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大木昌の雑記帳

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辺野古埋め立て承認(1)-仲井真知事の変節と「引かれ者の小唄」?

2014-01-27 09:08:12 | 政治
辺野古埋め立て承認(1)-仲井真知事の変節と「引かれ者の小唄」?

2013年12月26日,仲井真弘多沖縄県知事が,米軍の普天間飛行場の,同県名護市辺野古沿岸への移設に向けた
政府の埋め立て申請を承認する意向を県幹部に伝え,翌27日に公印を押した書類を沖縄防衛局に渡しました。

埋め立て承認を発表した後で知事は,安倍首相の提案を,「驚くべき立派な内容」と評価し,「140万県民を代表
して感謝する」などと県民を代表して謝意を述べました。

辺野古埋め立て承認は、選挙で「県外移設」を掲げた政治家としての公約違反であり、県議会が重ねて全会一致で求め
てきた「県内移設反対、普天間基地は国外・県外移設」とする決議を決定的に踏みにじるものでした。

しかも,療養のため欠席した県議会がまだ開会している中、知事は上京し、政府首脳との会談で本県議会に何らの説明
を行わないまま「承認の4条件」と称されるような要請を唐突に行うなど、そのやり方は議会軽視と言われても仕方あ
りません。

しかし,彼はあくまでも「公約は変えたつもりはない」と言い張ります。一瞬,かつて地動説を唱えたガリレオが,宗教
裁判で自説を曲げて天動説を認めた後「それでも地球は回っている」と言ったという故事を思い起こしました。

しかし,どうもそれほどの強い信念の言葉というより,誠に失礼ながら,「引かれ者の小唄」という古い表現を思い出し
ました。

「引かれ者の小唄」とは,江戸時代,捕われた罪人が馬に乗せられて刑場まで引かれて行くとき,内心ではビクビクしな
がらも平気を装って小唄を唄う,という意味です。

もちろん,仲井真知事は罪人ではありません。しかし,沖縄住民の多くからは,公約の「県外移設」を曲げ,あたかも
札ビラで頬をひっぱたかれて,政府の圧力に屈した印象がぬぐえません。

この点を突かれると,「公約を変えたつもりはない」と気色ばみ,さらに追求されると「今,議論するつもりはない」
と突っぱねました。
こうした発言が,どことなく「小唄」に聞こえてしまいます。

内心では,承認してしまったことに対する葛藤や罪悪感もあったはずで,それでも承認は正しいと言わざるを得ない
矛盾が表情や言動に表れています。

実際,埋め立て承認後の言動をテレビの映像でみると,これまでの知事の穏和な顔は消え,目をカッと見開き,
相手を睨みつけるような表情になっています。

ところで,「驚くべき立派な内容」とはどんな内容なのか,また県外移設を主張してきた知事が辺野古埋め立て,
つまり県内移設を承認したことをどのように説明したのかを,報道陣との一問一答から見てみましょう。
(以下は『毎日新聞』2013年12月28日,参照)

① 埋め立てと環境に関して,環境保全措置が講じられており,基準に適合していると判断した,と述べています。

② 沖縄振興策(実際には,国による沖縄への金銭的援助)について,「安倍晋三内閣の沖縄に対する思いがかつて
のどの内閣にも増して強いと感じた,  と経済援助にも公的的な評価を下しています。

③ 地位協定の改定は画期的なことだ。

④ 基地負担の軽減について,「沖縄の要望をすべて受け止め,米国との交渉をまとめてゆくという強い姿勢を
示された。
  具体的には「普天間の5年以内の運用停止に取り組む」とのことだ」と補足しています。

以上の4点を強調した後で,報道陣からの質問に答えました。以下要点を示しておきます。

質問 辺野古の埋め立ては県外移設と異なる。選挙公約の撤回では。
答え 一番重要なのは宜野湾市の真ん中にある危険な飛行場を一日も早く外に出すこと。5年以内に運用停止に取り
組むという首相自らの確約を得ている。

質問 普天間の5年以内の運用停止に,どのような確約があるのか。
答え 作業チームを作り,時間はかかっても取り組んで結果を出すという。さらに,一国の首相,官房長官が
「政府としてやっていく」とうのは最高の担保だ。

質問 公約は変わらないというが,承認で辺野古移設が進むことは確実では。
答え 私は宜野湾から普天間の飛行場を移設すべきだとうのがかねての主張。日米両政府が辺野古建設官僚に
9・5年かかるというのが,それより前の5年以内に移設してほしいし「移設がむしろ重要なんですよ」
というのが私の考え。(期間を)半分以下にするには,県外移設するしかないことがはっきりしている。
私が県外を捨てたという意味が分からないが,何年かかるかわからないもの県外を入れないとれないと
なかなか普天間に危険性を除去できませんよと言っている。

質問 作業チームがなぜ解決につながるとの自信を持って言えるのか。
答え 一国の首相と話をし,政府としても自民党としても5年以内に普天間の運用停止にもっていく作業に入るの
だから,これ以上のあれありますか。
   立派な担保というか,政府とのやり取りで一番価値のあるものだと思っている。

以上,報道陣の質問に対する知事の答えには多少の補足説明が必要です。また,そこには大きな疑問や問題が存在
しています。一つ一つ,検討してゆきます。

まず,①の環境問題ですが,辺野古には絶滅危惧種のジュゴンの生息域,貴重なウミガメの産卵場所,貴重な
海草類が生息しています。

防衛省・沖縄防衛局が行ったとされる「環境アセスメント」には多くの問題が存在し,現在訴訟を起こされています。

辺野古・違法アセス訴訟を起こしている,「ヘリ基地反対協議会」によれば,環境アセスメント法)では,「沖縄県
環境影響評価条例」に従った環境影響調査」を行なわなければなりません。

ところが、基地建設を急ぐ防衛省・沖縄防衛局は、これらの手続きに違反するのみならず、ジュゴンの追い出しの
ため毎日調査船や警戒船を繰り出しての違法調査をくりかえしています。(注1)

②の,沖縄振興策について,安倍内閣は事前に示唆されていたことですが,年間3000億円の経済援助を8年間に
わたって沖縄県に与えるというものです。

しかし,この振興策については閣議決定されているわけではないし,財源が確保されているわけでもありません。
つまり,これはたんなる口約束にすぎません。

政府はいつでも撤回できます。これはまさに,「札ビラでほっぺたをひっぱたく」政府の姿勢を露骨に示しています。

ある沖縄住民は,テレビ局のインタビューに答えて,「政府は,沖縄のバカは札束でほっぺたをひっぱたけば言う
ことを聞く,と考えているんでないか」と怒りを露わにしていました。

③の地位協定の改定は,沖縄の住民にとって悲願とも言うべき課題で,沖縄がアメリカの「植民地」になっている,
という感情の源泉になっています。

米兵が犯罪を侵しても,実際にはほとんど法律で裁かれることはありません。とりわけ,強姦罪に関しては起訴される
こともまれで,これまで1件も有罪になっていないのです。

安倍首相は,地位協定の改定に努力するといい,仲井真知事は,それを「画期的なこと」と評価しています。

しかし,米軍の責任者は,埋め立て承認は評価するが,地位協定の改定には応じないことを明言しています。まさに,
これは「絵に描いた餅」です。

政府は米政府が地位協定の改定に応じないことを分かっており,従って,そもそも実現性のないことを,持ち出し,
知事側もそれを評価するという,いわば,住民と国民を欺く,「やらせ」に近いパフォーマンスです。

④ 基地の負担軽減策として5年以内に普天間の運用を停止することについて,安倍首相は米軍と「交渉する」
ことを確約していると言いますが,実はこの点にこそ,仲井真知事が「公約を変えたつもりはない」と言い張る,
奇妙な理屈の根拠があるのです。

ここで注意すべき点は,安倍首相は,5年以内に運用を停止するよう「交渉すること」を確約したかも知れませんが,
停止することを確約したわけではありません。これは米軍の決定事項なのです。これも「絵に描いた餅」にすぎません。

次に,辺野古埋め立てには9年半かかると想定されています。ところが,もし本当に5年以内に普天飛行場の運用を
停止するとなると,米軍はその代替飛行場を要求します。

その時,辺野古の埋め立てと飛行場の建設はまだ完成していないわけですから,結果として,どうしても普天間飛行場
の代替基地を県外にもってゆかざるを
えなくなる。

これこそ,仲井真知事が,「県外を捨てたわけではない」と言い張る奇妙な理屈なのです。

しかし菅義偉官房長官は12月27日の記者会見で,「本土において,沖縄の基地負担の軽減をするための努力を
十二分に考えて行っていきたい」と述べ,

オスプレイの県外訓練などで普天間の使用頻度を減らすものの,「5年以内の運用停止には応じない,とはっきり
言っています。(『毎日新聞』2013年12月28日)

オスプレイの使用頻度を減らすことも米軍の専権事項で日本政府は請願はできるかもしれませんが,減らすことを
米軍に飲ませることはできません。

さらに,「5年以内に運用停止」に至っては,代替基地ができていないので米軍が応ずるはずはありません。

もう一つ決定的な問題は,9年半もかけて建設する辺野古の基地は,結局,半永久的に米軍基地になることは,
避けられないのです。

この点を分かっている,辺野古が存在する名護市の市民がどのような判断を下したかが,2014年1月19日の
市長選挙の結果となって現われますが,これについては次回に検討します。

以上,見てきたように,安倍首相が提示した「驚くべき立派な内容」の本当の中身は,閣議決定もされておらず,
米軍の了承をも得ていない,「口約束」なのです。

結局,今回の埋め立て承認で,沖縄県が確実に得たものは何もないことが分かります。


(注1) この訴訟のさらに詳しい内容については http://www.mco.ne.jp/~herikiti/justice.html
を参照。

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幸せのかたち(3)-ワイル博士の「自発的幸福」を手掛かりにして-

2014-01-20 05:20:32 | 思想・文化
幸せのかたち(3)-ワイル博士の「自発的幸福」を手掛かりにして-


今回は,アンドルー・ワイル博士の『うつが消える こころのレッスン』角川書店 2012年(原題は Spontaneous
Happiness 文字通りの意味は「自発的幸福」)を手掛かりに,「自発的幸福」について考えてみたいと思います。

ワイル博士は,アメリカの医学界の大きな影響力をもったリーダー的な存在です。

彼が目指す医療は,従来の西欧医学の特性である生物学的医学(実験や科学的分析に基づく医学)と,いわゆる東洋
医学などの伝統医療,そして心と身体の深い繋がりを統合する「統合医療」です。

統合医療については別の機会にくわしく検討しますので,今回は「幸せのかたち」を,心と身体の健康を基礎とした
「自発的幸福」という観点から考えてみたいと思います。

まず,「自発的幸福」という言葉の「自発的」という言葉についてワイル氏は,医療における「自発的治癒」という
概念と対応させています。

つまり,人体は生まれながらに保守管理し,修復し,再生し,損傷や喪失に適応する能力をもっています。

このような能力が発動されるプロセスこそが「治癒」ということの本質で,それは外部からの干渉によって生ずる
のではなく身体の内部からの自然な対応という意味で「自発的」と呼んでいます。

ワイル氏は「治癒」(heal)と「治療」(cure)とをはっきり分けて考えています。「治癒」とは上に述べたように,
人間に本来備わっている,自分で体の保守管理と修復する内側からの「自発的」プロセスです。

これに対して「治療」は,手術や投薬など外部からの医療的介入です。つまり,治癒は自然の現象であり,外界の働
きかけから独立して,内部の要因によって生じてくるものなのです。

同様のことは「幸福」についても言えます。ワイル氏は「幸福」を,「外部の要因に依存する肯定的な感情」という
従来の解釈ではなく,自らの内側から起こってくる「自発的」な感情であると考えます。

しかし,ヨーロッパには,「幸福」とは,そもそも偶然に外から与えられた「幸運」であると見なしてきた伝統が
あると言います。

たとえば,英語で「幸福」を表わす happiness の語源は古代スカンジナヴィア語で「偶然」や「運」を意味する
ハップ(happ)から派生しています。

この意味では,ハプニング(happening)という言葉が,最もその本質を物語っています。

英語の古語では,happily が「偶然に」という使われ方をしたことも,このような古くからの観念を表わしています。
(『英語語源辞典』研究社,2010: 620ページ)

ちなみに,ゲルマン語系(英語も広い意味ではゲルマン語系)のドイツ語やオランダの「幸福」は幸運(英語のラッ
キー)に相当する(Gluck, Geluk) で,やはり偶然の「幸運」という意味です。

ヨーロッパ人の通念には,「幸福」の基礎は「幸運」にあり,その幸運は人間が制し切れるものではないし,個人の
意志によってではなく,周囲の状況次第で決まる,という観念が心の奥底にあるようです。(ワイル 同上書:
17ページ)。(注1)
 
賭けに勝つというような,「幸運」の到来によってもたらされる「幸福」はあくまでも一時的なものにすぎません。

それでも,多くの人が幸福を「どこか外に」求めているのも事実です。その人たちは昇給,新しい車,新しい恋人
など,欲しいけれどなかなか手に入らないものを手にいれたら幸福になれるだろうと思い描いています。

このように,何か欲しいものを手に入れることによって得られる喜びを,ワイル氏は「満足」と呼びます。

しかし,一時的ではない持続する幸福にとっては,満足よりも「知足」(足を知る)と「静穏」こそが重要で,
それによって得られる幸福感が心の「ウェルビイング(wellbeing) =安寧」です。

では,この「知足」と「静穏」はどのようににしてもたらされるのでしょうか?少し長くなりますが,大切なところ
なので,引用しておきます。

    ものごとがうまくいっているときも,いっていないときもだが,わたしはたまに一種の深遠な気づきを得る
    ことがある。

    全ての成りゆきは「あるべきように」なされているのだ,眼前に展開している状況への,わたしの見解の方が
    的はずれだったのだという気づきである。
 
    それに気づいたとき,私のこころは解き放たれる。そのときわたしは感情の平均海面あたりにとどまり,
    そこにいることに大いなる安心を感じることができる。(ワイル,同上書,26-27ページ)

ここで「感情の平均海面」とは,絶望と苦悩を一方の極とし,至福状態を他方の極とした時,その中間の状態,気分の
ぶれのない中立的な状態をいいます。

こうして,自らの「いたらなさ」「未熟さ」「誤り」を知り,全ての成り行きは「あるべきように」なされているのだ
と受容することが「安寧」の境地にいたる道だというのです。

ワイル氏は,「安寧」によりネガティブ(否定的)な感情をポジティブ(肯定的)な感情に変えることができる,
と主張します。

このような考え方は,西欧医学の医師の言葉というよりむしろ,以下に紹介する仏教の僧侶の言葉のように響きます。

鎌倉の一法庵住職の山下良道氏は『東京新聞』(2014/01/18)で,「身体通し心配を手放す」という記事を寄稿してい
ます。要約すると次のような考え方です。

私たちの心の安寧を乱す要因の一つが「心配」です。これは「何かに対する心配」というかたちをとります。たとえば
健康,将来の生活,仕事の正否などが対象となります。

この時私たちは,「心配の対象」が自分の苦しみの原因だと思ってしまいます。だから必死でそれをコントロール
しようとしますが,
世の中のほとんどのことこはコントロールできません。その結果,もう心配が止まらなくなります。

しかし,仏教では逆に,あなたの本当に苦しみの原因は「心配の対象」(健康,将来の生活など)ではなく,「心配その
もの」だというのです。

したがって,苦しみの本当の原因である「心配を手放す」ことこそが,苦悩から逃れる方法ということになります。

では,どうしたら「心配を手放す」ことなどできるのでしょうか?そのもっとも有効な方法として山下氏は身体の微細な
感覚をみることを勧めます。

仏教瞑想の指導者だけでなくセラピストの関心も,この点に集まりつつあるようです。

具体的な一つの方法として次のようなことを紹介しています。

   目をつぶって,手のひらを膝の上に置きそれを感じてみよう。最初は何も感じられず,心は明日の重要なミーティング
   の心配を始めるかも知れない。
   そのことに気づいたら,また手のひらに戻ろう。だんだん不思議なことが起こってくる。最初は手のひらの表面がぴり
   ぴりし始め,さらに手のひらの奥で微妙なエネルギーが動き始める。その流れはやがては微細な感覚の海となる。
   その海へ飛び込んでみよう,そのとき,われわれの思考も,心配を始める一切のネガティブな感情も,自然と止って
   いるだろう。

ワイル氏は,呼吸法の重要性を強調しますが,いずれにしても,大事なことは,従来の西欧医学が軽視してきた,心と身体の
相関性や不可分性こそが,現代医療が遅ればせながら注目し始めた領域です。

西洋医学の医師と仏教の僧侶とが奇しくも同じことを言っていることも象徴的です。最後に,ワイル氏が指摘している,
幸せになるための重要なヒントを紹介しておきましょう。

彼が示すヒントとは,他者に親切に,他者のために何かをする利他的行為です。これにより私たちは深いところで持続的な
幸福を感じ,心身の健康を高め,結果として死亡率まで減らしてくれることを示す幾つかの報告があります。

医学的にはこのような他者のために何かをすることで脳の快楽中枢が活性化することが分かっています。以下に,幾つかの
報告を紹介しておきましょう。

3000人超のボランティアを対象とした調査(おそらくアメリカで)によれば,持続的にボランティア活動をしている人
の健康度は,していない人より10倍も高いことが判明したという。

また,他の研究者は,55才以上で,二つ以上の組織でボランティア活動をしている人は,何と死亡率を44%も低下させ
る可能性があるというデータを得ています。

さらに,2000年に発表された「社会資本基準調査」によると,調査対象となった3万人のうち,時間かお金を寄付した人は,
しなかった人よりも42パーセントも幸福度が高いことを報告しています。

他者を助けるという行為は,幸福度を高めるだけでなく,健康を増進させ命をも長引かせる絶大な効果があるようです。
(ワイル,同上書,252-253ページ)

ちなみに,私が現在所属する明治学院大学はキリスト教系の大学で,建学の精神は,「他者のために尽くせ」(Do for Others)です。
私自身,実践できているかどうか分かりませんが,この言葉は,いつも心の中にはあります。


(注)ラテン語グループでは,イタリア語の「幸福」に相当する語は falicita で,これは英語の felicity と同様,ラテン語の
   felicittem に由来し,語源的には「天からの恵み」を意味します。この意味では,やはり,幸福は外からやってくるという
   観念があったようです。(『英語語源辞典』研究社,2010より)
   ただし,同じラテン語グループのフランス語で「幸福」は bonheur (文字通りの意味は bon=良い,huer=時),つまり
   「良い時間」で,他の言語圏と少し異なります。
   ちなみに,日本語の「幸せ」は,本来「しあわせ=仕合わせ」の当て字で,「することが合う」つまり,タイミングが合う
   ことです。また,古くは「さち」(「幸」も当て字)は,
   狩猟や漁猟で得た獲物を指します。猟には偶然や幸運がつきものですから,「さち」もやはり「幸運」と同様だと思われます。
   (杉本つとむ『語源海』2005:304ページ」

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幸せのかたち(2)-「巡礼」 本当の自分と出会う心の旅-

2014-01-14 06:27:03 | 思想・文化
幸せのかたち(2)-「巡礼」 本当の自分と出会う心の旅-

巡礼」というテーマには,“歩みを一旦止める”という点では前回の「途中下車」と共通するところがあります。

「巡礼」とは本来,宗教的な聖地への旅を指しますが,ここではもう少し広く,たとえ宗教的でなくても,個人にとっての

“聖地”や精神的な目的の旅も含めることにします。

「巡礼」という問題を考えたきっかけは,今から20年以上も前のことですが,小学校の教師をしているオランダ人教師と
の対話からです。

私は,このオランダ人教師の家に荷物を置かせてもらい,ノルウェーから地中海の一部,アドリア海まで,一ヶ月半ほどか
けてヨーロッパを北から南へ縦断する一人旅をしました。

旅の間,他に話す人もない時間がほとんどで,いつも自分と対話するしかありませんでした。

当時私は,かなり深刻な問題を抱えていましたので,旅の間中,ずっと,自分自身と対話し,それまでの人生を振り返ったり,
今後のことを考えていました。

旅から再びオランダに戻り,オランダ人教師にこの旅の話をしたところ,

“あなたはこの家から旅を始め,そしてまたここに戻って来た。今回の旅はあなたにとって「巡礼」だったんだね”と言いました。

このヨーロッパ縦断の一人旅の前まで,私はこんなに長くそして真剣に自分と向き合ったことはありませんでした。

その後で,彼は友人の「巡礼」の話をしてくれました。私と話した当時,この教師の友人はオランダからスペインの有名な聖地
(場所は忘れました)へ徒歩で向かう「巡礼」の途中でした。

彼はとりわけ宗教心が厚くそのために聖地の巡礼に出たわけでなく,一つの目的地としてスペインの聖地を選んだだけのようです。

彼は旅先から,時々,友人に絵はがきを送っていたので,絵はがきをもらった人たちは,彼が今(といっても絵はがきが届くのは
数日後ですが)どこで,何をしているのか分かるようになっていました。

今なら,インターネットや電子メールを使ってリアルタイムでコミュニケーションをとることができますが,絵はがきという古典的
な方法も,巡礼という状況を考えると,むしろ似合っているような気もします。

しかもこの旅は,野宿中心の,ほとんど無銭旅行に近い極貧の旅のようでした。実は,このような極貧の旅をすることは,若者の間
では決して珍しいことではないようです。

実際,この話をしてくれたオランダ人教師自身も似たような旅を経験したとのことでした。

彼は大学を卒業後,オランダからイギリスに渡り,イギリスの中を徒歩で歩き回ったそうです。

彼の場合も,ほとんど野宿をしながらの貧乏旅行で,農家の軒下で夜を明かしたり,庭になっている未熟な果物を食べてお腹をこわしたり,
それはひどい状況だったそうです。

ヨーロッパでは,日本のように大学卒業と同時に就職するとは限りません。まして,大学生が3年次の終わりから“就活”を始め,
4月の1日に一斉入社式を行う,といった日本ではおなじみの慣行はありません。

もちろん,大学卒業後すぐに就職する人もいますが,しばらく,いろいろな人生経験をする人も少なくありません。

この教師に,何のためにこんな苦しい旅をするのか,と尋ねたところ,この友人は,“本当の自分に出会うための巡礼みたいなものだ”
と答えました。

最初のうち,「巡礼」という言葉の意味が良く分かりませんでしたが,話しているうちに少しずつ分かってきました。

彼によれば,こういう「巡礼」は,大学を出て社会に入る前に,もう一度自分自身を見つめ直すため,“本当の自分に出会う”ための,
いわば“こころの旅”だということです。

状況は全くちがいますが,“本当の自分に出会うため”という言葉は当時の私の心に,とても自然に受け容れられました。

というのも,この一人旅を考えたころ私は深刻な問題を抱えて悩んでいました。そこで,気分を変えるくらいの気持ちで旅に出ること
にしたのでした。

もちろん,旅に出たからといって問題が解決したわけではありませんが,心の整理がついて,かなり気持が軽くなっていました。

後から思えば,あの一人旅は,やっぱり彼が言うように「巡礼」だったんだと納得しました。

私には,比較的最近に経験した「巡礼」があります。それは,長い間の念願だった,四国の「お遍路」をしたことです。

これは本来の宗教的な「巡礼」と言えるかもしれません。

この時は,わずか1週間という短い旅でしたが,お遍路姿に身を包み,“歩き遍路”として最初から最後まで歩いて,
お寺を巡りました。

それぞれのお寺では,まず空海(弘法大師)を奉った「大師堂」で「般若心経」を唱え,次に本堂でもう一度「般若心経」
を唱えます。

私が夕方,あるお寺にたどり着いた時,本堂の周囲を一人の60才くらいの巡礼者が本堂の周りをゆっくりと歩きながら
朗々と「ご詠歌」を詠っていました。

彼の声は,辺りが赤く夕日に染まる静寂の中でひときわ美しく響き渡り,私は深く感動しました。彼は1年かけて八十八個所
のお寺を巡ると言っていました。

最初のうち「大師堂」の前で「般若心経」を唱えるとき,あまり声を大きく出すことができず,恥ずかしさもあって,小声で
唱えていました。

しかし,回を重ねるうちに,だんだんと声が出るようになりました。そして,次第に,「祈り」の世界に入り込んでゆきました。

私は普段はそれほど信仰心がある方ではありませんが,それでも,こうしてお経を唱えていると,無心になり,何とも
すがすがしい,大げさに言えば至福の気持ちになります。

お遍路をしていると,色々な人たちと出会います。辛い状況にあって救いを求めやってきたと思われる人もいるし,何か精神的
なものを得ようとして来ている人もいます。

バスを仕立てて団体を組んでやっている人,マイカーで回っている人,さらには自転車で回って居る人もいます。

しかし,基本はあくまでも「歩き遍路」だと思います。

自分の足で歩いてお寺にたどり着き,そこでお経を唱えると,仏教徒ではない私でも,不思議と心が少し浄化される思いになります。

お遍路をしていて気が付いたことがありました。それは,普段の生活の中で,自分は「祈り」という行為から本当に縁遠くなっていた
ということです。

巡礼とは,その期間や距離が長くても短くても,一旦,日常生活を止めて自分を見つめ直すという意味で,やはり精神的な
「途中下車」でもあります。

言葉にすると,「自分を見つめ直す」,「自分と対話する」,「本当の自分と出会う」という表現になり,ちょっと格好を付け
すぎの感じもします。

しかし,忙しく,心配を抱えて,心がかき乱されることが多い現代社会では,「巡礼」は心の平静さや自分らしさを取り戻す
ために意味のある行為だと思います。

私の経験では,話す相手が自分しかいない一人旅が,「巡礼」に適していると思います。

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幸せのかたち(1)-人生の「途中下車」-

2014-01-09 11:29:42 | 思想・文化
幸せのかたち(1)-人生の「途中下車」-

私が大学1年生の時,偶然に,ある雑誌で「途中下車」というコラムを読んで,深い感動というか,衝撃をうけました。
それは,こんな内容の実話です。

あるアメリカの青年が,鉄道で東海岸から西海岸に向っていました。しかし,途中のある駅で見た夕陽があまりにも
美しかったので,彼はそこで列車を降り,結局その土地にずっと住むことになった,という話です。

この話は,たんなるロマンチックなアメリカ人青年のエピソードとしてではなく,私の人生観の中心的なイメージ
として現在にいたるまでずっと心の中で生き続けています。

ところで,今年(2014年)1月2日の『テレビ東京』で放映された「YOUは何しに日本へ?」という番組で取り上げ
られたドイツ人の若者の話は,上に書いたアメリカの青年の「途中下車」の話とよく似ていました。

正月の2日ということもあって,この番組を見た方も多いと思いますが,見たことがない人のために番組の内容を
簡単に説明しておきます。

これは,番組のスタッフが成田空港の到着ロビーで日本に来た外国人に話しかけ,「あなた(YOU)は何しに日本へ?」
と問いかけます。

その中で,面白そうな外国人に,日本にいる間,密着取材させてもらって良いかどうかを聞き,OKならばテレビ局の
取材スタッフが付いて回る,という番組です。

正月に放映されたのは,2013年度に公開された外国人の話の中から最も興味深かったものを選び,再編集と補足取材
をして,再度放映されたものです。

このドイツ人は成田空港で,「YOUは何しに日本へ?」と問われて,“以前,日本に来て,日本海の夕日を見たとき,
あまりにも美しかったので,もう一度,見たかったから”,と答えました。

しかも今回は,青森で自転車を買い,日本海に沿って西へ西へと走る予定だ,とのことでした。

彼は,幸運にも青森の自転車屋さんで,40年前の売れ残りのマウンテンバイクをわずか5000円で買うことが
できました。マウンテンバイクは彼が欲しいと思ってタイプの自転車でした。

彼は意気揚々と,本州の北の端,竜飛岬から日本海沿いに西へ西へと走り,九州の鹿児島まで行き,そこから陸路と
一部海路を含めて東京まで4000キロの自転車旅行をして帰ってきます。

最後に彼は,未練を残しつつ自転車を番組の取材スタッフにプレゼントして日本を発ってゆきました。

さて今回の記事では,彼の自転車旅行の話を紹介するのが目的ではありません。そうではなくて,彼がなぜ,日本に
やってきたのか,その背景にどんなことがあるのかを考えてみたいのです。

まず,私たちに少なからず驚きを与えたのは,“もう一度日本海の夕日を見たい”,というただそれだけの理由で日本
を訪れ,自転車で旅をしたことです。

確かに,彼が最初に見た夕陽は,とても美しく感動的だったに違いありません。私も,かつて新潟県のある海岸で夕陽
を見たことがあります。

ここは,夕陽を見るの場所として観光名所にもなっています。

太平洋側で育ち今も住んでいる私は,海辺の夕陽を見ることはこれまで数え切れないほどあります。しかし,太平洋
に沈む夕陽は,日本海に沈む夕陽とではどこか違う気がします。

それは多分に,日本海地域の,濃い青色の海の色と澄んだ空気の影響だと思われます。

それにしても,このドイツ人青年のように,夕陽の美しさに惹かれてもう一度,日本を訪れるというのは,なかなか
できることではありません。

今回,再度放映するにあたって,取材スタッフは1年ぶりに彼に会うためにドイツに行き,前回の訪日の時には聞け
なかった彼の思いや,ドイツでの生活について話を聞くことができました。

この青年(27才くらい)は旧東ドイツの都市に住んでいました。彼が取材スタッフに語った内容は,「幸せのかたち」
を考えるとき,さまざまなことを考えさせてくれました。

彼はドイツを出て,まずアイルランドに行き,モスクワに寄って日本に来たそうです。

そして日本を発った後アメリカに渡り,叔母に会うためにカリフォルニアからフロリダまで,やはり自転車を買って
旅をしました。

しかし,その自転車は600キロ走ったところで壊れてしまったそうです。

そして,最後にフロリダからドイツへ戻るのですが,出発から帰国まで4ヶ月の長旅でした。こうい行動は,日本の
同年代の青年には,ちょっと想像できません。

さらに驚くべきことに,彼は今,友人に誘われてバイクでアラスカからカナダ,アメリカを縦断し,南米の先まで旅を
しようかどうか考えている,とのことでした。

こんな話を聞くと,私たちは“彼はどうしてこの大旅行のお金を工面したんだろうか”,とか,“もし仕事をもって
いたとしたら,どうして4ヶ月も休暇をとれたんだろうか”,など日本の現実を考えてしまいます。

ドイツで見た彼は,LEDの電光掲示板のセットやイベントの電飾を担当する技師でした。そして,くわしい話は
しませんでしたが,ある程度お金が貯まったので,職を離れて旅行に出たようです。

日本人なら,帰国した後,再び就職できるんだろうか,こんな生活を繰り返していて,老後はどうなるんだろか,
といった
余計な心配をしてしまいます。

しかし,彼の言葉からは何の気負いも不安も感じられません。ただただ,自分がしたいことをしただけで,何ら特別な
ことではない,という雰囲気なのです。

彼の,これまでの経歴を聞くとさらに興味深いことが分かります。彼は,自分で改造したキャンピングカーで1年間
暮らしていた,と語っています。

その間,生活費はどうしていたのか,彼は語ってくれませんでした。おそらく,失業保険か時々の臨時的な仕事で
生活していたのだろうと推測されます。

それよりも,ただ単純に,そのようなことはごく普通のことで,特に説明する必要がないと思っていたのだろうと思います。

彼には,老後に備えて貯金をしておこうという発想はまるでなさそうです。アラスカから南米への旅を考えていること
からも分かるように,ある程度お金が貯まったら,また休暇をとって旅に出るかもしれません。

こうして,何度も人生の「途中下車」を繰り返しながら,今後も生活していくことになるでしょう。

実際,私のこれまでの海外生活を通して見聞きした経験からすると,彼のように生きる若者ははそれほど珍しくない
からです。

大学2年生の時,友人と3人で中東を3ヶ月ほど車で旅をしたことがあります。確かイラクだったと思いますが,ゾウと
一緒に歩いている4,5人の若者と砂漠の真ん中で出会いました。

彼らはインドでゾウを買い,徒歩でゆっくりドイツまで旅をするんだ,と言っていました。おそらく年単位の旅に
なるんだと思います。

また,オーストラリアに留学中に出会ったある学生は,突然,大学を離れて牧場で働き始めました。彼なりの,
学生という生活からの「途中下車」なのです。

久しぶりに大学の寮に戻ってきた彼は,毎日本を読んだり,芝生の上で昼寝をしたり,ボートを漕いだりして過ごして
いました。彼は,寮に来たのは“リラックスするため”と言っていました。

最近テレビで紹介されたアメリカ人は,たまたま屋久島を訪れて,“島に到着して10分で,この島に永住することを決めた”
と語っています。

現在彼は,屋久島でガイドをして生活しています。

美しい夕陽を見てしまったために,文字通り列車を降りて,その地での永住を決意してしまったアメリカ人青年や,日本海
の夕陽の美しさに惹かれて日本を再訪したドイツ人の若者と同様に,このアメリカ人・ガイドも屋久島という世界に深く心
を動かされて「途中下車」し,この島での永住を決意したのです。

人が「途中下車」をするきっかけは様々ですが,上に紹介したドイツ人やアメリカ人の青年に共通しているのは,夕陽の
美しさや自然のすばらしさに,生き方を変えてしまうほど深く感動する感性です。

「途中下車」の期間は一生に及ぶこともあるし,オーストラリアの学生のように1年くらいの場合もあるし,今回紹介した
ドイツ人青年のように,
数ヶ月単位の場合もあります。

「途中下車」というのは,それまの生活のありようを一旦止めて,自分の人生を振り返り,今後の生き方を模索することです。

欧米の若者は,あまり気負いもなく,外から見ている限りごく当たり前に「途中下車」します。

「途中下車」は,心の余裕と,自分や社会に対する信頼がなければできません。というのも,まず,今まで歩いてきた人生の
コースを一時的であれ,中断しようと思うこと自体,ギリギリの生活に追われていては考えられません。

また,それまでの歩みを中断しても,確実に元に戻れる保障があれば別ですが,それは保障されていません。それでも一旦,
歩みを止めてみようとするには,ある程度,自分に対する自信があるからでしょう。

最後に,自信の有無とは関係なく,「途中下車」をするこうした若者たちは,将来とか老後の生活に関して,あまり心配
していないようです。

それは,社会制度の問題なのか,個人的な楽観的性格なのかは断定できませんが,これらの若者は実に幸せそうに見えます。

こういう「幸せのかたち」もあるんだな,という印象をもちました。

ひるがえって,日本の若者はどうだろうか。何かに感動して,それまでの人生から,たとえ短期間だけでも「途中下車」
することは,大部分の若者にとって難しいでしょう。

これには,一旦職場から離れると再就職は難しい,あるいは老後の生活を社会が保障をしてくれないという,日本の特殊事情
もあるでしょう。

しかし,問題の本質は,そのような事情ではなく,今まで歩いてきた道から,一旦離れてしまうほど,夕陽や島の自然の美しさ
に感動するという感性と,人生の「途中下車」という発想をもっているかどうか,という点にこそあります。

こうした人たちをみていると漠然と,成熟した社会,感性の豊かさ,それぞれの「幸せのかたち」を考えさせられます。

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世界を見誤る安倍首相-「もう私以外何も見えない」-

2014-01-03 07:19:07 | 政治
世界を見誤る安倍首相-「もう私以外何も見えない」-

前回、安倍首相の靖国参拝の問題を、主に国内事情と安倍首相の個人的感情の観点から検討しましたが、今回は少し
視野を広げて、安倍首相と世界と言いう観点から見てみましょう。

というのも、安倍首相は世界情勢を大きく見誤っていると思われるからです。その原因の一つは、彼の個人的な資質、
自分中心的な性格にあるかもしれません。
それは、前回書いたように私には、ヒロイズムとナルシシズムと感じられます。

言い換えると、自分の言動が相手にどのように受け取られるかの想像力が非常に貧弱なのです。たとえば、先日の靖国
参拝の後で出された談話(日本語と英文)をみると明らかです。

彼は今回の靖国参拝が「二度と戦争を起こしてはならない」という「不戦の誓いを堅持していく決意を、新たにして
まいりました」と述べています。

そして、「靖国神社への参拝については、残念ながら、政治問題、外交問題化している現実がある」ことは認めながら、
「中国、韓国の人々の気持ちを傷つけるつもりは、全くありません」と釈明しています。

ここで、政治家としての彼の致命的な欠陥が現われています。彼は、自分に「傷つけるつもり」がないのだから、靖国
参拝を非難するのは当たらない、といっているのです。

しかし、植民地支配された朝鮮の人々、国土と住民に苦しみをうけた中国人からすれば、第二次世界大戦の戦争を指導
したA級戦犯が合祀されている靖国神社を参拝すること自体、

これらの国の人々を十分に傷けているのだ、という認識がまったくありません。

自分の祖父の岸信介元首相がA級戦犯(後に不起訴)に問われ、彼が指導した戦争が「侵略戦争」であったといことを
認めたくなかったことも安倍氏が敢て靖国参拝をした理由でもあったのかもしれません。

いずれにしても、彼の心には自分の観念世界しかなく、自分の言動が国内外にどのような影響と与えるかを想像できない
ことは政治家としては致命的な欠陥です。

安倍首相の妻、昭恵さんが『東京新聞』(2013年12月29日)のインタビューで、「主人には自分に近い人の声しか届き
にくいので、広くいろいろな声を届けたい。

主人には全ての国民の声に耳を傾けてほしい」と、はっきり言っています。

ここから分かることは、安倍首相は、自分の考えと同じ人物の声しか受け付けない、あるいは安倍氏が喜びそうなことを
言う人々に取り囲まれていることです。

そして、安倍氏に反対の声は、たとえ与党内であろうとも無視するという傾向に歯止めが効かなくなってしまいます。

彼は、靖国参拝が「不戦の誓い」を目的としたもので、「戦犯を崇拝する行為であると、誤解に基づく批判がある」から、
きちんと説明すれば、世界は必ず分かってくれるはずだ、と言っています。

靖国参拝に対する批判が「誤解」に基づいている、という認識そのものが、政治家として世界が見えなくなっていることを
如実に物語っています。もし「誤解」であると考えるなら、
ずっと以前から自ら中国や韓国に行って「誤解」を解く努力をすべきだったのです。

ところで、安倍首相は靖国参拝の反響は、せいぜい中国と韓国にとどまるだろうと想定していたようですが、これも、
首相がいかに世界の実情を見誤っているかを示しています。

アメリカが「失望した」という声明をだしたことは前回書きましたが、それ以外にも、EU,イギリス、オーストラリア、
インドネシア、ロシアの主要紙も、首相による靖国参拝に反対の意見を掲げています。

それらの論調は、「国際関係におけるオウンゴール」、日本の軍国主義化を口実に軍備増強をすすめる中国を利するだけ。

靖国は国益を害するだけなのに「なぜ、東シナ海で領土をめぐり日中の緊張が高まっている時に参拝にいったのか」、
といったものです(『毎日新聞』2013.12.29)。

そして批判はついに国連にまで及び、潘基文国連事務総長は27日、安倍首相の靖国参拝について、「過去に関する緊張が、
今も地域を苦悩させていることは非常に遺憾だ」

「指導者は特別な責任を負っている」、という声明を発表しました。

なぜ、国連の事務総長までも、このような声明を出したのか、恐らく安倍首相は深刻には受け止めていないでしょう。

国際社会においては、国家によって招集され命を落とした兵士や一般市民と、戦争を指導した人たちとは全く別に扱われます。

たとえば、ヒットラーや当時のナチ指導者達が埋葬されている墓地に、現代のドイツの首相が参拝したとすれば、間違いなく
国内および国際的な非難を浴びるでしょう。

国連というのは、戦後体制を維持し発展させる国際機関ですから、今回の安倍首相の靖国参拝が、戦後体制の否定につながる
のではないか、との疑念をもったのでしょう。

しかも、安倍政権は国家安全保障会議を設立し、特定秘密保護法を成立させ、さらには集団的自衛権の行使を行使しようと
していますから、日本の軍国主義化に疑心暗鬼をいだくのは当然でしょう。

こうしてみてくると、安倍首相の靖国参拝が、なぜ国際的な非難を浴びていることが分かります。

こうした国際社会の現実が安倍首相には見えていないようです。

いずれにしても、現在の安倍政権は、世界的視野を欠いた安倍首相の意向と、それに同調する側近によって運営されて
いるといえるでしょう。

それによって国益が損なわれれば,それは国民の負担になってはね返ってきます。

安倍首相の世界認識と日本の世界戦略の基本は、日米同盟を基軸とし、韓国とも協力して、中国・北朝鮮・ロシアの脅威
と対抗してゆくという構図です。これは冷戦時代の発想からほとんど抜けていません。

しかし、世界情勢は、とっくに変化しています。日本が頼りにしている日米関係を見てみましょう。現在、アメリカにとって
中国は欠くことにできない経済パートナーです。

人口は、アメリカの3億人強にたいして中国は13億人強と、とてつもなく大きな人口規模をもっています。

また、GDPでこそアメリカの半分(2011年の統計)ですが、それでも日本を抜いて世界第二位であり、市場としての中国の
潜在的可能性は日本と比較にならないほど巨大です。

米中貿易は、2001から2011年までの10年の間にアメリカからの輸出で5倍、輸入にいたっては40倍に激増しています。(注1)

中国はアメリカの政府系債券の最大の購入者であり、中国からのお金の流入がなければ財政が維持できません。中国は
アメリカから資本を引き上げる、という外交交渉カードを持っています。

他方、EUやイギリスは、中国との貿易や投資活動を着々と活発化しています。

中国は年々、量的にも質的にも軍事力が充実してきており、アメリカはもはやそれを無視できなくなっています。このため、

アメリカと中国は外交的にも軍事的にも太いパイプを構築してきており、不測の事態に対処できる態勢にあります。

最近のオバマ大統領と習国家主席との米中会談で中国は、これからの世界を米中の二大大国で仕切ってゆこうという「G2」
構想を持ちかけています。

これに対して日本は現在、中国との間に軍事・外交のパイプを持っていませんので、突発的な軍事衝突の危険性を常に
はらんでいます。

また、アメリカも以前のように中国を封じ込める冷戦時代の対中政策をやめ、むしろ米中関係をアジア外交の基本とし
つつあります。

これを象徴する出来事が最近二つありました。一つは、中国が新たに防空識別圏を設定したときのアメリカの対応です。

中国の防空識別圏(ADIZ)設定直後というタイミングで来日したバイデン米副大統領は、安倍首相と対談し、日米が一丸
となってADIZを認めないという態度を表明しました。

日本側の期待は、バイデン氏が中国にそのような日米の方針を代弁して伝えてくれるというものでした。

実際に、日本メディアの報道はそうなるだろうと書いていました。

しかし、米『ニューヨーク・タイムズ』は、見出しこそ「副大統領、防空識別圏で自制を求める」としていましたが、
「中国が応じる可能性はないと思われるADIZの撤回を要請することまではしなかった」と伝えています。(2)

実際、米政府は、新たな防衛識別圏を通過するアメリカの民間機に、事前の飛行計画を中国側に提出するよう要請しています。
このアメリカの態度に、日本の政府と防衛当局は少なからず驚き、とまどいました。

アメリカは、米中関係を良好に保つために、日中の対立や紛争に巻き込まれたくない、という基本姿勢を堅持しています。

二つは、上に述べたバイデン副大統領と安倍首相との直接の会談は、わずか1時間半にしか過ぎませんでしたが、中国の
習国家主席とは5時間にも及んだことです。

一応、日本の面子を立てた形ですが、実質的には訪中が主な目的だったことが分かります。
ここにも、アメリカにとって日本と中国との重要性の比重の差がはっきりと現われています。

こうした背景を考えると、12月26日の安倍首相の靖国神社参拝に対して、アメリカが従来にない強い調子で「失望した」
というメッセージを発し、EUやイギリスも批判したことの意味合いが分かります。

安倍首相の靖国参拝にたいして、2013年12月30日、アメリカ国務省のハーフ副報道官は、「失望」を表明したことについて
「我々が選んだ言葉から(日本への)メッセージは非常に明確だ」と述べ、首相の靖国参拝に反対する姿勢を重ねて表明
しました。(『東京新聞』2014/01/01)

このように、大使館とホワイトハウス(大統領府)に続いて、国務省(日本の外務相に相当)までも3回にわたって靖国参拝
に反対のメッセージを発表するのは、異例のことです。

それだけ、今回の安倍首相の行動に腹を立てているのでしょう。

こうした言動によって、直ちに貿易が減るとは海外から攻撃されるというわけではありませんが、長期的には確実に日本に
対する信用や評価が落ち、国益を損ねるでしょう。

日本は、冷戦後の世界情勢、とりわけ米中接近という現状を認識できず、日本はアメリカにすがって、日米で中国を牽制
しようとしていています。

しかしアメリカは、日本に対しては中国の脅威と日本への軍事的支援をちらつかせて、基地の存続や経費の日本負担を引き出し,
他方、中国に対してはアメリカが日本の軍事化・右傾化を牽制する、という二枚舌外交を展開しています。

適切な例えではないかも知れませんが、男女の恋愛で、アメリカは日本と中国とを二股かけている状態です。

日本はそれに気付かないで、ひたすらアメリカにすがっている、という構図です。

(注1)http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000007731.pdf
(注2)http://jp.wsj.com/article/SB10001424052702303745204579279310388543026.html

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