子どもの世界(1)―詩が語る「こどもの宇宙」―
河合隼雄氏は『子どもの宇宙』(注1)の「はじめに」で,子どもの宇宙について次のように述べています。
この宇宙のなかに子どもたちがいる。これは誰でも知っている。しかし,ひとりひとりの
子どものなかに宇宙があることを,誰が知っているだろうか。それは無限のひろがりと
深さをもって存在している。大人たちは,子どもの姿の小ささ惑わされて,ついにその
広大な宇宙の存在を忘れてしまう。
しかし,子どもたちの澄んだ目は,この宇宙を見据えて日々新たな発見をしています。しかし,子どもたちはその宇宙の発見について,
大人たちにはあまり話してくれません。
うっかりそのようなことを話すと,無理解な大人たちが,自分たちの宇宙を破壊しにかかることを,彼らが何となく感じているからだろう。
それでは,私たち大人は子どもの宇宙を知ることはできないのでしょうか?
河合氏によれば,子どもたちの宇宙からの発信に耳を傾けてくれる大人たちを見出したとき,子どもたちは生き生きとした言葉で,
彼らの発見について語ってくれます。
幸いにも私たちは,子どもの心に寄り添いつつ,子どもたちとの厚い信頼関係をもっている先生たちの努力によって,
多くの子どもたちの宇宙の一端を知ることができます。
ここで取り上げたのは,神戸市の小学校で主に低学年を担当した鹿島和夫氏が,小学校の一年生のクラスの担任となっていた時に,
子どもたちが書いてくれた詩です。
鹿島先生のクラスでは,生徒が「あのね帳」を持っており,何かを感じたとき,先生に語りかけたいときに,
誌の形式で自由に書いて先生に見せていました。
これらの詩が(全部ではないかもしれませんが)『一年一組 せんせいあのね』というタイトルの4冊の本にまとめられています。(注2)
もう一つは,同じく小学校の教師を長く務めた灰谷健次郎氏が編集した『たいようのおなら』という本です。(注3)
ただし,この本の編集には鹿島氏も加わっているので,
鹿島氏の本からもいくつかの詩が引用されています。
鹿島氏と灰谷氏は20年以上にわたる友人であり,共に神戸市の教員生活を送り,子どもたちが詩や文章を書くよう努力してきました。
そんな縁があって,『一年一組 せんせいあのね』シリーズでは巻末にお二人の対談が掲載されています。
ここで大切なことは,子どもたちが詩を書く時,他の人に褒めてもらおうとか,感動させようとか,そんな気持ちはまったくない,
ということです。
子どもたちは,率直に思ったままを詩にします。だから,こうした詩は貴重なのです。
まず,子どもが心にいだくスケールの大きな詩を一つ紹介しましょう。
たいようのおなら にしずか えみこ(7歳)
たいようがおならをしたので
ちきゅうがふっとびました
つきもふっとんだ
ほしもふっとんだ
なにもかもふっとんだ
でも,うちゅうじんはいきていたので
おそうしきをはじめた
このように奇想天外な発想とスケールの大きな想像力を大人はもっていません。
大人は,みんな吹っ飛んだのに,なぜ「うちゅうじん」は生き残ったのか,また,この場合,「うちゅうじん」
とはどの星に住んでいたのか,そして,だれがお葬式を始めたのか,と疑ってしまいます。
しかし,えみこちゃんの心の中では何の矛盾もなく,一つの宇宙として了解されているのでしょう。
もし,大人がいろいろ問いただしたりしたら,えみこちゃんは二度と心の中に広がる宇宙について書かなくなってしまうでしょう。
それでは,子どもたちが安心し自分の心の内を伝えることができる大人との間にはどんな感情が働いているのでしょうか?
一年一組の「あのね帳」は,この点を素晴らしい詩でつたえてくれます。
せんせい ゆあさ かおり
せいんせいはおよめさんとチュウをしましたか
わたしはしたとおもいます
せんせいはわたしのゆめをみましたか
わたしはみたとおもいます
ゆあさ かおりちゃんは先生が大好きです。しかし,先生は結婚しているので,
お嫁さんとの関係がちょっぴり気になります。
そうであっても,かおりちゃんは,先生が自分のことを想っていてくれて,
夢にも現れているに違いない,と信じています。
この詩には,少女の先生に対するほのかな恋愛感情がそこはかとなく表現されています。
それと同時に大切なことは,そのような感情を安心して「あのね帳」に書くところに,生徒と先生との間の信頼関係と愛情を見ることができます。
次に,子どもたちが自分と自然との関係をどんなふうに感じているかをみてみましょう。
いぬ さくだ みほ(6歳)
いぬは
わるい
めつきはしない
この詩を読むと,最初は“そんな馬鹿な”と思わずニヤリと笑ってしまいそうになります。というのも,私たち大人は,
いぬにも目つきの良い悪いがあるとは考えていないからです。
しかし,この詩を何回か読んでいると,“なるほどそう言われれば,そうかも知れない”,と,みほちゃんに共感できるようになります。
さくだ みほちゃんは,まず,犬が大好きです。しかも,いぬも自分もまったく同じ生き物世界の住民だと感じています。
だから,犬に代表される動物のめつきには「いいめつき」も「わるいめつき」があることを感じることができるのです。
子どもは大人の世界にたいして,いろいろな疑問と「ふしぎ」を抱いています。次の詩はその一例です。
おとうさん おおたに まさひろ(6歳)
おとうさんは
こめやなのに
あさ,パンをたべる
お父さんは米屋ですがパンをたべても,ふしぎではないと感じるのが大人。「ふしぎ」だと思うのが子どもです。
灰谷氏は,「子どもにそういわれて,笑うのがおとな,ちょっともおかしくないのが子ども。感受性がまるでちがうのです」
とコメントしています。
子どもにとって,この世はふしぎに満ちています。
小さい子どもが,「なぜ,なぜ」と何回でも親に聞くのは,それだけこの世は「ふしぎ」に満ちているからです。
河合隼雄氏は,子どもの「なぜ」に関してとても大切なことを指摘しています。
こどもが「なぜ」ときいたとき,すぐに答えず,「なぜでしょうね」と問い返すと,面白い答えがこどもの側から出てくることもある。
「おかあさん,せみはなぜミンミンないてばかりいるの」と子どもがたずねる。
「なぜ,鳴いているんでしょうね」と母親が応じると,「お母さん,お母さんと言って,せみがよんでいるんだね」と子どもが答える。
そして,自分の答えに満足して再度質問しない。これは子どもが自分で「説明」をかんがえたのだろうか。
ここで大切なことは,たとえお母さんが科学的に正しい答えをしたところで,子どもは「納得」しないだろう,ということです。
河合氏は,「そのときに,その人にとって納得がいく」答えは,「物語」になるのではないか,と述べています。(注4)
つまり,子どもにとって納得とは,自分なりの「物語」ができあがることなのでしょう。
大人になると物事を客観的,科学的に理解するようになります。それでも,自分なりに納得できる「物語」を見出せないと,
私たちは本当の納得には至りません。
日本人は,このような納得の仕方を「腑に落ちる」という風に表現してきました。
私には,大人になるということは,「ふしぎ」と自分なりの「物語」を失ってゆくことに思えます。
これから,「こどもの世界」シリーズでは,いくつかのグループ(たとえば「自然」,「人」「恋愛感情」「大人のふしぎ」など)
の分野にわけて,子どもたちの「物語」を味わって行きたいと思います。
これは,私たちがもう一度,あのみずみずしい感性を取り戻す作業でもあります。
(注1)河合隼雄『子どもの宇宙』岩波新書 386,1987年
(注2)鹿島和夫+対談灰谷健次郎『一年一組 せんせいあのね』(詩とカメラの学級ドキュメント)理論社,初版1981年。
鹿島和夫編『続一年一組 先生あのね』理論社,1987年。
鹿島和夫・灰谷健次郎『一年一組 せんせいあのね それから』,理論社,1994年。
鹿島和夫・灰谷健次郎『一年一組 せんせいあのね いまも』,理論社,1994年。
(注3)灰谷健次郎編『たいようのおなら』(子どもの詩集),のら書店,1995年(初版)
(注4)河合隼雄『こどもといのち』(河合隼雄著作集 第II期,4),岩波書店,2002年,.7-8ページ。
河合隼雄氏は『子どもの宇宙』(注1)の「はじめに」で,子どもの宇宙について次のように述べています。
この宇宙のなかに子どもたちがいる。これは誰でも知っている。しかし,ひとりひとりの
子どものなかに宇宙があることを,誰が知っているだろうか。それは無限のひろがりと
深さをもって存在している。大人たちは,子どもの姿の小ささ惑わされて,ついにその
広大な宇宙の存在を忘れてしまう。
しかし,子どもたちの澄んだ目は,この宇宙を見据えて日々新たな発見をしています。しかし,子どもたちはその宇宙の発見について,
大人たちにはあまり話してくれません。
うっかりそのようなことを話すと,無理解な大人たちが,自分たちの宇宙を破壊しにかかることを,彼らが何となく感じているからだろう。
それでは,私たち大人は子どもの宇宙を知ることはできないのでしょうか?
河合氏によれば,子どもたちの宇宙からの発信に耳を傾けてくれる大人たちを見出したとき,子どもたちは生き生きとした言葉で,
彼らの発見について語ってくれます。
幸いにも私たちは,子どもの心に寄り添いつつ,子どもたちとの厚い信頼関係をもっている先生たちの努力によって,
多くの子どもたちの宇宙の一端を知ることができます。
ここで取り上げたのは,神戸市の小学校で主に低学年を担当した鹿島和夫氏が,小学校の一年生のクラスの担任となっていた時に,
子どもたちが書いてくれた詩です。
鹿島先生のクラスでは,生徒が「あのね帳」を持っており,何かを感じたとき,先生に語りかけたいときに,
誌の形式で自由に書いて先生に見せていました。
これらの詩が(全部ではないかもしれませんが)『一年一組 せんせいあのね』というタイトルの4冊の本にまとめられています。(注2)
もう一つは,同じく小学校の教師を長く務めた灰谷健次郎氏が編集した『たいようのおなら』という本です。(注3)
ただし,この本の編集には鹿島氏も加わっているので,
鹿島氏の本からもいくつかの詩が引用されています。
鹿島氏と灰谷氏は20年以上にわたる友人であり,共に神戸市の教員生活を送り,子どもたちが詩や文章を書くよう努力してきました。
そんな縁があって,『一年一組 せんせいあのね』シリーズでは巻末にお二人の対談が掲載されています。
ここで大切なことは,子どもたちが詩を書く時,他の人に褒めてもらおうとか,感動させようとか,そんな気持ちはまったくない,
ということです。
子どもたちは,率直に思ったままを詩にします。だから,こうした詩は貴重なのです。
まず,子どもが心にいだくスケールの大きな詩を一つ紹介しましょう。
たいようのおなら にしずか えみこ(7歳)
たいようがおならをしたので
ちきゅうがふっとびました
つきもふっとんだ
ほしもふっとんだ
なにもかもふっとんだ
でも,うちゅうじんはいきていたので
おそうしきをはじめた
このように奇想天外な発想とスケールの大きな想像力を大人はもっていません。
大人は,みんな吹っ飛んだのに,なぜ「うちゅうじん」は生き残ったのか,また,この場合,「うちゅうじん」
とはどの星に住んでいたのか,そして,だれがお葬式を始めたのか,と疑ってしまいます。
しかし,えみこちゃんの心の中では何の矛盾もなく,一つの宇宙として了解されているのでしょう。
もし,大人がいろいろ問いただしたりしたら,えみこちゃんは二度と心の中に広がる宇宙について書かなくなってしまうでしょう。
それでは,子どもたちが安心し自分の心の内を伝えることができる大人との間にはどんな感情が働いているのでしょうか?
一年一組の「あのね帳」は,この点を素晴らしい詩でつたえてくれます。
せんせい ゆあさ かおり
せいんせいはおよめさんとチュウをしましたか
わたしはしたとおもいます
せんせいはわたしのゆめをみましたか
わたしはみたとおもいます
ゆあさ かおりちゃんは先生が大好きです。しかし,先生は結婚しているので,
お嫁さんとの関係がちょっぴり気になります。
そうであっても,かおりちゃんは,先生が自分のことを想っていてくれて,
夢にも現れているに違いない,と信じています。
この詩には,少女の先生に対するほのかな恋愛感情がそこはかとなく表現されています。
それと同時に大切なことは,そのような感情を安心して「あのね帳」に書くところに,生徒と先生との間の信頼関係と愛情を見ることができます。
次に,子どもたちが自分と自然との関係をどんなふうに感じているかをみてみましょう。
いぬ さくだ みほ(6歳)
いぬは
わるい
めつきはしない
この詩を読むと,最初は“そんな馬鹿な”と思わずニヤリと笑ってしまいそうになります。というのも,私たち大人は,
いぬにも目つきの良い悪いがあるとは考えていないからです。
しかし,この詩を何回か読んでいると,“なるほどそう言われれば,そうかも知れない”,と,みほちゃんに共感できるようになります。
さくだ みほちゃんは,まず,犬が大好きです。しかも,いぬも自分もまったく同じ生き物世界の住民だと感じています。
だから,犬に代表される動物のめつきには「いいめつき」も「わるいめつき」があることを感じることができるのです。
子どもは大人の世界にたいして,いろいろな疑問と「ふしぎ」を抱いています。次の詩はその一例です。
おとうさん おおたに まさひろ(6歳)
おとうさんは
こめやなのに
あさ,パンをたべる
お父さんは米屋ですがパンをたべても,ふしぎではないと感じるのが大人。「ふしぎ」だと思うのが子どもです。
灰谷氏は,「子どもにそういわれて,笑うのがおとな,ちょっともおかしくないのが子ども。感受性がまるでちがうのです」
とコメントしています。
子どもにとって,この世はふしぎに満ちています。
小さい子どもが,「なぜ,なぜ」と何回でも親に聞くのは,それだけこの世は「ふしぎ」に満ちているからです。
河合隼雄氏は,子どもの「なぜ」に関してとても大切なことを指摘しています。
こどもが「なぜ」ときいたとき,すぐに答えず,「なぜでしょうね」と問い返すと,面白い答えがこどもの側から出てくることもある。
「おかあさん,せみはなぜミンミンないてばかりいるの」と子どもがたずねる。
「なぜ,鳴いているんでしょうね」と母親が応じると,「お母さん,お母さんと言って,せみがよんでいるんだね」と子どもが答える。
そして,自分の答えに満足して再度質問しない。これは子どもが自分で「説明」をかんがえたのだろうか。
ここで大切なことは,たとえお母さんが科学的に正しい答えをしたところで,子どもは「納得」しないだろう,ということです。
河合氏は,「そのときに,その人にとって納得がいく」答えは,「物語」になるのではないか,と述べています。(注4)
つまり,子どもにとって納得とは,自分なりの「物語」ができあがることなのでしょう。
大人になると物事を客観的,科学的に理解するようになります。それでも,自分なりに納得できる「物語」を見出せないと,
私たちは本当の納得には至りません。
日本人は,このような納得の仕方を「腑に落ちる」という風に表現してきました。
私には,大人になるということは,「ふしぎ」と自分なりの「物語」を失ってゆくことに思えます。
これから,「こどもの世界」シリーズでは,いくつかのグループ(たとえば「自然」,「人」「恋愛感情」「大人のふしぎ」など)
の分野にわけて,子どもたちの「物語」を味わって行きたいと思います。
これは,私たちがもう一度,あのみずみずしい感性を取り戻す作業でもあります。
(注1)河合隼雄『子どもの宇宙』岩波新書 386,1987年
(注2)鹿島和夫+対談灰谷健次郎『一年一組 せんせいあのね』(詩とカメラの学級ドキュメント)理論社,初版1981年。
鹿島和夫編『続一年一組 先生あのね』理論社,1987年。
鹿島和夫・灰谷健次郎『一年一組 せんせいあのね それから』,理論社,1994年。
鹿島和夫・灰谷健次郎『一年一組 せんせいあのね いまも』,理論社,1994年。
(注3)灰谷健次郎編『たいようのおなら』(子どもの詩集),のら書店,1995年(初版)
(注4)河合隼雄『こどもといのち』(河合隼雄著作集 第II期,4),岩波書店,2002年,.7-8ページ。