2009.9 バルト3国の旅 ラトビア2 バロック様式のルンダーレ宮殿
国境検問所を過ぎて数分後、車はA12号線から右の支線に曲がる。果樹園の風景に変わった。リンゴ園のようだ(写真)。ほどなく、大きな館の前で車が止まり、ドライバーがルンダーレと指さす。
バルト3国の旅はフリープランで、リトアニアの首都ビリニュス→ラトビアの首都リガ→エストニアの首都タリンの移動と、それぞれ3泊の予定で、移動は現地ドライバーによる乗用車、ガイドはいないが、途中のよく知られた観光地に立ち寄る行程である。
ルンダーレ宮殿Rundales pilsも途中の観光地の一つである。
14:30ごろ、ドライバーにはおよそ1時間後に駐車場で会うことにして、車を降りる。宮殿の門は開いていて、門柱の上のライオンがにらみを効かしているが、近くに受付は見当たらない(写真)。がっしりしたロシア人?のカップルにすれ違ったが、ほかに人影がない。おそるおそる門を抜け、前庭に入る。
・・2020.3にこの紀行文をまとめようとwebを調べたら、たいへん人気の観光地になっていた。前庭を東棟、南棟・西棟で囲んだ宮殿と南の庭園を俯瞰した写真も見付けた(web転載)。
宮殿は2階建てで、総部屋数は138もあるそうだ。写真左手にも北庭が広がり、水路が巡っていて、駐車場は水路のさらに左に位置し、いまは駐車場→水路→受付棟→北庭→門→前庭とアクセスするらしい。2009年当時の私たちは前庭まで車で入り、門の前で車を降りたようだ。
ルンダーレ宮殿はビロンの野望
ルンダーレ宮殿は、クールラントKurland(ドイツ語)生まれのバルト・ドイツ人エルンスト・ヨハン・ビロンErnst Johann von Biron(ドイツ語、1690-1772)の宮殿として1736年に着工、工事中断後の1768年に完成した。
クールラントは、現在のラトビア西部地方になり、ラトビア語ではクルゼメKurzemeと呼ばれ、その当時はロシア領だった。
・・12km西のクールラント=クルゼメ公国の中心都市イェルガヴァにも宮殿Jelgava palaceが同時に建てられたから、当時のビロンの権勢がうかがえる・・。
ビロンはもともと貧しく、一旗揚げようと画策し紆余曲折の末、クールラント公未亡人アンナ・イヴァノヴァ(1693-1740)の愛人になる。アンナが1730年、ロマノフ朝第4代ロシア皇帝に就くと、ビロンは侍従長でロシア帝国伯爵に出世し、1736年にはクールラント公に就く。ビロンはさっそく宮殿建設に着手する。
成り上がりのビロンに敵は多く、アンナが没すると同時に捕らわれ、シベリアに永久追放になる。財産もすべて没収され、宮殿の工事は中断する。
1762年、ピョートル3世(1728-1762)がロマノフ朝第7代ロシア皇帝に就く。ピョートル3世は親ドイツ派で、ビロンを呼び戻す。親ドイツ派への反発は強く、同年、ピョートル3世の皇后だったエカテリーナ(1729-1796)がクーデターを起こし、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝に就く。
エカテリーナは、73才のビロンなら無害と1763年にクールラント公に復帰させる。ビロンは1764年に宮殿工事を再開させた。20年以上シベリアに追放され苦難のどん底を経験したビロンの栄華の夢は、1736年の着工から32年後の1768年にかなうことになる。
ルンダーレ宮殿の設計はロシア・バロック様式のラストレッリ
ルンダーレ宮殿、イェルガヴァ宮殿とも設計はイタリア生まれのバルトロメオ・ラストレッリBartolomeo Rastrelli(イタリア語、1700-1771)である。
ラストレッリは1715年に父とロシア帝国に移り、20才を過ぎたころから宮殿の設計を依頼され、30才のころから宮廷建築家として初期の冬宮殿(1733、のちに解体)、夏宮殿(1741、のちに解体)や、ビロンの依頼した宮殿などの設計を手がけた。
ラストレッリ以前の17世紀、ロシアでは伝統的なロシア建築にバロック様式を導入したモスクワ・バロック様式が流行していた。ラストレッリは、モスクワ・バロック様式にイタリア・バロック様式を融合させたロシア・バロック様式を定型化させた。
1752年、サンクトペテルブルク郊外のエカテリーナ宮殿、1753年にはサンクトペテルブルクの冬宮殿(写真、1999.8訪問、現在のエルミタージュ美術館本館)など、数多くのロシア・バロック様式を残している。
その結果、ルンダーレ宮殿はバルトのベルサイユともいわれるバロック様式の豪華さが表現されている(前掲写真)。
ただし、エカテリーナはロココ様式の派手やかさが好みだったようで、後にラストレッリら年配の建築家、技術者を解雇したそうだ。
ルンダーレ宮殿の着工はビロン46才のころで飛ぶ鳥の勢いの絶頂期、ラストレッリは36才のころで次々と宮殿の設計を手がけた絶頂期、二人とも絶頂期だから外観にはロシア・バロック様式の壮麗さがあふれている。
時が経ち、竣工はビロン78才のころ、ラストレッリ68才のころ、二人とも晩年で壮麗さを追い求める年ではない。にもかかわらず、内装はロココ様式の華麗さで埋め尽くされている(後述写真)。
ビロン家はその後も続き、1795年にクールラントがロシア帝国に併合されたあとビロン家はプロイセン王国に領地を得、プロイセン上級貴族に加えられたそうだから、派手やかなロココ様式は権勢を見せつけ、貴族として残り続けるための戦術だったかも知れない。
続く(2020.3)