遺体の臓腑

2013-10-23 00:05:30 | その他旅行き
『 瀬戸内国際芸術祭2013 』 のお話 その5

今回の芸術祭の作品で最も楽しみにしていたもののひとつが高見島の「板持(いたもち)廃村再生プロジェクト」。
数年前に住む人のいなくなった板持集落でもって廃村の姿を提示するというもの。
廃村「再生」プロジェクトなんて名前なんで、廃村を見せつつ生まれ変わらせる為の方策を提案する作品なのかと思った。
が、見学後ガイドブックの作品説明を読み直せば、「廃村の姿を提示する」とだけある。
見せるだけなのか。
確かに見せてもらった。



私は遺構や廃墟に惹かれる。
滅びのイメージが好きなわけでなく、年月を経たものの佇まいが好きだからだ。
出来立てピカピカの新製品も綺麗で美しいが、打ち捨てられ錆び付いた三輪車も魅力的。
大事に使い込みやれてきた道具や建物には、大量生産された工業製品であっても、ひとつひとつそれぞれに積み重ねられてきた歴史が伺え、個性的だ。
廃墟はその歴史の最終形の現在進行形だ。



板持集落は高見島の北東、港からだいぶ離れた所にある。
海岸線を辿る道路の終着点からコンクリートと石の階段で上る山の斜面に集落はあった。
笹と竹林の中を一本道が通り、その左右に人が住まなくなって蜘蛛の巣が張り、草に埋もれ、崩れ果てた民家があった。
建物はまったく手が加えられていないが、枯葉が覆っていたと見て取れる村道は綺麗に掃除されていた。
住む人のいなくなった家々は、外から眺める分にはこれまでの私の廃墟のイメージと変わらず、魅力的な被写体だった。
しかし、集落の最上段、敷地を囲む土壁のある家は内部を公開していた。
それは「廃墟」の意味を知らしめるものだった。



玄関を入ると土間があり、その正面に台所、右手に居間。
台所には歪んだ床の上に食器棚やテーブルが傾いてあり、茶碗や布巾が生活していた時のまま放置されていた。
居間の床は腐り落ちてひどい有り様だ。
外観には嬉々としてカメラを向けた私だが、屋内の有り様はとても撮影する気にならなかった。
炊飯器やテレビなどの電化製品がそのまま残されて、生活感を残しているが故にその変貌ぶりが凄まじい。
到底人の住める環境では無い。
備品に色は残っていたはずだが、黒く変色した壁や畳の印象が強く、思い出す室内のイメージは真っ黒だ。



確かに「廃村の姿を提示する」ことだけでも意味があるのだろう。
こうして提示しなければ廃墟の何たるかを知らない市井の我々の認識を変えるには至らないだろうから。
廃村となるという事はどういうことなのか。
それを明々白々と明らかにすることから始めないとならないのだろう。



作品出品者は「板持廃村再生プロジェクト実行部隊」という。
「廃村の姿を提示する」ことの次の「再生」をどう実行するのだろう。
次の会期にそれを見せてくれるのだろうか。
楽しみにしておく。