ハリス・日米通商修好条約
1856年、オランダ人ヘンリー・ヒュースケン(1832-1861)を通訳兼書記官として雇った、タウンゼント・ハリス(1804-1878)がアメリカ総領事として下田に来航する。
ハリスは玉泉寺を総領事館とし、通商条約の協議を始める。ハリス、ヒュースケンに、身の回りを世話する出仕女性としてそれぞれお吉、お福が任じられる。・・のちに創作が加わりお吉物語として語られた・・。
1857年、ハリスはヒュースケンを伴い江戸に上り、通商条約を迫り、1858年、大老・井伊直弼の(1815-1860、桜田門外で暗殺される)決断で、「日米通商修好条約」「貿易章程」が調印される。
下田総領事館は閉鎖され、元麻布・善福寺に公使館が置かれる。・・当時のアメリカ大統領は15代ジェームズ・ブキャナン(1791-1868、任期1857-1861)、16代エイブラハム・リンカーン(1809-1865、任期1861-8165)・・。
日米通商修好条約に続き、イギリス、フランス、ロシア、オランダと修好条約が結ばれ、1859年、修好条約に基づき箱館、横浜、長崎、兵庫、新潟が開港され、それぞれに外国人居留地が設けられた。
1861年、通訳・書記官ヒューストンが切られ、命を落とす。・・ハリス襲撃未遂事件も起きている。
1862年、初代公使のハリスが帰国、2代公使としてロバート・プルイン(1815-1882、任期1862-1865)が着任する。
元麻布・善福寺の公使館で火災が起き、1863年、アメリカ公使館は横浜居留地に移る。・・1874年、築地に外国人居留地がつくられ、アメリカ公使館は築地居留地に移る。
1853年に黒船が来航し、1854年に下田港が開港され了仙寺と玉泉寺がアメリカ人休息所に指定され、1856年のハリス着任で玉泉寺が総領事館となり、1858年に総領事館が閉鎖されるまで、足かけ5年間、下田は激動の歴史の渦中に置かれたことになる。資料の行間からも、驚きながらも善意で対処してきた苦労がうかがえる。
プチャーチン・日露和親条約・日露修好通商条約
20分ほどの黒船を模した遊覧船サスケハナ号による下田港内めぐりを終える。
埠頭の先に現代的なデザインの道の駅・開国下田みなとがあり、日本の国旗の両側にアメリカ、ロシアの国旗が立てられていた(写真)。
アメリカの国旗はペリーによる下田港開港、アメリカ初代総領事ハリスをイメージさせる。
ロシアも早くから日本との交易と北方の国境画定を望んでいた。ロシア使節プチャーチンはすでに長崎や箱館に寄っていたが交渉が進まず、1854年、大坂でら幕府の指示を受け下田港に入港する。
プチャーチンの乗ってきた旗艦ディアナ号は木造帆船フリゲート=軍艦の黒船で、長さ58.2m、乗組員は300名?だった。
同年、間もなく安政の大地震が起き、大津波でディアナ号が被害を受け、修理のため現沼津市戸田ヘダ港に向かう途中、嵐に遭って沈没する。ロシア人の指導で日本人大工が代船を建造するあいだ、幕府側とプチャーチンは長楽寺で交渉を重ね、1855年、日約露和親条約が締結される。
出来上がった代船は戸田にちなみヘダ号と名付けられたが、帆走スループ=小型艦に相当し、全長は24.1mと小さい。プチャーチン以下40名ほどがヘダ号で、他の乗員は別の船で帰国する。
1856年、プチャーチンは汽走コルベットcorvette=フリゲートより小型の軍艦で長崎に来航し、翌1857年、日露修好通商条約が締結される。
道の駅に掲げられたロシア国旗はプチャーチン、ディアナ号、ヘダ号と下田のゆかりを表しているようだ。
下田を歩く
道の駅をあとにして、稲生沢川に架かる橋を渡る。下田の街は碁盤目に区画されているようで、見通しがいい。橋を渡って間もなく「なまこ壁の家」を見つける(写真)。
江戸時代、雑忠の屋号で廻船問屋を営み、大いに栄えたらしい。ほかにも土蔵造り+なまこ壁の家が残っている。
かつて商いを営む家は土蔵造り+なまこ壁が一般だったのであろうが、安政の大地震と大津波で被害を受け、社会が江戸から明治に変わり、番所や領事館が置かれた下田の役割も横浜、築地に移り、徐々に衰退してなまこ壁の家も姿を消し始めたようだ。
魚介、干物、海鮮を扱った店が少なくないが、シャッターを下ろしている店が目立つ。南の山に向かって歩き、堀割のような深い水路に出た。このあたりがペリーロードらしい(写真)。
ペリー、ハリス、プチャーチンたちは下田港に黒船を停泊させ、この水路を利用して小舟で行き来したのであろう。さかのぼって、江戸時代の交易商人、船乗りもこの水路を小舟で行き来し、水路沿いの料亭で遊興を楽しんでいて、下田の役人も黒船の異人を遊興でもてなそうと考え、ここに案内したのではないだろうか。
山の中腹に、日米和親条約下田条約を締結した了仙寺(上写真、web転載)、日露和親条約を締結した長楽寺(下写真)が水路に近いのも、小舟の行き来とともに遊興の接待にも都合がよかったからではないだろうか。
江戸時代のテレビドラマを見ていると、役人の過剰な接待が想像されてしまう。
近くの下田開国博物館で、密航を図るもとらえられた吉田松陰、ペリー来航、プチャーチン来航と安政の大地震、ディアナ号、ヘダ号、初代総領事ハリスなどを復習をする。
下田を歩きながら、黒船来航で下田が果たした役割を学習した。知識は現地で実感すると理解が深まる。
江戸で爆発した明治維新の導火線は下田で火が付いたのである。下田での対処を誤れば、薩英戦争、馬関戦争が下田あるいは江戸で起きたかも知れない。黒船の異人に向き合った下田の人々のご苦労を思いながら、スーパービュー踊り子号で帰路についた。 (2020.4)