山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

1971年3月

2012-10-11 05:30:51 | モノローグ【エトセトラ】
引っ越しの準備もあって、部屋の整理をしていると高校時代の卒業アルバムを発見する。
つい先日、42年ぶりの同窓会(還暦集会)に参加したばかりだったので、このアルバムを眺めながら「今はむかし」青春の頃を思い出しながら身体が固まった。これだから整理がはかどらない。

私が過ごした1968年4月~1971年3月の高校時代は安保、沖縄、ベトナム戦争を巡って大学の学生運動が大きな社会現象としてクローズアップされていた時代である。その波は高校まで押し寄せていた。所謂、学園闘争が社会へ飛び出した時代。
赤、黒、青、白、銀、黄、様々な色のヘルメットが入り乱れながらセクト間の争いも激化していた。内ゲバも勃発していた。
高校生であった私も血気盛んな年頃、何が何だかわからない内にデモに参加したことがある。
アメリカ映画の「いちご白書」が日常のようであった。敵がいた。

反面、ヤクザ映画やポルノにも目覚めた。暴力と性に映画のフィルターを通して世界が広がった時期でもある。
社会の混沌と映画の虚構が入り乱れながら、自分探しに明け暮れていた。このまま、流されて良いのだろうか。社会に対する疑問と批判が目覚めた時期でもある。

すっかり初老になった懐かしい友人たちと同窓会の席で呑み交わしながら、「あの頃は怖いもの知らずだったな。」と笑い転げた。
デモで警察に捕まり少年院に入れられたこともある友人も笑っていた。
進学校であったため大半は大学受験に関心があったのだろうが、今となって振り返ると、その時代を共有したことで、時代を体験した世代の同類意識で繋がっていた。

「あれからオレは何もできなくなったよ。」という友人もいた。一番元気の良いリーダー的な男だった。暗くはない。口調は堂々としている。高校時代から管理職のような大人びた男だった。
社会人としては立派に生き抜いてきた男。
一番仲の良かった友人も「オレも左翼のような顔をしていたが、実は嘘つきだった。」と笑い飛ばしていた。

次の春で定年退職する者たち。区切りをつけて第二の人生を考えていた。
私に区切りはあるのだろうか。終わりは何処だろう。

演劇から抜けきれないことは「バカは死ななきゃ治らない」ということであろう。

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