪ねた。
 ゴビ(モンゴル語govi中国語=戈壁gebi)は、沙漠、乾燥した土地、礫が広がる草原の意味なので、日本語のゴビ砂漠は二重表現になるので、日本ではゴビ砂漠が一般的だが本文ではゴビと表記する。
 モンゴル人民共和国では長く宗教が抑圧されていて最近ようやく信仰の自由が回復したのだが、彼らがチベットで広く信仰されているラマ仏教を信じていることの不思議と、出自の同じモンゴル族が現在はモンゴル人民共和国中国・内蒙古自治区の異なった歴史を辿っていて、どのような生活文化の差異が生じたのだろうかという疑問を抱いた。
 願望にしろ、疑問にしろ、それが強ければ強いほど、時間の経過にかかわらず気持ちのなかに消えることなく沈殿し続け、ある時、机の引き出しをあけて書類を探していたら隅のほうからすっかり忘れていた昔の写真が出てきて一瞬そのころの情景が体を包みこんでしまうように、願望や疑問が何かのきっかけで燃え上がり、いても立ってもいられないほど思いをつき動かすことがある。もっとも、大概の場合、きっかけになった何かは些細なことが多く、あとでいくら思い出そうとしても思い出せないことが少なくない。
 今回もきっかけはまったく思い出せないのだが、ともかく内蒙古自治区=内モンゴルへ行くぞ!、の気持ちがふつふつと燃え始め、1995年9月、中国・内蒙古自治区を目指した。


 第1日目、成田空港15:30発のCA便に搭乗、18:30過ぎ北京空港に着く。中国人留学生S君と合流する。S君は帰国まで私たちの通訳をしてくれ、不勉強な私たちにガイドもしてくれた。さかのぼって感謝申し上げる。
 21:30過ぎ、北京空港発のCA国内便に搭乗、22:40ごろフホホト空港に着く。タクシーで中国旅行社が手配してあったフホホト中心街のホテルに着くと、なんと!!、満室で私たちの部屋がない。S君が現地旅行社に連絡し、フロントとすったもんだの末、別のホテルに泊まることになった。海外旅行では突発事項が少なくない。
 最初に不測の事態が起きてしまえば、あとは少々の出来事でも何とか乗り切れる、終わりよければすべてよしの構えがいい。
 明日の準備をし、シャワーを浴び、ビールを飲み、夜中1:30ごろ、なんとなく湿り気を感じるベッドに入る。
 2日目朝、ホテルから呼和浩特(フホホト)の中心街を見下ろす(写真)。格子状の道路で整然と区画され、高層ビルも散見される。内蒙古=内モンゴルは砂漠が広がっていると勝手にイメージしていたが、少なくとも省都フホホトは大都市である。


 モンゴル族はもともとシベリアが森林だったころ森の民として半定住生活をしていて、ツンドラの南下に追われ、ゴビ一帯に民族移動したといわれている。歴代中国王朝が周辺諸国に勢力を拡大するたび、北方では漢民族と遊牧民との衝突が発生した。
 農業を背景とする漢民族にとって、土は掘り起こし耕して米や麦、野菜を作り出す基盤であり、雑草は農業の敵で、根こそぎ取り除こうとする。ところが遊牧は雑草が頼りで、家畜が草を食べ終わったら自然に回復するまで、次の草地に移動する。もし、根こそぎ草を抜かれたら遊牧は成り立たない。
 遊牧民農耕民との死ぬか生きるかの闘いが始まるのは当然といえば当然なのである。
 漢王朝が遊牧民との和睦のためモンゴル族に嫁がせた元帝の后、王昭君の墳墓がフホホトの郊外にある(次頁上写真web転載)。ここにのぼってまわりを見渡すと一面が畑に開拓されていて、漢民族からみれば王昭君の苦労が十分に報われていることが実感できる(中写真)。
 王昭君は古代中国の四大美女として登場する一人である(下写真web転載、旅立の場面)。
 前漢の元帝は匈奴(キョウド)の呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)と和睦をすすめるため、呼韓邪単于に妃を送ることになった。宮廷の妃達は元帝の寵愛を得るため画家に実際より美人な似顔絵を描かせていたそうだが、王昭君は相当の美人だったため妃達の策略で似顔絵は不美人に描かれてしまった。
 元帝は、呼韓邪単于に送る妃を似顔絵で決めたため、不美人に描かれた王昭君が選ばれてしまう。旅立ちの日、いとまの挨拶に来た王昭君を見て元帝はその美しさに声を失い地団駄踏んだといわれる。ときに紀元前33年のことである。
 呼韓邪単于に嫁いだ王昭君は一男を授かり、呼韓邪単于の死後は、当時の匈奴の習慣により義理の息子と結婚し、二女を設けたそうだ。以来、悲劇の美女として伝説化された。


 王昭君の墳墓は、その後、博物館が建ち、民家が再現されるなど、整備が進んだそうだ。悲劇の王昭君は現代にあっては観光の対象となった。いまや王昭君の悲劇を辿るのは難しそうだ。
 王昭君の墳墓から眺めた一面の畑からも内モンゴルでは着実に漢民族の文化が定着していることがうかがえる。 
(2023.1加筆)

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2023.1小田切和寛 ジャズ・トリオコンサート

2023年02月01日 | 旅行
<日本を歩く>  2023.1 小田切和寛 ジャズ・トリオコンサート


 さいたま市プラザノースで定期的に開催されるノース・ティータイム・コンサートvol.27は、「小田切和寛 ジャズ・トリオコンサート」である。
 生のジャズ演奏を聴くのは、1960年ごろ自由が丘のファイブスポットに何度か出かけたのと、1990年ごろ上海・和平飯店で上海老年爵士楽団のオールドジャズを聴いて盛り上がって以来である。
 ノース・ティータイム・コンサートは45分間の演奏でいつも物足りなく感じるが、言い換えれば、空腹感が残る方が次の食事が楽しみになるのと似て、次のコンサートが待ち遠しくなる。
 昼間の45分間、当然、お酒を飲みながらというわけにはならないが、気分転換、心身の刺激、ファイブスポットと上海老年爵士楽団の思い出などなどを期待し、出かけた。
 ほぼ満席である。中高年は区内、市内の人のようだ。若者のグループもいる。ジャズファンかも知れない。


 舞台中央にベースの寺尾陽介、右にドラムスの小田切和寛、左にピアノの兼松衆が並び、小田切氏が時間いっぱい演奏するので話は短くと挨拶し、さっそく演奏が始まった。
 1曲目はビートルズのブラックバード、2曲目は盛大な拍手で曲名を聞き漏らし、3曲目がコール・ポーターのソー・イン・ラブだった。
 自分の周りにぐるりと太鼓を並べて演奏する小田切氏の熱気が、最後列の席まで伝わってくる。
 4曲目はワンス・アポン・ア・タイム、曲名を聞き漏らした5曲目の演奏はすでに45分を大きく過ぎていた。
 曲ごとに大きな拍手に包まれ、小田切氏や寺尾氏、兼松氏の話がかき消されそうだ。
 予定の演奏が終わったのは50分過ぎになっていたが、鳴り止まない拍手に3人が再登場し、小田桐氏作曲のオータム・マウンテンを演奏してくれた。
 
 昔聴いたファイブスポット、上海老年爵士楽団とは趣が違うが、気持ちを熱くしてくれた。
 元気な足取りで帰宅し、夕食時にジャズ・トリオコンサートを思い出しながらワインを傾けた。
 2月のピアノリサイタルもチケット購入済みである。待ち遠しいね。
  (2023.1)

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