大木昌の雑記帳

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イチローの本当のすごさ(1)―4000安打に込められたメッセージ―

2013-08-27 15:57:34 | スポーツ
イチローの本当のすごさ(1)―4000安打に込められたメッセージ―


2013年8月21日(日本時間22日),ニューヨーク・ヤンキースのイチローは,2番ライトで先発出場し,
ついに日米通算で4000安打(ヒット)を達成しました。

前日のダブルヘッダーの第一試合で3999本のヒットを記録し,第二試合では,打席に立てなかった
ので記録達成のチャンスはありませんでした。

それだけに,21日の試合では4000本目の歴史的なヒットが出るのではないか,というファンの期待
は最高潮に達していました。

果たして,1回の裏にイチローに打順が回ってくると,抑えきれないファンの熱い期待と興奮は,テレビ
を通じて見ていてもはっきりと伝わってきました。

現地で観戦していた日本人アナウンサーによれば,イチローが2球目を空振りした時には,声にならない
ため息が球場に充満したそうです。

そして,ついに見事なヒットで4000安打を達成した時,観客は大声援と拍手,スタンディング・オベ
ーションで,イチローの偉業を称え,味方の選手はグランウドに飛び出してイチローを祝福しました。

この時,試合はイチローの祝福のために中断したのです。

普段は冷静なイチローも,この時ばかりは「半泣き」し,子どものような笑顔で喜びを爆発させていました。

ヤンキースに移ってからは,試合当日日にならなければ自分が試合に出れるかどうか分からないという,
複雑な気持ちで毎日過ごしてきたと告白しているように,ここまでの道のりは決して平坦ではなかったはずです。

だからこそ,4000安打の達成はうれしかったに違いありません。

今回の4000安打は,日米の合算ですからアメリカの公式記録ではありませんが,アメリカのファンは,
それでも4000安打という数字がいかにすごいかは,ある意味日本人以上に分かっているかもしれません。

何と言っても,アメリカのベースボール史上,4000本以上の安打を打った選手は,ピート・ローズ(42才
11カ月),タイ・カップ(40才7カ月)のわずかに二人だけなのです。(ちなみにイチローは39才10
カ月で達成です)

日本の投手のレベルが高いことは,かつての野茂,最近ではダルビッシュやヤンキースの黒田など素晴らしい
活躍を見て知っています。また,

日本国内でもこれまで4000安打を記録した選手はいないのです。したがって,日本での安打が含まれていた
としても日米通算4000安打がどれほど難しい大記録かは野球ファンならだれでも理解できます。

もうひとつ,イチローの安打には多くの内野安打が多い,という批判的な意見があります。これについては次回
で説明するつもりですが,内野安打には大きな意味があります。

つまり,日米合算の4000安打であることと,内野安打の多いことをもってイチローの記録に疑問符を投げ
かけているコメントもありますが,当地アメリカではおおむね,好意的です。

アメリカ殿堂館のアイドルソン館長は,日米合算での4000安打を偉業とたたえたうえ,「現時点でどれほどの
価値があるかは判断できないが,一連の記録として扱うことに意味はある。決して軽視してはいけない偉業だ」
と説明しています。

また,内野安打の多さを批判する人たちもいるが,全体の2割にすぎないのです。

また,イチローと最多の216試合を対戦した,エンゼルスのソーサ監督は,「日米通算とはいえ,4000安打
を達成するのはとてつもないことだ。・・・日米通算として日本の安打数をカウントする是非を論ずるまでもなく,
彼はもう,メジャーで2700安打以上しているのだから,それだけでもすごい」と評価しています。『日刊スポーツ』
(2013年8月23日)。

また,ヤンキースのジーターは「リトルリーグでの4000安打だとしても私は気にしない。誰よりも短い期間でヒット
を重ねてきた」と言い,投手のリベラは「日米にまたがっていても4000安打は多い。常に最高であろうとするのが
イチローだ」と絶賛しています。『スポーツニッポン』(2013年8月23日)

ところで,イチローは,たんなる一人の野球選手であると同時に,社会的な存在でもあります。

彼は,野球以外の分野について直接発言することはめったにありませんが,それでも,彼の野球観には,社会一般に
ついてもあてはまる,深い洞察が含まれていることが多いのです。

以下に,今回の4000安打の後に彼が語った発言から,4点だけ取り上げてみたいと思います。

ただし,イチローの言葉は直接的,説明的ではなく,しばしば禅問答のような表現をとることがあります。

そこで,以下の文章は,かなり私の「翻訳」が加わっていることを断っておきます。

①4000安打の裏には8000回の悔しさある。(成功体験より失敗体験から学ぶ)

「切りのいい数字というのは1000回に1回しか来ない。それを4回重ねられたことは満足している。」原動力は
8138度の凡打にある,と言っています。
「4000のヒットを打つためには僕の数字では8000回以上は悔しい思いをしている。それと常に向き合ってきた。
誇れるとしたらそこじゃないかと思います」。これは並のアスリートが言える言葉ではありません。

イチローは,うまくいった打席にかんしてはあまり語りません。彼は直接には言いませんが,それは相手ピッチャーの
失投もあるだろうし,守備の乱れもあるだろうし,たまたまタイミングが合ったかもしれません。飛んだコースが良か
っただったからかもしれません。つまり,幸運のためのヒットの可能性があるのです。

しかし,凡打や三振などは,確実に自分の中に失敗の原因があるのだから,彼はそれを逃げないで真剣に向き合ってき
たのです。それが4000安打につながったと言いたいのです。

分野は全く違いますが,囲碁の世界でも同じような考え方をします。ある対局で勝ったとしても,それは相手のミスや
勘違いのためかもしれません。プロ棋士は,勝った碁よりも負けた碁について真剣に検討します。

この一手のために碁を敗勢に導いた着手を敗着と呼びますが,プロは「失敗の原因」,敗着を見つけるまで徹底的に検討
をします。

私たちは,成功体験に酔ってしまいますが,なかなか失敗体験から学ぼうとしません。

イチローは若い時からこの姿勢をずっと持ち続けてきたのです。そして,失敗の原因をつきとめ,それを修正する努力
を続けてきたのです。

彼が「誇れるとしたらそこじゃないですか」と言うとき,この普段の反省と修正を逃げずにずっと続けてきたのです。

彼は「天才」と呼ばれることを非常に嫌います。なぜなら,この反省と修正の血の出るような努力を評価しないで,
結果だけをみて,あたかも天から与えられた才能のように言われるからです。

彼が強く反発するのは,こういう背景があるからなのです。

「失敗から学ぶ」ことは「成功に酔う」ことよりずっと辛いことですが,非常に大切で実りの多いことです。

イチローの野球にたいする姿勢は,私たちの日常生活全般についてもいえます。

以上の言葉は私たちにも大いに参考になるメッセージでもあります。私たちの成功体験の多くは本当の実力よりも,「幸運」
のたまものであることの方が多いのです。

しかし,失敗からはなかなか学ぼうとしません。大きな話でいえば,日本はいまだに「敗戦の原因」を徹底的に検証し,
失敗から学ぶ作業をしていないのです。これは将来,大きな禍根をのこすことになるでしょう。

②年齢にたいする偏った見方をしてしまう人に対してお気の毒だな,と思う。
イチローにたいして,39才という年齢的な限界,たとえば,動体視力が衰えてきたとか,パワーが落ちてきた,走るスピード
が遅くなったとか,加齢からくる肉体的な衰えがしばしば指摘だれます。

これにたいしてイチローは「お気の毒だと思う」と反論します。

客観的にみて,彼の肉体的な衰えは確実に進行しているでしょう。しかし彼はアスリートとして必要なトレーニングを怠らず,
常に年齢に合った肉体の手入れをしています。現在彼が使っているトレーニングマシーンは筋力の増強を目的としたものはなく,
関節の可動性を広げ,筋肉の柔軟性を高め,疲労を軽減するものだけだそうです。

その一方で,肉体的なマイナスを補うために,たとえばバッテイング・フォームの改造などを常におこなってきました。
彼は決してあきらめません。これを,彼独特の言葉で「あきらめない自分をあきらめた」と表現しています。

そういうふうに,目指すものをあきらめない自分を変えることはできないので,変えることをあきらめた,と言っているのです。

また,「昔できたことで,今できないことは見当たらない。自分を客観的にみても否定的なことはない」とも表現しています。

私自身も,ともすると物事がうまくゆかない理由を年齢のせいにしてしまいがちですが,イチローの発言に痛いところを突かれ
た思いです。

③プロの野球選手とは
「学生時代から,プロ野球選手は,打つこと,走ること,守ること,考えること,全部できる人がなるものだと思っていました。
でも実はそういう世界ではなかった,というだけのこと。それが際だって見えることがちょっとおかしいと思います。僕にとって
それは普通のこと。そうでないといけないですね。」

イチローにしては珍しく,プロ野球選手にたいして苦言を呈しています。ここで彼が「プロ野球選手」と言うとき,日本の選手か
アメリカでプレーしている選手かは分かりません。

いずれにしても,イチローは,打つ,走る,守る,考えることは,当然のことで彼はそれらすべてができるように全力でやってきた,
プロならばそれが「普通のこと」,当たり前のことだと考えてきた。しかし,現実には多くの選手はそうではなかったことに気が
付いたというのです。

つまり,打者ならば,ホームランやヒットをたくさん打てば,走ることや守ることが多少できなくてもかまわないと考える選手が
たくさんいたということに気が付いたのです。

だから,これら全てができるイチローが際立ってしまう(目立ってしまう)のですが,そのこと自体がおかしいと言っているのです。

この言葉には,それまでのアメリカのホームラン至上主義に対する批判も含まれているかもしれません。

④満足したら終わりというのは,弱い人の発想ですよね。
長くすごい成績を残していても,そこで満足せず続けているのか,という試合後のインタビューの問いかけに,
「いやいや,僕満足していますからね。今日だってものすごく満足してるし。それを重ねないとだめだと思うんですよね。
満足したら終わりだとかよくいいますけど,それは弱い人の発想ですよね。僕は満足を重ねないと次が生まれないと思っているので。」

イチローは,あたかも苦行僧のようにストイックで,満足することを拒否しているような印象を与えてきました。しかし,グラウンド
での彼の姿やプレーを見ていると,野球をすることが楽しくてしかたがないという,まるで野球少年がそのまま大人になったような
雰囲気を常にたたえています。

「満足したら,そこで進歩は止まる,終わりだ」というのはいかにも分かりやすく,日本のスポーツ界やそのほかの分野でもしばしば
聞かれる精神論です。しかしイチローはそのようには考えません。

彼は,反省や苦しさがあっても,最終的には自分を肯定して満足しなければ次に進めないと考えます。このように言えるのも,自分は
常にベストを尽くしている自負があるからでしょう。

たとえ失敗して思い通りに行かないとしても,その原因をとことんまで追求し,それを克服する努力をしてゆけば,失敗は自分が成長
するための貴重な経験になる。そして,自分の弱点を少しでも克服した時,大きな満足が得られるし,野球がさらに楽しくなるという
考えです。

これは究極のポジティブ・シンキングです。しかし,ここまで言いきれるだけの努力ができる人は,それほど多くはありません。

かつて五木寛之氏は,「努力ができるということ自体,それは天賦の資質なのだ」と書いていました。

この意味では,イチローも努力ができる能力を与えられた幸運なアスリートであるといえそうです。

それを差し引いても,野球に人生をかけるイチローのストイックな生き方は,理想ではあっても,正直に言うと,私には無理だと思
いました。

次回は,イチローのすごさを,ベースボールに日本の「野球」を持ち込んだ男という観点から考えます。

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目標なく生き,「降りる」人生を選ぶ

2013-08-22 06:45:22 | 思想・文化
目標なく生き,「降りる」人生を選ぶ


最近,何と自分と同じような考えを持った人がいるものか,と驚きと共感をもって読んだ二つの
新聞記事に出会いました。一つは,『毎日新聞』2013年6月9日に掲載された京都大学教授の
山極寿一氏の「老年期の意味―目標なく生きる重要性」というコラム記事で,もう一つは
『東京新聞』2013年8月10日の,「男の生き方 男の死に方」シリーズに書いた大村英昭氏の
『競争「降りる人」評価して』と題する記事です。

前者の山極氏によれば,老年期の過ごし方は人それぞれに異なっているが,それは,各人の
それまでの人生の過ごし方が大きく異なるからでです。

つまり,老年期の人の生き方はそれぞれ個性的であって,ひとくくりにはできない,という点
が重要です。

次に山際氏は,人類進化の過程で老年期の位置づけがどう変わってきたかみます。

遺跡からみると,人類はようやく数万年前ころから高齢者の化石が登場するようになりました。

これ以前には,人は老年期に入る前に死んでいたことになります。老年期の化石が現れたのは,
体が不自由になっても生きていられる環境(特に食糧の余剰)ができたこと,そして,老人を
いたわる社会的感性が発達したからです。

ここで山極氏は,「ではなぜ,人類は老年期を延長させたのか」という,かなり重要な問いを発
します。

これは一見,意味がない,あるいは答えのない問いに見えます。というのは,人類は意図的に
老年期を延長させるよう,進化の方向を操作することはできないし,遺伝子が何らかの意思を
もっているわけではないからです。

進化とは,ある新しい状況が現れると,その条件のもとで,種の生存にとってもっとも有利な
ように遺伝子が「結果として」変化してゆく現象です。ただし私たちは,変化を「事後的に解釈
する」ことはできます。山極氏の解釈はこうです。

老人が生きてゆくためには,食料の余剰と,老人をいたわる社会的感性が発達しなければなり
ません。

山極氏は,人類が家畜の助けも借りて余剰の食料を手に入れたことが重要な役割を果たしたこと
は疑いない,と推測します。

生産力が高まった時期は人口増加の時代でもありました。人類はそれまで経験しなかった新しい
状況に直面しました。

それは,人口増加に伴った新しい組織や社会関係を作る必要に迫られたことでした。

新しい組織や社会関係を作るには,さまざまな軋轢や葛藤が生じ,思いもかけなかった事態が出現
しました。
それを乗り切るために,老人たちの存在が必要になったというわけです。

上記の事態が進行していたのは,人類が言葉を獲得した時代でもありました。山極氏は,言葉によ
って過去の経験が生かされるようになったことが,老人の存在価値を高めたのだろう,と推測して
います。

山際氏の議論を要約すると,食料の生産増加,人口増加,そして言語の獲得がセットになって,
上記の変化が生じたことになります。確実な証拠はありませんが,これは理解できます。

しかし,次の主張は,山極氏の非常にユニークな解釈です。

山極氏によれば,老人たちは知識や経験かを伝えるためだけにいるのではないという。
むしろ,老人たちは青年や壮年たちとは違う時間を生きているというその姿が,社会に大きな
インパクトを与えることにこそ大きな価値があるという。大事な部分なので,少し長い文章ですが,
以下に原文を引用します。

「人類の「右肩上がりの経済成長は食料生産によって始まったが,その明確な目的意識は時として
人類を追い詰める。なぜなら,目標を立て,それを達成するため に時間に沿って計画を組み,
個人の時間を犠牲にして集団で歩みをそろえる。危険や困難が伴えば命を落とす者も出てくる。
目的が過剰になれば,命も時間も価値が下がる。
その行き過ぎをとがめるために,別の時間を生きる老年期の存在が必要だったに違いない。
老人たちはただ存在することで,人間を目的的な強い束縛から救ってきたのではないだろうか。
その意味が現代こそ重要になっていると思う。」

人類はあまりに目的に向かって生きるようになると,それ自身がストレスとなって弊害が生じるので,
その行き過ぎを修正するために,全く別の時間のなかで生きる老人たちが必要となる,ということに
なります。

確かに,現代社会は競争社会であり,何らかの目標を達成することでその人物が評価される社会状況
にあります。

この競争に負ければ社会から脱落させられる可能性があます。しかし,たとえ一時は勝者となっても,
次はどうなるかは分かりません。

いずれにしても,現代人は常に緊張にさらされています。この緊張が「うつ病」を引き起こしたり,
さらに自殺に追い込んだりします。

老人は存在するだけで社会的に価値があるという主張,“何も無理に目標を作って必死にそれを達成
しようとしなくてもいいんだ”という発想は,一見,非現実的に見えますが,私たちを緊張から解放
してくれます。

目標なく,別な時間を生きる人たちがいるということだけで社会全体の緊張が和らぐし,そのような人
たちの存在が,目標達成志向の社会には必要となったと,と山極しは考えます。

この主張には反論も可能です。まず,老年期の延長は,食料の安定と医学の発達の結果も大きな要因で
あって,社会の緊張を和らげるために老人たちの存在が必要になったと主張するのは,ちょっと強引な
結論にも見えます。

ただ,こうした反論を十分承知した上で,私は山極氏の議論に共感します。というのも,老人も含めて
全ての人が目標をもち,それに向かって生きていたら,社会全体が非常に高い緊張にさらされることに
なってしまうからです。

次に,大村氏の記事を検討してみたいと思います。大村氏の記事は,「男の生き方,男の死に方」とい
う視点から,対象を「男」に限定していること,必ずしも老人に限定しているわけではない,という点
で山極氏の論考とは異なりまず。大村氏は浄土真宗の僧侶でもあり,その宗教的視点も入っているとは
思いますが,それを除いても共感できる点があります。

大村氏の議論を簡単に言えば,若い男性にとって競争から「降りる」生き方も一つの意味のある選択と
して評価できる,という点につきます。彼の議論の要点を整理してみましょう。

現代では男女の置かれている状況が,男性にとって非常に「生きずらい」社会になっています。世の中は,
ものつくり中心の工業社会から,情報・サービス産業中心の社会に転換しました。

腕力や体力が必要で危険が多いところほど,開発されたソフトのおかげで機械やロボットが主な動力源
になっています。つまり,男性優先の職場は縮小してきたし,男性の優位性も低下してきたのです。

こうして,男女のジェンダー・イメージにも変化が生じました。かつての「女らしさ」のイメージであっ
た,慎み深さ,恥じらい,「良妻賢母」などは,ほとんど死語になっています。

しかも,女性の場合,専業主婦も含めて他に男性より選択肢がある分,多少,余裕があります。

これに対して,「男らしさ」の理想像イメージはほとんど変化していません。

つまり,競争場に出て(将来を見越して)今は禁欲的に頑張って勝ち抜くこと,これが男らしい典型で
あるとうイメージは変わっていないのです。

こうして,男性は必至の形相で「就活」に励み「正規雇用」を確保しようとします。

2,3年で辞めてしまう新規採用者に対して,「根性がない」のなんのと非難する中・高年の人たちは,
競争に勝ってこその男という,旧態依然のジェンダーイメージを表しています。

こんな中でも探せば,あえて競争場からは降りて,かつその体力を生かして,重度心身障害者のため,
有償ボランティアの形で支援する人,あるいは要介護者の支援をも兼ねた「ユニバーサル就労」の現場
に就こうとする人など,優しいというより本来の意味で「雄々しい」男性も結構います。

だから大村氏は,「競争に勝ってこその男」という,旧態依然のジェンダー・イメージをもっている中・
高年は考えを変え,こういう男性こそ「男の中の男」だと評価できる斬新な「ものがたり」を作ること
が大切ではないか,と主張しています。

確かに,女性は選択肢が増えて,昔と比べれば生きやすい社会になりましたが,男性は相変わらず「一家
の大黒柱」としての役割を社会も期待し,本人も覚悟を決め,歯を食いしばって働いているのが現実です。

しかし,そのプレッシャーに耐えられない人は心身を病んで精神的な問題を抱えたり,極端な場合には自殺
に追い込まれています。

それに気が付いた若者の一部に,競争から「降りて」福祉やNPOなどの世界に入っていく若い男性が
います。大村氏は中・高年も社会全体も,こうした生き方を評価すべきだと考えます。

さて,山極氏と大村氏は対象も視点も異なりますが,両者の論考の背後には,人は何らの目標をもち,

それを達成しなければならない,という近代社会の目的的人生観から,そろそろ離れるべきだ,競争から
「降りる」のも一つの立派な生き方だ,という共通の認識があります。

思えば,私がこのブログを初めて最初に書いた記事が,五木寛之氏の『下山の思想』でした。五木氏は
この本で,日本はもう坂を登りきって峠にたどり着いているので,これからは下山のつもりで,ゆっくり
歩んでゆけばいいんだ,と主張しました。

何年か前,民主党政権の時に「仕分け」で,スーパーコンピュータの開発に関して民主党の蓮舫議員が,
「一番でなければだめなんですか?二番じゃだめなんですか?」と問い詰めました。

当時テレビは,蓮舫議員は何も分かってはいない,と言わんばかりに,半ば嘲笑するように,この言葉を
繰り返し流していました。

もし,日本がこれからも,経済の分野で常に世界一を目指し続けるとするなら,それは激烈な競争の中に
身を置くことになります。

そして,競争に負けるということは,すなわち自らを“落伍者”とみなすことになります。

日本は本当に,これからも坂道を登り続けるのでしょうか?それとも,五木寛之が言うように,もう
「下山」の道を選ぶ時がきたのでしょうか?

どちらを選ぶにしても,最も大切なことは,国民の大部分が幸せになることです。

仮に,技術競争に勝利して世界のトップに立ったとして,そのために国民が苦しい思いをし,心身を病ん
でしまったら,その勝利はどんな意味をもっているのでしょうか?

これまでの政治家は,とにかく経済的に豊かになれば国民は幸せになる,あるいは幸せになるには,
何をおいても経済的に豊かになることだ,と言い続けてきました。だから,政府の主要な課題はいつも
景気の回復,景気浮揚でした。

もちろん,私は豊かであるより貧困の方が良いと言っているわけではありません。

しかし,現在の平均的日本人の生活水準を半分に下げても,世界の多くの国の人たちよりずっとめぐま
れています。

また,私の専門領域の東南アジア諸国をみると(シンガポールは例外かもしれません),日本よりはる
かに貧しく,日本は比較を絶して豊かです。だからと言って,東南アジアの人たちが日本人より不幸で
あると感じているわけではありません。

高度成長期やバブルのころ,「24時間闘えますか」といったコマーシャルのセリフが流行りました。

このような超過重な労働条件下ではありましたが,日本人は確かに経済的に豊かになりました。

しかし,それによって幸福感が増したというデータはありません。

日本ではまだまだ少数派かもしれませんが,経済的豊かさ=幸福,という単純な図式に疑問を抱いている
人がいます。そして,こうした人たちの新しい価値観は少しずつ浸透してきているように思います。

そして,このような人たちが,少しずつ日本を変えてゆく存在になってゆくのだと,私は期待しています。

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うつ病と日本社会(3)―薬に頼らない「うつ」からの脱出―

2013-08-16 08:44:38 | 健康・医療
うつ病と日本社会(3) ―薬に頼らない「うつ」からの脱出―

前回の(2)で,抗うつ薬の功罪について検討しました。そこでは薬学の立場から,現在,もっとも
普及している抗うつ薬のSSRIは,「脳を興奮させる薬」であって,うつを治す薬ではない,という点
を指摘しておきました。

誤解をさけるために補足しておくと、私はいかなる場合にも抗うつ薬を使うべきではない、というつもり
はありません。

きわめて重症なうつ病で、食欲不振、不眠に加えて自殺の危険性が極めて高い場合など、命に関わる状況
で緊急避難的に用いることは必要かもしれません。

しかし、大部分の軽度あるいは中程度のうつ状態に対しては抗うつ薬は、むしろその副作用の方が大きい
場合が多いようです。

うつに関するほとんどの本では触れられていませんが、生理学が専門の高田氏は、「現在はっきりしている
SSRIの最大の副作用は性的不能です」と断言しています。これは、セロトニンが脳内に増えすぎると
性欲を押さえてしまうからです。(注1)

ところで、もし、薬による治療が難しいとすると、他にどんな方法法があるでしょうか?

自立性もなく、意欲、自発性、気力などがすべて失われてしまった非常に重症な場合に、電気ショックや、
ロボットミー手術(脳の前頭葉切除)などがありますが、これらは極めて例外的で、特に後者は現在では
ほとんど行われていません。(注2)

これらの特別な方法を除くと、カウンセリングを中心とした心理療法が中心となっています。

『現代カウンセリング事典』によれば、もっとも広義のカウンセリングとは、「言語的および非言語的
コミュニケーションを通じて、行動の変容を試みる人間関係」である、と定義されます。
中でも心理治療や行動変容を目的としたカウンセリングをクリニカルカウンセリングと呼びます。(注3)

以下、特に断らない限り、カウンセリングという言葉はクリニカルカウンセリングという意味で使われます。

専門的にいえば、カウンセリングと一口いっても、非常に多様なアプローチがありますが、ここではあまり
深く立ち入らないことにします。

ただ共通していることは、薬を使わないこと、言語・非言語コミュニケーションを通じて問題の本質を探り、
考え方や精神的態度を変えてゆくという手法です。

ここでは、治療者(一般的には臨床心理士のような人)と相談者=クライエント(注4)との人間関係が
非常に大きな意味を持っています。

もし、両者の間に信頼関係が形成されないと、カウンセリングはほとんど治療効果を期待できません。

インターネットなどでの体験談などを読むと、カウンセラーが信頼できなくて結局、中断してしまった事例
などがみられます。

また、臨床心理士といえども、つねに人格円満で相談者の信頼を得られとは限りませんし、職業としてカウ
ンセラーを選択したものの、必ずしも適性であるとは限りません。

いずれにしても、マニュアルで診断し、マニュアルに従って薬を処方する医学的治療とは異なり、心理療法
による治療効果は、治療者の性格、経験、能力など、個人的な資質に大きく依存しています。

それでも、やはり、悩んでいる人にとって、話をじっくり聞いてもらうだけでも大きな救いになることは確
かです。

しかし、具体的にカウンセリングをどのように行うかは、そのカウンセラーが採用するアプローチによって
異なり、そのアプローチは非常に多様化しています。ここで、それらを説明する余裕はありませんぼで,まず
私自身が訓練を受けた、ロジャース(C.R.Rogers)によって開発された、傾聴(Active Listening)、来談者
=クライエント中心という方法を簡単に説明します。

ロジャースは、まず、カウンセラーが精神分析学理論によってクライエントの問題を解釈し、指示を与えるの
ではなく、あくまでも来談者が語ることを深い関心をもって聞く(傾聴)すること、クライエントの語ること
を受容することの重要性を強調しました。

このアプローチでは、何が重要な問題で、どんな経験が深く関わっているか、などについてもっとも知ってい
るのはクライエント自身であるからだ、と考えます。

つまり、カウンセリングではあくまでもクライエントが中心でカウンセラーはクライエントが自ら語ることで、
自然に自分を解放し、問題解決の道を見つけて行くことを手助けすることが主眼です。

ロジャースはこのほかグループ・エンカウンターという、さまざまな関係者が加わる集団的カウンセリングの
方法も開発しています。

次に、認知療法という方法という,特にアメリカで普及しいている方法があります。

この考え方は、外的な出来事が感情や身体反応を直接引き起こすのではなく、その出来事をどのように認識する
かによって、感情も身体反応も変わる、というものです。

この考えに基づいて、カウンセラーは来談者の認識を変容させる手助けをすることになります。

私自身は、ロジャースや認知療法の他に,「ナラティヴ゛」という考えに大いに可能性を感じています。

簡単にいうとこれは、クライエントは自分の病と人生について「ナラティヴ」(物語)をもっているはずであり、
治療者(カウンセラー)は、「医学の物語」(医学的理論)を適用し押しつけるのではなく、そのクライエント
の物語の共著者になるべきである、という考え方です。

「ナラティヴ」アプローチは日本ではまだあまり普及していませんが、これはうつ病や精神疾患だけでなく、
医療全般について非常に本質的な再検討を迫る考え方だと思います

なお、心理療法に催眠療法を取り入れることもあります。

これは主に退行催眠といって、クライエントの意識を催眠によって過去にさかのぼり、現在の精神的問題が過去
の何らかの経験と関連しているのかどうかを調べる方法です。

日本催眠心理研究所所長の米倉一哉氏によれば、退行催眠によって、現在の問題の根源やきっかけがわかり
、治療がうまくいった場合もありますが、常に有効だとは限らないそうです。

というのも、症状の原因となるところまで退行させようとしても、クライエントの抵抗感が強いと、そのビジョ
ンがなかなか出てこないからです。

しかも、自我が低下した状態では、過去の辛い記憶に呑み込まれて、逆に症状が悪化することさえあるようです。(注5)

さて、薬を使わず、言語コミュニケーションを通じて行われる心理療法が,うつの回復にどの程度効果があるの
でしょうか?また、薬を使った場合と心理療法の場合の治療効果はどうなっているのでしょうか?

残念ながら、日本における心理療法の治療成功率に関するデータをえることはできませんでしたが、アメリカに
おける興味深いデータがあります。アメリカにおける心理療法の中心は認知療法で、日とはやや事情が異なりま
すが、それでも心理療法の実績について大いに参考になります。

1980年代の実態調査に基づくデータなので、少し古いかもしれませんが、これもやはり参考にはなります。

うつに対する認知療法と薬物投与の効果比較(うつ病全体)は以下の通りでした。

① 16週間治療時の回復率   認知療法 30%   薬物投与(イミブラミン)20%
② 18か月時の再発率     認知療法 35%   薬物投与(イミブラミン)50%

つまり、認知療法は、うつからの回復率においても薬物投与による治療より成績が良く、しかも再発率においては
薬物治療より低かったのです。

さらに注目すべきことに、軽度から中程度までのうつの人に対する両者の治療後の再発率を見ると、認知療法の場合
は、20%にしかすぎないのに、薬物治療の場合、なんと80%にまで達しているのです。(6)

以上からわかることは、軽度から中程度のうつの治療に関しては、薬物による治療は一過性で、一時症状は和らぐが
、結局元戻ってしまうことが多い、という点です。

この点、認知療法では薬物治療より回復率も高く、再発率が低いという結果が出ています。


それでも、日本の医師はあくまでも薬物による「科学的」な治療の優位性を譲らず、ある医師は次のように語っています。

   カウンセリングが、患者さんを治すとは思えないんですよ。うちの病院にはね、具合の悪なった患者さんが流れて
   くるんです。患者さんによくよく聞いてみると、民間のカウンセリングに通っていたというんです。重いうつなのに、
   カウンセリングだけで治そうとして悪化させちゃう場合があるんですよ。(注7)

ちなみに、この医師は臨床心理士などに国家資格を与えることには大反対の立場の人です。彼から見ればカウンセラーは
無資格の民間の治療家ということになるのでしょう。

しかし、それでは逆に、科学を標榜する医師たちは、どれほど、うつの患者さんたちの治療の成功してきたのでしょうか?

もちろん、ここで「成功」とは一時的な症状の緩和ではありませんし、長期間にわたって再発しないという意味での治療医
の「成功」を指します。

このような態度は医師の間では一般的だと思うのですが、残念ながら、現在まで投薬によるうつの治療の方がカウンセリング
より優れているというデータはありません。それでも、医師が投薬に徹底的に投薬治療に依存せざるを得ないことには理由が
あります。

まず、もっとも根本的な理由は、医師には投薬以外、うつにたいしてできることがないのです。

しかも、薬を処方すれば確実に治療の売り上げが増えるのです。次に、患者の側からすると、医師の治療の場合には保険が
きくので安くあがるという利点があります。

薬を受け取ることによって、安心する患者さんがいることも確かです。ここには医師と患者とのギブ・アンド・テイクの
関係が成立しているようです。

どこの精神科や診療内科でも受診者が多く、一人の医師が1日50人の患者を診るというのは珍しくなく、多い時には
100人も診ることがあります。
こうした状況が、精神疾患の場合でさえ、「3分診療」という事態を生み出しているのです。

それでは、心理療法はもっと普及しても良さそうですが、実態はあくまでも医師による投薬治療が圧倒的に多い状況に
あります。そのもっとも大きな理由は心理療法(カウンセリング)の費用です。

現在、日本の法律ではカウンセリングは医療行為とみなされていませんので、当然、保険の適用外です。カウンセリング

専門のクリニックでの相談料はばらばらで、安いところで50分6000円くらい、また1時間で1万2000円から、
高いところでは2万円、あるいはそれ以上もします。これでは、いかにカウンセリングが良いといっても、よほど経済
的に余裕がないとこの治療を受けられません。

医師が保険を適用してカウンセリングをしたことにすれば通院精神療法として請求できるのですが、その保険点数(治療側
の報酬)は5分から30分までが330点(x10円)30分以上でも400点までしか請求できません。

しかし、このように低い点数では、医師が30分とカウンセリングに時間を使うことは考えられません。かといって、病院
や心療内科でカウンセラーを雇っても、形式上は医師が行ったことにせざるを得ないので、収入にはつながりません。

従って、現実的には医療機関では専門家のカウンセリングを受けることは、ほとんどないのが実情です。

心理療法の次の問題は、その治療期間が長いことです。私の知人もカウンセリングをかれこれ30年ほどやっていますが、
1人の相談者に数年というのはあたりまえで、5年とかそれ以上の例も珍しくありません。

相談料の高さと期間が長いので、次第にカウンセリングから離れていってしまう人が多いようです。

医師による投薬治療でも、10年以上も薬を飲み続けている人を何人も知っています。この場合、保険治療なので費用が安い
ということが長続きの理由でしょう。うつは治らないけれど、その代償として多くの場合、当人は薬漬けになってしまいます。

私は、薬でも言語でもない、第三の方法があると思っています。最後に、これについて簡単に説明しておきます。
それは一言で言えば、感覚と身体からのアプローチといえます。

私は3年間ほど、「森林療法」と称して、自閉症の子供たちと森林(主に山です)や山の清流の中でいろんな遊びをした経験
あります。

自然がもっている何ともいえない安らぎの効果、自然を皮膚で感じ,それが心の安定に与える効果は絶大だと感じています。
「森林療法」に活動に参加した子どもたちも、日頃の緊張感から解放されるためか、非常にリラックスしていました。

もう一つは、農作業による「うつ」からの回復です。これも私の経験ですが、「いのち」あるものを育てるという行為は、
私たちの心を優しくしてくれると同時に、緊張から解放してくれます。
今までも作業療法の一環として「園芸療法」は試みられていますが、まだまだ実験段階です。これからはさらに、広がること
を期待しています。

森林療法も農作業という作業療法も、その有効性が科学的に証明されているわけではありませんが、
そのメカニズムの解明を待つのではなく、良いと思われることは積極的に取り入れる必要があると思います。

なにより、これらは副作用がありません。私は、医療において大切なことは副作用がないことだと信じています。


(注1) このメカニズムについての詳しい説明は、高田明和『「うつ」依存を明るい思考で治す本:クスリはいらない!』(講談社+α新書、2002年):44-47ページを参照。
(注2) 高田明和『日本人の「うつ」は、もう薬では治せないのか』(主婦の友新書、2011年):40-48。
(注3) 國分康孝監修『現代カウンセリング事典』(金子書房、2008年):4,16ページ。
(注4) カウンセリングでは「患者」という言葉は使われず、「クライエント」とか「来訪者」
(注5) 米倉一哉監修、小田淳太郎著『そしてウツは消えた』(宝島社新書、2007年):190-92.
(注6) 高田、前掲書、2003年:94-98.
(注7) NHK取材班、前掲書:171.

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うつ病と日本社会(2)-それでもあなたは抗うつ薬を飲みますか?-

2013-08-12 10:59:42 | 健康・医療
うつ病と日本社会(2) ―それでもあなたは抗うつ薬を飲みますか?―

前回は,日本におけるうつ病を巡る全体的な状況について書きました。そこでは,公式統計だけでも,
「うつ病」と診断された人は増え続け,現在では100万人規模に達していることを示しておきました。

それに対する治療には,1)医師免許をもった医師による医学的な治療,実際には投薬治療と,2)医師
免許も国家資格もない臨床心理士などによる,カウンセリングを中心とする心理療法との二つがあること
も説明しました。(もちろん,理論的には1)と2)の併用も考えられますが,現時には困難なようです)

今回はまず,実際の治療ではもっとも主流になっている抗うつ薬治療について,その功罪を考えて見たい
と思います。その前に,なぜ医学的な治療が投薬中心になってしまうのかを整理しておきます。

まず,「うつ」を他の病気と同様「病気」であるとみなします。病気であるからには,物理的および理論的
レベルにおいて説明可能な科学的な根拠が必要になります。

最近のもっとも有力な説明は,脳が活発に活動しているときには脳内の情報伝達物質のセロトニンが盛んに
分泌されるが,うつ病になると,不安感や睡眠,食欲を調節するセロトニンという情報伝達物質が脳の中で

足りなくなるという考えです。したがって,うつ病の治療には,比ゆ的に言えばセロトニンが元に戻らない
ように薬物で受容体に蓋をしてしまうことがもっとも有効な方法となります。

そこで,従来の抗うつ薬に代わって,SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害剤)が抗うつ薬の主役
となっているのです。

日本では現在4タイプあり,デプロメール,ルボックス,パキシル,ジェイゾロフト,レクサプロとい
う商品名で発売されています。

SSRIの抗うつ薬は,従来の三環系と総称される抗うつ薬よりも「効果が高いうえに副作用が少なく手軽
に飲める」という宣伝文句で,あっという間に世界を席巻してしまいました。

こうして一時は「ハッピードラッグ」とさえ呼ばれていました。(注1)製薬会社は正確な金額を公表して
いませんが,たとえば代表的なSSRIであるグラクソ・スミソクライン社のパキシルの日本での売り上げ
は年間400億円と見積もられています。これは恐ろしい数字です。

ところで,このSSRIという抗うつ薬にはかなりの問題があることが分かってきました。

私がもっとも疑問に思うのは,科学的と称するSSRIの理論的根拠そのものです。

うつ病の人の脳内ではセロトニンが不足しているから,うつ病はセロトニンの不足が原因である,という論理

は同義反復で科学的な因果関係を証明していません。

つまり,症状からうつの原因をセロトニン不足と決めつけているだけで,なぜセロトニンが減少するのかという
本来証明されなければならない本当の原因を証明していないのです。

つまりセロトニン不足は,うつの直接的な物質的因子ではあっても,原因ではなくむしろ結果なのです。

うつを経験したジャーナリストの織田淳太郎氏もこうした医師の矛盾を指摘しています。

すなわち,ある精神科医は「いわゆる「ウツ本」の中で,「こころの病気は性格の弱さとか,ストレスで起こる
と誤解している方がまだまだ多いのが実情ですが,ほとんどのこころの病気は脳の働きの異常が関与していて,
ストレスは原因ではなく,発症や再発の引き金になっていることがわかっています」と,医師の誤った思い込み
について書いています(注2)

もし脳内の伝達物質の不足を補えば,うつ病は「治る」というのなら話は簡単ですが,それでは熱がでたから
解熱剤で熱を下げる,下痢が続くから下痢止めを服用する,という発想と同じで,発熱や下痢の原因を究明して
解決するのではなく,あくまでも物質レベルでの対症療法にしかすぎません。

確かに,症状から導き出してきた薬ですから,その症状を緩和することは,「一時的」には可能であるし,有効
かもしれません。

しかし,実際にうつ病になった人の事例をみてゆくと,何らかの精神的,心理的な問題(ストレスや大きな心理的
なダメージなど)が背景にあり,その問題を解決しない限り,症状が一時的に消えても,「治った」とはいえません。

実際,織田氏の著作の中には,最初のうち,うつの状態が緩和されても,次第に効かなくなったり,再発する事
例が幾つも紹介されています。

次に,そもそも抗うつ薬はうつ病を本当に治す力があるのか,また,宣伝文句がいうように副作用が少ないのか,
という問題があります。

自身が長い間うつ病に悩まされ,自分で克服した生田 哲氏は薬学博士であり,アメリカの研究所で研究活動を行い
大学でも教鞭をとってき人物です。彼は『「うつ」を克服する最善の方法―抗うつ剤に頼らず生きる』の「まえがき」
で次のように明言しています。

   「あなたはうつ病です。うつ病は抗うつ薬で治ります。だからしっかり抗うつ薬を飲みましょう」というのは,
   製薬会社の販売促進用プロパガンダである。
   辛いことがあれば 泣き,うれしいことがあれば笑う。うつは人間感情の自然の発露である。
   そんなうつを,錠剤の何粒かを口に含んだくらいで治ると思っているほうがどうかしている。
   うつは抗うつ薬を飲んでも治らないし改善もしない。
   むしろ薬の副作用によってうつが悪化したり,自殺したくなったり,さらに極端な場合には,本当に自殺を決行
したり,はたまた犯罪を犯したりする。(注3)

自殺や犯罪までゆかなくても,突然,暴力行為も含めて異常行動に走る,無気力,死にたいと思うようになる,自分が
何をしているか分からなくなる,めまいやふらつき,はきけが起こるなどが報告されています。

薬理の面から言えば,本当の意味で「抗うつ薬」と総称される薬の本当の姿は「脳を興奮させる薬」であり,断じて
うつを治す薬ではない。

本当の意味での「抗うつ薬」というものは,この世には存在しない。(注4)つまり,一般に「抗うつ薬」と称される
薬は,落ち込んだ気分を無理矢理興奮させる薬なのです。

生田氏が指摘するように,イギリスでもアメリカでもSSRIの影響と思われる自殺や殺人が相次ぎ,訴訟問題になって

います。日本でも,SSRI系の抗うつ薬を飲む前には考えられなかったような暴力をふるうようになったり,
殺人を犯す事例などがすでに知られています。(注5)

私の周りにも,抗うつ薬をずっと処方されて,ある日突然自殺してしまった学生,抗うつ薬を長期間飲み続けて体が動か
なくなり家から出られなくなってしまった学生,抗うつ薬を飲み始めて2週間後に起きあがれなくなり,結局退学に追い
込まれた学生,などなど悲惨な事例がたくさんあり,今でも決して消えることにない辛い記憶として私の心に残っています。

しかし,問題は医師が薬を処方するとき,ほとんど薬の作用や副作用について説明しないことです。このため,穏和だった
人がいきなり暴力的になった原因が,実は病気を治すはずの「抗うつ薬」にあることを本人や家族がずっと後になって知っ
たという事例も珍しくありません。

抗うつ薬で,一旦はうつ症状が緩和されることもありますが,やがて効かなくなってくるので,だんだん量が増えてきます。

そのような具体な事例として,診察に同行した人の記録を示しておきましょう。
   その後,どう? (パソコンをウツ仕草)こうやっているのね。ええ,もう全然(私たちの方を向かないんですよ。
   その後,どう?って。今,ちょっと具合悪いですって言うと,“そう,じゃあ薬増やしておこうね”って。
   こういう状態なんですよ。あれ?って思いましたよね。(NHK取材班『前掲書』30ページ)

改善がみられないと,“お薬を増やしておきましょう”,という対応はよく見られます。こうして薬がどんどん増えて
ゆきます。

ある患者さんの処方箋によれば,統合失調症やうつに効果があるとされている薬を1日3錠,さらにSSRIの一種「パキ
シル」1日1錠と,最初の段階から2種類の抗うつ薬が同時に投与されている。

その他,抗不安薬が1日3錠,睡眠導入薬が1日1錠,計,10錠が処方されていた。(同上書 47-48ページ)

これは極端な事例に思われるかも知れませんが,必ずしもそうではありません。私のところに相談にきた学生の処方箋の
場合,内容はほぼ上記と同じで,これに「てんかん」に効くとされる薬,消化剤が加えられて,計14錠をワンセットに,
と書かれていました。

薬が治療の中心になることには,さまざまな事情があります。1日に診る患者の数は,丁寧な診察など不可能なほど多く
なっている,という事情が深刻です。1日50人程度は普通で,多いところでは100人物患者を診る場合さえあります。

こうなると,患者の話をゆっくり聞いている時間はなく,いわゆる3分診療となります。

医師が“どう?”と聞いて,“あまり改善していません”,と答えれば“お薬を増やしておきましょう”あるいは“お薬を
変えてみましょう”という対応になります。

また,“まあまあ”と言えば,“じゃあ,しばらくこの薬を飲み続けてください”という程度の,これでも「診察」と言
えるのか,という対応も珍しくありません。

最近知人から,精神科の待合室で4時間待って,結局,薬の処方箋を渡されただけだったので,行くのを止めたという話
を聞きました。

ゆっくり話を聞いてくれることは期待せず,処方箋だけをもらうために行く人もいて,医師が顔だけちょと見て処方箋を書
く場合もあるようです。

SSRIの抗うつ薬のもう一つやっかいな点は,依存性が非常に高く,薬から全面的に抜けることはいうまでもなく,減薬
さえも非常に難しいことです。

というのも,抗うつ薬を長期間服用すると,体の中に依存性(はっきり言えば中毒症状)が生じ,薬の量が少なくなると激
しい「離脱症状」(禁断症状に近い)に襲われるからです。

したがって,減薬や断薬をするには,薬学についての知識がある医師のもとで長い時間をかけてゆっくり体から薬を抜いて
ゆくことが理想です。

医師は,薬理作用については専門的な知識をもっているとは限らず,むしろ製薬会社の営業マンの説明に頼って薬を処方して
いる場合が結構あるからです。

ただ,薬理の専門家の指導がなくても,抗鬱剤から抜ける方法について,ス電紹介した生田哲氏は10の原則を具体的に書い
ています。(注6)

ここで全てを紹介することはできないので,関心のある人は是非,一読することをお薦めしますが,一つだけ重要なポイント
を示しておきます。
 
それは彼が(4)に挙げている項目で,「精神活性薬物の深刻な副作用が発生していて,迅速に離脱しなければならない場合
を除いて,薬はゆっくり減らすこと。毎週10パーセントずつ薬を減らしてゆけば,たいていの深刻な離脱反応は防ぐことが
できる」というものです。

ここで「10パーセントずつ減らす」とは具体的に,錠剤をナイフやカミソリで十分の一ずつ削ってゆくことです。
さらに,これには運動や栄養の摂取などについての補足的な面も合わせて採り入れることも重要です。

現在,多くのうつに悩む人たちは,良い医者を求めてさまよっています。それだけ,うつにたいする決定的な治療方法がない
ということなのでしょう。

日本うつ病学会理事長の野村総一郎氏は,医者選びの五箇条(避けた方がよい医者)を挙げています。

氏の解説も含めて示しておきます。

① 薬の処方や副作用について説明しない。
  薬の処方は積極的な行為なので,説明とくに副作用については,出る可能性があるものにかんしては,ポイントを押さえ
  て説明すべきである。
② いきなり3種類以上の抗うつ薬を出す(初診,あるいは最初の処方で)
  薬というものは,基本的には1種類であるべき。抗うつ薬の有効性というのは,1種類の薬についてのデータに基づく
  ものであり,2種,3種の組み合わせのデータはないので,説明できない。
③ 薬がどんどん増える
  薬を増やせば有効だというデータはない。“治らないからでしておくか”といってどんどん足し算みたいに増やして
  ゆくのは科学的ではない。
④ 薬について質問すると不機嫌になる
  “薬の副作用がでましたよ”と言われると,何か自分の治療を非難されたように感じる医師がいる。しかし,これは文句
  ではなく,情報を与えてくれているんだと解釈すべきである。それを怒って反応するのは治療のチャンスを逃すことになる。
⑤ 薬以外の治療方法を知らないようだ
  患者さんが,病気の症状とか悩みとか,困っていることをいうと,“じゃあ薬を増やしておきましょう”というふうに話
  をもっていってしまう医師。薬以外にも 心理療法もあれば,重症の場合には通電療法もある。あの手この手を繰り出す
  雰囲気がないとまずい。

私の個人的な感想を言えば,薬は,今にも自殺しそうな状態なっているような緊急性がある場合を除いて,第一の選択肢と考える
べきではないと思います。まずは,カウンセリングを受けることが重要だと思います。

なぜうつになったのかも詳しく聞かないで,マニュアルにあるからといって,直ぐに薬に頼るのは,安直な対症療法にすぎない
からです。

私が出席したメンタルヘルスに関する会合の席上,隣に座っていた精神科の医師が私に,“えっ”と驚くべきことを,そっと私に
ささやきました。“先生でも2週間あれば,うつにたいする治療ができますよ”,と。

彼が言うには,診断にはマニュアル(おそらくDMS-IV)があり,それで「病名」を確定すれば処方する薬が,これもマニュ
アルに書いてあるからだそうです。

もちろん,これは彼が半ば冗談めかして言った極論なのだとは思いますが,意外と本質をついていると思いました。

次回は,ではうつにたいして,私たちはどう対応したらよいかを,薬ではない幾つかの心理療法に焦点を当てて考えてみたいと
思います。


(注1)NHK取材班『NHKスペシャル:うつ病治療が 常識が変わる』宝島社新書,2012年110ページ。
(注2)米倉一哉監修・織田淳太郎著『そしてウツは消えた!』宝島社新書,2007年,121-22ページからの引用。
(注3)生田 哲『「うつ」を克服する最善の方法―抗うつ剤に頼らず生きる』(講談社+α 新書,2005年),4-5ページ。
(注4)生田 『前掲書』25-26ページ。
(注5)NHK取材班,前掲書,第三章に具体的な事例が載っています。
(注6)生田 『前掲書』146-49ページ。

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うつ病と日本社会(1)-うつは心と感情の問題?それとも「病気」?-

2013-08-07 18:32:21 | 健康・医療
うつ病と日本社会(1)-うつは心と感情の問題?それとも「病気」?-

数年前のことですが,何気なくFMラジオで音楽番組を聞いていたら,「うつは病気です。ちょうど風邪を
引いたとき,医者にいって治療を受けるように,うつは心が風邪を引いた状態です。

だから,うつかなと思ったら早めに専門家の治療を受けましょう」という宣伝文句が耳に入りました。

この広告主が誰であったかは憶えていませんが,たしか,どこかの心療内科か製薬会社だったと思います。

ラジオで宣伝するほど,うつ病は一般的になったのかという驚きと同時に,このような広告がラジオで放送
されるようになったことに,「改めて」驚きました。というのも,私は2005年に『関係性喪失の時代-壊れ
てゆく日本と世界』(勉誠出版)を出版した頃,うつに由来すると思われる自殺の問題を追いかけていたか
らです。

当時はリストカットが流行していた時期でもありました。そして当時はまた,うつと自殺の関係が注目され
ていた時期でもあります。

日本人の自殺者は1997年までは2万人半ばくらいで推移していましたが,1998年に突如,3万人台に激増し
ました。

「交通戦争」と言われて社会的な問題となっていた交通事故死でさえ,当時は1万人をかなり下まわってい
たのです。

とりわけ異様な印象を世間に与えたのは,インターネットなどで呼びかけて希望者を募り,車を密閉して練炭
を燃やし,一酸化炭素中毒で集団自殺する事例が頻発したことでした。

私はこれらの事例を一つずつ,できる限り詳しく調べました。

そして,集団自殺に加わった人たちに共通する特徴があることがわかりました。

彼らは,生きていることに意義を見いだせず,実感も持てず,気分の落ち込みを抱えている,典型的なうつ
の状態にありました。彼らは,ただ死ぬことだけを考えていて,たまたまインターネットで自殺の募集を見
て集団自殺に応募したのです。

集団自殺に参加した人たちの構成は,年令層も男女もバラバラで,職業も一般の社会人,学生,主婦など,
中小企業の経営者など多様でした。こうした事実を考えると,うつによる自殺はまさに国民的な問題とい
えそうです。

誰でもおちいる可能性のある「うつ」について,これから何回かに分けて考えます。ただ,うつに関しては,
かなり複雑な問題があるので,今回はまず,そもそもうつとは何か,どんな基準でうつと診断されるのか,
うつの治療にはどんな問題があるのか,について大枠を整理しておきたいと思います。

厚生労働省は,3年に1度さまざまな疾患の患者数を全国の医療機関を通して調査しています。たとえば

平成8年(1996年)には,後に示す診断基準に基づいて診断を下された,「うつ病」と「躁うつ病」を含む
「気分障害」の総患者数は43万人強でした。

これが,平成23年(2011年)になると95万人(うち女性が6割,男性が4割)に激増しています(ただし
福島県と宮城県は震災という特殊事情のため,この中に入れてありません。両県の合計は3万人ほどでした)。

なお,ここでは煩雑さを避けるために,「うつ病」と「躁うつ病」とを厳格に分けないで一括して「うつ病」
あるいはたんに「うつ」と表記することにします。「躁うつ病」もやはり「うつ」をともなうので,このよう
にまとめて「うつ」として扱うこともある程度許されるでしょう。

単純に計算すると,うつ病患者はこの15年間に倍増したことになります。注目すべき事実は,平成14年
(2002年)には70万人を突破していたことです。

この急激なうつ病患者の増加は,平成3年(1991年)のバブル崩壊と,それに続く不況と関係があるように
思えます。

ただし,厚労省の調査は医療機関からの報告を基にしているので,医療機関に通っていないうつの患者数は,
発表された数よりかなり多いと考えるべきでしょう。

ところで,厚労省が定義する「うつ病」とは一体何でしょうか?私たちの日常的な感覚から言えば,気分が
滅入って,いつも落ち込んだ気分が抜けない,落胆や悲観,不眠,極端な場合,死にたいなどの感情が支配
的になっているなど,生きることに否定的・悲観的な感情の状態,もっと平たく言えば心の問題であって,
腎臓病や心臓病のような臓器の「病気」だとは思いません。

しかし,脳精神科医は,体の異常な状態を何が何でも生物学的・科学的な根拠に基づく「病気」であるかの
ごとく再定義し,無理に「病気」にしてきました。そこで彼らが(一般の医師も厚労省も)依拠したのは,
アメリカの精神医学界が作成した公式の診断マニュアル(DMS―IV)です。参考までに,その診断基準
を示しておきます。

この診断基準に従うと,以下に示した9つの項目のうち5つ以上が当てはまり,それが2週間以上続いてい
ると,「はい,あなたはうつ病です」(医学的には「大うつ病」とよばれる)と診断されます。

  1 悲しみや落胆
  2 興味や喜びの喪失
  3 体重の減少や増加
  4 睡眠障害(不眠や過剰な睡眠)
  5 焦燥(あせり)や抑制(のろさ)
  6 疲労感
  7 自分を価値のない人間と思う罪悪感
  8 思考力,集中力,決断力の欠如
  9 繰り返す死への願望

このブログを読んでくださっている人の中で,自分はひょっとしたら「うつ病」か「うつ傾向」かなと思った
人はいませんか? 

現代の日本で生活している限り,これらの症状の幾つかに当てはまっても不思議ではありません。

あるいは,5つは当てはまらないけれども,4つは当てはまるとか,2週間までは続いていないけど12日
くらいは続いている,といった場合もあるでしょう。

こうして数値化しても,実際には,強弱の問題を含めて,その中間の状態は非常に多様であり,簡単に断定
できるものではありません。

しかし,それでも,このような診断基準を設けることには,生物学的・科学的医学を標榜する医師たちにとって
は大きな意味があります。

何より,この診断基準は彼らに,「うつ病」とは単に気分や感情の問題ではなく,科学的根拠がある明確な
「病気」であるというお墨付きを与えてくれるからです。このことは,実際の治療場面で大きな意味をもっ
ています。

つまり,一旦,ある患者が「うつ病」であると診断されれば,それにたいして「抗うつ薬」を処方できるか
らです。

これだけをみると,うつに関しては診断も治療の方法も明確で理想的に見えますが,実はここに,治療に
かんする大きな問題があるのです。

極めて大ざっぱに言ってしまうと,精神科の医師であれ心療内科の医師であれ,医師は「うつ」を身体的な
「病気」と診断し,それに対応した薬の処方を中心とした「医学的」治療を行います。

これに対してカウンセリングを中心とし,そのほか箱庭療法や催眠療法なども補助的に併用した,いわゆる
心理療法を行う臨床心理士(カウンセラー)は,うつを心や感情の問題として扱います。

カウンセラーは医師免許をもたないため,薬を処方することはできません。そこで,会話をつうじて患者の
心の奥底にある問題を発見し,患者がそれに気付き,自ら立ち直るのを助けることになります。これがカウ
ンセリングです。

ところで,うつは心や感情の問題なのか,そうではなくて,一般の病気と同じように薬物療法が有効な身体的
な病気なのかという二元論的な区分は,実はあまり適切ではありません。

というのも,人間は心と体は一体のもので,分けることはできないからです。

たとえば,うつの状態が長く続いて,そのストレスが胃潰瘍や,さらにはがんなどの臓器の障害を引き起こす
ことは十分あり得ます。

医師とカウンセラーはそれぞれ役割が異なるので,本来なら両者は協力して治療に当たるべきなのに,現実に
は両者の協力関係は皆無に近い状態です。

医師には,困難な試験に合格し,多額の教育費をかけ,長年の研修を経てようやく医師免許を得ることができ
たのに,医師免許をもたないカウンセラーと同レベルで扱われることに強い心理的な抵抗があるようです。

2005年,当時文科省の大臣で,ご自身が日本におけるユング派の心理療法の権威であった河合隼雄氏が,臨床
心理士を国家資格に格上げしようと懸命な努力をしました。しかし,心理学界内部の不統一と,医師側の反対
もあって,臨床心理士は今でも国家資格ではなく,文科省認定の日本臨床心理士資格認定協会が認定する,
民間資格に留まっています。

精神科の病院でも専任のカウンセラーを置いているところは非常に少ないようです。これはひとえに経費の
問題です。つまり,カウンセリングに対する保険点数が低いため,病院にとってカウンセラーを雇うとその
人件費をカバーできず採算が合わないのです。

こうして,現在ではもっぱら医師による医学的治療と,臨床心理士が行うカウンセリングとが別々な方法で
治療を行うことになっているのが実情です。

この状態も大いに問題ですが,それぞれの方法にも問題や限界があります。

それらについては,次回以降で詳しく検討しますが,最後に,人が自分の精神状態の異常を感じたとき,まず最初
にどこへ行くのか,という点を見ておきたいと思います。

自分がうつかも知れない,あるいは「うつ」という言葉を使うかどうかは別にして,気分の落ち込みが激しい,
不眠,不安や生きる気力が湧いてこない,会社や大学に行こうとしてもどうしても体が動かないなどの自覚症
状を感じたとき,いきなり精神病院や,総合病院の精神科に行く人は少ないでしょう。

最初は,近くの内科を訪れると言う人もいるでしょう。あるいは,大学生の場合,大学の保健センターや相談所
に行くケースもあります。

ただ,一般的には,心に何らかの問題があるな,と感じたとき,心療内科に行く場合が多いようです。

私が直接・間接にかかわってきた学生に聞くと,現在は心療内科の予約がなかなか取れないほど,受診希望者
が多いそうです。

心療内科という言葉には,精神科よりも軽い,そして心のケアと体のケアを同時にやってくれそうな響きがある
ので,あまり抵抗なく行けるようです。しかし,ここには少なくても二つ,大きな問題があります。

一つは,心療内科といっても,基本は内科で治療者は医師免許をもった医師です。

私が知っているケースでも,ほとんどが,まず心療内科を訪れています。しかしそこでは,ほとんど例外なく
投薬が治療の中心です。心療内科の先生は医師ですから,カウンセリングはほとんどしません。

そもそも薬によってうつは本当に治るかどうかさえ,現在では疑問視されていますう。これについては,次回
以降に検討します。

二つは,既に書いたように,現在では心療内科の予約がなかなかとれない(3ヶ月とか半年先,といった事例
も聞いています)ほど受診希望者が多い状態にあります。ところが,全ての診療内科の医師が,うつのような患者
を治療する訓練と経験をもっているとは限りません。

日本では,医師免許を持っていれば,だれでも診療内科の看板を掲げることができるからです。こうして,心療内科
が儲かるとなれば,それまで内科を専門にしていた医師も,診療内科・クリニックの看板を掲げるケースが急速に増
えたのです。

厚労省の統計に寄れば,平成8年には,心療内科を主たる科として標榜する施設数は,平成8年度で,一般病院の
なかで117,一般診療所が662であったが,平成20年には,一般病院が540,一般診療所で3755と5倍
以上に激増しました。(注1)

これだけ心療内科が増えてもなお,予約がなかなかとれない,という状況が今の日本です。

次回から,こうした状況を踏まえて,医学的アプローチと,カウンセリング中心の心理療法の有効性や問題点を検討
したいと思います。


(注1)http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/hoken/kiso/xls/21-2-22.xls (2013年8月7日参照)

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2013年参議院選挙(2)-選挙結果は何をもたらすのか-

2013-08-03 05:16:50 | 政治
2013年参議院選挙(2)-選挙結果は何をもたらすのか-


前回の「2013年の参議院選挙(1)」では,参院選の結果から,国民が何を選択したのか,そして,自民圧勝は何を意味するのかを
大ざっぱにみました。

そこでは,自民圧勝をもたらした国民の選択とは,単純化してしまうと,“景気が上向くのではないか”という,いわば目先の金銭の
問題だったことを指摘しておきました。

今回は,それでは,この選挙結果は日本という国家と私たちに何ももたらすのかを考えてみたいと思います。その前に,安倍首相が
選挙期間中に盛んに語っていた,大目標について触れておきたいと思います。

それは,「ねじれの解消」によって「決められない政治」を打開し「決められる政治」を実現する,ということでした。

これには背景があります。2009年の政権交代まで自民党は参議院で過半数割れの「ねじれ」のため,政策の遂行に苦労したという怨念に
近い感情があります。

そこで今回の選挙では「ねじれの解消」という,本来は選挙の争点ではあり得ないテーマを前面に押し出して選挙戦を展開しました。

ただ,自民党が言う「決められる政治」「スピード感のある政治」というのは法案を通すことで,現実に政策をスピーディーに実行する
ことを意味しているわけではありません。

たとえば,昨年末に政権を取って以来,福島や三陸地域の復興,特に被災者にたいする補償や援助などはあまり進んでいないのが現実です。

さらに私は,そもそも「ねじれ」は政治において悪いことなのか,という点に大いに疑問を感じます。アメリカでもイギリスで,他のヨー
ロッパ諸国では与党と野党が「ねじれ」ている事は珍しくないし,むしろ普通です。「ねじれ」は特定の勢力の独裁と暴走を抑える防波堤
なのです。

もし,与党が両院で多数を占めてしまえば,確かに与党の思い通りになりますが,それが国民の利益になる保障はありません。

政治はあくまでも,国民のために存在するのであって,そのために政権与党は野党勢力と国民を忍耐強く説得することが使命なのであり,
それこそが民主政治の本質なのです。

もし,与党勢力の思い通りに国会を運営したいというのなら,それは政治の本質の放棄です。実際に,公明党と連立を組んで参議院でも
安定多数を確保した今,安倍政権は理論的には何でも決めることはできるのです。

さて,前回の記事で,今回の選挙で自公の圧勝をもたらした,もっとも重要な要因は,民主党に対する失望と,国民の多くが(といっても,
自公合わせも25%ほどですが)抱いていた「景気の回復」への願望であったことを書きました。

考えるべき重要案件としては憲法問題も,国防軍の問題も,TPP問題など多数ありますが,今回は自民党に勝利をもたらした「景気の回復」
を豪語するアベノミクスの中長期的な影響について考えてみます。

まず,前回も書いたように,選挙当時の円安は一部の大企業,特に比重が大きい自動車産業の大企業には追い風となったことは確かです。

しかし,勤労者の7割を占める中小企業にはその効果は及んでいませんし,今後,次第に及んでくる保障はまったくありません。

さらに,マスメディアに登場するエコもミスたちは,一般の国民に景気の回復の効果が及ぶのは2年後くらいでしょうと言っていますが,
これさえ根拠があるわけではありません。

むしろ,現行の「異次元の金融緩和」は,物価の上昇を通じてインフレを克服しようとしているので,一般の勤労世帯の所得が上昇したとして
も,その時には物価も上昇しているはずですから実質的な所得の増加にはならない可能性があります。

物価の上昇以上に所得が上昇するためには,物価の上昇以上に生産性(企業の利益)が上昇しなければなりません。高度経済成長期には輸出を
テコにこのような事が起こりました。

当時は韓国や中国,インド,シンガポール,台湾などはまだ日本の競争相手になっておらず,ヨーロッパ諸国もまだ完全には復活していません
でした。

これにたいして戦後いち早く経済再建に乗り出した日本は,国際貿易において非常に有利な国際環境に恵まれていました。

しかし,現在では新興工業国の追い上げが激しく,当時とは国際環境が全く異なります。

したがって,現在の政策によって,自民党に投票した人たちの願望を叶えてくれることには大いに疑問が残ります。

それよりも深刻なのは,巨額の財政赤字です。これは将来,国民経済全般と私たちの暮らしを確実に圧迫してくることです。

日本は,歳入の不足分を国債を発行することで(借金で)賄ってきました。これまで国債は主に銀行が買い,ある程度は個人も買ってきました。

こうして積もり積もった国債の債務残高は約1000兆円と見積もられています。

これは国の借金であり,日本の財政赤字です。この借金の大部分は,長期にわたる自民党政権時代に公共事業を中心とした,いわゆる「箱物行政」
「土建屋国家」の体質によって積み上げられた金額なのです。

これに加えて,安倍政権は「異次元の金融緩和」を実施し,日銀は毎月7兆円分,政府が発行する国債の7割を購入しています。

計画では今後2年間で270兆円も,国債によって貨幣供給量を増やそうとしています。言い換えると,さらに赤字国債(借金)を増やす
ということです。

270兆円というのは国家予算の3倍にも相当します。「大胆な金融緩和」を最初に打ち出したアメリカの中央銀行に相当するFRBでさえ,
市中への貨幣供給量の増加を3兆ドルと,国家予算の規模に留めているのです。

しかし,日銀はいつまでも国債を買い続けるわけにはゆきませんから,いつかは買い上げ額を減らさなければなりません。その時には現行の低い
利子では買い手がないため国債価格は暴落し,金利は上昇します。この結果は国民生活のあらゆる分野に及びます。

まず,数百兆円もの国債を抱える銀行にとっては大打撃となります。倒産の危機にさらされる銀行もあるかもしれません。また,現在の借金を
国民一人当たりに換算すると,赤ん坊から老人まで全ての国民1人あたり800万円以上になります。しかも,元金の返済に利子の支払いも加
わり,借金はどんどん増えてゆきます。

こうして現在では,元利の支払いが税収でまかなえないため,その不足分を賄うために再び国債(赤字国債)を発行することになります。

一般会計の歳入に占める税収の割合は平成3年度に86.8%であったものが,昨年には42.4%へ激減しました。

逆に言えば,歳入の半分以上の58%ほどを国債(借金)でまかなっているのです。(注1)

では,この膨大は借金を誰がどのようにして返してゆくのでしょうか。もちろん,最終的には国民が負担する以外にありません。

一つは,景気が回復して企業の収益が上がり,法人税が増える,労働者の賃金が上がる,というプラスの連鎖が続けば,徐々に借金を減らして
行く,もっとも理想的なシナリオです。しかし,大企業の7割はさまざまな租税優遇措置を利用して法人税を払っていません。(注2)
そのうえ企業は内部留保を積み増しするだけで,労働者の賃金を挙げる気配がありません。

「異次元の金融緩和」がもたらす財政赤字への疑念に対して安倍首相は世界に向けて,これはインフレ誘導ではなくデフレ脱却政策であると説明
してきました。

しかし,日本の巨額の赤字を抱える日本が財政の健全化に失敗すると,国債は急落(金利は急騰)し,日本経済が混乱し,その影響は世界に波及
します。

この状況にドイツのメルケル首相は,6月のG8サミットで,「日本の財政健全化の実現に強い懸念を表明しました。それにたいして安倍首相は,
9月の主要20カ国・地域(G20)首脳会議で財政再建計画を説明する予定ですが,各国の理解を得ることは非常に難しい状況にあります。
(『毎日新聞』2013年7月27日)

政府が9月のG20で説明する予定の中期財政再建計画の概要が7月26に明らかになりました。それは,2015年度の財政赤字を,10年度比で
半減する財政健全化目標を達成することで,そのために13年度の赤字財政約34兆円を,15年度に約17兆円まで圧縮するというものです。

しかし,歳出と歳入の具体的な金額は盛り込んでいない上,歳出抑制や増税など,計画実現に向けた具体的策にも触れていません。

つまり,現段階では財政赤字が年ごとにどのようにして半減してゆくのかについては,具体的な根拠を示していないのです。

しかし,一般会計の歳出のうち,4分の1は赤字国債への元利払いに当てられているのが現状では,1000兆円の借金を返すのは容易なことでは
ありません。

一般家庭で言えば,収入よりも借金の方が多い赤字家計が常態となっているのです。結局,日本が財政破綻を回避して財政の健全化を図るには,
ではどうして歳入を増やすのか。

まず,確実にそして最も手っ取り早く歳入を増やす方法は,消費税を上げることです。政府は平成15年には今より3%上げて8%に,16年には
10%に消費税を上げる計画ですが,これでも景気の動向によって実現できるかどうか分かりません。本当に消費増税を中心に赤字の減少を考える
なら,消費税率を15%とか20%に上げる必要があるかも知れません。

ところが,消費税を上げたために消費が落ちる可能性も大きく,トータルで税収が増えないことも大いにあり得ます。

次に歳出を抑える方ですが,これも極めて困難です。その一つの理由は,自民党が「国土強靱化法」の名の下に,今後10年間で200兆円の公共
事業を実施しようとしていることです。自民党の復権で,従来どおりの「土建屋国家」も復活したのです。これこそ自民党議員が待ち望んでいたこ
となのです。

そこで,政府がねらっているのは,歳出の中でも特に大きな比重を占め,さらに増え続ける可能性があう社会福祉予算を削ることです。

なかでも,年々1兆円も増大する年金の支払いを減らすことは主要な課題で,そのためには,受給開始年齢をさらに引き上げ,かつ支給額を減らさ
なければなりません。さらに年金受給者でも,ある程度以上の収入があれば減額するといったことも考えています。

この他,高齢化とともに増え続ける医療費についても補助の削減,貧困者への生活扶助の減額,親族に扶養能力があれば生活保護は受けられないよ
うにする,母子家庭への補助を減額する等,要するに生活かんする様々な国家的な給付を減らし,できる限り自己責任,自己負担の方向に持ってゆ
こうとしています。

現実に,8月2日,政府の社会保障制度改革国民会議は,民主・自民・公明の3党合意を無視して,給付減と自己負担のアップを打ち出しました。

年金の減少,医療の自己負担増に加えて,「異次元の金融緩和」により貨幣価値は確実に下がりますから,老後の蓄えも日々,目減りしてゆきます。

高齢化にともなう年金や医療の増額は仕方がないとしても,不要・不急の土木工事のために巨額の国債を発行し,さらに借金を増やし,その付けを
国民に押しつける可能性が大です。

現在,復興予算として組まれた巨額のお金の多くはゼネコンや土建業界に流れているし,中にはほとんど復興と関係ない事業に,子供だましの理屈
をくっつけて使われています。

それでも経済が回復して,国民が安心して暮らせる社会が実現できればいいのですが,どう考えても今回の参議院選挙で勝利した自民党が掲げる
「アベノミクス」は莫大な財政赤字を増やして,経済は一層の混乱をたどることしか考えられません。

今回の選挙で自民党を選択してしまったということは,以上のような不安とリスクを,私たち国民が自民党に信任を与えたといことです。
私たちはそう遠くない将来,「こんなはずではなかった」という苦い思いをさせられるのではないか,と心配しています。


(注1)財務省のホームページより。http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/003.htm 2013/07/28 参照)
(注2)http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/economic_confe/list/CK2013012502000167.html (『東京新聞』電子版 2013年1月15日)2013.7.25.参照。

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