大木昌の雑記帳

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子どもの世界(2)―子どもと自然・いのち―

2015-03-01 06:52:54 | 社会
子どもの世界(2)―子どもと自然・いのち―

子どもは詩人だという言葉がありますが,子どもたちの詩は,大人があれこれ言葉を選び表現を工夫した詩よりも,
はるかに私たちの心に響き,想像力を豊かに拡大してくれます。

まず,子どもたちが自分を取り巻く自然をどのように感じているのでしょうか。(以下の詩に対するコメントは,
もちろん私の勝手な想像です。)

でんでんむし    やまと なおみ
     でんでんむしが
     あめにむかって
     のぼっていきました

なおみちゃんは雨の中で,でんでんむしが葉っぱの上をゆっくりと這い上がっている姿をじっと見ています。
多分,梅雨時の,あじさいの葉の上を這っているでんでんむしでしょう。

そして,でんでんむしは雨を伝ってさらに空にむかって登ってゆきたいんだな,と感じています。
かたつむりの気持ちまで感じている,なおみちゃんの豊かな感性がうらやましいです。

     やまと なおみ
     きがかぜにのっていました
     はっぱがいっぱいありました
     だから おんがくになるのです

大人は,風が木の間を吹き抜けて,葉を揺らしている,という自然科学的な因果関係で理解するのが普通です。
しかし,なおみちゃんは,動かないはずの木の方が風に乗って,

いっぱいの葉を揺らしながら,あたかも泳いでいるように感じています。「だから」音楽になるのです。

大人では決して出てこない発想です。なおみちゃんのすばらしい想像力に脱帽です。

あじさい   すぎやま かおり
     あじさいが / あめにぬれていました
     かぜがふいてきました
     かぜが / まりつきをしていました

あじさいの花が風に揺れ動く様子を,「まりつき」をしていると表現したかおりちゃんは,立派な詩人です。かおりちゃんの,
みずみずしい感性がうらやましくなります。  

あかとんぼ   こばた やすひろ
     あかとんぼは
     ゆうやけをみたから
     めがあかくなった

童謡に,うさぎの目はなぜ赤い,という問いに続いて,「赤い実を食べたから」という歌詞があります。
これは,食べ物によって体の色が変わる,という大人の科学的知識から出た発想です。

しかし,やすひろ君は,夕焼けを「みた」だけで,目が赤くなったと感じたのです。この時,やすひろ君自身も,
赤とんぼになって夕焼けを見つめていたのでしょう。

ゆうひ   ふじ もとえ(二年)
     夕日がやまにかくれていきました
     お月さまとかくれんぼうしているのかな
     ほっぺをあかくして走っていきました

夕日が沈んで行く一方で,月が出てきます。もとえちゃんにはそれが,夕日と月がかくれんぼをしているように感じられたのでしょう。
その光景が目に浮かびます。

広大な宇宙の動きを描いた,壮大なドラマでせう。大人が,考え抜いて作る詩とは異なり,感じたままを表現した詩がもつ力強さです。

ほし   たかはし みずほ
     せんせいあのね
     なんでそらのほしは
     ほしのかたちがしていないの

こんなふうに問いかけられたら,大人は,答える前に思わず抱きしめたくなってしまうでしょう。

みずほちゃんの心の中では,星は★のような形をしています。あえて,科学的な説明しないで,
しばらくはこのままのイメージをもっていて欲しいと思います。

あめ    やまさき ふみお
     ふゆのあめはしろいのに
     あきのあめはとうめいや

雨そのものは透明なのに,ふみお君には冬の雨は白く,秋の雨は透明に見えるようです。

科学的には,説明できませんが,なぜか,このたった2行の詩は理屈を超えた説得力をもっています。

というのも,冬は寒々とした白いイメージがあり,秋は澄み切った空と空気を連想するからです。

しかし,ふみお君は,大人が描きがちな,こうした理由付けとは関係なく,直感的に感じたままを書いたのです。

かに  すぎたに あらた
     パパとかにをつりにいったら3びきつれたよ
     1ぴきはしんだふりをして
     たべられないぞというかっこうをしたよ
     2ひきめはやめろやめろとあしをばたばたしたよ
     3びきめはもうだめだというかおをしていたよ

この詩を読んだら,大人の詩人も真っ青になってしまうでしょう。あらた君はすっかり釣られた「かに」になりきっています。
あらた君の詩から,3匹それぞれの様子がありありと目に浮かびます。

こんな素晴らしい感性と表現力をずっと持ち続けて欲しいと思います。

さかな   ふなびき ゆきのり
     さかなは目をあけたまましんでいます
     やいても目をあけています
     おさらにのったさかなは
     たべられるのをじっとみつめているようです

ゆきのり君の詩は,上のあらた君の「かに」の詩で,「もうだめだ」という顔をしている,という表現と似ています。

しかし,ゆきのり君の場合,今度は「たべらるのをじっとみつめているようです」というところで,私はギョッとしました。

というのも,食べられる魚の,食べる人にたいする恨みを感じてしまうからです。

ここには,生き物に象徴される自然と人との親和的な関係だけでなく,“食べる・食べられる”という,
冷厳な「いのち」の世界を受け止めている子どもの感情が現れています。

次に,子どもたちが,「いのち」をどのように感じていたのかを見てみたいと思います。
ただ,あまりに人生経験が少ないこともあって,この点に関する詩の数はごくわずかです。しかし,だからといって,
子どもが死について考えていないというわけではありません。

まず,4歳の子がお姉さん(多分小学1年生)との間で交わしていた「あのね帳」に書いた,胸にズキンとくる詩を2編紹介します。

いのち   みねまつ たけし(4歳)
     あのねせんせい
     むしにもいのちがあるんでしょう
     ともだちがふんだ
     むしをふんだ
     いのちがつぶれたひだ
     いのちってやわらかいんだね

友だちが踏んで死なせてしまったのは一匹の虫でしたが,たけし君はもう少し深く,「いのちがつぶれたひだ」,
と感じました。そして,いのちって「やわらかいんだね」,つまりもろく,はかないものなんだ,とも感じています。

こんな鋭い,そして深い目を4歳の子がもっていることに驚かされます。たけし君には,もう一遍,いのちについて書いた詩があります。

ぼく   みねまつ たけし(4歳)
     ぼく
     うまれてなかったらよかった
     だってしぬのがいやだから

子どもは自分が死ぬことなど考えていないだろう,と大人は思い込みがちです。

しかし,このたけし君の詩を読むと,いずれ自分が死ぬことを直感的に分かっているようです。

踏みつけられて死んだ虫と自分の死が二重写しになっているのかもしれません。

もっとも,4歳のみねまつ君は生きてきた時間も短く経験も少ないので,「死」の実感はないのかもしれません。

しかし,小学1年生になると,もう少し死について現実的に考えます。

にんげん   くご いくひろ
     なんのためにうまれてきたのですか
     べんきょうをして
     たのしくあそんで
     あとはしぬために
     うまれてきたとおもいます
     ぼくはうまれてきて
     そんをしたとおもいます

何のために生まれてきたのかという疑問は,思春期に発せられますが,小学1年生でも,感受性の強い子はもう,
自分の生と死の意味を考えます。

そして,いくひろ君は,精一杯勉強して遊んでも,結局は死ぬために生まれてきたんだ,だからせっかく生まれてきても,
損をしたと思っています。

子どもは,透徹した目で,“いのち”をまっすぐに見つめています。
このような根源的な問いを投げかけられると,大人は“ふい”を突かれてとまどってしまいます。

周囲の大人は,むきになって否定したり無視するのではなく,ちゃんと話を聞いてあげることが大切です。
そして,自分自身にも問いかける必要があります。
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