大木昌の雑記帳

政治 経済 社会 文化 健康と医療に関する雑記帳

金足農業高の快挙―“純”なるものが呼び起こす感動―

2018-08-26 05:58:54 | スポーツ
金足農業高の快挙―“純”なるものが呼び起こす感動―

今年の夏の全国高等学校野球選手権大会(略して甲子園)は100回目を迎え、8月5日にスタート
しました。

優勝はすでに報道されているように、大阪桐蔭高でした。しかし、感動を与えてくれたのは、何とい
っても秋田県代表の金足農業高の大健闘でしょう。

恐らく多くの野球ファンは、決勝戦は大阪桐蔭高と横浜高になるだろう、と予想していたと思います。

しかし、金足農業が次々と勝ち進んで行くにつれて、“一体、何が起こったんだ”、という驚きと感
動が広がってゆきました。

今年の金足農業の何が人々を感動させたのでしょうか? これを考える前に、少しだけ金足農業の甲
子園での成績を振り返ってみましょう。

金足農業は、決して甲子園の“新参者”ではありません。昭和58年に初めて甲子園出場を果たして、
今年で9回目の甲子園です。もはや、常連校といってもいいでしょう。

今年の金足農業が決勝戦まで勝ち進んだのは、たまたま対戦相手に恵まれたからなのでしょうか?

そうとは言い切れません。というのも、一回戦の相手は、スポーツでは名門の鹿児島実業で、5対1
で破っています。二回戦の相手は、甲子園出場8回目の大垣日大高でした。出場経験は金足農業とほ
ぼ同じで、平成19年には準優勝もしています。その大垣日大高を6対3で破っています。

三回戦の相手は、名門横浜高校で、今年も優勝候補の一角を占めていました。実際、一回戦、二回戦
とも二ケタ安打で圧勝してきました。

この試合では、“奇跡”が起きました。それは、これまで公式戦ではホームランを打ったことがなか
った金足農業の高橋選手が3ラン・ホームランを打って逆転したことです。

もう一つ、金足農業のピッチャー、吉田輝星が最速の150キロを出し、横浜高を相手に14奪三振
を成し遂げたのです。金足農業は強豪横浜高を5対4で下しました。

この横浜戦に勝ったあたりから、人々は、金足農業について、俄然、関心を持ち始め、メディアは一
斉に、金足農業について連日報道するようになりました。

おそらく、普段は高校野球に関心などなかった人たちまで、金足農業というチーム、とりわけ投手の
吉田輝星君に関心を持つようになったようです。

金足農業は準々決勝で近江高と対戦しましたが、この時も、誰も想像できなかった劇的なツーラン・
スクイズを成功させて2点をもぎとり、3対2で逆転勝ちしました。

準決勝の対戦相手は日大三高でした。日大三高は今回、春夏の大会合わせて37回目の出場、優勝2
回という、大会屈指の強豪です。

この試合の結果は2対1で金足農業が勝ちましたが、その勝因はなんといても、吉田投手が、ヒット
を打たれながらも要所で相手を1点だけの最小得点で抑えたことです。

この時点で、決勝進出が決定し、世の中は、興奮の絶頂に達しました。“金農フィーバー”はもはや社
会現象といっても過言ではないほどの熱狂ぶりです。

スポーツ紙は6紙が、この「金農」(このように呼ぶようになりました)の快挙を大きく報じました。

以上みたように、ここまでの闘いそのものがドラマチックすぎるほどドラマチックでした。

秋田出身の小倉智昭氏は、朝の情報番組「とくダネ」で、“おれたちは100年待ったんだ”、と興奮
ぎみに語っていました。

決勝の相手は大阪桐蔭高でした。大阪桐蔭高といえば、優勝の常連校です。

しかし、恐らくこの試合に関心をもった人の8割以上が心の中で、金農に勝って欲しい、と願っていた
のではないでしょうか?

これは、金農への応援の気持ち込めた寄付が全国から寄せられ、あっと言う間に1億9000万円に達
したことからもわかります。

さて、試合ですが、吉田投手は、6回に、自分はもう投げられないから代わってくれ、と打川君に頼み、
マウンドを降りました。打川君は期待に応えて1点で抑えましが、結果は2対13の大差で敗けました。

これで大阪桐蔭は二度目の春夏連覇という偉業を達成したことになります。これは、大変な大記録です。
優勝して当たり前とのプレッシャーをはねのけて優勝した大阪桐蔭を称えるべきしょう。

金農ナインは、当然のことながら悔しさで泣いていましたが、球場で金農の応援をしていた人たちの間
にはそれほどの落胆ぶりは、見られず、むしろ晴れ晴れとした雰囲気が漂っていました。テレビ観戦を
していた人も同じでしょう。

さて、優勝校も決まって、高校野球の話題も一段落つくかと思っていたら、逆に終わってから後が大変
な騒ぎで、スポーツ紙だけでなく、一般紙までこれでもかというほど、大阪桐蔭の優勝よりも金農の準
優勝を称える内容を怒涛のごとく報じました。

通常は、準優勝校にたいしてこれほど注目が集まることはありません。しかし、メディアは、あたかも
金農が優勝したかのような扱いです。

しかし、この「金農フィーバー」はメディアが一方的に作り上げたものではなく、多くの国民が受けた
感動でもあったのです。

それでは、何が多くの人を、これほどまでに感動させたのでしょうか?

結論から言えば、多くの日本人は、金農の野球部、とりわけ吉田投手のひたむきさに、私たちが失って
しまった“純”なるものを感じ、感動したのだと思います。

いくつもの要因があるとおもいますが、思いつくままに挙げてみます。

①私学全盛の高校野球界にあって、公立高校である金農が決勝まで勝ち進んだことです。しかも、農業
高校という、スポーツとはあまり結びつかない高校です。

②金農の選手全員が秋田県の出身者であるという点です(つまり”純”秋田県産です!)。最近は、私
立の強豪高が全国から優秀な選手を集めて強化することは珍しくありません。

実際、優勝した大阪桐蔭は北海道から九州まで全国から選手を集めています。しかも、今回の大阪桐蔭
ナインのうち、6人までがU-18の日本代表になる選手であることが、これを物語っています。金農
はここまで、とにかく地元の選手を鍛え上げて、最善を尽くすことをモットーにしてきました。

③公立高校ですから、おそらく授業もしっかり出ていたのだと思われます。近年、野球の名門私立高で
は、選手は合宿所生活で、授業もあまり出ていない場合もあります。

企業でいえば大阪桐蔭は大都市の大企業で、金農は地方の中小企業のようなチームです。その金農が並
みいる強豪を倒して決勝まできたのですから、これは本当に快挙です

④1年のうち半年近くは雪のため、グラウンドで練習ができない不利な自然環境の中で、金高野球部の
選手たちは雑草のごとくただひたすら練習に励んできました。多くの人は、雪の中で長靴を履いて走り
込みをしている選手の姿を見て、一層、思いを熱くしたのでしょう。

⑤吉田投手が秋田の県大会か決勝までずっと一人で投げてきたことに対する驚きです。県大会ではすで
に5試合で636球、甲子園きにきてからも決勝までに749球も投げていたのです。しかも4試合連
続二桁奪三振、という素晴らしい結果を残していました。ちなみに大阪桐蔭には投手が16人もいます。

しかし、横浜戦が終わった時点で、「股関節が痛くて先発辞退しようか」と思うほど、体はボロボロ、
悲鳴を上げていました。それでも、決勝戦では、自らを奮い立たせて先発したことが、やはり胸を打ち
ます。(もちろん、これが良いか悪いかは別問題です)

⑥金農ナインは県大会からずっと、同じメンバーで闘ってきました。私たちは、そこで培われてきた信
頼関係、強いきずな、団結力を感じ取っていました。

⑦決勝戦で吉田君に代わって投げた打川君は、中学時代はピッチャーで4番でした。打川君は高校は別
の学校へ進学を考えていたのですが、吉田君に誘われて金農に進学しました。

この時、打川君は、“吉田と一緒ならエースにはなれないけど甲子園へはいける”との気持ちから、金
農のエースの座を吉田君に譲る決意で金農に進学した、という経緯があります。この二人の友情と相互
の信頼関係も私たちに、心温まる感動を与えてくれます。

以上を総合すると、公立高校という枠を踏み外さない金農野球部のあり方、選手それぞれが胸に秘めた
“純粋さ”、“ひたむきさ”に私たちは、“これこそ高校野球のあるべき姿だ、高校野球は、本来、こ
うでなくっちゃ”という思いを共有していたのではないでしょか。

一言でいえば、私たちが高校野球に求めていた“純なるもの”を金農の選手たちに感じ取ったからこそ、
多くの日本人は感動したのだと思います。

現実の大人の社会では“純なるもの”は、“青臭い”、“未成熟”と鼻で笑われてしまいますが、それでも
心の奥底では、“純なるもの”に対するあこがれを抱いています。

雪深い東北の「雑草軍団」にこれほどの称賛が寄せられたのは、心の奥底に眠っていた、このような日
本人の心情が呼び起こされたからでしょう。

例えは適切ではないかもしれませんが、かつて『冬のソナタ』という“純愛”を描いた韓国ドラマが大
ヒットしたことがありました。現実には、“純愛”なんてあり得ない、と思っている人でも、心のどこ
かで、純愛にあこがれを夢想していることの証です。

“純なるもの”"純粋”が私たちを惹きつけるのは、それが人間として、本来そうありたいと願う“原点”
だからでないでしょうか。





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理稀ちゃんを発見した尾畠春夫さん―その生きざまに圧倒される―

2018-08-19 07:41:50 | 社会
理稀ちゃんを発見した尾畠春夫さん―その生きざまに圧倒される―

夏の猛暑に人々があえいでいた8月12日、山口県周防大島町で、曽祖父の家に遊びに来ていた藤本さん一家の2才
(8月13日が誕生日)になったばかりの理稀(よしき)ちゃんが行方不明、とのニュースが流れたとき、私の心に
不安と何とも言えない不可解さを覚えました。

理稀ちゃんは当日午前10時半ごろ、祖父(66)と兄(3)と歩いて約400メートル離れた海岸に海水浴に向か
ったが、家を出て100メートルほどのところで、「帰る」と言って、1人で家に戻ろうとしたという。

そこで祖父は 理稀ちゃんが家の手前20メートルのところまで歩いて行ったのを見届けたうえで海に向かいました。

この家は瀬戸内海に浮かぶ小さな島で、子どもが家のすぐ近くで誘拐されるとはあまり考えられませんでした。

かといって、2才の幼児が山の中を歩き回ることも無理だと思いました。不可解とはこういうことでした。

もし溝にはまったり、近くの溜池に落ちたとしたらいずれ見つかるだろうと、不安を感じながらも救出のニュースを
期待していました。

ところが当日も翌日も、その翌日も警察の大規模な捜索にもかかわらず理稀ちゃんは発見されませんでした。

多くの日本人は、たとえ誘拐とか事故でなくても、食べ物もなく体を守る衣類や寝具もなく、2才の幼児が3日も一
人で過ごすことは不可能だろうと思い込んでいたと思います。

行方不明になって3日経ち、誰もがあきらめかけた15日の朝、理稀ちゃん発見と救出の臨時ニュースが流れました。

私は純粋に“良かった”と安堵しました。が、次の瞬間、誰がどうやって発見したのか、そして2歳児がこの3日間
を一人きりで過ごしたのか、という疑問が頭に浮かびました。

その後、事情がわかるにつれて、私の疑問は解明され、それと同時に驚きと感動で胸いっぱいに広がりました。

まず、2才の幼児がたった一人で、山中で3日も過ごした、という事実、子どもの生命力の強さに驚きました。

寂しさや恐怖は感じなかったのだろうか? その間、空腹や喉の渇きはどうしていたのだろうか? 

しかし、発見されたとき、「ぼく ここ」とはっきりした声で呼び掛けに応えたとのことです。少なくともパニックに
はなっていなかったようです。

沢の中で、昼は日陰で直射日光から守られ、近くに水があったこと、あまり動かなかったことなどが幸いしたようです。

理稀ちゃんが助かった後、私の驚きと感動は、救出した尾畠春夫さん(78才)という人の人物像と生き様でした。

彼は大分の実家で、理稀ちゃんは未だ発見されていないことを知り、車で駆けつけ、15日の朝、一人で山を登って捜
索活動を開始しました。

現地では12日から警察官150人を動員して捜索していましたが、発見できなかったのに、尾畠さんは創作開始から
30分ほどで、理稀ちゃんを発見したのです。

尾畠さんは2年前に、大分で行方不明になった2才の女児を発見した経験があり、その時の経験から、「子どもは上に
上がるのが好き。下ることはない」と確信していました。

尾畠さんの呼びかけに、「ぼく ここー」と返事が返ってきた時、「頭が真っ白になった」、小さな命を救うことがで
きた、と涙ぐんで語っていました。彼の心根の優しさが伝わってきました。

尾畠さんがメディアに答えた内容や、メディアが調べた尾畠さんの経歴や人物像が明らかになるにしたがって、私は大
きなショックと感動を覚えました。

私が最初に感動したのは、捜索に出発直前の尾畠さんにテレビのレポーターが「今回はわざわざ大分からきたんですか」
と聞いたところ、「わざわざじゃない。私は日本人じゃから。日本語が通じるから。日本中どこでも行きます」と即座
に答えたことでした。

特に、格好をつけるわけでもなく、本心をそのまま言葉にしたんだ、と映像を通して感じました。

彼は40才から登山を始め、58才で北アルプスの55の山を単独で縦走しましたそうです。私も中学から大学まで登山
をしてきましたが、58才での単独縦走は、よほど体力と気力がある人でなければできません。本当に脱帽です。

2006年には、母親にもらった二本の足を試そうと、九州の佐多岬から北海道の宗谷岬まで3300キロを歩きました。
この時点で、発想と実行力がもう尋常ではありません。

この途中で南三陸に立ち寄り、テントを張っていると、近くの人が、おこわをたくさんもってきてくれたそうです。「初
対面ですよ」と感激したと語っています。これが東日本大震災後に南三陸とのかかわりをもつ一つのきっかけになったよ
うです。

尾畠さんは7人兄弟の4番目で生まれました。小学生の時から近所の農家で働き中学卒業と同時に鮮魚店で働いた。「7
人兄弟で一番、飯を食べよったから。春夫、お前はうちで養ってやれんから農家に奉公行きなさいって」と明かした。中
学で学校に通った期間は「3年間で4か月ぐらい」だったが、仕事を通じて「義理人情とか仁義。もらったものは必ず返
す。頭を深々、例えば秋の稲穂みたいに頭を下げて、ありがとうございましたっていうような人間になれ」と教えられた
という。家の壁の貼り紙にある「掛けた恩は水に流せ。受けた恩は石に刻め」という彼の信念はこうして形成されたので
しょう。
リポーターから奥さんの存在を聞かれると「奥さんは、5年前に用事があって出かけてまだ帰ってこない」と苦笑いして
答えていました(「情報ライブ ミヤネ屋」 17日放送)

奥さんの「用事」が何であったのか、5年も戻ってこない本当の理由は分かりませんが、この表現に彼の人柄が現れて、
思わず笑ってしまいました。

尾畠さんは、65歳で鮮魚店を閉店してしまいます。その時の理由を聞かれて「私は学問もない人間だけど、65才まで
生かさせてもらった。これからはお世話になったひとに恩返しをしなければ、と思ったそうです。

実際、中越地震(2007年)をはじめ、東日本大震災、熊本の広島の土砂災害、九州北部豪雨、大阪北部地震、西日本
豪雨災害、など25年間、全国をボランティアとして駆けまわってきました。

2011年の東日本大震災は発生すると直ちにボランティアに南三陸町に駆けつけました。がれきに埋まった思い出の品
を探して持ち主に返却する「思い出さがし隊」の隊長に就任した。「一枚一枚にはその人の思い出があるから。毎日涙の
出ない日はないぐらい、そんな毎日でした」と尾畠さんは涙を流した。

自分が苦労して生きてきた分、ここにも他人への思いやり、優しさがにじみ出ています。

尾畠さんは、東日本大震災でのべ500日ボランティア活動をしました。彼を知る人は「自分の車に寝泊まりして自炊し
て本当に謙虚な方だと思っていました」と称賛していた。

VTRを見た小倉智昭キャスター(71)は目を潤ませながら「尾畠さんに比べたら自分は何をやってきたんだろうって
思っちゃうよね」と感嘆していました(8月17日放送の「とくダネ」。 

14日に現地に到着すると、理稀ちゃんの母親ら家族と会い「見つけたら必ず抱きしめ、じかにお渡しします」と決意を
伝えていました。

発見後は約束どおり、自らの手でタオルにくるまれた理稀ちゃんを母に手渡しました。報道陣には「(合流した)警察が
『渡してください』と来たけど『イヤです』と言った。警察が来ようが、大臣が来ようが関係ない」と豪快に笑った笑顔
が強烈に印象に残っています。

彼は口約束だけど、これは契約だから、と警察官の要請を毅然として拒否したのです。“何という痛快さ”、と内心喝采
を叫びました。

「きょうは尊い命が助かってよかった、と涙を流して喜びを表していました。元気な間はボランティアを続けて恩返しし
たい」と今後も人助けのために全国を走り回るつもりのようです。

尾畠さについては、書ききれないほどたくさんのことがあります。テレビでは、彼の生の声を聞こうとあちこちのチャン
ネルを回し、いつ、どの番組で語ったのか分からなくなるほど彼の言葉に耳を傾けました。

私は、“こんなすごい人物が日本人に中にいたんだ”、という素朴な感動と、彼の生き様のすごさに圧倒されたショック
を受けました。

65才で人生を完全にリセットして社会へ恩返しようと決断をし、実行してきた彼の生き様があまりにもすごすぎます。

おそらく、小倉智昭氏のように、「自分は何をやってきたんだろう、って思っちゃうよね」と思ったのは私だけではない
でしょう。思わず姿勢を正し、背筋がピンと伸びる思いです。

今の日本には、「モリカケ」問題での政治家と官僚のウソと不誠実、女子レスリングのパワハラ、日大アメフトの危険タ
ックル問題、アマチュア・ボクシング協会の管理体制、東京医大の不正入学、合気道の昇段審査での金銭授受、などなど、
本当に不愉快なニュースばかりでした。

そんな中で尾畠さんのような、自分の信念に従い、無償のボランティアに人生を誠実に歩んでいる人の出現は、よどんで
腐臭さえ放っている今の日本に、新鮮でさわやかな一陣の風を送ってくれました。

今回、救われたのは理稀ちゃんだけでなく、日本人と日本社会全体も救われたのではないでしょうか。

尾畠さんのような人が現代日本にいてくれたことは誇りですし、彼のような人こそ「国民栄誉賞」に値すると思います。

いずれにしても、尾畠さんの言葉や行動は、多くの日本人に、ただただ自分のことだけを考えるのではなく、何か社会に
貢献できることがあったら、自分もやらなければ、との思いを心のどこかに植え付けてくれたと思います。








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オウムを生んだ日本の闇(3)―オウム後「居場所」を求めてカルトへ―

2018-08-12 07:17:36 | 社会
オウムを生んだ日本の闇(3)―オウム後「居場所」を求めてカルトへ―

オウム真理教は1996年、宗教団体として解散させられ、その後、後継団体の「アレフ」、そこから分かれた
「ひかりの輪」や「山田らの集団」という三つの組織に分裂しました。

さらに、後述するように、形を変えた多数の小カルト集団があちこちで生まれています。

かつて、1万1000人以上いたオウム真理教の信者は、最大の後継団体のアレフの場合、現在推定1650人
ほどに減ってはいますが、それでも毎年100人ほどの新たに入会者がいます(注1)。

ここで気になるのは、2000年の発足当時、アレフの資産は3000~4000万円ほどでしたが、最近では
(推定)9億円近くまで驚異的に増加しています。

この収入源は、アレフや他の団体も同様ですが、会員の会費、お布施、5~7日のセミナーや修行などのイベン
トです。

大きなセミナーの場合、参加者は300~400人にも上り、一週間ほどの参加費は1人5~10万円です。し
がって、大きなセミナー一回で3000万円ほどの収入になるようです。

アレフから独立した「ひかりの輪」の場合、収入は講話会や勉強会、聖地巡りなどの団体イベントが主な収入源
で、その他にも法具やテキストなどの物品販売、信者からの寄付などです(注2)。

このような宗教団体は今や、「宗教ビジネス」化している実態が浮びあがってきます。

その一方で、教団に巨額の資産を蓄積させるだけのお金を払ってまでも、信者となり、あるいはセミナーに参加
する人たちがまだまだたくさんいることも現実です。

各組織の幹部にとって、こういった収入は彼らの生活費、もっと露骨に言えば「飯の種」ですから、会員の獲得
やイベントの開催は文字通り死活の問題です。

もちろん、幹部や昔からの信者の中には、信仰の道を歩んでいる人もいるとは思いますが、幹部にとって最近の
入会者は、信仰を共にする仲間というより、組織の維持会員といったところなのかも知れません。

そもそも、修行や宗教活動にお金がかかること自体、そして信者にお金を要求する時点で、それはすでに純粋な
宗教団体ではありません。

それでは、オウム解散以降の、特に、最近、オウムの後継団体に入会している人たちはどんな動機をもっている
のでしょうか?

残念ながら、これらについて彼らは語ってくれないので、彼らの口から生の声を聞くことはできません。

ただ、言えることは、彼らの年齢は20代からせいぜい30代初めの若者で、彼らはオウム真理教という名前は
聞いたことはあるかも知れませんが、かつて麻原彰晃の指示で殺人やテロを起こしていた20数年前のことなど
は知りません。

その分、彼らは、かつてのオウム真理教との関係を知っても、特に危険を感ずることはありません。

注意しなければならないのは、最近は、オウムのようなカルト集団だけでなく、さまざまな名目のカルト集団が、
あの手この手で若者を勧誘していることです。

大学ではサークルに名を借りたカルト集団が活動しているため、多くの大学では学生に警告文を出しています。

以下に、オウム以降のカルト的団体の活動に関して何人かの専門家の見解を紹介し(『東京新聞』2018年7月7
日)、その後で私の考えを述べたいと思います。

西田公昭立正大学教授によれば、最近は、自己啓発やNPO法人を名乗っているものもあり、地球が破滅するよう
な過激なことは言わず、個人の救済を目指すものが多いという。

西田氏によれば、2011年の東日本大震災と福島第一原発事故もこんな風潮を強めた。「とくに原発事故は、
誰も信用できないという思いを抱かせた。カルトは世の中に希望が持てない時、理想郷のような話を掲げて現れ
る」という。

「日本脱カルト協会」理事の竹迫之牧師は、「オウム事件の後、期待に反してカルトは増えた。『私たちはオウ
ムとは違う』などと活発化した団体が多い。ネットワークビジネスに手を出した信者もいる」と指摘している。

しかも大震災後には、被害者に供養などの名目で接近するカルトが出現したりし、ボランティアや避難者を狙っ
た勧誘は、かなり尾を引いたそうです。

竹迫氏はさらに、「ただ、カルトが増える本質は、震災よりも格差拡大で貧しい人が増えたことにある」、と指
摘しています。彼はこれを「推測」と断ってはいますが、私はかなり重要な指摘だと思います。

また、東北学院大学の浅見定雄名誉教授は「オウム後の特徴は、カルトに分派がたくさんでたこと。麻原死刑囚
のような教祖がいて、心を人工的にいじるマインドコントロールを施せば、信者はついていきて、もうかる」と
いう風潮があることだ、と述べています。

現在のカルト集団には神道系もあれば、宗教でなく自然農法を掲げるものある。五十~六十人程度の小規模の信
者集めが際限なく行われているようです。

上智大学の島薗進教授(宗教学)は、宗教集団に代わって国家に聖なる価値を見い出す人々に勢いを感じている、
と述べています。

島薗氏によれば、こうした集団では「美しい日本の国を掲げ、外部に攻撃的。戦前の天皇崇敬、国家・皇国史観
のような傾向が強まっている」とようです。

そのうえで島薗氏は、民族主義的なヘイトスピーチや森友学園の系列幼稚園で教育勅語を園児に暗唱させるよう
な傾向を警戒して、「スピリチュアリティやパワースポットに人気が集まるのは、娯楽の面だけでなく、ナショ
ナリズムになっている部分もある」とみています。

島薗氏は「オウムは反体制的だったが、今は政権と近いところで宗教ナショナリズムが広がっている」、とも指
摘しています。

以上に紹介した、最近のカルトの傾向に関する見解には、問題を理解するための幾つかの有用なキーワードが出
ています。

一つは、カルトの流行と貧富の格差の拡大、貧困層との関係です。

カルトがはびこる背景には、経済的(物質的)に豊かになったのに精神的な豊かさ、幸せは得られないという思
いがあるという説明は、よく耳にしますが、私はずっと疑問を感じていました。

オウムが勢力を拡大しバブル景気に沸いていた時も、就職が好調で好景気のなかにある、と言われる最近の状況
においても、貧富の格差は確実に拡大し、将来を見通せない貧しい層は存在しています。

これは、年収が220万円以下の、いわゆる「貧困世帯」の子どもの割合が、6人に1人という現状見ただけで
も分かります。

そして、今は何とか生活できていても、果たしてこれから先、老後に至るまで、本当に大丈夫なのか、不安に思
っている若い人たちもたくさんいます。

政府は好景気を盛んにアピールしていますが、その恩恵を享受しているのはごく一部の人たちで、また、地域的
には大都市が中心で、地方は過疎と経済的停滞に悩まされています。

このような人たちにとっては、カルトはその不安を和らげてくれる、いわば「非難所」を提供してくれる存在な
のかもしれません。

そして、カルトの組織者や幹部は、「もうかる」ビジネスとして信者の獲得に奔走しているのが実態です。

紹介した見解の中で私が最も注目したのは、島薗氏の、カルトとナショナリズムとの結合という傾向です。

もちろん、島薗氏もこれが全てであると言っているわけではありませんが、彼の観察によればこのような風潮は
一部ではあれ確実にあるようです。

排他的、ヘイトスピーチ、戦前の皇国史観などを掲げ、安倍首相が喜びそうな「美しい日本」を強調する人たち
がカルト化することは、かつてオウムが国家の転覆を企てた方向とは真逆ですが、その気持ちの根底にあるもの
は共通していると思われます。

つまり、現状に不満をもち、現状では肯定できる将来に希望をみいだすことができないひとたちが、一切をゼロ
の状態に戻してしまいたい衝動を心のどこかに抱えている可能性は大いに考えられます。

私は、このような傾向と貧困や、何らかの理由で繁栄から取り残されていると感じている人たちの存在とは無縁
ではないと思います。

少し飛躍しますが、私の中では、1930年代のドイツで、貧困化しつつあった国民が、ヒットラーのナショナ
リズムに魔法にかかったように魅惑され、ユダヤ人を始め、他民族を敵視し排除したり国家主義に走ったことと
重なります。

この他にも、カルトが復活しつつある背景は幾つか考えられます。

たとえば、かつてオウムの全盛期に自らの「物語」を持てなくて、麻原やオウムが差し出した「物語」に託した
ように、今も、依然として希望に満ちた「物語」を持ち得ない状況は続いていると考えられます。

もし、国家や皇国史観などのナショナリズム「大きな物語」を見い出し心酔した人たちがカルトに結集している
とすると、とても危険な感じがします。

最後は私の仮説ですが、「居場所」の喪失です。現代社会はますます個人個人が孤立してゆく傾向にあり、自分
の悩みや孤独に親身になって耳を傾けてくれる人はいません。

かつてオウムに入信した女性は、教団内部では信者が悩みに耳を傾けてくれて、「自分の居場所を見つけた気が
した。世間で生きる方がよほど厳しくてつらいから」と語っています(『東京新聞』2018年7月8日)。これこ
そが、カルトに取り込まれていく人たちに共通する本音なのではないでしょうか?

インターネットのSNSなどで、多くの人とつながっていると感じていても、それはデジタル世界の話で、本当の
「居場所」にはなり得ません。

自分に安らぎを与えてくれる「居場所」と希望をもてる「物語」は、誰にとっても生きてゆく上で不可欠な支え
です。

これらが自分には無いと強く感ずる人たちは、誰かが与えてくれるのを待つことになるかも知れません。私は、
このような状態もカルトを生み続けている背景の一部となっているのではないか、と考えます。

(注1)オウム真理教の解散後の状況にかんしては、さまざまなメディアで紹介されていますが、とりあえず、以下を参照。
『サンデー毎日』(2016年4月3日号)。電子版は
http://mainichibooks.com/sundaymainichi/society/2016/04/03/post-762.html

『JIJI.com』(2015年3月20日)
https://wwww.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_jiken-oumu20150320j-01-w270

https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180706/soc1807060025-n1.html

(注2)「ひかりの輪脱会者の会」のホームぺージhttps://stop- hikarinowa.com/archives/163



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オウムを生んだ日本の闇(2)―「物語の喪失」と「自分の限界を超えたい願望」―

2018-08-05 06:21:58 | 社会
オウムを生んだ日本の闇(2)―「物語の喪失」と「自分の限界を超えたい願望」―

2018年8月6日と26日にオウムの幹部13人が死刑執行されたことによって、少なくとも彼ら幹部が、本当
のところ何を感じ、何を考えて行動していたのかは、非常に分かりにくくなってしまいました。

もちろん、主要な事件(主として殺人やテロ)に関しては、「誰が、誰を、どんな理由で、そのように殺した
か」、あるいはテロ行為を行ったか、といった外形的な事実は裁判を通じておおよそ解明されています。

しかし、オウムに関しては夥しい量の文書や映像が世に送り出されてきたにもかかわらず、一体、幹部や一般の
信者は、オウムの創始者である麻原彰晃個人の何に惹かれ、オウム真理教というカルト的宗教になぜ入信し、中
には全財産を教団に捧げるほどにのめり込んでしまったのか、これらはまだ明らかにされてはいません。

オウムは他ならぬ日本社会から生れ出た「鬼っ子」ですから、それは間違いなく「オウムを生んだ日本社会の闇」
をあぶり出したとも言えます。

彼らは宗教の名において、さまざまなテロや殺人を引き起こしてきました。これ自体がすでに日本の闇ですが、
私たちが今考えなければならないのはむしろ、そうした行動に走らせた、麻原を始め幹部や信者の心の内、のこ
とです。

とりわけ、高学歴の社会的エリートまでもが、やすやすと、いかにも怪しげな麻原の「空中浮遊」などを信じ、
麻原へ盲目的に帰依し服従していったのはなぜか、彼らはほとんど語ってくれません。

しかも、オウムは、最盛期には1万1000人以上の信者を抱えるまでに成長しましたが、なぜ、そこまで信者
を獲得できたのでしょうか?

また、静岡の教団施設で行われた「水中クンバカ大会」で、通常では考えられない長い時間(オウムの発表では
14分)、水中で息を止めていることができた、と感動した信者もいました。実際には、事前に大量の酸素で肺
を満たしていただけなのに。

これらの疑問にすべてを答えることは難しいし、実際、さまざまな要因が関係していて、単純な因果関係でオウ
ムの発生、信者の増加、過激なテロ活動を説明することはできません。

それは、個人個人は異なる環境や状況のもとに置かれ、その動機や心情は個々、それぞれ別だからです。

さらに、個人の問題だけでなく当時の社会環境・社会事情もまた、オウムと大きく関わっていたはずです。

それでも、私たちが、こうした数々の疑問にたいして何らかの納得のゆく説明なり原因を探し出さないと、これだ
け多くの犠牲(その中には、当然、信者も含まれる)を出したにもかかわらず、社会的になんの教訓も得られなか
ったとしら、負の遺産だけを引き受けることになります。そして、私たちは再び、おぞましいカルト的集団を生み
出してしまうかもしれません。

もちろん、これらの疑問を全て解消してくれる解答を私が持ち合わせているわけではありません。

ただ、問題の奥にある何かをつかみだす手掛かりくらいは提示しておきたいと思います。
その手掛かりとは、「物語の喪失」と「自分の限界を超えたい願望」という二つのキーワードです。

「物語の喪失」という概念は、私が2005年に出版した『関係性喪失の時代―壊れてゆく日本と世界』(勉誠出
版)の中で、現代の社会病理を解明するために使った三つの鍵概念(「物語の喪失」、「想像力の喪失」、「共感
力の喪失」)の一つで、13年後の今でも有効だと思っています。

人は生きてゆくためには、衣食住が満たされるだけでは十分ではありません。こうした物理的な要件の他に、自分
がどのような人生を歩むのかという肯定的な「物語」が必要なのです。

「物語の喪失」あるいは「物語の崩壊」は、人生の羅針盤を失うことですから、そうなると場当たり的に生きるか、
それが受け入れられなければ何か新しい「物語」を求めることになります。

もう一つの「自分の限界を超えたい願望」とは、なぜ人はファッションに興味を持つのか、というファッションの
起源からヒントを得ています。これは私たち人間の本質的な願望かも知れません。

この願望は、最近では、インスタグラムその他のSNSの世界で、“いいね”を欲しがる気持とも共通していて、
一般に「承認欲求」とも言われます。

「自分の限界を超えたい願望」も、オウムの神秘主義やオカルト的修行に魅力を感じる底流となっていると思われ
ます。

言うまでもなく、これら二つのキーワードで全てを解明し理解できるわけではありません。キーワードは、いわば
「仮説」にすぎません。

ここで「仮説」とは、正しいか間違っているか、というより、このように考えると彼らの心の内や行動を理解しや
すい、という意味です。

しかも、人によっては、「物語の喪失」の方が「自分の限界を超えたい願望」より強い場合も、逆の場合も、さら
に両方とも心に抱えていた場合ももちろんあります。

まず、オウムの創始者、麻原彰晃の場合から見てみましょう。彼は、1955年、熊本県八代市で9人兄弟の第七子と
して生まれました。過程は貧困でおまけに生来目が不自由でした。彼は盲学校卒業後に上京し、予備校に在学中に
結婚し、鍼灸師として生計を立てていました。

しかし、鍼灸師として一生を過ごすという「物語」は彼にとって到底受け入れることができない屈辱的な「物語」
だったのでしょう。

まもなく彼は超能力開発塾「鳳凰慶林館」(後にヨガ道場「オウムの会」)を主宰し(1984)、オカルオ雑誌など
に自分の「空中浮揚」写真(実はトリック写真なのですが)などを掲載したり、著作を著わすなど、巧みな宣伝活
動で信者を獲得してゆきます。

「空中浮揚」というのは、もっとも典型的な超能力の証(あかし)で、「自分の限界を超える」象徴的な行為です。
この写真は、超能力にあこがれる多くの人びとを惹きつけました。

彼は地味な鍼灸師から超能力者としての新たな「物語」の構築に乗り出します。1986年、彼はインドへの旅で「最終
解脱」を果たした「グル」を自称し、「オウム神仙の会」を立ち上げ、教団内で絶対的な地位を確立します。その翌
年、87年には宗教法人「オウム真理教」へと発展してゆきます。

ここまでの略歴をみても、まず、「目の不自由な鍼灸師」からヨガ道場の主催者、超能力を売り物にした宗教団体の
設立、と、「彼は自分の限界を超える新たな物語」に突き進んでゆきます。

麻原は、それまので自分の限界をさらに大きく超えるべく、一教団の主催者に留まらず、日本を転覆させ「日本の王」
になる、あるいは地球の最終戦争(ハルマゲドン)を予言し、人類の滅亡から「救済する」という壮大な「物語」を
掲げ信者に説いてゆきます。

異常は、麻原個人の「物語」と「自分の限界を超える願望」ですが、それではオウムに入信していった幹部や一般の
信者は、どのような心境からオウムにのめり込んでいったのでしょうか?(注1)

たとえば、豊田亨死刑囚(50)は、東大大学院で素粒子理論を研究していたが、死後の世界に関心をもち、大学一年
の時、麻原の著書『超能力秘密の開発法』や『生死を超える』などを読んで入信しました。彼はサリンをまいた心境
について「(麻原の)指示を実行することは解脱に至る修行であり、救済であると信じていた」と述べています。

彼にとって麻原の指示は「自分の限界を超える、大きな物語」だったのです。

林郁夫死刑囚(ただし執行はされていない 71)の場合、医師の父親と薬剤師の母の間に生まれ、慶応大学医学部卒
業後、アメリカに留学。帰国後、病院で働いていたが、「手術はできても人の心は救えない」と感じていた。彼は、
一旦は描いた通常の医師の「物語」に疑問を感じ、新たな「物語」を探していたのです。そんな時、麻原の超能力や
神秘体験に関する本を読んで感動し、病院を退職して妻子とともに出家しました。

広瀬健一死刑囚(54)は早稲田大学理工学部で「超電導」び、トップの成績で大学院に進学しました。彼は手記の中
で、麻原と出会い、神秘体験からオウムの教義を真実と錯覚した、と記しています。

彼も、教団での神秘体験が麻原に呪縛された最大の原因でした。しかし、その神秘体験なるものは、「脳内神経伝達
物質の活性化によって起きた幻覚体験だった」こと(つまり覚醒剤などの薬物による幻覚)に過ぎなかたことを後で
気づくのですが、当時は幻覚体験によって「どのようにも意味づけられるので、荒唐無稽な教義が現実として感じら
れた」とも振り返っています。

こうした事例は引用すればキリがありませんが、要するに、どれほど専門知識があるエリートであっても、現状の人
生の「物語」に疑問や不満をもち、あるいは「自分の限界を超えたい願望」に強く惹かれることは十分あり得ます。

そんな時、超能力や神秘体験に出合うと、たちまちその世界の虜になっていったことが分ります。一旦、虜なってし
まえば、麻原から、今まで想像もしなかった、新たな「物語」、しかもますます「大きな物語」が示されると、たと
えそれが重大な犯罪であっても、「救済」行為として受け入れてしまったのです。

ここで大きな役割を果たしたのが、さまざまな薬物(覚せい剤や催眠剤)で、特にLSD、メスカリン、イソミター
ル、チオペタンなどです。これらの薬物は教団施設内で、一般の信者にも非常に広く使用され、多くの信者が幻覚に
よる神秘体験を通して錯覚とマインドコントロールの罠にはまっていったのです。

一般の信者について具体的な事情は分かりませんが、やはり将来に対する明確な「物語」を求め、しかも卑小な存在
である自分の限界を乗り超えたい願望を抱いていた人たちにとって、オウムは両方を満たしてくれる存在として映っ
たのではないでしょうか?

人は、自分の生きる「物語」を常に模索し続けます。そして、「自分の限界を超えたい」という願望は、人間の向上
心の表れでもあります。

しかし、自分で自分の「物語」を真剣に模索する努力や苦労をせず、誰か他の人が描いた「物語」に安易に身を任せ
てしまうことは、自分の人生を他人にあずけてしまうことです。

また、「自分の限界を超える」ために現実にはあり得ない超能力や神秘体験にそれを求めるのは一種の現実逃避であ
り大きな危険があります。

そうは言っても、自分自身で「物語」を描けず、誰かが示してくれることを求めたり、超能力や神秘体験にたいする
幻想をもつ傾向は全くないわけではありません。

だからこそ、形を変えた「オウム」的なるものが、現在まで続いているのです。これについては次回に検討してみた
いと思います。


(注1)死刑を執行されたオウムの幹部13人の略歴やごく簡単な説明は『東京新聞』2018年7月7日、27日でみることができる。

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