book562 遊戯神通 伊藤若冲 河治和香 小学館 2016
23 明和辛卯
美以は、鬼鳥に貰った古裂の花鳥画を版に起こして摺ってみようと試す。それを見た若冲は、自分が女に与えた花鳥画と分かったはずだが何も言わず、浮世絵版画の彩色法である合羽摺を勧める。美以は背景の黒を浮世絵の手法の馬連で摺ってみると、漆黒の闇に花と鳥がはっきりと浮き上がる友禅の図案のような花鳥画6枚ができあがった。
若冲はよくできたと誉め、美以に長崎の唐人屋敷で会った女のことを打ち明ける。美以は、若冲が江戸に立つ前に(直訴して死罪になる前に)この花鳥画を島原の鬼鳥に届けるよう懇願する。
錦市場の再開が許され、市場再開の理由がいくつか挿入され。
鬼鳥に会いに行った若冲は、いったん枡源に戻って身請けの金を集めて住吉楼を訪ねたが、その間に鬼鳥は消えていた。若冲は、鬼鳥の髪の束が残されていて、老婆=お鈴が鬼鳥は首をくくったと話したことを美以に伝える。
美以は身重の体で住吉楼に行き、お鈴から鬼鳥が生きているが格下の郭の中書島に移ったこと、石摺は女の黒髪をタンポにするときれいに摺り上がるので鬼鳥が髪束を残したことを聞く。それを聞いているうち美以は産気づき、枡源に蔬菜を納めている壬生の農家で男の子を産む。
生まれた子は宗右衛門そっくりで、若冲は赤子を抱いて泣き、命名書に「命名 清房 伊藤若冲 孫」と記した。
24 屏風祭
若冲は、臨済宗の相国寺と離れ、黄檗宗の萬福寺で出家する。
美以には友禅の工房から注文が途切れなく来るようになる。さらに若冲の絵を下図にした着物の図案も描き、その注文も来て、西陣では若冲の絵を織物に織り上げ評判になる。
美以は織物をヒントに、若冲の絵を枡目に起こして枡目に色をつけたところ新たな絵ができあがった。若冲が白と黒を基調にした象たちの群獣図を描き、美以が枡目に写して色をつけた枡目描きの群獣図を屏風祭で飾った。それが評判になり、六曲一双の屏風絵の注文が来た。
若冲は屏風一つに縦300本、横140本の枡目を書く。300×140=42000、一双なので、左右で84000の枡になる。仏教では84000の煩悩画あると言われている。若冲の指示に従って84000の煩悩を大勢が塗り潰していくと、白象や動物たち、草花の咲き乱れる極楽のような屏風ができあがりたいへんな評判になった。
屏風祭の日、祇園囃子のなかを若冲は清房を真ん中に美以と歩く。美以は宗右衛門を思い出し、悲しむ。
天明8年(1788)深草 石峰寺
25 大火
天明8年1月、大火が京の町を襲う。若冲は清房を背負い、美以の手を引き、相国寺を目指して逃げる。相国寺にも火が迫ってきたので、船岡山に逃げる。美以は砂糖鳥の瑠璃を懐に、枡屋の先祖の位牌を背負って逃げた。大火は二晩かけて京都を焼き尽くす。若冲、美以は相国寺の動植綵絵が気になる。
26 鶏と仙人掌
相国寺に寄進した動植綵絵は経典などといっしょに運び出されていて無事だったが、若冲は意気消沈していた。大坂から吉野五運が来て、気分転換にと五運の檀那寺である摂津・西福寺の襖絵の仕事を若冲に頼む。
西福寺に出かける若冲を近郊の農家が荷車で運んでくれ、若冲がお礼に布袋の絵を描いて渡す。その話が広まり、米一斗で若冲の絵と交換する人があとを絶たなくなる。
西福寺の襖絵ができあがったので、美以が清房と襖絵を見に行く。若冲の得意とした鶏の図で、背景は一面の金、マラカイトをふんだんに使った緑鮮やかな仙人掌のなかに雄鳥、雌鳥、ひよこの家族が闊歩している(仙人掌群鶏図、西福寺蔵、web転載)
襖の裏側には黒白で、荒涼とした蓮池が描かれていた。蓮の花は一つだけで、あとは萎れ、枯れている。美以は、襖絵から人生の黄昏時の矜恃に満ちた雄々しさと枯れる前のうら寂しさを感じとる。
27 遊戯神通
若冲は伏見の石峰寺に居を移し、石仏の絵を描き、喜捨された金で石工に石仏を作らせる。大勢が石仏を喜び、喜捨する人が次々に訪れ、石仏が増えていった。
美以が大事にしていた砂糖鳥の瑠璃が死ぬ。美以は髪を下ろして尼になり、心寂と名乗り、清房を白歳夫婦に任せ、石峰寺に移る。
石峰寺を文人の皆川淇園が画家の円山応挙、呉春と若冲を訪ねたとき、遊戯神通(ゆげじんづう)の扁額がかかっていたと記している。遊戯神通とは、仏教用語で、遊び戯れるが如く人々の救済を楽しむという意味である。若冲の願いが込められている。
若冲は創作意欲が衰えることなく、1800年、83歳、石峰寺で没す。心寂尼は若冲の妹として石峰寺で暮らし、一生を全うする。
Ⅲ幕 その後 横浜 日本郵船本社 そして、目白 椿山荘
28 燕の行方
Ⅱ幕は、極子が雪佳と玉菜に語った清房から聞いた美以の話で、極子は、清房は年をとってから青い目になった、鬼鳥の血筋かと付け加える。
雪佳が手土産の木版摺の図案集「蝶千種」を差し出すと、玉菜はその一図を柄にして着物をこしらえたと話し、それを聞いて極子は引出にしまってあった若冲の描いた群燕図の断片を出し、雪佳に渡す。金比羅宮の襖絵に描いた若冲の群燕図の痛みが激しいので描き直されたが、そのとき燕を一枚ずつ切り離し、その何羽かが極子に届けられたそうだ。
極子の隠居所を出た雪佳は石峰寺に向かう。途中、石峰寺の若冲が描いた天井画は廃仏毀釈の折に売りに出されたが、信行寺の信徒が買い取って信行寺に寄進し、信行寺の天井画になったなどを玉菜に話す。
玉菜と別れ、石峰寺の山門をくぐった雪佳は遊戯神通の扁額を見つけ、若冲に思いを馳せる。寺の裏山はうっそうとした竹林になっていて、若冲の石仏がひしめいていた。山を抜けた先に若冲の墓があった。雪佳は、若冲はここから西方浄土を眺めていたに違いないと思う。
29 ライトと五葉
大正8年1919年、雪佳は間もなく日本郵船を退社する三原繁吉に誘われ本社を訪ねる。三原は、セントルイス万博の若冲の間はアメリカでだいへんな評判になり、若冲ブームが起きたと話す。
三原の部屋には、若冲の版画をもとに作らせた漆黒の闇に砂糖鳥が木立に止まっている木版画が飾られていた。花鳥版画の元図は6枚あり、背景の黒は艶のない漆黒で木版、色の部分が合羽摺と手が込んでいる。
三原が詳しいので雪佳が驚くと、三原は夏目漱石の「吾輩は猫である」の装丁などで脚光を浴びた橋口五葉のパトロンで、三原が浮世絵を買い集め、五葉に調べさせたそうだ。五葉は浮世絵研究家としても知られた。
花鳥版画の元図6枚はフランク・ロイド・ライトがシルスビー設計事務所に努めたとき浮世絵=woodprintと思って気に入り、シルスビーを退社するときにもらい受け、その後、浮世絵を蒐集しているうちに本来の浮世絵との違いが気になり、花鳥版画6枚を三原に譲り、三原が五葉に調べてもらったということらしい。
三原は、その花鳥版画を見てセントルイス万博若冲の間を発想し、そのころ川島織物も若冲の絵に目をつけていて、三原の持ち込んだセントルイス万博若冲の間の綴れ織りの壁飾り=タペストリー製作に発展したが、残念ながら、そのタペストリーは船火事ですべて焼けてしまったと話す。
30 椿山荘
橋口五葉が急逝し、五葉の遺品から大量の裸体画のデッサンが発見される。モデルは若冲末裔の伊藤実以子こと芸者玉菜である。玉菜は藤田傳三郎と別れたあと芸者に戻り、五葉のモデルになったようだが、その後の消息は不明である。
雪佳は椿山荘と名づけられた藤田家の別邸を訪れたとき、若冲の石仏に出会う。藤田傳三郎は山県有朋からこの別邸を譲り受け、綱島御殿に置かれていた若冲の石仏を別邸に移したらしい。
ここで物語は幕となる。
Ⅱ幕の美以が語る若冲物語は生き生きしていて引き込まれた。鬼鳥、宗右衛門、美以、清房を登場させ、まるで実話のような展開は河治氏の構想力、筆裁きの力であろう。
川島織物とセントルイス万博若冲の間、ライトと浮世絵、椿山荘の石仏などなど、見覚え、聞き覚えがあったが見方、聞き方が浅く、河治氏から新たな知見を教えられた。
動植綵絵を思い出しながら、気持ちよく読み終えた。 (2024.2)
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