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大木昌の雑記帳

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イチロー引退の衝撃(2)―アメリカ社会はイチローに何を見て何を評価したか―

2019-03-31 07:24:58 | スポーツ
イチロー引退の衝撃(2)―アメリカ社会はイチローに何を見て何を評価したか―

前回は、3月21日の夜、東京ドームに駆けつけたファンが、深夜になっても帰る人もなくイチローに
別れを惜しんだ、筋書きには無かった感動的なドラマについて書きました。

それではイチローの本拠地、海の向こうのアメリカでは、イチローの引退にたいしてどのような反応が
あったのでしょうか?

まずは、イチローが所属していたマリナースの本拠地の『シアトル・タイムス』(3月21日)です。翌
日の見出しは 「永遠の感謝」(Forever Grateful) で、多くの関係者の声が寄せています(注1)。

オーナーのジョン・スタントンは、次のように感謝を述べています。
    イチローは2001年に外国人選手にとって新時代の開拓者としてやってきて、衝撃を持って切り
    拓いた。彼が日々みせる技術、情熱、準備、これらは真に偉大な者だけが選手生活を通じて成
    しえることができる。我々は、彼がマリナーズとメジャリーグたいして行ってくれた全てに感
    謝します。個人的には、彼が最後の年に私に与えてくれたアドバイスと洞察に感謝します。

2001年にスカウトマンとしてイチローと会った ジェリー・ディポトGMは、彼を選手としてだけ
でなく、人間としても尊敬している、とコメントしています。

マリナーズの大先輩で殿堂入りをしているケン・グリフィー・ジュニアは、「イチローは日米の壁を取
り外し一つにした偉大な選手」、と称賛しています。そして、イチローが殿堂入りするのを楽しみにし
ている、と締めくくっています。

スコット・サーヴァイス監督は、
    監督として、また一ファンとして、私は彼が登録名簿から消えてしまうことが淋しい。しかし、
    個人的に言わせてもらえば、彼が年間を通じて私たちとともにいてくれることを知って喜んで
    います。昨シーズンにおいても、彼と交わした会話、彼が与えてくれた洞察と大局観は本当に
    価値あるものでした。イチローは信じられないほどの実績をもっています。私は、イチローの
    監督という特権を与えられたことが幸運で名誉なことだと感じています。

ジェフ・アイデルソン野球殿堂・博物館の館長は称賛しています。
    イチローは途方もないプロ精神、尊敬、情熱、日本から持ち込んだ特徴をもって、アメリカの
    野球に品格を与えてくれた。・・彼はどの試合においても優美さとスタイルと驚くべき一貫性
    を発揮していた。彼の多くの業績は殿堂入りに値するものです。・・・彼の成功がとても意義
    深いものであるというのは、彼が生まれ育った文化とは全く異なる文化の中で生活しながらも、
    これだけの業績を達成したからです。

『シアトル・タイムス』紙はマリナーズの本拠地の新聞であるから、関係者の称賛と感謝の声が多く寄
せられているのは当然ですが、その他のアメリカのメディアはどんな反応をしたのでしょうか。

まず『ニューヨーク・タイムス』紙は「45才でイチローは日本のパイオニアとしてのキャリアを終え
た」と淡々と事実を伝えました。

ところが同じニューヨークの新聞でも、『ニューヨーク・ポスト』(日本でいえば『東スポ』のような
新聞だそうです)は、
    イチローはエルビス・プレスリーとベーブルースとビル・ゲイツを一人にしたような存在だっ
    た。彼は象徴であり、アイドルであり、神話だった。
と、日本の新聞でも書かないような、最大限の賛辞を送っています(注2)。

『ワシントン・ポスト』紙は、“引退するイチローはマドンナのようだ”との見出しで、かつての同僚、
長谷川投手の言葉を引用して、“彼はたんたる野球選手ではない。マドンナやマイケルジャクソンと同
じような存在だ」と書いています(注3)。

しかし、何といっても世間を驚かせたのは、イチローをこよなく尊敬し、引退試合となったあの夜に大
粒の涙を浮かべていたチームメイトのディー・ゴードンが、3月29日の『シアトル・タイムス』1面
の全面広告という形で、イチローへの感謝を表わしたことでした(4)。かなり長文なので、彼の気持
ちがこもっている部分だけを抜き出して引用しておきます。
    
    ありがとう イチロー
    まず初めに、僕の素晴らしい友人でいてくれて、そして今までで1番好きな野球選手でいてくれ
    てありがとう。・・・
    僕が野球を始める前、あなたを見て「ワオ、彼は僕みたいに細いのに...彼ができるなら僕にだ
    ってできるだろう!」と思ったのを覚えています。あなたの姿が、僕に野球をやりたいって思
    わせてくれたんだ。・・・・
    エイボン・パーク(Avon Park:フロリダ州にあるゴードン選手の出身地)に住んでいた少年時
    代から、あなたは僕のヒーローだった。
    あなた以外はみんな、ホームランを打つようなスラッガーだった。でもあなたは自分に、あなた
    の仕事に、プロセスに、そして1番大事な...あなたの文化に忠実だった。周りの選手は僕らの倍
    くらい大きいけれど、不可能はない。このスポーツで、僕がやりたいこと何でも、すべてが可能
    だと、あなたは見せてくれたんだ。・・・・・
    でも2015年、僕がマイアミに移籍すると、数日後、なんとあなたもマイアミと契約したんだ!
    僕は嬉しすぎて飛び上がり、親友に叫んだんだ。「聞いてよ!イチローとプレーできるんだ!ま
    じかよ!この僕が?嘘だろ!?」ってね。・・・・・
    あなたがやっと到着して、僕があなたに挨拶に行ったら...もう、あなたはめちゃくちゃ優しか
    ったよね。あなたは、僕を可能な限り支援してくれる、と言った。誓うよ、あれは嬉しかった。
    今でも僕は「僕はイチとプレーしてるんだぜ!小さいエイボン・パーク出身の僕がだよ?」って
    信じられないくらいです。・・・・
    そしてあなたの「秘密」を教えてくれていなければ(大丈夫、絶対言わないから!)、今の「打
    撃王・ディー・ゴードン」は誕生していなかったよ。

もう説明は不要ですが、イチローがいかに尊敬され愛されているかが、良く分かります。

ところで私はオリックス時代から優れたアスリートとしてイチローを高く評価していましたが、偶然、イ
チローがシアトル・マリナーズに移籍した2001年の1年を振り返るドキュメンタリーを見て,大げさ
でなくショックを受けました。それは、『シアトル・タイムス』のベースボール担当のスポーツ記者の目
をとおしてイチローを追ったドキュメンタリー(英語版。日本語訳付き)でした(注5)。

このドキュメンタリーを見て、日本では想像もできないほどアメリカ社会でイチローは高く評価され、愛
されていることをに驚きました。

イチローは渡米初年度の、2001年ルーキー・イヤーに、首位打者、ア・リーグの新人王とMVP、最
多安打、と次々と金字塔を打ち立ててゆきました。これにはアメリカの大リーガーたちもさすがに驚嘆し
ました。

しかし、私がイチローに興味をもったのは、野球人としてのイチローよりはむしろ、人間として、そして
日本文化の体現者としてアメリカ社会に与えた文化的・社会的なインパクトでした。

たとえば、彼がマリナーズの他のスター選手と一緒にシアトルの小学校を訪れた時、教室に集まっていた
生徒は、まだイチローが現れる前からもう興奮状態でした。

校長先生は、一生懸命静かにするように語りかけますが、止まりません。

“この子どもたちは自分たちがいかにラッキーであるかを知っています。それはイチローがくるからです
・・”とのナレーションに続いてイチローが入ってくると、子どもたちの興奮は絶頂に達します。子ども
たちの目は大きく見開いたままです。

イチローの話が終わって、みんなで床に座ってマリナーズの試合の映像を見る時、イチローがゆっくりと
歩いて子どもたちの間に入って一緒に座ります。

すると、周りの子どもたちは一斉にイチローの首に抱きつき、全身でイチローへの想いを現します。

こんな風に受け入れられた日本人選手はいたでしょうか?子供は正直でストレートです。

また、イチローの出現は、アメリカに住むアジア系のアメリカ人に大きな自信と誇りを与えました。彼ら
は口々に、アジア人のイチローは,体は小さくても、ここまでやれるんだ、という事を示してくれる、と
絶賛しています。

ワシントン大学のある教授が行った調査が紹介されています。それによれば、アジア系の若者に、「希望
を与えてくれる人物は誰か」との質問の答えは、一位がイエス・キリストで75%、そして次が何とイチ
ローで25%なのです!

このほか、ここで紹介できないくらい、イチローがアメリカ社会に与えた影響が多方面に及んでいます。

たとえば、試合が始まる夕方、“夕食の支度をする主婦の手を止めさせたのはイチローだけです”という
のも面白いエピソードの一つです。

実は、それまで私は、野球をたんにスポーツの一つとしてしか見ていなかったのですが、この映像をみて
から、それは非常に大切な「文化」でもあるという認識を新たにしました。

この映像を見て以来十数年、今での、異文化との出会いをテーマとする私の授業で、毎年、イギリスの貴
族的なクリケットを変換して、庶民の「ベースボール」というアメリカのスポーツ文化を生み出した歴史
と、そこに日本的な「野球」を持ち込んだ日本人のイチローの意義を講義で取り上げています。

先に触れた、ディポト・ゼネラルマネジャー(GM)がイチローを「ダライ・ラマのような存在だ」と評し
たように、アメリカ社会はイチローの中に、たんなる優れた野球選手以外に日本的な、というか東洋的な
精神性をみたようです(注6)

このブログでも「イチローの本当のすごさ」という全体のテーマで2013年の8月27日(「4000本安
打に込めたメッセージ」)、9月1日(「ベースボールに「野球」を持ち込んだ男」)、9月6日(「人
間イチローとアメリカ社会」)の三回にわたってを書いていますので、関心のある方はお読みください。

イチローが今後、どのような方向に進むのか、彼は全く語っていませんが、マリナーズ球団としては、か
なりの確率で、彼はマリナーズのフロントに入り、アドアイザー的な役割を果たしてゆくようです。

(注1)https://www.seattletimes.com/sports/mariners/forever-grateful-reaction-to-ichiros-retirement-from-around-baseball-seattle-sports-world/">https://www.seattletimes.com/sports/mariners/forever-grateful-reaction-to-ichiros-retirement-from-around-baseball-seattle-sports-world/
(注2)https://nypost.com/2019/03/21/ichiros-greatness-defined-by-risking-it-all-to-come-to-mlb/
(注3)https://www.washingtonpost.com/sports/2019/03/21/japan-baseball-is-king-retiring-ichiro-suzuki-is-like-madonna-michael-jackson/?utm_term=.92805d004f15
(注4)https://www.seattletimes.com/sports/mariners/thank-you-ichiro-dee-gordon-takes-out-full-page-ad-in-the-seattle-times-dedicated-to-ichiro/
全文と日本語訳は https://www.huffingtonpost.jp/entry/ichiro-dee-seattle_jp_5c9d7ae5e4b00ba63279b8f1
(注5)NHKのBSで放送されたものを録画しましたが、残念ならが放映日時と正式なタイトルは、録画した映像には記録していません。
(注6)『日経新聞』電子版(2019/3/22 1:59)https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42755840S9A320C1UU2000/?n_cid=NMAIL007
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イチローと出迎えるチームメイトとゴードン選手 出典は(注4)               イチローと抱き合うゴードン選手 出典は(注4)



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イチロー引退の衝撃(1)―あの夜 何が起こったのか!?―

2019-03-24 10:17:14 | スポーツ
イチロー引退の衝撃(1)―あの夜 何が起こったのか!?―

2019年3月21日、イチローは28年間という長いプロ野球人生を終え、引退を表明しました。

あの日の夜、アメリカ。メジャーリーグの開幕戦の二日目、アスレティック対マリナーズの試合の途中で、
イチローが現役を引退することがニュースで流れた瞬間から、東京ドームに異様な空気が流れたという。

それは、テレビを通じても伝わってきました。

そして、いよいよ彼の現役最後の打席になるだろうイチローがバッター・ボックスに立った時、イチロー
の最後の雄姿を目に焼き付けようと球場に詰めかけた4万6451人のファンはもちろん、テレビを見て
いた人も、“一本 打ってくれ”と悲痛な思いで祈っていたに違いない。

イチローが打った打球は、それほど勢いもなく三遊間に転がってゆきました。

これが現役最後の打席になることが分っていても、イチローは6球目まで粘り、そして全力疾走で一塁に
走りました。しかし、非情にも、ほんのわずかな差でアウトになってしまいました。

ゆっくりと、ホームに戻るイチローに対して、球場からは大きな拍手がずっと鳴り響きました。

そして8回裏、マリナーズの守りの回に、いつものようにライトの定位置にかけてゆくイチローの姿を目
に焼き付けようと、ファンはじっと見つめていました。

そして、当たり前のように、守りに場所に着いたとき、マリナーズのスコット・サーバイス監督は、ホー
ム・ベースのところで、何やら主審と話していたかと思うと、イチローの方を指さして交代を告げました。

あの夜の本当のドラマ、誰も予想すらできなかったドラマの第一ラウンドはこの交代から始まったのです。

そして、イチローは観客にむかって両手を挙げて挨拶し、ゆっくりとホームに帰ってきました。

三塁ベンチ前では、マリナーズのチームメイト・スタッフが出迎え、イチローは感謝の気持ちを込めて一
人ひとりと抱き合いました。

あと一人で勝ち投手の権利を得ることができたのに途中降板した菊池雄星投手は、イチローに優しくハグ
されたとき、イチローの言葉を借りると、号泣していました。

恐らく自分が勝ち投手として、イチローの引退に花を添えられなかった悔しさがあふれてきたのでしょう。
しかし、あの夜のイチローと一緒にグラウンドに立ち、イチローと抱き合って言葉をかけてもらったこと、
そしてくやしさは、彼のとても大切な心の財産になることは確かです。

試合後の記者会見で、記者から、あの時菊池投手に何と言ったのですか、と聞かれてイチローは、あれは
二人だけの会話だから、彼の方で言うのは構わないが、自分の方からは言えない、と答えています。

この場面で、相手チームのアスレティックスの選手も全員立ち上がってイチローを拍手で迎えました。イ
チローが、メジャーリーグの選手から、いかに尊敬され愛されていたかが分かります。

それにしても、スコット監督は、なぜ、イチローを一度は守備につかせ、そして交代させたのでしょうか?

恐らく、交代はその前から決まっていたのでしょう。しかし、もし、何もなく回の最初からイチローを引
っ込めたとしたら、観客が、ああいう形で彼の引退を惜しみ、感謝の気持ちを表わすチャンスを奪ってし
まうことになったでしょう。

私は、これは間違いなく、サーバイス監督のイチローに対するリスペクトと、日本のファンに対する感謝
の気持ちを、ああいう形で表わした“粋な計らい”の演出だったと思います。

これが、ドラマの第一幕だとすると、第二幕は、延長12回、マリナーズが勝利しゲームセットとなった
後に起こりました。

時間はもうすぐ日付が変わろうとする深夜、球場にはもう選手は誰もいません。しかし、ファンは誰も帰
りません。

11時23分、「イチロー」という観客の大歓声に応えるように、イチローが三塁側から姿を現し、全て
の観客に感謝の意を込めて、手を挙げてゆっくりと球場を一周すると、全員、総立ちとなって、「ありが
とうー」「ご苦労さまー」「イチロー」、あるいは言葉にならないうめきのような声が一体となって球場
にうねりのように響き続けました。

あの場面に取材のためグラウンドにいた、メジャーリーグに在籍したことがあるある選手によれば、ずっ
と鳥肌が立ちっぱなしだった、と感想をもらしています。

イチローは会見で、今回の二試合で1本もヒットを打てなかったことが残念だと本音をもらしましたが、
深夜になっても帰らずに、深夜まで彼の引退惜しみ、同時に感動を与えてくれたことへの感謝を表わす
イチロー・コールはかれにとっても予想外だったようです。

会見の席で、“球場での出来事・・・ あんなこと見せられたら、後悔などあろうはずがありません。
死んでもいいというのはこうゆうことなんだろな”ともらしました。この時ばかりは、彼の目にうっすら
と涙がにじんでいたように見えました。

映像でみると、観客の中には、あまり普段の試合には球場に足を運びそうもない年配の女性も含めて、さ
まざまな人がいました。

言葉にならず泣いていた人の姿もたくさんありました。

それにしても、考えてみれば、一人の野球選手の引退です。しかし、私個人の思い入れも込めていえば、
あの日の夜は、普段は野球に感心などない人も含めて、日本中がイチローの引退を悲しんだ、社会現象
だったのです。

それは翌22日の朝から、各テレビ局が1日中、深夜の引退会見の様子を伝え、スポーツ紙はいうまでも
なく、一般紙も一面にイチローの引退を伝えたことからも分かります。

大げさに言えば、日本国中が、言葉にするのは難しいのですが、何とも言えない困惑というか興奮状態
にありました。

一体、日本人というか日本は、イチローの引退に何を見たのでしょうか、そして何を彼に託していたの
でしょうか?

恐らく、これは人さまざまだと思います。

一つは、誰もが言う、彼が残した偉大な記録です。28年間に、日米通算4367安打、という途方も
ない記録、そして、新たに打ち立てた数々の記録です。

イチローがこれまで打ち立てきた成績がどれほど超人的なのかは、日本でもアメリカでもプレーしてき
た、あるいは現役の選手ならわかります。

しかし、今回の引退にまつわるイチローへの賛辞と引退を悲しむことにはならなかったでしょう。

二つは、イチローが28年間、ケガもせずプレーし続けたことに対する、いまさらながらの驚きと敬意
です。スポーツにケガはつきもので、ほとんどのアスリートがケガに泣き、ケガのために引退せざるを
得なくなったアスリートも珍しくありません。

しかし、イチローは、毎日、決して生活のリズムを崩さず、淡々と、しかも手を抜くことなくやるべき
トレーニングを続け、万が一にもケガで休場などしないよう、自己管理を実戦してきました。

引退会見で、この点について聞かれてイチローは、“私はお金をもらっていますから”とさらりと答え
ています。つまり、お金をもらってプレーしているのだから、自己管理が悪くてケガなどしたらファン
やチームメートに申し訳ない、と言っているのです。

三つは、こうした地道な努力と真摯に野球に向かう姿に、彼の中に、今日の日本人の中にはほとんど失
われた一種の「武士道」の姿、野球の選手というより一人の「求道者」の姿をみていたのではないでし
ょうか。あの独特のバットの構え方も、武士が剣を構えている姿を連想させます。

もう一つ付け加えるなら、有名になっても偉ぶるわけではなく、ひたすらに自己研さんを積む、これも
現代の日本人には失われつつある、イチローの”ひたむきさ”、”純なるもの”に多くの人は惹かれた
のではないでしょうか。

四つ目は、私はこれがもっとも重要だと思っているのですが、私たちは無意識のうちに、日本人として
の誇りを、イチローに託していた、ということに、引退を目の当たりにして今さらながら気が付いた、
ということです。

メジャーの選手の間では小柄な体で、努力と工夫によってあれだけの成績を残したイチローは、まさに
素晴らしい日本人の代表、誇りなのです。

考えてみれば、私たちには今、世界に向かって誇れる日本人が何人いるでしょうか?もちろん、各分野
には世界的に有名な人材はいます。

たとえば、スポーツの分野でいえばフィギュアー・スケートの羽生結弦選手はその一人でしょう。その
ほか、科学者の分野ではノーベル賞受賞者も何人かいます。

しかし、こうした優れた日本人に対して、まさに老若男女がこぞって心の中で誇りに思っているかどう
かは分かりません。

この点イチローには、日本国内だけでなく、アメリカにおいても多くの人が尊敬し、畏敬の念を抱いて
います。

体格では他のメジャーリーグの選手より劣るけど、努力と頭脳を使ったプレーで、アメリカの野球の記
録を次々と破ってゆくことができるんだ、ということを体現してくれているのがイチローという一人の
野球選手であり、人間イチローなんだ、という誇りが、心のどこかにあったに違いありません。

イチローが渡米したのは1991年、平成3年のことでした。そして今年、平成31年で平成は終わろ
うとしています。

イチローのアメリカでの活躍は平成とともに始まり、平成とともに終わろうとしています。

今回のイチローの引退は、イチローに仮託した「日本」そのものの一つの時代の終わりを確認させられ
た、社会的な“事件”だった、のではないでしょうか。

次回は、私の個人的な思いを込めて、引退会見の背景を探ってみたいと思います。

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最後の打席に立つイチロー ほとんど真剣を構える剣士のようです                 ファンに別れを告げるイチロー 緊張から解放された穏やかな表情です


    

 『東京新聞』(2019年3月22日より)                           『東京新聞』(2019年3月22日より)





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北方四島返還交渉(2)―ますます遠のく返還―

2019-03-17 07:17:16 | 国際問題
北方四島返還交渉(2)―ますます遠のく返還―

1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約において「日本は千島列島に対するすべての権利
を放棄する」ことを受け入れました。

ここで、「千島列島」の具体的な範囲が今日まで問題となっていますが、この問題を考えるために、
もう一度、少し時間を戻して、日本と日本政府の立場を追ってみましょう。

サンフランシスコ講和条約に先立つ5年前に、日本政府は、国後・択捉に関しては事実上、放棄し
たとの見解をとっていたからです。

1947年10月8日の参議院外務委員会で領土に関する政府の公式見解が示されました。その際、
北方四島に関しては、「国後島、択捉島は千島列島に含まれる。歯舞諸島と色丹島は千島列島に含
まれない」というものでした(注1)。

国後・択捉ははっきりと千島列島に含まれる(つまり放棄した島である)ことを認めていますが、
歯舞・色丹島に関しては、「千島に含まれない」との表現だけで、はっきり日本の領土である、と
は言っていません。

この国会では、政府側の説明委員からさらに気になる発言がありました。
    千島につきましては、御承知のように北海道の端からカムチヤツカに互る約二十五ばかり
    の島が弧状を描いて並んでいる、この全体を千島列島と総称いたしておるわけであります。

この説明からすると、千島とは北海道からカムチャッカ半島まで全ての島を含んでいることになり
ます。この場合、当然、国後・択捉だけでなく歯舞・色丹も含まれてしまいます。

1950年3月8日の衆議院外務委員会で、国後・択捉がヤルタ協定でいう千島に含まれているか
どうかが議論されたとき政府委員の島津久大外務事務官は、
    ヤルタ協定の千島の意味でございますが、いわゆる南千島、北千島を含めたものを言つて
    おると考えるのです。ただ北海道と近接しております歯舞、色丹は千島に含んでいないと
    考えます。

と説明しています。しかし、地図をみれば明らかなように、接近の程度でいえば、少なくとも国後
島は色丹島より知床半島に近い位置にあります。ここは、日本政府としても苦しい説明です。

続いて、サンフランシスコ講和条約の調印直前の1951年8月17日の衆議院本会議で全権大使
となる吉田茂首相は講和会議に臨むにあたって、「日本領土なるものは、四つの大きな島と、これ
に付随する小さな島に限られております。すなわち、それ以外の領土については放棄いたしたので
あります。」と発言しています。

この段階に至っても日本政府は、「これに付随する小さな島」が具体的にどれを指すのかをはっき
り示していませんが、当時吉田茂首相は「国後・択捉は南千島」、つまり、放棄した千島列島に含
まれる、との立場でした。

講和条約の締結と同時に、後に北方四島の返還に大きな障害となる「日米安保条約」が締結されま
した(1960年に新安保条約として改訂)。

こうした背景の下で、日本は1956年10月19日に、「日ソ共同宣言」が鳩山一郎首相とソ連
のブルガーニン首相がモスクワで調印し、同年12月12日に発効しました。

この「共同宣言」では、①ソ連は日本の利益を考慮して、歯舞群島および色丹島を引き渡すことに
同意した、②ただし、これらの島は平和条約締結後に引き渡される、とされています。

「共同宣言」では国後・択捉には全く触れてはいませんが、これが、現在プーチン大統領と安倍首
相との間で行われている、今日の日ロ国交回復・領土返還交渉の出発点であり根拠です。

ところが、「共同宣言」の前提となる平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還(四島一括の返
還)を要求する日本と、平和条約締結後の二島返還で決着させようとするソ連との間で妥協点が見
出せないまま、開始が延期されました。

日本政府は、それまで国後・択捉を日本は放棄する、との見解を否定し、国後・択捉・歯舞・色丹、
これら四島は全て「日本固有の領土」という主張に転換していたのです。したがって、領土返還交
渉とは今日でも、建て前としては「四島一括返還」が日本の立場、ということになっています。

「ダレスの恫喝」
それでは、51年から56年の間になにがあったのでしょうか? これに関しては、いわゆる「ダ
レスの恫喝」があったということが専門家の間では、ほぼ定説となっています(注2)。

事柄の性質上、「恫喝」が外交文書として残っているわけではありませんが、1955~1956年に行わ
れた日ソ国交回復交渉の際の日本側共同全権をつとめた松本俊一氏は当事者として次のように著書
(注3)で書いています。元外務省主任分析官の佐藤優氏によれば、松本氏の著書が、当事者によ
って書かれた唯一の文献だという。その内容は以下のとおりです;。
  
    1956年8月19日、重光葵外相はロンドンの米国大使館を訪れ、ダレス米国長官に歯舞群島、
    色丹島を日本に引き渡し、国後島、択捉島をソ連に帰属させるというソ連側から提示され
    た領土問題に関する提案について説明した。

これに対してダレスは激怒して、重光外相につぎのように言った、と書かれています。
    重光外相はその日ホテルに帰ってくると、さっそく私を外相の寝室に呼び入れて、やや青
    ざめた顔をして、「ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属
    せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とするということをいった」といって、すこぶる興
    奮した顔つきで、私にダレスの主張を話してくれた。

最近のプーチンの発言にも、56年の共同宣言ではソ連も歩み寄る意志はあったが、ダレスが日本
を脅し、四島一括返還を主張させたこと、これが現在でも障害になっていることを述べています。

以上の経緯を長々と書いたのは、その後の日ソ・日ロ交渉をみていると、問題の根源が見えてくる
からです。

前回書いたように、1945年のヤルタ会談で、樺太・千島列島を与えることを条件に、ソ連に日
本へ進行することを要請したのは、他ならぬアメリカのトルーマンでした。

それが56年になるとアメリカは、ソ連が絶対に呑めない「四島全面返還」を主張するよう日本に
迫ったのです。

アメリカは、日本とソ連が合意して平和条約締結に至ってしまうことは、何としても阻止したかっ
たのです。アメリカにとって、日本とソ連が領土問題に決着を着け、平和条約の締結にまで進んで
しまうことは何としても阻止したかったのです。

というのも、1945年当時と違って、56年には米ソの対立・冷戦が激しさを増していたからで
す。このような状況では、日本とソ連の間に未解決の問題を抱えて緊張状態にあることにはメリッ
トがあったのです。

日本対しては、ソ連の脅威を煽ることによって、アメリカへの依存が強まり、アメリカ製武器の購
入を要請することができるからです。

この構造は、ソ連の軍事的脅威が以前より弱くなった現在でも基本的には変わりません。ただ、脅
威の対象が北朝鮮や中国に変わっているだけです。

他方、ソ連からすれば、二島の返還により日本から経済的支援を得られれば、それはそれでメリッ
トがあると考えていたのでしょう。

しかし、二島返還と四島返還との原則的対立は、今日まで解決の糸口が見いだせていません。

最近のロシア側の発言をみていると、歯舞・色丹を「引き渡す」といっても、それは主権も日本に
渡す(つまり、日本固有の領土)ということを意味しない、と言い始めています。

さらに、二島を引き渡すにしても、日米安保条約との関係で、そこにアメリカが軍事基地を構築す
ることはロシアにとって絶対に認めることはできないでしょう。

プーチン大統領は、二島返還の場合でも、日本がアメリカから、これらの島に軍事基地を置かない
ことを確約した文書を取ることが前提条件だ、とハードルを上げています。

プーチンは、安倍首相がアメリカからそのような文書を得ることはできないことを見越しています。

プーチンは最近、日本の主権を信用できない、とまで言っています。言い換えると、日本はアメリ
カの意向に逆らってでも、自らの主権を発揮して国際問題に対処することができないと見なしてい
るのです。(露骨に言えば、日本は本当に主権をもった独立国なのか、と言っているに等しい)

安倍首相は、何かを“やってる感”を国民に示すためにも、25回も日ロ会談をし、“ウラジミー
ル”“シンゾウ”と呼びあう仲を強調しています。

そして最近では、安倍首相は「四島一括返還」を口にしなくなり、“二島+アルファ”つまり、ま
ずは歯舞・色丹を“先行”回復し、その後に国後・択捉の回復を交渉する、という方向に舵を切り
ました。

しかし、アメリカの要請を拒否できない安倍首相が、アメリカの意向とロシアの要求という相矛盾
する難問を同時に解決したうえで日本の利益を最大限に実現するという、非常に難しい連立方程式
の“解”を導き出すことができるでしょうか?

返還がますます根困難になっている最近の事態をみると、残念ながら私はとても悲観的です。今で
“ダレスの恫喝”は今も完全ん位消えたわけではなく、政権の中に影を落としているのでしょうか。


(注1)以下の、領土問題に関する国会での議論については、以下のサイトが便利です
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/HoppouShiryou.htm
(注2 佐藤優 「61年前に起きた「ダレスの恫喝」とは何か」
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50688? (2017年1月14日);The Huffington Post 2016年12月18日 17時41分
    https://www.huffingtonpost.jp/2016/12/18/putin-dulles_n_13703530.html
(注3)松本俊一『日ソ国交回復秘録:北方領土交渉の真実』』ゆまに書房 2002


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北方四島返還交渉(1)―まず、歴史的経緯を確認しよう―

2019-03-10 08:19:11 | 政治
北方四島返還交渉(1)―まず、歴史的経緯を確認しよう―

ここ数年、国後・択捉・歯舞・色丹を含む「北方四島」の帰属にかんする日本とロシアとの交渉がにわかに
メディアを賑わせてきました。

それは、日露首脳会談は、今年の1月の分を含めてすでに25回もおこなっており、安倍首相がこの問題を
解決することに意欲を示しているからです。

それでは、戦後70年も経つのに、なぜ、今、安倍内閣はこの問題に積極的になっているのでしょうか?

その背景には、安倍首相のロシアの現状にたいする認識があります。つまり、ロシアはクリミア半島の併合
による経済制裁によって経済的に苦しい状況にある、また、国内的にはプーチン大統領の支持率が年金の問
題などで下がっている状況です。

だから日本からの経済援助と引き換えに領土問題を有利に解決できるのではないか、という“読み”です。
この“読み”が正しいかどうかは、これからの交渉で明らかになるでしょう。

もう一つの理由は、私の邪推かもしれませんが、この領土問題に決着を着ければ安倍首相は、歴史に名を残
すことができる、との期待があるのではないでしょうか?

実際、安倍首相が尊敬する祖父の岸信介元首相も含めて70年もの間、歴代のどの首相も成し遂げることが
できなかった領土問題を解決することは、歴史的な偉業と評価されるでしょう。

この点では、北朝鮮の非核化を実現し、朝鮮戦争を終結に導けば、その歴史的偉業にたいして「ノーベル賞」
も受賞できるのではないか、との期待をもって北朝鮮との交渉に乗り出したトランプ米大統領の野心とどこ
か重なります。

安倍首相の熱意にもかかわらず、ここ数年の日ロ首脳会談の結果をみると、日本の立場は1ミリも前に進ん
でいないし、むしろ後退し、ますます困難な袋小路に入り込んでしまった感さえあります。

では、一体、何がこの問題の解決にとって障害となっているのでしょうか、そしてその障害は最初からあっ
たのか、あるいは安倍政権になって作りだしてしまったのでしょうか。

この問題を考える時、「北方四島」は日本の固有の領土、ロシアは戦中・戦後のどさくさに強引にこれらの
島を奪いとった、と叫んでいるだけでは一歩も進みません。

日本に言い分はあると同様、ロシア側にも根拠や言い分はあるはずです。

それを含めて、“今さらながら”、ではありますが、今日の領土問題の歴史的経緯を一度、客観的な視点か
らおさらいしておく必要があると思います(注1)。

1855年 「日露通好条約」 徳川幕府とロシアとの条約。択捉以南の島(つまり北方四島)は日本の領
      土で、樺太に関しては国境を定めずに両国人の雑居地域とした。

1875年 「樺太・千島交換条約」 明治政府とロシアとの条約。日露戦争の後、樺太全土をロシア領と
      し、ウルップ島以北のロシア領千島列島を日本の領土とした(北方四島から千島列島まで、す
      べて日本の領土になった)。
1905年 「ポーツマス条約」日露戦争で日本が勝利した結果、樺太の南半分まで日本の領土となった。
      (北方四島はそのまま日本領)

ここまでが北方領土に関する第一ラウンドで、この状態が1945年に日本が第二次大戦で敗戦するまで続
きます。この敗戦前後の錯綜した事態が、今日の北方四島の問題を複雑にし、解決を困難にしている問題を
持ち込みました。

第二次世界大戦末期、1945年2月、米国大統領ルーズベルト、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスタ
ーリンと「ヤルタ」で戦後処理の問題を話し合う、いわゆる「ヤルタ会談」を行いました。

その際、ルーズベルトはスターリンに対日参戦を要請しました。その代わり、樺太・千島列島をソ連領とし
て認めることが合意されました。これは、今日では「密約」とされています。

それでは、なぜ、ルーズベルトは樺太・千島列島をエサに、ソ連に日本を攻撃させたのでしょうか?

恐らくこの時点では米ソ連との冷戦は始まっておらず、アメリカとしては日本との戦争に巻き込まれて犠牲
者を出すよりも、できるだけソ連に日本を攻撃させて終戦を早める狙いがあったのかもしれません。

これは一種の「密約」ですが、ソ連としては日本侵攻の「お墨付き」を得たことになります。

1945年7月17日 「ポツダム宣言」。 アメリカ、イギリス、中国(8月8日にソ連も参加)が対日共
同宣言を発表し、合わせて日本へ無条件降伏勧告しましたが、同28日、日本は黙殺を言明しました。

1945年8月9日、日ソ中立条約の不延長を日本に通告したうえで、ソ連は対日参戦しまし、8月11日に
は当時日本領だった南サハリンに進攻しました。

ポツダム宣言受諾の勧告を7月に受けて以来、日本政府が黙殺している間に、8月6日には広島に、9日に
は長崎に原爆が落とされたこともあって、日本政府は国体の維持を条件に、8月14日にポツダム宣言の受
諾を決定しました。

しかし連合国側は、無条件降伏を主張したため軍部は反対しました。そこで、翌15日、天皇が終戦を玉音
放送という形で公表しました。

しかし、日本が最終的に敗戦を認めて降伏に署名したのはようやく9月2日でした。日本人の多くは日本の
敗戦(終戦)は8月15日と考えていますが、国際法的には9月2日です。

実は、この署名が9月2日に延びたことが、後に北方四島の帰属にかんする複雑な問題を発生させる原因と
なってしまいました。

ソ連軍は8月28日には択捉島に、9月1日(法的には戦争終結前)には国後島に上陸して占領しました。
しかし9月2日の降伏文書への署名が過ぎても侵攻を続け、5日までに歯舞・色丹島を占領し、北方四島全
部がソ連領に編入されてしまったのです。

1956年の「日ソ共同宣言」の際、ロシアが歯舞・色丹は平和条約締結後に日本に引き渡す、と明記され
ましたが、その背景には占領の日に関する微妙な違いがあったのです。

これについて池上彰氏は、ソ連(現ロシア)にすると、「国後島と択捉島は戦争で勝ち取ったものだ。しか
し、歯舞群島と色丹島は戦争が終わったあとに占拠したもの。国際法上は、日本に返さなくてはならないと
いう思いを持っているのです」。また、降伏調印後にもかかわらず「歯舞と色丹に侵略したという引け目が
あります」とも説明しています(注1)の二番目の資料。

いずれにしても、この問題は現在でも「二島先行返還」か「二島+α」「二島だけ」なのか、という具合に、
歯舞・色丹が国後・択捉とは違うカテゴリーとして扱われる根拠になっています。

しかし、このカテゴリーの問題とは別に、1941年に締結した日ソ中立条約の不延長を事前に通告したと
はいえ、千島・樺太に侵攻したこと自体、果たして正当性をもつのか、という問題は残ります。この点も、
現在まで未解決で残されたままです。

ところで、日本が最終的に受諾した「ポツダム宣言」に日本の領土について「日本国ノ主権ハ本州、北海道、
九州及四国並ニ吾等ノ決定スル小島に局限セラルベシ」となっています。言い換えると、上記の領土以外、
日本は放棄する、となっています。

また、ポツダム宣言第七条、一般命令一項(ロ)により、「千島」はソ連の占領下におかれることになりま
した。ここで「千島」がどこまで含むのかが問題です。

そして1946年1月29日、GHQは日本の行政区域を定める指令(SCAPIN-677)で、クリル(千島)列島、
歯舞、色丹を日本の行政範囲から正式に除かれました。この時、クリル(千島)と歯舞・色丹とを分けてい
ることに注意しておきましょう。

なおこの時、竹島も日本の行政範囲から除かれています。正式にはこのとき以降、日本の施政権は北方領土
や竹島に及ばないことになり、現在にいたっています。

第二次大戦の最終的な終結条約は、1951年のサンフランシスコ講和条約で、日本の領土範囲がさらに確
認されます。

条約第2条C項で、日本国は世界に向けて、「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポー
ツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及
び請求権を放棄する」となっており、千島を放棄することを承認しました。

ここまでが第二ラウンドで、「千島」の定義の問題は残ると思いますが、どうやら日本にとって、あまり有
利な状況にはないことが分ります。

しかし、それを少しでも有利にするのが外交の力です。次回は、サンフランシスコ講和条約以後、日本政府
はどう対処してきたのか、そして現在、安倍政権はこの問題をどのように日本に有利な条件で決着しようと
しているのかを考えてみたいと思います。

今こそ、“地球儀を俯瞰する”“外交の安倍”の恥じないよう、安倍首相の外交の力量が試されています。

(注1)北方四島をめぐる歴史的経緯は日本近現代史の問題で、日本史の本をみれば、どこでも確認できま
    すが、とりあえず、『朝日新聞』(デジタル版 2019年1月22日18時36分)
    https://digital.asahi.com/articles/ASM1J5H5YM1JUTFK00X.html?rm=1732
    あるいは『東洋経済』(デジタル 2019/01/22 6:30)https://toyokeizai.net/articles/-/261166
    が便利です。


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米朝首脳会談の決裂―双方の溝の深さが露呈した―

2019-03-03 09:25:21 | 国際問題
米朝首脳会談の決裂―双方の溝の深さが露呈した―

2月27日、28日にハノイで行われた第二回目の米朝首脳会談は、事前のメディア報道は、北朝鮮
に対する経済制裁の一部緩和、双方の連絡事務所の設置、もしうまくゆけば朝鮮戦争の終結までゆく
のではないかという楽観的な予測をしていました。

トランプ大統領は十数時間もかけてベトナムまでやってきているし、金正恩朝鮮労働党委員長は60
時間もかけて平壌からやってきたのに、何の成果もなく、手ぶらで帰国するというのは、双方にとっ
て大きな外交上のマイナスです。

実際、初日の30分だけのトップ会談の後も、二日目の午前中のトップ会談までは、両首脳の表情は
非常になごやかでしたから、誰も午後4時くらいには合意文書の署名となるだろう、と思っていても
不思議ではありませんでした。

ところが、二日目の第二回目の拡大会合の時から、急に事態は決裂に向かったようです。この間に何
が起こったのか、正確には分かりませんが、私は、この会談の席の映像にマイケル・ポンペオ国務長
官(前CIA長官)とジョン・ボルトン国家安全保障問題大統領補佐官氏(元国連大使)が同席して
いたことに、一抹の不安を思えました。その理由は後
で書きます。

予定が急遽変更され、トランプ氏とポンペオ氏が記者会見に現れ、階段が決裂したことを発表した時、
専門家も含めてほとんどの人が、我が耳を疑いました。まさに青天の霹靂でした。

トランプ氏と、一部ポンペオ氏が記者会見で説明した内容から、決裂の“直接的”な理由が少し分か
りました。

トランプ氏の言い分を要約すると、北朝鮮が寧辺の核施設の解体と廃棄を提案し、その見返りとして
制裁の全面解除を要求してきた、というものです。

これにたいして米側は、寧辺は大きな施設であるがそれだけでは十分ではない。「それ以上のことが
必要だ」、と応じたようです。

“それ以上のこと”とは、アメリカはほかにも核施設があることを把握しており、それも廃棄しなけ
れば不十分だ、というのです。北朝鮮は、“われわれが知っていたことに驚いたと思う”とも付け加
えています。

さらに「完全で不可逆的非核化」の証として、高濃度ウラン生産施設、ミサイル、既存の核兵器、核
兵器生産システムなど全ての核プログラムの目録提示を要求たようだ『東京新聞』(2019年3月3日)。
つまり、拡大会議で米側は一気にハードルを上げたのです。

トランプ氏の記者会見から8時間後の、深夜、北朝鮮の李容浩外相は、北朝鮮が要求したのは全面解
除ではなく、一部解除。具体的には国連決議11件のうち5件、そのうち民間経済と人民生活に支援
を及ぼす項目だけ、と反論しました。

これにたいしてアメリカ側は、北朝鮮が触れた決議は原油や原油精製品の輸入制限、石炭や海産物の
禁輸が柱で、北朝鮮が求めたのは「軍事分野を除いた事実上全ての(安保理)制裁の解除だった、と
反論しました。

この点では、最初に「全面解除」と強く出て、後で「事実上」と修正する、いかにもトランプ氏の
“ディール”のやり方だと思いました。

非核化をめぐる両者の対立点を要約すると、「核の即時全面廃棄」を要求するアメリカの主張と、制
裁緩和の程度に応じて段階的に非核化を進めようとする北朝鮮の方針とが“結果的”に折り合いがつ
かなかったということだと思います。

先に、“結果的に”と書いたのは、本当に最初から米朝の間で制裁解除に関して何の合意も調整もな
かったと、とは考えにくいからです。

しかも、外交交渉とはそもそも、オール・オア・ナッシング(ゼロか百か)、という決め方はしない
のが普通で、相手が100要求したら、90以上は拒否するが、10は譲歩する、という相互の調整
が必要です。そうでなければ「交渉」とは言えません。

また、メディアでは、トップ同士の間では調整ができていたが、事務レベルでの詰めができていなか
った、つまりトップ・ダウンのやり方の失敗だ、という見解が多く出されてきました。

たしかに、それはある程度当たっていると思います。しかし、この会談に至る過程で、ポンペオ氏は
何回か北朝鮮を訪れ、事務レベルの話し合いはしています。

また、トランプ氏がハノイ入りする前に、すでに合意文書はできていて、アメリカの外務省は、28
日の夕方には合意文書の署名が行われるだろう、と発表していました。

合意文書というものは、双方が納得できる合意点だけを書き、後はトップが署名するだけ、というと
ころまで詰めてある文書です。

トランプ氏もハノイ入りした当初は、制裁解除(もちろん一部でしょうが)をする気はある、という
ニュアンスの発言をしていました。

現在、私たちは、この合意文書に何が書かれていたのかを知ることはできませんので、コメントのし
ようがありませんが、連絡事務所の開設や一部の観光地の開放など、北朝鮮にとって意味のある項目
が一つもなかったとは考えられません。もしなければ、「合意」文書とはならないでしょう。

では、28日の朝の、通訳だけを交えたトップ会談と、その後の拡大会議との間に、一体何が起こっ
たのでしょうか?

代表的な見解はこうです。まず、今回、トランプ氏がわざわざベトナムまで来たのは、国内でのスキ
ャンダル(特にロシア疑惑、ポルノ女優との不倫)やメキシコのとの壁を作るための予算が認められ
なかったことなどで窮地に追い込まれている状況を、北朝鮮の非核化と、朝鮮戦争の終結という外交
で得点を挙げることで、一気に挽回しようしたからだ、という前提があります。

こうした背景は容易に想像できます。というのも、昨年のシンガポールでの米朝首脳会談は、アメリ
カだけでなく国際的にも注目を浴び、まさにトランプ・ショーといった感じだったからです。

ところが今回は様子がまったく違っていました。二日目の最初の会談から拡大会議に移る間にトラン
プ氏は、同時刻にアメリカの連邦議会で行われていたマイケル・コーエン元トランプ大統領顧問弁護
士の証言の模様を朝から主要テレビ局がライブで放映されていたのをスマホで見たようです。

このころ、アメリカのメディアは米朝会談についてはほとんど触れていなかったのです。

それどころか、コーエン氏は開口一番、トランプ氏は詐欺師で人種差別主義者、ペテン師だと決めつ
けていました。

この映像をみてトランプ氏は、北朝鮮問題で人気を挽回することは不可能で、北朝鮮に安易に妥協し
たとの印象をアメリカ国民に与えれば批判を浴びるマイナスでさえある、と感じたのではないか、そ
れならむしろ決然と北朝鮮の要求を拒否して席を立った方が良い、と考えたのだと思われます。

以上の解釈にはそれなりに説得力がありますが、私はこれ以外にも幾つかの要因があったと思います。

すでに、拡大会議の席上にポンペオ氏とボルトン氏がいたことに触れましたが、とりわけ私はこの会
議ではボルトン氏の意見や意向が強く働いたのではないか、と考えています。

ご存知のように、ボルトン氏はアメリカ政界のなかでもとりわけ、軍事強行路線を主張するネオコン
(新保守主義者)の最強硬派で、イランや北朝鮮攻撃も排除しない人物です。

ボルトン氏は昨年の2月当時、ポンペオ長官の見解に基づいて北朝鮮を「差し迫った脅威」と断じ、
先制攻撃に反対する人々は間違っていると米紙に寄稿しています。つまり、ポンペオ氏とボルトン氏
は、この時から呼吸の合った連係プレーをしていたのです。

ボルトン氏が昨年の2月に現在の地位に就いた少し後で『毎日新聞』(電子版。2018年3月25日)
は次のように危惧していました。

最大の不安は、ボルトン氏がブッシュ政権の国務次官としてイラク戦争に深く関与したことだ。この
時もネオコンなどはイラクを「差し迫った脅威」としたが、大量破壊兵器は発見されず米国は国際社
会の非難を浴びて孤立した。この苦い教訓をボルトン氏は忘れてはなるまい。(注1)

北朝鮮の脅威はイラクと違って実体がある。しかし、ボルトン氏は北朝鮮との交渉は「時間の無駄」
と強硬一辺倒の姿勢をとり、北朝鮮から「人間のクズ」呼ばわりもされた人物でもあります。(同
『毎日新聞』)

私は、トランプ氏が合理文書に署名することを、強く押し止めたことに、ポンペオ氏と軍事強硬派の
ボルトン氏の進言は大きく影響したのではないかと推測しています。

具体的には分かりませんが、拡大会議に出席した二人は、おそらく北朝鮮が飲めないだろう条件(即
時、完全かつ不可逆的非核化)を持ち出して、決裂に導いたのではないかと推測しています。アメリ
カ国内にも世界にも、北朝鮮との和解に反対する勢力はいるのです。

Newsweek(3月1日)は「会談決裂の下手人『壊し屋ボルトン』か」と言う外交専門家の見
解を紹介しています。彼は突然、核兵器だけでなく生物・化学兵器のについても報告義務を課す、と
言い始めたようです。彼が席に着いた映像を見て外交専門家は不安を思えたという(注2)。私の推
測と全く同じです。
 
今回の会談を通じてメディアが指摘していないけれども、重大な問題が明らかになったと思いました。

それは、アメリカが納得すれば制裁解除ができるのか、という点です。トランプ氏を始めアメリカ側
のスタッフは、それを当然のことのように語っていますが、制裁は国連の決議であって、決してアメ
リカの意向一つで解除したり加えたりできるものではありません。

それなのに、アメリカはあたかも自分たちが、認めれば解除できると思っていることが、大いに問題
です。そして、メディアもこの点について全く触れていないことも不思議です。

もう一つ、3月2日の情報番組で女性タレントが司会者に、北朝鮮は自分たちも核を放棄するからア
メリカも放棄してくださいと言わないんですか、という素朴で、しかし核心を突いた質問をしました。

司会で解説者は、一瞬、返事に困った様子で、「言わないんですね」と答えただけでした。

現在、核兵器の保有を国際社会に認めさせているのは、米・英・仏・露・中国の、第二次大戦の「戦
勝国」五カ国だけです。(実際にはインド、パキスタン、そしてイスラエルも保有していると考えら
れています)その中でアメリカは現在6500発以上の核兵器を持っています。

北朝鮮の核はもちろん、アジアの平和にとって脅威ですがこれらの国の核兵器は脅威ではない“良い
核兵器”なのでしょうか?

北朝鮮問題が今後、どうなるかは、もう少し時間が経ったあとで再び考えたいと思います。

(注1)https://mainichi.jp/articles/20180325/ddm/005/070/043000c



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