大木昌の雑記帳

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小学生の“マウント地獄”と「キャラ化」で守るしかない哀しさ

2024-07-30 07:26:40 | 社会
小学生の“マウント地獄”と「キャラ化」で守るしかない哀しさ

最近読んだあるWeb 記事に、私はかなりショックを受け、そして悲しくなりました。

それは、ノンフィクション作家の石井光太氏が書いた『「はい、論破!」教室は“マウント地獄”
と化している・・・小学校で広がっている「静かな学級崩壊」のヤバすぎる実態 自分自身をま
もるには「キャラ化」するしかない』という長いタイトルの記事です(注1)。

以下に、この記事の内容を紹介しつつ、今の小学生の心に起こっている、ある種の“異常さ”ある
いは“ゆがみ”について考えてゆこうと思います。

タイトルの冒頭にある「はい 論破!」とは、相手の言い分を言い負かした時に発声する言葉で、
自分が優位に立ったこと(マウント)を勝ち誇って言う言葉です。

これは2015年ころ、テレビのバライティー番組で木下ほうか氏が使った言葉で、2015年の「ユー
キャン新語・流行語大賞」の候補にも挙げられています。

この言葉が今でも小学生の間で使われていることはちょっと意外でしたが、実際に小学生の間で
使われているようです(注2)。

石井氏は、不登校になる児童や生徒が過去最多を記録しており、教育現場で何が起きているのか、
という疑問から調査を行いました。

そのために学校の先生200人と小学生にインタビューし、今の子どもたちを取り巻く不都合な真実
を『ルポ スマホ育児が子どもを壊す』(新潮社)という本にまとめました。今回取り上げる記事
は、その本からの抜粋と要約です。

学校に居心地の悪さを感じて不登校になっている子どもたちは、フリースクール、子ども食堂、無
料塾などに比較的多く集まっている。こうしたところで子どもたちに「学校の何が嫌なのか」と尋
ねると、おおよそ同じ言葉が返ってくるといいう。

「教室の“アツ”がすごい」

アツとは、圧力、プレッシャーのことです。教室の空気があまりに重苦しく、耐えられないほどだ
という意味だ。

現在の教室には、あからさまないじめや体罰はなくなったが、それと入れ替わって出てきたのは次
のような諸問題です。

長い学校滞在時間、人の一面のみでの決めつけ、静かな学級崩壊、新たな校内暴力、褒められ中毒
(具体的にこれが何を意味するのか分かりませんが)などで、これらが子どもたちの足枷となって
登校意欲を減退させているという。

これらのかなでも、「人の一面のみでの決めつけ」が特に深刻です。

東海地方のある校長校長(50代男性)は
    教室では、子どもたちがそこかしこで“マウント合戦”をしています。今の子どもたちは、
    昔みたいに乱暴な言動で相手を抑圧しない代わりに、「受験しないヤツはクズ」とか「え、
    お前、スマホ持ってないの?」といった陰湿で間接的な表現で他人を貶(おとし)めよう
    とします。現代は、ゲーム、アプリ、アイドル、漫画などいろんなものが世の中に溢れて
    いますよね。子どもたちは各々得意なところでマウント(優位性)を取ろうとするので、
    あっちへ行っても、こっちへ行っても、何かしらの圧力を加えられるのです。

子どもが“カースト”(階級、序列)を作り、少しでも自分の立場を上げようとするのはいつの時代
も同じです。

昔は、ガキ大将に象徴されるように、それが腕力などわかりやすい形で行われていた。先生はそん
なガキ大将の頭をゴツンとやればよかった。

しかし、今の子どもたちは大人に気づかれないように、言葉で他人を貶め、自らのカーストを上げ
ようとする。これにたいして先生たちはいちいち介入する時間もなく、放置状態です。

さらに校長は、

    今の子どもたちは、幼い頃から雑多な人間関係の中に身を置いていないので、人との接し
    方が驚くくらいに下手です。その場の空気を読むとか、相手の気持ちを考えるとか、言葉
    を選ぶといったことができない。
    そのせいなのでしょう、友達と他愛もない話をしていても、簡単に「おまえ、雑魚でしょ」
    とか「はい、論破〜」なんて驚くような冷たい言い方をする。我々が「そういう表現はや
    めなさい」と注意しても、何が悪いのかという顔をしてきます。そんな言葉を使ったら相手
    がどれくらい傷つくかを考える力がないのです。
    こうした悪い表現は子どもたちの間にすぐに広まります。それで子どもたちのマウント合戦
    は、知らないところでどんどん攻撃性の強いものになっていくのです。

と語っています。

つまり、傷つけている側が罪の意識を持っていなければ、それをやめようという意識にはならないの
です。

たとえば、「草」とはネット用語で「笑える」「ウケる」の意味ですが、子どもたちは簡単に「こいつ、
点数悪すぎて草」とか「マジで草」といった表現をする。

ネット用語なのであからさまな悪口ではないが、言われた子どもは大きなショックを受けるはずです。

また、一時期流行った「それってあなたの感想ですよね」も頻繁に使われている。発言する側は流行語
を発しただけという認識ですが、言われた側にしてみれば、対話を一方的に遮断されたと感じる。完全
否定されたのと同じなのです。

教室の中でそんな言葉の応酬がくり広げられれば、子どもたちが「アツ」を感じるのは避けられません。

今の学校の教室で行われているマウント合戦の中で、柔軟性のある子なら、うまく受け流せるかもしれ
ないが、そうでない子は飛び交う言葉に傷つき、疲弊していってしまいます。

マウントを取りたがる背景を。教育に詳しい「アルバ・エデュ」の竹内明日香代表理事は、
    一種の承認欲求で、周囲に対して自分のことをもっと見て、もっと認めてというその気持の裏
    返しで、自分の方が上なんだというマウントにつながったりしている。
と述べています(注2)。

確かに、マウントを取ろうとする側には、自分の方が上だと自他に認めさせたい、という承認欲求があ
ることは間違いない。しかし私は、そのさらに奥には、自分にたいする本当の意味での自信のなさの裏
返し、という面もあると思います。

努力して優れた能力なり成果をあげて人の「上」に立とうとするのではなく、周囲の人をバカにしたり、
言い返せないような言葉(「はい、論破」など)でおとしめて自分が「上」になろうとするのは、この問
題の背後に「ゆがんだ」心理があるような気がします。

マウントしようとする側にこのような心理があるとしたら、マウントされる子どもたちが何とか我が身
を守ろうとするために採る方便が“キャラ化”というとても哀しい方法です。

ある先生(関西、40代女性)は言う。
    学校では個性を出そう、自己表現をしようと伝えています。それが主体性を築き上げて いく
    上で大切なことだとされているのです。しかし、傷つきやすい子どもたちは、生身の自分を表
    に出そうとしません。
    みんなの前で、個性を見せて自分なりの意見を言って、それを周りから否定されたらつらいじ
    ゃないですか。自分の全人格が否定されたようなショックを受ける。
    だからどうするかっていうと、子どもたちは本当の自分ではなく、代わりの何かに扮するので
    す。最近はそれを“キャラ”と呼ぶ人もいますが、何かしらのキャラを演じるようになるのです。

ここで言う「キャラ」とは、キャラクターの略で、その人の特徴(見た目や性格など)という意味の他
に、自分の身代わり・分身、インターネット上の仮想空間では「アバター」に近い存在を意味します。

教室で何かのキャラに扮していれば、たとえ周りの人から馬鹿にされても、それはキャラが否定された
だけで、自分がそうされたわけではないと考えられ、気持ち的に楽になるらしい、というのです。

この場合、キャラは「身代わり・分身」、あるいは「隠れみの」として機能します。もちろん、キャラが
否定されることは本人が否定されることなのですが、「それはキャラが否定されただけ」というのは「フ
ィクション」であることを本人は十分わかっています。

しかしマウントされ、いじめられる子どもたちは、そうまでして自分を守らなければならないところに
追い込まれていることに、二重、三重に問題の深刻さと哀しさを感じます。

子どもたちのキャラ化現象は、2009年に筑波大学の土井隆義教授が指摘しており、前出の先生によれば、
あれから15年ほどが経ち、キャラのバリエーションが膨らんでいるという。

たとえば、彼らが口にするキャラとしては、「陽キャラ」「陰キャラ」「キモキャラ」「天然キャラ」「いじ
られキャラ」「キラキラキャラ」「突っ込みキャラ」「真面目キャラ」「姉御キャラ」「癒しキャラ」などが
ある。

最近の子どもたちはキャラに合わせてあだ名を作るらしい。たとえば、「陰キャ」の子が日高太陽という
名前だとちぐはぐな感じがする。そこで、みんなで話し合って「ゾゾ男」みたいなあだ名を決めるという
(キャラはたんに“~キャ”と表現されることもある)。

このように、子どもたちは教室でそれぞれのキャラに扮して過ごす。「陽キャラ」はどこまでも「陽キャ
ラ」に徹し、「いじられキャラ」はどこまでも「いじられキャラ」に徹する。

そこで多少傷つくことを言われても、これはゲームのようなものなのだと思えるので、痛みを緩和する
ことができる。そしてどこかでうまくいかなくなれば、“キャラ変(キャラを変える)”して別のキャラに
変身すればいい。

つまり、キャラとは、事情によっては服のように脱いだり着たりする(“キャラ変”する)ことができる
便利な「仮装」用の衣装でもある。

しかし、“キャラ変”は必ずしも本人の希望でできるわけでない。周囲の子によるいじめにより許されない
こともあり得る。

前出の女性の先生は、小学6年の中盤に差しかかった頃廊下で数人の男の子がD君をからかっているのを
目撃した。

D君は肥満体型で、教室では『ポケットモンスター』の太ったキャラの「カビゴン」というあだ名を名乗
っていた。いつも食べるか寝るかしている癒しキャラだ。この時、男の子たちは、D君にカビゴンの真似
事をさせて笑っていた。

先生は見かねて、その子たちを呼んで、「意地悪なことを言ったら、いじめになるよ」と注意した。とこ
ろがその中の一人が、「別に俺たち意地悪なんてしてません。カビゴンだからカビゴンと言ってただけです」
と、しごく当然のことのように言ったそうです。

ところが私は、D君が先生に言った言葉に非常に驚くと同時に、この子たちが抱えている孤独の深さに愕然
としました。

D君は「先生、もういいです。僕、カビゴンって嫌じゃないし、普通に遊んでいただけだから」、といじめて
いる子を非難することもなく、肯定しているのです。

もちろん先生は、もうこれからはD君を「カビゴン」と呼ばないようにしようと、生徒たちに言ったのです
が、先生の意に反して、翌日からD君は学校を少しずつ休みがちになっていったのです。

先生の対応の何がいけなかったのでしょうか?。

後日、先生はD君を呼んで事情を尋ねてみると、「僕、先生にカビゴンをやめろって言われてから、みんなの前
でどう振る舞っていいかわかりません。みんなと付き合う自信がないんです」という言葉が返ってきました。

おそらくD君はカビゴンのキャラを演じることで、からかわれても「カビゴンが馬鹿にされているだけ」と自分
を無理やり納得させ、なんとか他の子とつながっていたかったのでしょう。

つまり、彼にとってキャラは“心を守る鎧(よろい)”のようなものだった。しかし、先生から教室でそれを禁じ
られたことで、クラスメイトとの接し方がわからなくなり、学校を休むようになったのだそうです。

子供の世界は、大人の世界を幾分かは反映しています。常に競争にさらされている大人の世界では、周囲を抑
えて自分が「上」に立とうとする「マウント」合戦がひそかに行われていることを、子供は本能的に感じ取っ
ているのではないでしょか。

また、「はい 論破」とか「それってあなたの感想でしょ」とか、相手を馬鹿にし、勝ち誇ったような口ぶりは、
ただただ相手を黙らせ、相手にダメージを与えるだけの論法で、そこからは何ら生産的な対話や深い人間関係は
生まれません。ひょっとしたら、「石丸構文」もこの側面をもっているかもしれません(注3)。

私の著書のひそみに倣っていえば、今回の記事で書かれた現象も、本当の意味での人と人との関係性が壊れ、失
ってしまったた「関係性喪失の時代」の一つの現れかも知れません。


(注1)PRESIDENT Online (2024/07/23 8:00)https://president.jp/articles/-/83868 
(注2)『テレ朝ニュース』web 版(2024年9月6日)
    https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000314584.html
(注3)「石丸構文」の功罪については『Jcast ニュース』(7/22(月) 10:00配信)
    https://news.yahoo.co.jp/articles/14814fbbf7cb03cea424bff23069387aa52eb9c1?page=1 を参照。



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2024年アメリカ大統領選 ―トランプのクリスチャン・ナショナリズムとバイデンの誤算―

2024-07-23 07:34:38 | 東日本大震災
      2024年アメリカ大統領選
  ―トランプのクリスチャン・ナショナリズムとバイデンの誤算―

2024年7月18日、中西部ウィスコンシン州ミルウォーキーで開かれた共和党大会最終日に、11月の次期
大統領候としてドナルド・トランプ前大統領(78)が指名され、彼はそれを受諾するというセレモニーが
行われました。

今回の党大会は、最初から一種、異様な熱気というか雰囲気が漂っていることが、映像をとおしても感じ
られました。

というのも、これに先立つ7月13日、米東部ペンシルベニア州バトラーで演説中のトランプ前大統領を
ライフル銃で狙撃され、それ以後公衆のまえで演説をする初めての機会だったからです。

そのトランプがどんな口調で何を言うのか、聴衆は固唾を飲んで待ち構えていました。そしてトランプが
登場すると、聴衆はUSA USAの大合唱だった。

そして、トランプの指名受諾演説は、意外にも静かな口調で、つぎのように切り出しました。

   私は今夜、年齢、性別、民主党、共和党、無党派、黒人、白人、アジア系、ヒスパニックを問わず、
   すべての国民に忠誠と友情の手を差し伸べる。
   ・・・・
   私たちの社会の不和と分断は癒され早く治さなければならない。アメリカ人として、私たちはひと
   つ の運命と共通の宿命によって結ばれている。共に立ち上がるかバラバラなるかだ。
   私はアメリカ全体の大統領となるために立候補している。アメリカの半分のためではない。なぜな
   ら、アメリカの半分が勝ってもそれは勝利ではないからだ。
     だから今夜私は信念と献身と誇りを持って合衆国大統領候補の指名を受諾します。

と述べ、不和と分断を修復し、アメリカが一体となるべきだ、と団結と結束を訴えました。

そして、銃撃事件に関しては、
    土曜日に私の集会で起きた暗殺未遂の後の、あふれるような愛と支援について米国民に 私の感
    謝を示すことから今晩を始めさせてほしい。
    皆さんが既に知っているように、暗殺者の弾丸はあと4分の1インチ*で私の命を奪うと ころだ
    った。(* 1インチは約3センチ)

    ヒュンという音が聞こえ、右耳に何かが非常に強く当たったのを感じた。いったい何だ?と自分
    に問うた。それは弾丸でしかあり得ない。右手を耳にやると、手が血で覆われていた。
    すぐに身を伏せた。勇敢なシークレットサービスが私を守るために覆いかぶさった。

そして、このように言葉を継いだ。

    そこら中に血が流れていたが、ある意味で私は非常に安全だと感じていた。神がそばにいたか
    らだ。銃撃の前に私が頭を動かさなかったら、私はここにいなかった。
    私がこのアリーナで皆さんの前に立っているのは、全能の神の恵みのおかげだ。そのような凶悪
    な攻撃にもかかわらず、我々は今晩、より断固として団結している。

この部分でトランプは、自らを神格化させています。それは、トランプの熱烈な支持者の多くが、キリス
ト教の福音派(聖書に書かれたイエスの言葉を一字一句そのまま信じる信仰生活をする人たち)であり、
こうした言葉が、福音派の人びと訴える力をもっていることを十分意識していたからです。

事実問題として、耳(実施には耳たぶ)を弾丸が貫いたということは、数ミリ内側に寄れば脳に命中し、
命が失われたかもしれないのです。

いつもと違う静かな語り口調に聴衆はくぎ付けとなり、会場は「宗教的な雰囲気に包まれた」(ニューヨ
ーク・タイムズ)という。

この時、聴衆の中には、銃弾によって傷ついたトランプと同じ右耳にガーゼを当てている人もいました。
そして、中には泣いている人もいました。

「神の御加護によって命を救われた」トランプは、もはや普通の大統領候補ではなく、神に使わされた特
別な存在に神格化されたのです。極端に言えば、信心深い福音派の人にとってトランプは「神」になった
のです。

間もなくネット上にはトランプの背後にイエス・キリストが立ち、両手をトランプの肩に置いている画像
がアップされ、それが瞬く間に拡散されました。

こうした雰囲気のなかで、「アメリカをもう一度偉大な国に」(Make Amerika Great Again)、そして「アメ
リカ・ファースト」というフレーズは多くの共和党支持者の心に訴えたことでしょう。

今回の共和党大会では、トランプの「クリスチャン・ナショナリズム」的な色彩が強く出ました。

この後のスピーチは、またいつものトランプ節に戻り、大統領になったら初日に二つのことをする、と宣
言しました。一つは石油の増産(電気自動車の推進を否定)で、ふたつは国境問題(違法移民の徹底的な
排除)です。

そのほかでは、世界が「第三次世界大戦の瀬戸際に立たされている」としたうえで、ロシアによるウクラ
イナ侵攻やパレスチナ自治区のガザでの戦闘などを「一つ残らず終わらせる」とも述べました。

ただトランプは、誰もが想定したバイデンに対する批判は控えめで、演説中「史上最悪の大統領」と呼ん
だ一回だけでした。

襲撃に続く、党大会でのスピーチで、共和党内部の結束は固まり、党員のトランプ支持が強まったことは
間違いありません。

しかし、そのことと、それまでトランプ支持ではなかった有権者が新たにトランプ支持に動いたのかは分
かりません。

南山大学の花木亨教授は、「既存の支持者たちを安心させたかも知れないが、新たな支持者の獲得へとつ
ながるものではなかっただろう」と述べています(『東京新聞』2024年7月20日)。

しかし、いくつかの世論調査では襲撃後、トランプの支持率はバイデンのそれを上回っていた。たとえば
マサチューセッツ州のエマーソン大学が7月18日に発表した世論調査では、3月の調査と比較して、大統領
選の7つの激戦州(ミシガン、ウィスコンシン、ペンシルベニア、ネバダ、アリゾナ、ジョージア、ノース
カロライナ)のうちミシガン州を除く6州でトランプが1~2ポイント支持率を伸ばした。一方、バイデンの
支持率は全7州で1~4ポイント減少した(注2)。

そして、全米における両氏の支持率はトランプ氏が44%とバイデン氏(38%)を6ポイント上回った。

またReal Clear Polling が18日に発表した支持率を見ると、全米でトランプが47.7%、バイデンが44.7%
でした、そして、激戦州7週すべてで、トランプの支持率が増加していた。

これらの数字から見ると、やはりトランプに追い風が吹いていると考える方が自然です。

それでは、民主党陣営のバイデンはどうでしょうか?

ことさらバイデンの高齢を揶揄しなくても、これまでトランプとのテレビ討論会で、言葉に詰まったり、
国連の場でゼレンスキーとプーチンの名を間違えたり、さらに自ら指名したハリス副大統領をトランプと
言い間違えたりと、かなり致命的な失態を犯してしまっています。

加えて、飛行機に乗る際に重い足取りで一歩一歩タラップを上って行ったかと思うと、途中でつまずいて
しまったり、というように、いかにも老化が進んで、果たして今後4年間、アメリカ大統領という激務を
こなせるのか不安をいだかせる場面が、繰り返し映像で映し出されています。

こうした事態に危機感をいだく、民主党内ではバイデンが大統領選に出馬することを辞退するよう説得に
かかっていました。

7月11日と13日には民主党上下両院のトップが直接面談し、撤退を進言しました。また、同時にペロシ元
下院議長も何度か電話で世論調査を元に撤退するよう説得してきたようです。

そして、最後にオバマ元大統領が「勝利への道は大きく狭まっている」と、事実上、立候補しても勝つ見
込みがないことを言い渡しています。

バイデンはこれまでも身内の共和党議員から撤退を進言されてきましたが、あくまでも立候補してトラン
プと戦うと撤退を拒否してきました。

その背景には、バイデン・ファミリー、とりわけジル夫人の強い後押しがあったようです。

しかし、18日の「アクシオス」によれば、バイデンは「カマラで勝てると思うか」と周囲に語っており、
ひょっとすると今週末に撤退を決断するのではないか、との観測も出ています。

そしてその観測どおり、バイデン大統領は7月21日(日本時間22日午前3時前)に、ついに大統領選挙か
ら撤退すること、代わりにカマラ・ハリス副大統領を推薦すると発表しました。

ところで、バイデンがここまで大統領選へこだわった背景にはいくつかの誤算があったように思います。

第一は、トランプは幾つもの裁判を抱えており、立候補できるかどうかも不確かだし、たとえ立候補で
きても裁判で敗訴すれば支持は減るだろうという読みです。

たとえば今年の5月に不倫の口止め料をめぐって業務記録を改ざんした罪に問われた裁判で有罪の評決
が下されました。しかし、それでも事態はあまり変わりませんでした。

第二は、「シオニスト」を公言するバイデンは、ガザでイスラエルが行っている大量虐殺にたいして武
器と経済援助を続けており、これに対して多くの若者やリベラルな人びとの反バイデンに追いやってし
まったことです。

反バイデンといってもトランプへ投票するとは思いませんが、こうした人たちが投票に行かないだけで
もバイデンにとって大きな痛手になることを真剣に考えていないようです。

第三は、民主党には自分より強力な候補者はいない、自分にはこれまでの実績があり、まだまだトラン
プに対抗できるだけのという強い思い込みです。

前回、バイデンが大統領で勝った2020年、自分は次の世代への橋渡し(ブリッジ)になる、と言ったは
ずです。

副大統領にカマラ・ハリスを任命したのも、次の民主党政権を彼女に託すつもりだったと思われます。

私は、これでいよいよ女性の大統領が誕生する日も近い、と期待していました。

しかし、バイデンは大統領に就任すると、もう一期続けたいとの欲望が強くなったのではないだろうか?

悪く解釈すれば、自分への挑戦者にはならないように副大統領のハリスを処遇するように変わったのでは
ないか、とも考えられます。

もし、本気でハリスを育てようという気があったら、彼女をもっと日の当たるポジションにつけるべきな
のに、わざわざ不人気な移民問題を担当する仕事に就かせたのではないか、との疑念が消えません。

実際、ハリスはこの4年近く、あまり目立たない、そして評価が高くないまま今日まで来ています。

日に日に強まる撤退への圧力にもかかわらず、バイデンは2日前までは、週明けからの選挙活動を楽しみ
にしていると語っていましたが、日本時間22日の午前3時ころ、ついに選挙戦からの撤退と、代わりの候
補としてカマラ・ハリスを強く推薦する、と発表しました。

バイデンに撤退を決断させた大きな理由は、これこそ本当に予期しない「誤算」でしたが、13日のトラン
プ襲撃事件の後、トランプは神格化され共和党大会では圧倒的な勢いが示されたのに、バイデンは討論会
の失敗、肉体の衰え、おまけにコロナに感染、という悪条件が重なり、トランプとの選挙戦に勝つ自信が
無くなったことでしょう。

それでは、バイデンが誰を候補者に立てるのか、という問題ですが、現在バイデンが推薦するハリスのほ
かに2人、有力な候補者がいるようです。

私の個人的な意見では、時間的な猶予を考えれば、カマラ・ハリスを置いて他にいません。

しかもハリスは黒人・アジア系で女性で、黒人やヒスパニック系、アジア系のアメリカ人の票を獲得する
可能性があり、さらに争点として共和党が強く反対している妊娠中絶を認めることを訴えれば、多くの女
性票を取り込むことが期待できます。

現在は、ハリスとトランプの支持率の差はわずか2%ですが、11月の投票まで、どうなるか分かりません。
その前に8月に民主党大会で誰を民主党の候補にするかが目下最大の問題です。


(注1) スピーチの動画はさまざまなサイトでみることができますが、たとえば『日経新聞 電子版』
    (2024年2024年7月19日 14:57 (2024年7月19日 20:02更新) https://www.nikkei.com/article/DGXZ
    QOGN192K20Z10C24A7000000/ を参照。
(注2) 「ビジネス短信」(Jetro)2024年07月19日https://www.jetro.go.jp/biznews/2024/07/e2d433ccddb34e97.html
(注3) BSTBS 『報道 1930』(2024年7月19日)

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東京都知事選について思うこと―SNSの威力とポプユリズム―

2024-07-16 02:24:21 | 政治
東京都知事選について思うこと
―SNSの威力とポプユリズム―

2024年の7月7日投開票による今回の東京都知事の結果については、すでに多くの場所で分析
がおこなわれ、メディアで取り上げられています。

それらは、小池百合子氏(71)の圧勝、蓮舫氏(56)の惨敗、そして元広島県安芸高田
市市長、石丸伸二氏(41)の前線の3つに尽きます。

それは、開票結果を見れば一目瞭然です(前から得票率、得票数、支持団体)。

小池百合子 38,8% 2,918,015 支持団体(都民ファーストの会、自民、公明、国民民主)
石丸伸二  27.3% 1,658,363      (ナシ)
蓮舫    20.1%  1,283,262      (立憲民衆、共産、社民)

なお、これまで選挙を行って落選した現職の都知事はいなかったので、ある意味、小池氏が
当選したのは、多くの人が読み込んでいました。

というのも、東京都にある企業の法人事業税のおかげで、財政は潤沢で、都民が喜ぶような
施策をほぼ問題なく実行できるからです。したがって、多くの都民にとって、現職の都知事
にたいする不満は少ないのはごく自然の成り行きなのです。

『東京新聞』(2024年7月9日)の「こちら特報部」は,

    日本全体が相対的に貧しくなっている中で、東京には今も人口が流入し、平均収入
    も多い。東京に住んで働くと、人口減少や少子高齢化、地方財政といった
    問題は結局、人ごと。現職を交代させる危機感は生まれない.

とコメントしていますが、現職で落選した都知事がいない、という事実はこれを物語ってい
ます。

たとえば、子育て支援などで思い切った政策も打て、小池氏らが打ち出した保育園の第1子
無償化の公約について、地方からは「悔しいけど、後追いはできない(栃木県の福田富一知
事)といった怨嗟の声もあがっている。

小池氏が自慢する、「実績」というのも、実はこうした東京都だけが享受している特権的な財
政事情によるものと思われます。

今回の都知事選でメディアが注目したのは、新人で東京には地盤がなかった石丸氏が、イン
ターネット(ユーチューブ、ライン、Tik Tok、Xなど)を多用した石丸氏のネット選挙戦略
が、新しい 選挙運動のスタイルを提示した点です。

石丸氏のXのフォロワーは5月に上旬には30万を突破し、選挙期間中には50万超まで伸ば
しました。

また、5月に開設したユーチューブチャンネルの登録者数は30万人人を超えました。当選
した小池氏の4000人、蓮舫氏の1万人をはるかに追い越していました。

これらの数字をみても、石丸氏の選挙戦の戦い方が従来の形とは全く異なる斬新なものであ
ることは間違いありません。

とりわけ、18以上30代までの若い世代の支持は他の候補を圧倒しています。

ただし、いかにネット選挙戦略が有効だったとしても、東京に地盤がなく、東京のさまざま
な事情を知らない石丸氏の個人的な魅力だけでこれだけの票を獲得できたわけではありませ
ん。

実は、「伝説の選挙参謀」と呼ばれる選挙プランナーの藤川晋之助氏が背後で戦対事務局長と
して選挙戦を指揮していました(注1)。

また、「完全無所属」をうたった石丸氏については「選挙コンサルティングが陣営に入るなど
資金力のある支援者が応援していました(注2)。

社会学者で東京大学大学院情報学環准教授、藤田結子氏は、石丸氏の健闘について、
    広島県安芸高田市の市長時代、市議会で議員の居眠りをとがめ、「恥を知れ!」と怒
    鳴りつける石丸氏の姿を、動画投稿サイトなどで見かけていたのです。
    「既得権益を持つ議員らがふんぞり返る市議会で一人闘うヒーロー」という物語は、
    若者の間で徐々に共感を生みだしていきました。だから、社会を変えたいと感じて
    いる若者の方が石丸氏に投票しました。現状維持で構わない若者は小池氏に投票し
    たと思います。
    「強いリーダーシップ」「経済に強い」などのキャラ設定や、切り抜き動画などの
    SNS戦略も、今の若者の感覚にフィットしました(注3)。

上記の引用分中の「切り抜き動画」(これは「切り取り動画」と表現されることが多い)とは、
たとえば石丸氏がかつて市の公式動画の中で、相手を徹底的に論破したり、時には会議出席者
へのバッシング場面を切り取って短く加工・編集された短い動画を指します(注4)。

石丸氏が都知事選で多くの票を得たことに、地元では驚きをもってうけとられました。ただし、
石丸氏に対する評価は冷静で必ずしも好意的なものばかりではありません。

まず、都知事になって何をするのかについて具体的にほとんど語っていなかったと、言った市
民もいました。

また皮肉にも、石丸伸二前市長の辞職に伴う広島県安芸高田市長選が7日投開票され、無所属
新人の元郵便局長、藤本悦志氏(51)が初当選しました。

藤本氏は市議会との対立を繰り返した石丸氏の政治手法を批判し、石丸市政を評価し「継続と
改善」を訴えた無所属新人の元市議、熊高昌三氏(70)ら3人を退けています(注5)。

今回の選挙は東京が舞台でしたから、石丸氏の日常における行動や人柄は問題になりませんで
したが、地元では違った評価があるようです。

私が気になったのは次の三点です。

第一点は、石丸氏が採用したネット戦略(特に「切り取り動画」戦略)をどのように評価する
のか、という点です。

「選挙ウォッチャー」として全国各地の選挙戦をルポしてきたフリーライターの畠山理仁氏は、
石丸氏が成功した今回の選挙戦を『「切り取り民主主義」の台頭を感じた』と述べています。

畠山氏は石丸氏の演説について「『政治屋の一掃』といったフレーズが分かりやすい」ため、一
部を切り取った動画を作りやすい、と指摘しています。

さらに畠山氏は、そうした動画は再生回数が稼げるので、さらに多くの配信者が演説に集まる。
そこで、政治に接点のなかった有権者には石丸氏が「政治的な初恋の相手」となり無党派のファ
ンが拡大したとも述べています。

しかし、「ワンフレーズが切り取られ、それだけで評価される政治は危うい」とも警告を発して
います(『東京新聞』(2024年7月9日)。私も全く同意見です。

第二点は、今回の選挙で「隠す、避ける、逃げる」といった姿勢が目立ったことです。

たとえば小池候補は、選挙戦初日を八丈島から始めました。これは、小池vs蓮舫という構図を避
けるためだった、と思われます(『東京新聞』同上)。

小池氏は公示後1回だけ公開討論に出ましたが、蓮舫候補が、何回も公開討論を呼びかけても、公
務を理由に討論には応じませんでした。やはり、現職の知事が効果討論を逃げるのは無責任であ
ると感じます。

討論会とは別に、小池氏は街に出ての後援会・演説会も非常に少なく、姿を隠しているような印象
でした。

隠すという意味では、実際には自民党の支持を受けているのに、裏金問題で批判を浴びている自民
党の影をできるだけ隠す、「ステルス作戦」に出ました。

しかし実際には小池氏は、裏金問題の中心であった安倍派の、そのまた中心人物の一人萩生田都連
会長と6月に選挙協力の文書を交わす間柄でありながら(注6)、都知事選では徹底して「自民党」
「裏金問題」隠しに徹しました。

小池氏に関して最も問題だと思うのは「争点隠し」です。小池氏は都知事三期目に向けてどのよう
な政策を推進して行こうとするのか、については「バージョン3で、都政をさらにバージョンアッ
プする」と繰り返すだけで、具体的な政策についてはほとんど触れませんでした。

これは以前の選挙で「七つのゼロ」を掲げましたが、前回の選挙でこれらがほとんど未達成であっ
たことを指摘されことに、懲りたのかとにかく政策目標を隠すことに専念したようです。

しかし、争点は幾つもあります。たとえば、

明治神宮外苑の再開発に関して住民との十分な話し合いがないまま許可をしてしまったこと、それ
をどうするのか、少子化の解消策として育児支援はいいとして、育児の前に結婚しようと思わない
若者の経済的貧困さの解消などなどです。

小池氏は自民党の支援を受けつつも、幹部と一緒に街頭演説をしない「ステルス戦略」で、自民批
判が自分に向かうのをかわし、公務を理由に街頭演説や公開討論などへの参加も控えました。

淑徳大学客員教授の金子勝氏は、小池氏は徹底的に議論を避け、都民には候補者の政策的な対立点
が良く見えない選挙になった、こうした争点隠しの戦略が政治への不信や無力感を増幅すると批判
しています(『東京新聞』2024年7月9日)。

争点が見えない、という点では石丸氏の場合も同じです。7月12日のBSフジの『プライム ニュー
ス』に出演した、先に紹介した選挙事務局長の藤川氏は同席したコメンテータから、石丸氏は政策に
ついて語ってきませんでしたね、と問われると、「政策なんか気にする人はほとんどいないから」政
策など語っても意味がない、とはっきり言っていました。

代わりに、聴衆を前にした集会では集会の様子を動画で投稿し拡散してください、政策についてはネ
ットで観てください、と同じ文言を200回以上もの集会でくり返して言う戦略をとった、と藤川氏
は語っています。

ちなみに、蓮舫氏の集会には大勢の人が詰めかけ、非常に盛り上がっていましたが、彼女がが、若者
の所得を上げる政策など具体策を語り始めると多くの聴衆はそれをじっくりと聞く様子はなかった、
とテレビのレポーターは伝えていました。

得票結果をみると、今回の選挙では石丸氏と藤川氏のネット戦略は選挙戦術としては成功であったと
言えますが、私にはそれが全面的に望ましいとは思えません。

第三点は、石丸氏が起こした「石丸旋風」どのように評価すべきなのか、という点です。

JX通信社代表の米重克洋氏は対談のなかで、「データが示していますが、石丸さんの支持層はイデオロ
ギーの枠にとらわれない、ポピュリズム的傾向を持つ人々が大勢を占めています」と語っているように、
石丸さんは、そのような人たちにポピュリズム的にアプローチをして成功した、と言えそうです。

その背景には、「政治不信の土壌」と「ネット地盤の拡大」の掛け算があったように思います(注7)。

選挙戦術の問題とは別に、私には、石丸氏という人物や政治的志向に関心があります。これについて、
伊藤昌亮・成蹊大教授は以下のように要約しています。

まず、石丸への支持者については、いわば「推し活」と明快に定義、石丸氏はかれらのニーズに即した
「政治家」だと総括しています。

政治的には、
    石丸氏を従来の文脈で言えば、ネオリベラリズム(新自由主義)的 な「改革保守」のポピュ
    リズム(大衆迎合主義)政治家です。小泉純一郎元首相に始まり、橋下徹元大阪府知事、河村
    たかし名古屋市長……。小池百合子都知事はこの流れを作ったひとりです。
    一見、石丸氏の公約に「新自由主義」的な印象はありませんが、構造改革、自己責任など小泉
    政権期以降約20年で、ネオリベラルな意識は有権者に内面化されきっています。したがって公
    約に書くまでもないからだ、と伊藤氏は言います。

伊藤氏が注目しているのは、石丸氏は福祉や貧困対策、生活や労働にも言及していないことで、これこ
そネオリベ的だとみなす根拠です(注8)。この指摘も私は同感です。

少し付け加えるなら、石丸氏は経済の専門家を自認し、東京をもっと経済的に発展させると語っていまし
たが、私には現在の日本の富が一極集中する東京をもっと豊かにする、という発想は、伊藤氏がいうよう
にやはりネオリベラリストだと映ります。

いずれにしても、今回の都知事選は、石丸氏の手法に見られるような、新しい時代に入ったことを告げて
います。


(注1) 藤川氏がかつてかかわった選挙については、『Yahoo News』 ( 2024年7月8日:7:15)
    https://news.yahoo.co.jp/articles/94f8cd4e7c938c9ad7fe0a44046b068a675574b9 を参照。
(注2)毎日新聞2024/7/11 東京夕刊 https://mainichi.jp/articles/20240711/dde/012/010/008000c
(注3)『毎日新聞』(電子版 2024/7/11 22:37(最終更新 7/11 23:32)
    https://mainichi.jp/articles/20240711/k00/00m/010/328000c?utm_source=article&utm_medium=
    email&utm_campaign=mailasa&utm_content=20240712
(注4)具体的な映像は Youtube :https://www.youtube.com/watch?v=s6WyF2tYUNg を参照。
(注5)『毎日新聞』(電子版 2024/7/7 21:51最終更新 7/7 21:51)  https://mainichi.jp/articles/20240707/k00/00m/010/143000c
(注6)『赤旗』(電子版 2024年6月29日) https://www.jcp.or.jp/akahata/aik24/2024-06- 29/2024062901_03_0.html
(注7)JBress (2024.7.9) https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/81944
(注8)『毎日新聞』(電子版 2024/7/12 11:59 最終更新 7/12 17:29)
    https://mainichi.jp/articles/20240712/k00/00m/010/071000c?utm_source=article&utm _medium=email&utm_campaign
    =mailyu&utm_content=20240712

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演歌の楽しみ―石川さゆり『津軽海峡冬景色』への個人的な妄想―

2024-07-09 07:28:17 | 思想・文化
演歌の楽しみ―石川さゆり『津軽海峡冬景色』への個人的な妄想―


今回は、前回までの重苦しい話から一転して、演歌の楽しみの事例として、石川さゆりの
『津軽海峡冬景色』に対する私の思い切り個人的な妄想を書いてみたいと思います。

石川さゆりは1958年(昭和33年1月)熊本市生まれです。ということは、まさに昭和の真
っただ中に生まれ育った純粋に「昭和の子」でした。

ここで取り上げる『津軽海峡冬景色』がリリースされたのは1976年(昭和51年)、まさ
に昭和のど真ん中でした。

これは、三木たかしの曲に阿久悠が詞を付けた曲です。作詞も作曲も当代随一の大物コン
ビの曲に恵まれたのは、石川さゆりの運の良さでもありました。リリース時、この曲は
[ジャンル 演歌]でとして登録されていました。

この歌がリリースされたとき、石川さゆりは19歳でした。19歳の少女がこの歌にどれほ
ど実感を込めて歌ったのかは疑問ですが、歌詞の良さにも助けられ、そして、彼女の天才
的な歌唱力によって、一気に日本全国を席巻しました。

まずは、この歌の歌詞をじっくりと読んで味わってみて下さい。

『津軽海峡冬景色』
    歌 石川さゆり    作詞 阿久悠 作曲 三木たかし

上野発の夜行列車 おりた時から
青森駅は 雪の中
北へ帰る人の群れは 誰も無口で
海鳴りだけを きいている
私もひとり 連絡船に乗り
こごえそうな鴎見つめ泣いていました
ああ 津軽海峡 冬景色

ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと
見知らぬ人が 指を指す
息でくもるガラス ふいてみかけど
はるかに かすみ 見えるだけ

さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする 泣けとばかりに
ああ 津軽海峡婦冬景色

この歌に対する私の想いを語る前に、時代背景について少しだけ補足しておきます。歌の
中に出てくる「連絡船」とは、正しくは「青函連絡船」で、これは青森駅と函館駅を結ぶ
連絡船です。

しかし、1988年3月13日には「青函トンネル」が完成し両駅を列車が直接結ぶようになる
と、「連絡船」はサービスを停止しました。

したがって、この歌が発表された時には、文字どおり人びとは青森と函館を連絡船に乗っ
て行き来していました。

それでは「津軽海峡冬景色」にまつわる想いを、個人的な体験と重ね合わせて、そして、
「妄想」を交えて書いてみます。

まず、私が映像を通して石川さゆりを見たのは1977年、4年間のオーストラリア留学を
終え帰国の途中で立ち寄った沖縄の民宿でテレビを見ていた時でした。

突然画面に現れた、まだ少女っぽさが残る、とても可愛い女の子が石川さゆりでした。
長い間、若い日本人の女の子を見ていなかったという点を差し引いでも、私はいっぺん
に彼女の歌う姿と歌声に魅了されてしまいました。

その時歌った曲は、忘れもしない「能登半島」(これも作詞・作曲は三木・阿久のコン
ビ)でした。その時の印象は、未完成さが放つ特有の輝きと新鮮さと初々しさでした。

さて、『津軽海峡冬景色』ですが、この歌を最初に聞いた時、いくつかの疑問というか
想像が浮かびました。

まず、この歌の主人公の女性は一体何歳くらいだろうか、という疑問です。 私は、以
下のような妄想から勝手に30歳前後だと決めました。

彼女は若い時、夢を抱いて連作船で津軽海峡を渡り北海道を離れ東京に出て行ったので
しょう。そこで、仕事も恋もして、きっとそれなりに充実した人生を送ってきたに違い
ありません。

しかしその恋も破局し(おそらく恋人に捨てられて)彼女は仕事を続ける意欲も失って、
今、一度は捨てた北海道に帰ろうとしています。

実は私は1960年代後半の大学生だったころ、「探検部」の合宿で毎年夏の1か月間、知床
の山の中で活動していました。そのころには、まさしく「上野発の夜行列車」で青森へ、
そして連絡船で北海道の函館に渡りました。当時の夜行列車で上野から青森まではたっ
ぷり10時間以上もかかったと思います。

さて、夜行列車が青森に着く長い時間を、彼女はどんな風に過ごしたでしょうか? お
そらく、一晩中眠ることもなく、北海道を出てからその日までの日々を繰り返し振り返
っていたに違いありません。

「あの時、ああすればよかった」、「ああ言えばよかった」、「あの時、ああすれば別れな
くて済んだのに」など、一つ一つの出来事を思い返してたどったに違いありません(も
ちろん、私の妄想です)。

『津軽海峡冬景色]の歌詞のすごいところは、ここまでの彼女の人生が、「上野発の夜
行列車 おりた時から」というたった1行の中に詰め込まれており、聞いている私たち
は、いきなり彼女の人生と複雑な想いを共有することになるのです。

夜行列車が青森駅に着いたのは、雪がシンシンと降る、思わず身が縮む寒々とした早朝
でした。そこには華やいだ人びとの会話もなく、夜行列車を降りた人びとは海鳴りだけ
をじっと聞いています。

これは冬景色の描写であると同時に、いやむしろ彼女の心象風景でしょう。

「北へ帰る人の群れはみな無口で」、というフレーズが、また重苦しさを伝えています。
ここで、「北に向かう人」ではない点が重要です。

つまり、この人たちが無口なのは、夢を追いかけて上京したのに、今、その夢も破れ結
局、故郷の北海道に帰って行くことになったからです。

少なくとも彼らの多くは、東京で成功を収めて意気揚々と故郷に錦を飾る人たちではあ
りません。

この歌の主人公の女性は、そうした人たちと、また凍えそうな鴎(かもめ)と自分とを
重ね合わせて、心で泣いています。ただしここは、文字どおり泣いているというより、
彼女の心模様を表現しています。

それでは、この歌は恋人に捨てられて、傷心のまま故郷に逃げ帰ってきた女性の哀しい
物語なのでしょか?

いえ、絶対にそうではない、と私は断言できます。

かつて、ピンクレディーの一連の歌で、女の自立と主体性を歌い上げた阿久悠がそんな
陳腐な物語を書くわけがありません。

実際、彼女は最後に「さよならあなた」と、今度は彼女の方から恋人に決然と別れを宣
言します。

そして「私は帰ります」という言葉で、自分の意志でもう一度、故郷の北の国に帰って
人生をやり直します、という決意を別れた恋人にも自分にも言い聞かせます。

もちろん、そこには楽しかった過去の思い出、別れた恋人への未練、これからの人生へ
の不安がありますが、それらの複雑な想いを断ち切って決然と新たな人生へ踏み出す強
い決意があります。


『津軽海峡冬景色』は、たんなる失恋の歌ではなく、誰の人生にも起こりえる出会いと
別れと、そこからもう一度人生をやり直す再出発の歌なのだと思います。

以上のほかに、どうしても触れておきたいことを2、3書いておきます。

一つは、この歌と音楽との関係についてです。私たちが歌を聞いて楽しむという時、も
ちろん、歌手としてのうまさ、声の質、音楽のリズムやテンポ、メロディー、歌詞の内
容、さらには歌手の表情、容姿などを総合して好き嫌いが決まります。

私の場合これらに加えて、その歌を聞きながら、歌の中の物語の主人公になりきって物
語の中に入ってゆけるかどうかがとても大切です。つまり、歌の世界に浸ることができ
るかどうかです。

「津軽海峡冬景色」の場合、テンポはゆっくりしていて、一語一語がはっきりと聞き分
けられるので、何を歌っているのかが分かり、歌の世界に浸ることができます。

これは、歌詞が原則として一つの音符(四分音符でも八分音符でも)に一語(一文字)
だけを割り当てているからです。

しかし最近のJ-POPでは、一つの音符に3文字とかそれ以上の語を詰め込んでしま
うことも珍しくありません。そして、それを歌いきるために歌手は必至の形相で早いテ
ンポでまくしたてなければなりません。

そうなると、もう物語を追うどころではありません。あとは、リズムの速さと激しさに
身を任せるだけです。

『津軽海峡冬景色』は。石川さゆりの説得力に満ちた歌唱力、歌っているときの全身で
表現する表情、歌詞の内容、音楽の心地よいメロディーとテンポ、全てにおいて私の感
性にぴったりです。

つぎに、「津軽海峡」がもつ象徴的な意味合いについてです。

津軽海峡は本州と北海道を分ける海です。歌の中では、主人公の女性が上京する前、象
徴的な意味で北海道は彼女にとって希望のない場所、逃げ出すマイナスの世界でした。

それに対して、東京(正確に東京なのか首都圏なのか分かりませんが)は、やはり象徴
的な意味で何かが起こるワクワクした都会、素晴らしいことが待っている、夢と希望に
満ちたプラスの世界でした。

ところが、上野発の夜行列車で戻ってきた時には、東京は捨て去るマイナスの世界、北
海道は新たな決意の下に人生をやり直す希望の世界、プラスの世界になったのです。

物語は、津軽海峡の「こちら」と「あちら」で世界が逆転するという構図となっており、
ここでは「津軽海峡」があたかもシーソーの支点のような役割を果たしているのです。

だからこそ、歌のタイトルが、象徴的な意味で物語の中心をなす「津軽海峡」となって
いるのでしょう。

これは、『天城越え』において、天城峠の「こちら」は逃げ出すべきマイナスの世界であ
り、峠の「あちら」は自由と希望に満ちた世界、と想定されている構図と全く同じです。

だからこそ、世間をはばかる関係にある二人はどうしても不自由な「こちら」の世界から
天城峠を越えて「あちら」の自由な世界に ”あなたと越えて” 行きたいのです。

津軽海峡も天城峠も地理的な場所ですが、深読みすれば、「こちら」と「あちら」を分け
る何らかの壁(心の壁も含めて)と解釈ことができます。

演歌(おそらく歌謡曲も)の作詞作曲者の多くはある程度年配の人、それなりの人生経験を
積んできた人たちです。。

このため、今回取り上げた「津軽海峡冬景色」のように、短い歌詞の中にも長い人生経
験に裏打ちされた深い意味が込められているのだと感じています。

私は、アップテンポで激しいの曲も大好きですが、ゆったりと曲に身を委ねて歌の世界
に浸ることも大好きです。

最後に、以上の“妄想”を参考に、石川さゆりが「津軽海峡冬景色」を歌う19歳の少女時代の
ういういしいライブ映像をhttps://www.youtube.com/watch?v=OJxm9Lt-w6Y で、円熟期
(58歳)の映像をhttps://www.youtube.com/watch?v=QhGJQcN70gU で味わってください
(いずれもYoutube で観ることができます)。




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日本社会の地殻変動(6)―「強欲インフレ」が家計を圧迫―

2024-07-02 05:17:16 | 経済
日本社会の地殻変動(6)
―「強欲インフレ」が家計を圧迫する―


私は、アベノミクスがこれほど家計を苦しめることになろうとは想像もしていませんでした。

これまでは、日本の経済がどうなるのかという、どちらかといえば自分とは直接関係のない日
本経済全般の問題として考えていることができましたが、今や、現実は私たち一人一人の家計
への圧迫、という形で襲ってきます。

日本経済全般の問題としては、前回も書きましたが、アベノのミクスにより、裏付けのないお
金が市場にばら撒かれ、日本は「お金じゃぶじゃぶ」という状態になっています。

これは当然、円の価値と信頼性を大きく損ない、それが超円安もたらし、輸入品物価の高騰、
とりわけエネルギーの9割、食料の6割以上を輸入に依存している日本では、人びとはあらゆ
る生活物資の高騰に悩まされています。

これは、「輸入インフレ」とも言われていますが、最近、長引く物価高は、企業による必要以
上の値上げが要因との見方が出ています。それはどういうことなのでしょうか?

欧米では、企業がコスト増加分を上回る値上げで収益を拡大させた一方、賃金に十分還元して
いないことから生ずるインフレを、「強欲インフレ」(Greed Inflation)と呼んでいます。

つまり、物価の基となる主要なコスト(人件費と原材料、エネルギー)は確かに上昇していま
すが、企業はその上昇分を上回る値上げを製品価格に上乗せしているというのです。

これは、いわゆる「輸入価格があがっているから仕方がない」という世間の一的な空気に便乗
した、いわゆる「便乗値上げ」です。

ただし、「強欲インフレ」とは、この「便乗値上げ」のことだけではではありません。

これにより当然、企業の利益は増加します。問題はその後です。増加した利益を社員に分配せ
ず、したがって給与を上げるのではなく、そのまま企業利益として留保てしまうことです。

こうした企業行動が「強欲インフレ」として欧米で広がり、非難をあびてきましたが、物価上
昇の内容を分析した専門家によると、日本も同様の状況に陥りつつある、とのことです。

SMBC日興証券の集計によると、東証株価指数(TOPIX)に採用される上場企業の2024年3月
期決算は、最終的なもうけを示す純利益の合計額が計48兆円余り。3年連続で過去最高益を更
新する見通しとなりましたが、それに見合った賃金の上昇はありませんでした。

5月末の金曜日、スーツ姿の人が行き交うJR新橋駅前のSL広場での街頭インタビューで、30
代女性会社員は、「食品は値上がりしたが給料は上がっていない。景気は悪いと感じる」(東
京都千代田区の会社員)と答え、60代の男性会社員は、「スーパーで買うお菓子の容量や個
数が減った」と答えています。

働く人たちは物価高の厳しさに口をそろえた半面、連合総研の4月の調査で、賃金が物価より上
がったと答えた働き手はわずか6%台にすぎません。ということは、国民の94%は、賃金の上
昇は物価の上昇に追いついていない、したがって、家計は苦しくなっています。

こうなると、消費は伸びず、景気の下押し要因となってしまいます。

元日銀理事でみずほリサーチ&テクノロジーズのエグゼクティブエコノミストの門間一夫氏は、
23年の物価高を「企業は値上げで増やした収益を懐に入れ、賃金の方にはあまり波及しなかっ
た」、そして物価高に賃上げが追いつかず「物価だけが上がるバランスの悪い状況になった」
指摘しています。

企業収益は好調で賃上げの余力はあるという見方に対し、経団連の十倉雅和会長は6月10日の
会見で、付加価値(粗利)に占める人件費の割合「労働分配率」が「世界的に低下傾向にある」
と説明した上で、各企業の人への投資について「中長期トレンドで見ていけたらと思う」と述
べました。

ここで「中期的トレンドで」とは、長い目で見てほしいと言い訳しただけでした(『東京新聞』
2024年6月13日)。

国民の多くは、円安だから価格が高騰するのも仕方がない、と無理やり自らを納得させているの
に、他方で円安と輸入価格の高騰という全体状況を口実に過剰な利益を得ている企業があること
は、国民にとって腹立たしいことです。

資本主義社会の企業にとっての第一の目的は利益を追求することだから、当然と言えば当然です
が、「中長期トレンド」でみれば、社員への分配を増やさなければ国全体の消費は伸びず、ブー
メランのように各企業の売り上げをも減らしてしまいます。

『女性自身』(電子版 2024.5.10)は円安の家計への 打撃について次のように書いています。

円相場は、2024年初の1ドル140円台から最近の160円台まで、5カ月ほどで10%以上下落して
います。これは輸入にかかるコストが10%増えることを意味します。

「日本の輸入総額は年100兆円余り。10%の円安で、輸入コストは年約10兆円増える計算です。
問題は、これを誰が負担するのか、ということです。企業は商品価格に転嫁するので、結局は消
費者が払うことになるのです。

おおざっぱな計算ですが、約10兆円の負担増を1億人の国民で賄うと、1人あたり年間10万円と
なります。

乳児から高齢者までが一様に一人当たり10万円とは相当な打撃です。これは、いわゆる“悪いイ
ンフレ”の段階に入ったと言えます。

もちろん、実際には、負担増を企業努力で吸収している分もあるでしょうし、全て価格に転嫁
しているとは限りませんので、個々人(個々の家計)の負担増が上記のような金額になるとは限
りません。

しかし、構造としては国民が何らかの形でこの負担増を賄って行かなければなりません。

もし、この負担を根本的に減らしたければ、輸入の多くを占めるエネルギー(石油や天然ガス)
や食料その他の製品の輸入を減らし、国内自給率を高めるしか方法はありません。

しかし、家計へのダメージはそれに留まりません。

円安による物価高がお金の価値を低下させ老後資金が目減りします。現在の貨幣価値の下落を
少なく見積もって10%としても、従来と同じ水準の老後資金を維持するには10%多く蓄え
ておかなければなりません。

年齢にもよりますが、目減りする分を投資でカバーしようと思っても、「投資でもうかる保証
はないし金利も上がりません。個人は節約して生活防衛を計るしかありません。

円安で物価が上がると消費税が増え、賃上げで所得が上がった場合でも、所得税や社会保険料
も増えます。政府には“インフレ増税”がかなう好機だが、国民には物価高と隠れ増税のダブル
パンチです。

結論として、「円安は全方位から家計を苦しめる凶器といえよう。岸田首相に国民の困窮は見
えないのだろうか」と締めくくっています(注1)。

はっきり言えば、岸田首相には国民の困窮は見えない、と思います。

ここまで書くとお分かりのように、円安とそれに続く物価高は個々の家計にとって大きな打撃
ですが、政府には別のメリットがあります。

たとえば、『女性自身』編集部が指摘しているように、物価の高騰は消費額全体を増やし、消
費税も増えることになります。つまり、政府にとっては“インフレ増税”税収の増加をもたらす
のです。

しかし、インフレ国民は、以前と同様の消費を行うのではなく、消費を節約して減らす可能性
もあり、政府の思惑が“捕らぬ狸の皮算用”に終わりことも十分あり得ます。

ところで、元はと言えばアベノミクスによる「異次元の緩和」がもたらした円安が引き金と
なって、国民は物価高に苦しんでいるのですが、その不満の矛先が政府に向かわないように、
政府はいくつかのか価格抑制策を検討ないし実施しつつあります。

ひとつは電気・ガス代の一部補助を国が補助するというものです。これは直接に各家庭の光
熱費の軽減にはなりますが、今のところ8月と9月だけです。これで1400から1600円(月)
の軽減になると見込まれています。

もうひとつは、5月末で終了予定だった「燃料価格激変緩和補助金」(通称:ガソリン補助
金)を、延長する方針を固めています。

ただ、国民からは、これは岸田首相の選挙を念頭に置いた人気取り政策だ、と見透かされて
おり、あまり評価されていません。

こうした補助政策には、当然財源が必要です。その財源として他の目的のために確保してあ
った予算を削ったり、使い残しの予算があればそれを活用して補助の一部に向けることは考
えられます。しかし、どうやらそのような措置だけで光熱費の抑制策の財源が確保できるわ
けではありません。

光熱費やガソリン代の抑制のための財源は天から降ってくるわけではないし、地から湧いて
くるわけでもなく、まして政権党の議員が自分の個人財産を投げ出すわけではありません。

財源は私たちの税金以外にないのです。税金で足りなければ自民党の常套手段である赤字国
債で賄うことになります。

赤字国債となれば、国全体の借金が増え、それは将来、国民が税金で返済しなければなりま
せん。そうすれば、その分、福祉や教育やなど他の施策のための財源を圧迫することになり
ます。

同時に、このシリーズの前の回でも書いたように、国債の発行は市中に新たな資金を供給す
ることになり、それは一巡して円安⇒物価の高騰へつながります。

したがって、物価高騰による家庭への負担増を抑制する財源としては、国民が徹底してエネ
ルギーや食料そのたの消費を減らすか、国としては既存の計画を変更して、生活の補助に振
り替えることです。

たとえば、防衛費は2013年から5年間で43兆円という途方もない金額が予定されています。
これは明らかに、衰退している日本の経済力に不相応な支出です。

もし、予算を組み替えて国民の家計への支援を考えるなら、最初に防衛費の見直しから始める
べきでしょう。

私は、日本の経済は一般にいわれているよりはるかに深刻な状況にあると考えています。国家
レベルでみると、巨額の財政赤字をかかえており、その問題解決が非常に困難になっています。

また、国民のレベルでは、多くの家庭でも物価高と保有する財産のインフレによる目減りとい
う問題を抱えています、

そして、低所得の家庭では物価高によって家計の維持がますます難しくなってゆくことが考え
られます。

今回は詳しく書きませんでしたが、一方で物価高に悩まされ、他方で社会保険や、本来今年の
5月に終了するはずだった「復興特別税」が、6月からは「森林環境税」と看板を掛け替えて年
1000円住民税に上乗せされることになりました。

アベノミクスは、輸出企業にとって有利となるよう円安を意図的に誘導してきましたが、その
副作用として輸入物価の高騰を招き、その「つけ」を一般の国民が払わされています。

つまり、一部の輸出業者の利益のために一般国民が負担を強いられているという意味で、物価
の高騰は実質的な「税金」であるといえます。

そして、「自国の通貨が安くなって潤う国はない」、という点をしっかり心に刻んでおく必要が
あります。

これまで6回にわたって、「日本社会の地殻変動」というテーマで日本の実情を考えてきました
が、その「変動」の方向はどこからみても希望に満ちた明るい変化ではなく、残念ながら「暗
い」方向への変化でした。

今こそ私たちは、現実から目をそらすのではなく、冷厳な現実を見つめることからすべての事
は始まります。そのために、国の在り方も個人の生活も総点検する時です。

今の日本が抱えているのは複合的で構造的な問題となってしまっているので、一挙に改善する
ことはできません。

政府も国民も、ひとつひとつ地道に改善して健全な方向に歩き始めるほかに近道はありません。

(注1)『女性自身』電子版 (2024年5月10日 06:00)
https://jisin.jp/domestic/2322682/3/




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