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2017.5向島百花園・勝海舟生誕地・吉良邸跡・回向院を歩く

2023年02月08日 | 旅行
 2017.5 向島百花園+勝海舟生誕地+吉良邸跡+回向院を歩く


 東京には都立文化財庭園が9園ある。これまで小石川後楽園、浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園、六義園、旧岩崎邸庭園、旧古河庭園を歩いた(一部、HP「東京を歩く」に紹介)。向島百花園はまだ訪ねていない。フジが見ごろの5月、晴れた平日に出かけた。
 東武スカイツリーライン・東向島駅から西に7~8分歩く。
 瓦葺き切妻屋根の薬医門手前で、シルバー70円の入園券を購入する。薬医門の先に、支柱2本の上に切妻屋根を乗せた簡素な棟門が出迎えている(写真)。
 花の愛好家が多いようで、賑わっていた。
 江戸時代文化・文政期(1804~1830、徳川11代家斉1787-1837の時代)、骨董商を営んでいた佐原鞠塢(きくう)が、旗本屋敷跡に、交遊のあった大田南畝(おおたなんぽ=蜀山人)、大窪詩仏(おおくぼしぶつ)、酒井抱一(さかいほういつ)、亀田鵬斎(かめだぼうさい)らの文人墨客の協力を得て、四季折々百花が乱れ咲くという意味の百花園を開園した。
 当初は梅が主だったが、中国の詩経や万葉集などの古典に詠まれている植物を集め、四季を通じて花が咲くようになったそうだ。
 花の案内板、パンフレットには、1月~スイセン、2月~フクジュソウ、ウメ、3月~キブシ、ミツマタなどなどに続き、11月~カラタチバナ、モミジと年間を通して花が紹介され、梅まつり、虫ききの会、萩まつりなども案内されていた。
 目当てのフジは満開である。きれいな藤色が大きく垂れ下がっていた(写真)。藤棚の下では、愛好家がカメラを構えパチリ、向きを変えパチリ、角度を変えパチリと撮っていた。
 広さはおよそ10900㎡だから、およそ104m×104mに相当する。旗本屋敷はこのぐらいの広さだったのだろうか。旗本屋敷の痕跡はない。
 入口側の植栽には、春の七草、夏の七草、秋の七草などが植えられている。中ほどに藤棚、葛棚、つる物棚、ハギのトンネルが設けられ、四阿もつくられている。奥に池が設けられ、ハナショウブ、ハンゲショウが植えられている。野鳥や昆虫も多いらしい。
 芭蕉を始めとする句碑があちらこちらに配置されていて、句碑を眺めながら庭園を回遊することができる。
 江戸時代の文人墨客は四季折々の花に集まり、酒や料理を楽しみ、歓談したのであろうが、都立文化財庭園で酒盛りするわけにもいかない。庭園をぐるりと回遊し、フジをもう一度眺め、百花園を出た。


 東向島駅から東武スカイツリー線でとうきょうスカイツリー駅へ行き、スカイツリーを見上げながら半蔵門線・押上駅まで歩き、半蔵門線の錦糸町駅で降りて、2016年に開館したすみだ北斎美術館を訪ねた(写真)。
 ところが開館間もないためか、北斎人気のためか、長蛇の列だった。並ぶのも待つのも苦手なので北斎は次の機会に棚上げすることにした。


 両国エリアマップを見ながら、両国公園を探す。両国公園は勝海舟生誕地で、公園を囲む塀に勝海舟(1823-1899)の功績が紹介されている(写真)。
 父は旗本で、幼名琳汰朗は7歳までここで暮らしたそうだ(のち本所入江町、次に赤坂に転居)。
 紹介には、勝海舟が幕末~維新でどのような活躍をしたかが簡潔に描かれていた。
 勝海舟は教科書でも習い、小説やテレビ番組でも取り上げられる。1860年、日米修好通商条約批准書交換のため遣米大使をのせた咸臨丸を勝海舟が指揮して渡米したこと、1868年、西郷隆盛と会談して江戸無血開城に導いたことなどはよく見聞きする。江戸から明治へと歴史が動く舞台の重要人物の一人である。
 ついでながら、西南戦争で西郷が亡くなったあと西郷の名誉回復に努め、上野公園の西郷像設置に尽力したのも勝海舟である。


 両国公園の少し西に、吉良上野介義央(1641-1703)の屋敷を偲ばせるなまこ壁、黒塗りの門の本所松坂公園がある(写真web転載)。園内には吉良上野介の首を洗ったとされる「首洗いの井戸」が残され、吉良上野介像が置かれている。
 吉良上野介は高家旗本4200石で、もともとは鍛冶橋に住んでいて、1698年の大火後に呉服橋に移り、1701年、播磨赤穂藩主・浅野内匠頭による松の廊下での刃傷事件が起きたあと、呉服橋の屋敷は没収され、本所松坂の現在地を拝領して移り住んだ。
 本所松坂の屋敷は東西73間≒約132m、南北34間≒62m、広さ2,550坪≒8,400㎡だったが、公園は屋敷跡のごく一部である。
 元禄15年12月(グレゴリオ暦1703年1月)、忠臣蔵として人形浄瑠璃、歌舞伎、小説、映画に取り上げられる赤穂浪士の討入りで、吉良上野介は命を落とす。本所松坂に住んだのは1年半ほどだが、1934年、地元有志が発起人になり吉良邸跡の一部を購入して、本所松坂公園の整備が進められた。
 吉良上野介は有職故実の家柄として幕府から重用されていた。徳川5代綱吉(1646-1709)のころである。三河(現愛知県西尾市吉良町)に吉良家の領地があり、吉良上野介は善政を行っていて領民に慕われていたそうだ。
 2016年3月に兵庫県赤穂を訪ね四十七士を祀る大石神社を参拝した。忠臣蔵は大石内蔵助を始めとする赤穂浪士の視点で描かれていて、忠臣蔵を何度も見聞きしていると赤穂浪士の討ち入りに肩入れしたくなるが、史実は違うかも知れない。
  
 吉良邸跡から西に少し歩くと回向院がある(写真web転載)。
 1657年の振袖火事と呼ばれる明暦の大火では、大名屋敷500棟、旗本屋敷770棟、町屋400町(400万㎡)が焼け、焼死者10万人といわれる被害になった。
 徳川4代家綱(1641-1680)は、隅田川の対岸に遺体を葬る無縁塚を築き、念仏堂を建立した。これが回向院の始まりで、正式名は諸宗山無縁寺回向院である。
 ・・ついでながら、明暦の大火後に火除け地をつくり水路網を整備するなどの江戸復興を主導したのは、2代秀忠の子で、3代家光の異母弟であり、4代家綱の補佐役だった会津初代藩主・保科正之(1611-1673)である・・。
 その後も水死者、焼死者、無縁仏が回向院に埋葬された。1855年に起きた直下地震の安政大地震で倒壊家屋16000、死者4700人といわれる被害が発生、このときも犠牲者が回向院に埋葬された。
 本尊阿弥陀如来を祀る浄土宗だが、宗派を問わず埋葬され、家綱の愛馬を供養したことから動物も埋葬されるそうだ。
 1768年から境内で勧進相撲が興行され、現在の大相撲の始まりになり、1909年に旧両国国技館が建てられた。


 向島、両国あたりには教科書に登場する歴史の舞台が多そうだ。歴史を思い出したり、新しい知見を得たりしながらウオーキングを楽しみ、帰路についた。 
 (2023.2)

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