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大木昌の雑記帳

政治 経済 社会 文化 健康と医療に関する雑記帳

「日本の運命」―立花隆氏が言い残したかったこと―

2021-08-08 06:26:04 | 歴史
「日本の運命」―立花隆氏が言い残したかったこと―(注1)

「知の巨人」のニックネームをもつジャーナリスト立花隆氏(本名 橘 隆志)が2021年4月30日
に亡くなりました(享年80才)。

立花は1940年長崎で生まれ、2歳の時、教師をしていた父親とともに北京に渡りました。敗戦後の
1946年、引揚者として日本に戻ります。

東大仏文科を卒業し、東京大仏文科卒し、文芸春秋社を退社しフリーになった後の1974年、「田中
角栄研究 その金脈と人脈」を発表、故田中角栄首相の金権政治の実態を明らかにしました。

徹底した取材と緻密な分析を行う彼の手法は「ニュージャーナリズムの旗手」と呼ばれ、ジャーナ
リズム界に大きな影響を与えました。

その後も立花は日本を代表するジャーナリスト、評論家、ノンフィクション作家として活躍しまし
たが、彼が扱ったテーマは政治問題だけでなく、生物学、環境問題、医療、宇宙、経済、生命、哲
学、臨死体験など多岐にわたっており、何冊もの著書がベストセラーをなっており、文字通り「知
の巨人」と言えます。

私たちは彼が切り開いた知の世界は著書を通して知ることができますが、そうした仕事とは別に、
彼は日本の将来について思いを馳せていました。

2009年に札幌で行われたシンポジウムで彼は「日本の運命」について語っています。その一部は、
今年の6月にBS-TBSで放送された『報道1930』の中で紹介されています。

番組では立花が日本の運命をどのように考え、何を次世代に伝えるべきかについて語ったことを
アナウンサーが吹き替えて紹介し、同世代で彼と50年来の親交がある盟友、そしてこの札幌で
のシンポジウムに参加した作家の保坂正康氏が解説と補足を加えて紹介しています。

まず、立花隆は日本の現状と将来について次にように語っています。
    一言でいうと、ほとんど滅びるのが確実な状況にあります。おそらく日本人の大半の認
    識は、「かなり状況は悪いけれど 破滅までは行かないだろう」というものではないか
    と思いますが、けっしてそうではありません」。

    今を太平洋戦争の戦局にたとえてみましょう。とっくにミッドウェー海戦は終わってい
    ます。ガダルカナルからも撤退している。おそらく昭和17年(1942)が終わって18年、
    山本五十六長官が戦死する。そうした状況に比すべき大きな流れのなかにあります。

    日本はすでに負け戦の段階に完全に入っています。できる最善のことはダメージコント
    ロール。要するに敗北必死で相当の損害を受けることは確実ながら、被害を最小限にと
    どめる方策を考える段階にきている。いかに上手に負けて次の時代につなげるのかを考
    えることがいま、一番必要だろうと思います。

この発言の背景について保坂氏は番組の中で次のように補足し解説しており、それを示しておき
ます(カッコ内は私が補ったもの)。

資本主義は栄枯盛衰を繰り返してきた。オランダ、イギリス、アメリカと。その流れの中で日本
は何をすべきかを考えるべきだ。

日本は(これらの国々の中で)一番衰退の方向に向かっている国の在り方だ、と(立花は)言っ
ている。人口減、財政赤字、しかし最も強く言ったのは科学技術者の少なさ。科学技術者に対す
る日本人の後退的な意識。もともと日本人は職人がいて物を作っていた時代から変転していった
中で、その変転そのものが時代を壊している。そのことを理解した上で今の問題と向き合うべき
だと言った。

今の問題とは何か。それは私たち自身の中に持っている、本当に人間としての歴史を作ってゆく
ときの気構え、指導者がそれだけのなりの責任と自覚をもって政治を動かしているかということ
の責任、そういうことを具体的に言った。この時、漢字の読めない首相(麻生氏のこと?)の時
でしたが、こういう人が首相になるという事態の中に何があるのか、ということを考えましょう、
と言った。

保坂氏は続けて、立花の歴史認識について補足しています。

彼のなかには、この時代、日本はかなり衰退に向かっているという危機意識があり、同時に自分
と同じように戦後民主主義を作ってきた世代が世代的に役割と責任がある。

世代の役割を自覚しながら次の世代に託してゆこう。それは戦争体験の検証をきちんと伝えるこ
と、戦後民主主義のもっている長短を含めて伝えてゆくこと、なぜ戦前を批判するのかという強
い姿勢を明確にするということ。そういうことが彼の中にあったんだなあ、と思う。

なぜ戦前の指導者は、数字を見れば明らかに連合軍に劣っているのに戦争に突入したのか。それ
は数字のパラメータをいじって、アメリカと五分五分で行けるんだという自己充足感を(当時の
指導者が)もったから。そういうシステムや官僚的発想を克服しなければいけない、と彼は言っ
ている。戦争の反省とはそういうことだ、と彼は言っている。単なるヒューマニズムとは異なる
論点から戦争を批判している。

そして立花は、自分たちの世代がしなければならないこととして、
我々の世代は戦争体験をきちんと書き残すことだよね。ただ大事なことは、長崎、広島の原爆で
亡くなった方、戦争で亡くなった方、その遺族、そういう人たちがみんないなくなった時、日本
はどうなっているんだろう。

だれが語り継ぐのだろうか。経験者、体験者が一人もいなくなったら日本社会は空恐ろしいよね。
私たちは伝承する継承するということに関して、本当に体験者が一人もいなくなったとき、なん
だ昔話思い出話で終わってゆくという形で戦争が語られてゆくならば何の意味もない。

おそらく、現在の日本人の大部分は、日本は「先進国」で豊かな国だと思っているでしょう。しか
し、立花氏は、資本主義国の中で最も衰退の方向に向かっている、という危機意識が政治の指導者
にも国民にもないことに立花氏は強い危機感を感じています。

番組の司会者である松原氏は、以前、『ニュース23』の司会をしていた2011年12年ごろ立花氏に
出演してもらったことがあるそうです。その時立花氏が、強く言っていたのは、現在の日本の財政
赤字はローマ以来、それ以上ひどい借金があり、それをおそらく返せないだろう。それなのに、将
来世代に押し付けようと平然している。どうなってしまったんだこの国は、と嘆いていたそうです。

また、『報道1930』のコメンテータの堤 伸輔氏(TBS)は、立花氏が語った2009年以降、
人口減、財政赤字、基礎科学に対するお金がどんどん削れられていて、2009年よりどの項目もひど
くなっている、と指摘しています。

もうすぐ76回目の「敗戦記念日」がやってきます。当時は、意図的に数字をいじって、アメリカ
と五分五分で戦える、との結論をひねり出し、自己満足して戦争に突入してしまったことを、決し
て忘れることなく、深く心に刻むべきでしょう。

このほか、日本が科学技術、特に基礎科学の研究に力を入れてこなかったこともその通りで、現在
猛威を振るっているウイルスの基礎研究にしても、それにたいするワクチン研究も、国を挙げて研
究費と人材と投入してこなかったため、現在のパンデミックに対するワクチンも治療薬も全て外国
に依存しています。

また日本人のノーベル賞受賞者の多くは、受賞時にこそ日本に在住していますが、その研究は外国
(特にアメリカ)での研究の成果なのです。

現在、首都圏を感染爆発が起こっている状況にたいしても政府は、なぜ、このような状況になってし
まったかを、真剣に検証していません。

それだけでなく、都合の良い数字だけをつまみ食いして、あたかも事態は抑えられている、良い方向
に向かっているかのようなメッセージを発信し続けています。

不織布マスクの争奪戦でも後れを取って、ほとんど利用されなかった布マスクで代用したり、頼みの
ワクチンも4月に国民全部に行き渡る量を確保してある、と豪語しておきながら、実は、足りなくな
っている状態です。

この状況について私は以前、「ワクチン敗戦」と書きました。

そして、現在、欧米諸国やイスラエルでは3回目の接種のためのワクチンの争奪戦を繰り広げていま
すが、一周遅れの日本には、この争奪戦が終わった後にならないと回ってきそうにもありません。

オリンピックの開会式に向けて来日したファイザー社のCEOに菅首相は、ワクチンを前倒しで日本
に売ってくれるよう要請しましたが、承諾を得られませんでした。

こうした状況を総合的に考えると、立花が伝えたかったことが、今の日本にとってとても示唆に富む
内容であったことが分かります。

つまり立花は、今の日本はすでに、戦争でいえば「負け戦」の状況にあり、「滅びるのが確実な状況
にある」という危機意識と現状の実態を冷徹に認識する必要がある、それに対して我々がすべき最善
の策は、敗戦のダメージを最小にすることだ、と言っているのです。

このような言葉から、彼は極端な悲観論を語っているように聞こえますが、そうではなくて、こうし
た厳しい現実を直視した上で初めて、日本を再建する方法性が出てくる、と言いたいのだと私は理解
しました。

もし、現実から目を背けて、反省もなく明るい将来展望だけを追い求めるならば、立花が言うように、
日本は本当に滅びしまうでしょう。


(注1)今回の記事は、2021年6月28日放送の(BS-TBSの報道番組『報道1930』)のうち、立花
    隆のシンポジウムでの発言と、同世代の盟友、作家の保坂正康氏の解説と見解を整理したもの
    です。なお、2021年6月30日のNHK『クローズアップ現代』も立花氏が伝えたかったこと
    を紹介しています。

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戸部良一ほか著『失敗の本質―日本軍の組織論的研究―』から学ぶ(1)

2020-12-24 11:21:38 | 歴史
戸部良一ほか著『失敗の本質―日本軍の組織論的研究―』から学ぶ(1)

新型ウイルスの拡散が東京を筆頭に全国に勢いを増して広がりを見せている中で、戸部良一ほか著
『失敗の本質―日本軍の組織論的研究―』(注1)が注目を集めています。

この本は初版の出版(ダイヤモンド社版 1984年)から35年も経っているのに、手元の中公文庫
版は2008年35刷になっていることからも分かるようにロングセラーの名著です。いかに多くの
人に読み継がれてきた名著であるかを示しています。

私自身ずっと気になっていて、読もう読もうと思いつつ、なかなか読む機会がありませんでした。

ところが、今年の春に、新型コロナウイルスが国内でもまん延し始め、政府の対応のまずさが問
題視されるようになると、再び「失敗の本質」に注目が集まるようになりました。

コロナの第一波が猛威を振るった4月には 、エッセンシャル・マネジメント・スクール代表の西
條剛央氏が「コロナ危機の日本に見る『前例主義』の病理 旧日本軍の失敗を繰り返すか」とい
う文書を発表しました(注2)

さらに、第三波がこれまで以上に大きな波となった12月4日には、岩田健太郎神戸大学教授が
「GoToは異常。旧日本軍のインパール作戦なみ」という記事(注3)を書いています。

直近では、『毎日新聞』デジタル版(2020年12月18日)が社内記者の論考として「まるで旧
日本軍?『GoTo』撤退に失敗した政権の『病理』」というタイトルの記事を書いています(注4)。

これら3つの論考はいずれも、今回のコロナ禍のまん延は政府の対応が失敗した背景に、かつて
の日本軍が抱えていた問題が繰り返されていることを指摘しており、その際、ここで取り上げる
戸部氏らの著作を引用しています。

また、書評という形で、初版の出版後36年経つのにいまだに版を重ねており、その理由として、
政府のコロナ対策での混乱は旧日本軍の過ちの反復であることを指摘していいます(注5)

これらの内容については次回以降に回すとして、今回は、本書の紹介として、この本がどんな問
題意識で、どのような視点から旧日本軍が抱えていた問題を見出したのか、という点に焦点を当
てたいと思います。

まず、本書の構成を示しておきます。
はしがき
序章 日本軍の失敗から何を学ぶか
一章 失敗の事例研究 (1 ノモンハン事件「失敗の序章」、2 ミッドウェー作戦「海戦の
   ターニング・ポイント」、3 ガダルカナル作戦「陸戦のターニング・ポイント」、4 
   インパール作戦「賭けの失敗」、5 レイテ海戦「自己認識の失敗」、6 沖縄戦「終局
   段階での失敗」
二章 失敗の本質―戦略・組織における日本軍の失敗の分析
三章 失敗の教訓―日本軍の失敗の本質と今日的課題
 
本書は、それぞれ専門も関心も異なる6人の研究者の共同作業の成果として出版されたものです。

6人の研究者が旧日本軍の研究を行う動機と、その際の方法論については「はしがき」で次のよ
うに述べています。
    われわれがこの研究会をはじめたそもそもの動機は、戦史への社会科学的分析の導入も
    あったのではないか。それならばもう一度原点に立ち戻って、もっと身近な戦史をみな
    おすべきではないか。たとえば日本の大東亜戦争史を社会科学的に見直してその敗北の
    実態を明らかにすれば、それは敗戦という悲惨な経験の上に築かれた平和と繁栄を享受
    してきたわれわれの世代にとって、きわめて大きな意味をもつのではないか。

こうした共通認識のもとで、敗戦の原因を日本軍の組織的特性に焦点を当てるというアプローチ
を採用することにしています(12ページ)。

しかも、研究書としての質的水準を確保すると同時に、できるだけ多くの人々に読んでもらうた
めに平易さも心がけたという。それは
    大東亜戦争の経験はあまりにも多くの教訓に満ちている。戦争遂行の過程に露呈された
    日本軍の失敗を問い直すことは、その教訓のかなり重要な一部を構成するであろう。
    日本軍の失敗の実態を明らかにしてその教訓を十分かつ的確に学びとることこそ・・・
    将来も平和と繁栄を保持していくための糧ともなるであろう(14ページ)

以上の問題意識は、本の構成にもはっきり示されています。本書が扱っている6つの作戦・戦闘
は、いずれも日本軍が大敗した事例です。一章でその本質を具体的事例に即して洗い出し、それ
らを二章で分析し、三章で、そこから導き出された失敗の本質を究明し、それが今日的にどのよ
うな意味をもっているかを検討しています。この意味で、本書はたんに歴史を過去のものとして
描き直すのではなく、今日的意義を提示するところまで踏み込んでいます。

内外におびただしい数の死者と破壊をもたらした戦争(日清戦争から第二次大戦前まで)の一つ
一つについて、関係者や研究者による徹底的な検証は行われてきませんでした。

しかし著者たちの心には、一方で「日本はなぜ負けたのか」という潜在的関心と、他方で、大東
亜戦争の貴重な戦史上の遺産を国民全体の共有財産にしよう、という強い意志があったという。

本書は、直接的には日本軍の組織的特性から敗戦の要因を探ることを目的としていますが、それ
が組織論というある意味で理論的(原理的)に検討することで、現代の日本の政治や経済の領域
においても適用可能なのではないか、むしろ過去の反省から現在と将来の日本にとって大切な研
究になるのではないか、という問題意識に基づいています。

日本の政府をはじめ組織は、物事の進行途中での中間評価・検討、そして終わってからの最終的
な評価・検討を行うことがほとんどありません。

今回のコロナ禍についても政府は、これが全て終了した後で検証を行う、としていますが、これ
までの第一波、二波の波が一段落した時に徹底的な検証を行うべきだったのです。

それをしなかったのは、結局、どこに問題があり、誰に責任があるかを明らかにしたくない、と
いう「逃げ」の姿勢が強いからなのでしょう。

戦争の検討に関して、ベトナム戦争が終結した後で、アメリカ側とベトナム側の当事者(軍人)
が膝を突き合わせて、長い時間をかけて作戦について詳細で具体的、かつ客観的に検証作業を行
いました。

過去の経験を客観的に再検討し、失敗の本質を探るこのような作業は決して無駄ではありません。
そこには学ぶべき多くの教訓があるからです。だからこそ、上にみたように、現在のコロナ禍に
たいする政府の混乱ぶりにたいして『失敗の本質』を引用しての批判が少なからず発表されてい
ることは、本書の現在的な意味をあらわしています。

本書があつかっている6つの作戦・戦闘はいずれも日本が敗北した事例です。それら一つ一つは
非常に興味深い内容を含んでいますが、ここで一つ一つの事例を紹介する余裕はありませんので、
個々の作戦・戦闘について関心がある人は本書を読んでいただくとして、ここでは著者たちが整
理した6つの作戦・戦闘に共通する「失敗の本質」、失敗の要因分析を挙げておくにとどめます。

本書では、日本軍の「失敗の本質」を大きく二つの側面に分けて検証しています。
一、 戦略的失敗要因
これには、①あいまいな戦略目的(軍隊という大規模組織の方向性を欠いたまま指揮し行動させ
たこと)、②短期決戦の戦略的志向(長期的展望がないので、たとえ短期的に勝利しても、長期
的展望がなく負けた場合にどのように戦うかが分からない)、③主観的な戦略感(情緒や「空気」、
必勝の信念 が支配的で科学的思考が欠如)、④狭くて進化のない戦略的オプション(奇襲戦法
だけが突出)、⑤アンバランスな戦闘技術体系(一方で巨大戦艦や戦闘機においては世界でも有
数の近代兵器をもちながら、他方で「風船爆弾」を開発したり、太平洋戦争では極めて重要なレ
ーダーやその他の通信機器、暗号解読技術などは非常に遅れていた)

二 組織上の失敗要因
ここには①人的ネットワーク偏重の組織構造(特に防衛大エリートの人的ネットワーク、情緒的
配慮が混在)、②属人的な組織結合(近代的な軍隊組織は、陸・海・空を統合し一貫性と整合性
を重視。しかし日本軍は、統合的研究はなく、それぞれの軍のトップの個人的考えが突出)、③
学習を軽視した組織(失敗の経験を蓄積し伝播を組織的に行うリーダーシップやシステムがなか
った)、④プロセスや動機を重視した評価(作戦の成功や失敗よりも、その動機(意図と「やる
気」)が指揮官の評価に。積極論者の失敗は大目に見るが、消極論者の失敗は厳罰に処された。

以上の他にも、個々の作戦や戦争における興味深い「失敗の要因」はたくさんありますが、それ
らについては別の機会にゆずりたいと思います。

                 注

(注1)著者は戸部良一、鎌田伸一、村井友秀、寺本義也、杉之尾孝生、野中都次郎の6人。うち、
寺本氏を除き、5人は防衛大の教員。(初版ダイヤモンド版 1984年、中央公論社版 第35刷
 1991年)、413ぺージ
(注2) 『DIAMOND online』2020.4.22 4:45
     https://diamond.jp/articles/-/235369?page=4
(注3)『AERA dot.』(2020年12月4日 08:02)
     https://dot.asahi.com/wa/2020120300010.html?page=1
(注4)『毎日新聞 デジタル』(2020年12月18日 12時05分(最終更新 12月18日    
    https://mainichi.jp/articles/20201217/k00/00m/010/255000c?cx_fm=mailyu&cx_ml=article&cx_mdate=20201218
(注5) Sankei Biz 2020年9月18日
     https://www.sankeibiz.jp/workstyle/news/200919/ecf2009190855001-n1.htm


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ドキュメント『ノモンハン』―日本はどこで間違ったのか―

2018-09-02 08:50:07 | 歴史
ドキュメント『ノモンハン』―日本はどこで間違ったのか―

毎年8月になると、メディアは一斉に日本の戦争についての映像を報道します。いうまでもなく、8月6日に
は広島に、同9日には長崎に原爆が投下されたこと、そして15日には日本が無条件降伏した日だからです。

私も幾つかのドキュメンタリーを見ましたが、中でも2018年8月15日放送のNHKスペシャル『ノモンハン
―責任なき戦い―』は、当時の日本軍のどこが間違っていたのかをつぶさに検証した見応えのあるものでした。

この映像の内容については後にくわしく紹介しますが、その前に、この映像が思い起させた私自身の昔の苦い
経験を書いてみたいと思います。一見ノモンハンとは関係ないようですが、私にとっては共通点があります。

高校2年生だった2月、私を含めて2年生が4人、1年生が6人(いずれも山岳部の部員)というメンバーで
南アルプスの前衛峰の登山に向かいました。

初日に大きく崩れたガレ場の底から登って稜線に出た途端、激しい吹雪に見舞われました。この時点で2年生
の2人は登山を断念し下山しましたが、私ともう一人の2年生は強行を主張し、そのまま登山を続けました。

2月といえば厳冬期で、しかもその年は想像を絶する深雪で、木のてっぺんが少し雪から顔を出している程度
でした。

吹雪で視界は遮られ、道標は雪の下で歩く方向も全く分からず3日間雪の中をさまよう中、1年生はバタバタ
と倒れ、いよいよ食料も尽きてしまいました。典型的な遭難です。

最終的には、何とか生還できたのですが、その経緯についてはここで書くことではありません。ただ、幸いに
も1年生を一人も死なせずに戻ってくることができたのは奇跡的な僥倖でした。今、思い出しても背筋が寒く
なります。

大学でも山岳を続けましたが、山の鉄則は、道に迷った時、間違いに気づいたらそのまま進まず、分かる所ま
で戻ること、そして登山が無理だと判断した場合にはできるだけ早く撤退することを学びました。

さて、『ノモンハン』に戻りましょう。「ノモンハン」とは今日では「ノモンハン事件」と言われますが、戦
闘の規模と内容からすれば「ノモンハン戦争」というべきしょう。

「ノモンハン」とは、満州国とモンゴル人民共和国との国境に近いノモンハンで1939年5月から9月にか
けて、日本とモンゴル・ソ連とが国境をめぐって争った軍事的衝突のことです。

「ノモンハン事件」の取材を続けていた司馬遼太郎は、当時の軍幹部の言動記録やインタビューを通じて、彼
らのあいまいな様に嫌気がさし、「一体、こういう馬鹿なことをやる日本とは何か、日本人とは何か」と絶望
し、結局執筆を断念しました(「『昭和』という国家」。

今回、新しい資料が見つかり、この戦争の実態と日本軍の上層部の無責任なありようが、隠しようもなく明ら
かになりました。

新しい資料の一つは、南カリフォルニア大学に保管されていた150時間にわたるインタビューの音声記録と
NHKによる若干の追加インタビュー記録による、合わせて44人の元日本人将兵の証言です。

もう一つは、ロシアに保管されているノモンハン戦争に関する、カラー編集した実写映像です。

これらの証言資料が明にしたことの一つは、ノモンハン戦争を終始主導したのは、当時の関東軍作戦参謀の辻
政信少佐だったことです。彼は、1938年に「満ソ国境紛争処理要項」を関東軍の参謀会議に提出しました。

この中で辻は、弱気に出ればかえって事件を誘発する、「寄らば切るぞ」という威厳を備えることが問題の解
決につながる、と主張しています。さらに「要項」は、必要なら東京の参謀本部の許可を得ることなく現場の
部隊の判断で国境を越えてでも軍事行動を起すべきである、と提案しています。

この「要項」はたいした反対もなく他の参謀もあいまいなまま事実上了承しました。

しかし、東京の大本営参謀本部(以下、参謀本部と略す)も天皇も、新たにソ連との戦争を望んではいません
でした。というのも、当時すでに85万人の兵力を日中戦争に投入していたからです。

当時関東軍を訪れていた稲田正純参謀本部作戦課長は、辻参謀と話し、彼の主張と作戦を黙認して東京に戻り
ます。そして、東京の参謀本部では、ノモンハンに関してこれ以上東京が関与する必要はない、関東軍に任せ
ておけば良いと主張したところ、この時もあいまいなまま黙認されてしまいます。

辻はかつて陸軍大学をトップクラスで卒業した優秀な人物との評価があり、若い彼の主張には上司も反対しに
くかったようです。

こうした中、辻は事態を打開するため、と称して国境を越えて空爆を開始してしまいます。

規則によれば、国境を越えて戦闘を行う場合、東京の参謀本部を通じて天皇の裁可が必要ですが、関東軍はこ
れを無視したのです。もはや30万人の実力部隊をもつ関東軍は中央もコントロールできませんでした。

当時の軍幹部によれば、「天皇の命令は絶対なはずだけど絶対ということはない。どうにでもなるんですよ」
と証言しています。

この時、辻の頭の中には、スターリンはドイツとの対立があるから、日本には本気で向かってこないだろう、
との勝手な思い込みがあったようです。

また、ソ連軍がノモンハンまで物資を運ぶには650キロもの長距離を走破する必要があります。関東軍は、
そのようなことは想定さえできなかったのです。

しかしスターリンはすでにドイツとの不可侵への道を歩んでおり、兵力をソ満国境の方に振り向けていました。

ソ連側の資料よれば、2年前からノモンハン近くに武器・弾薬・食料を運び、分かっているだけでも1500
の豪の中に貯えてあったのです。その量はトラック9000台分に達し、豪の中には時速50キロで草原を走
行できる新型戦車が800台もありました。

小競り合いが続いた後、ソ連軍は8月、ついに総攻撃に出ます。ソ連・モンゴル軍の兵力は5万7000人、
関東軍は2万5000人でした。

ソ連軍は最新の戦車と銃火器と航空機で装備していたのに対して、日本軍は、明治38年(1905年)に正
式配備された「三八銃」(歩兵小銃)だったのです!ほとんど竹やりで近代兵器に立ち向かう構図でした。

辻は、ソ連軍などは、パパ―ンとたたいてしまえばそれまで、「牛刀をもって鶏を割く」と豪語するほどソ連
を見くびっていました。

当時、ドイツ・ロシア関係を巡る国際情勢の変化について、またソ連軍が鉄道で武器・弾薬・食料を列車で東
の方に運んでいたのを知っていた日本人がいました。

それは、ソビエト駐在武官の土居明夫でした。彼は、これらの情勢を日本の参謀本部に報告し警告していまし
たが、戦闘モードに入っていた関東軍に無視されてしまいました。

ノモンハンの戦いで生き残った当時の兵士(101才)は、塹壕から見ると戦車が列をなして進んでくるのが
目に入り、それを見たときもうだめだと思ったという。

日本軍の兵士は大声で叫びながらソ連軍に向かって突進してゆきますが、集中攻撃を浴び「ジョウロで水を撒
くように、さーっと消えていった」と話しています。

とくに北部陣地フイ高地は5000人のソ連軍に攻撃され、あっという間に800人のうち300人が死亡し
てしまいました。そこで、井置部隊長は撤退を命じ、続いて小松原師団長も他の陣地部隊も含めて全軍撤退を
命じました。

日本軍はそれまでの戦争で最大の2万人の死者を出し、国境線の拡大もできないまま(つまり何の成果もなく
ただ多数の犠牲者を出しただけで)、みじめな敗北を喫したのです。

東京では、誰が責任をとるのかが議論されましたが、主導者の辻参謀は自らの責任を認めず、それどころか責
任はわずか300人の死者を出しただけで撤退した井置栄一中佐にあると主張します。

東京の参謀本部の誰も責任をとらず、現場の責任者で全軍の撤退を命じた小松原師団長は関東軍の参謀会議で、
相談もなく撤退した井置中佐に全ての責任を押し付けて自決すべきだと主張しました。反対意見もありました
が、小松原師団長は同じ主張を繰り返すだけでした(実際、間もなく自殺を決行)。

当時、井置中佐に拳銃を渡した人物は、「黙って拳銃を置いてきた」と言っていた、との証言があります。

司馬遼太郎の絶望とは、『坂の上の雲』(明日の栄光)を夢見て必死で生きた明治期の日本と日本人と比べて、
昭和の軍人は何と無責任で卑怯になってしまったのか、日本とはこんな国だったのか、との深い深い絶望だっ
たのでしょう。

しかし、部下に責任を押し付けて自分は知らん顔をする体質は、第二次世界大戦においても、現在の政治家や
官僚の間でも変わっていないなあ、と私は思います。

ところで、ノモンハン戦争の失敗はどこで間違ったのでしょうか、どこかで引き返すチャンスは無かったので
しょうか?

「敵を知り 己を知る」ことが戦争の大原則ですが、日本軍は敵も己も知らなかったようです。ソ連がドイツ
との戦争回避に動いていることを知らされても、日本には向かってこない、という勝手な思い込み、ソ連の兵
力を過小評価していたこと、そして日本軍の力を過大評価していたことです。

そして、これら全てを包んでいた最大の問題は、軍幹部の無責任体制です。しかし、それでも、ソ連駐在武官
がソ連軍の実態と国際環境の変化についての警告を無視した時、無残な敗北を避けることができた最後のチャ
ンスが失われました。

もう一度、私の苦い体験に戻ります。私には、危険な登山を中止し引き返すチャンスが何回もありました。ガ
レ場を登りきったところで吹雪に遭った時、仲間の二人が下山した時、1年生がバタバタと倒れていった時、
食料が尽きた時、などなどです。しかし私は、引き返すより前に進んだ方が助かる可能性は高いと思い、引き
返す勇気がなかったのです。

想像を絶する深雪を想定できず、冬山装備も万全ではなく、つまり冬山を甘く見たままで決行した愚かな登山
でした。まさに「敵も知らず 己も知らず」の状態でした。

責任感の問題は別にして、間違いに気が付いた時に撤退する勇気と冷静さを欠いたために悲劇を招いた、とい
う点で私は、紹介した映像に登場する軍の幹部と同じ過ちを犯したことを改めて深く反省しました。

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