大木昌の雑記帳

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「モノつくりニッポン」に暗雲―トヨタグループの不祥事―

2024-01-31 08:57:46 | 経済
「モノつくりニッポン」に暗雲―トヨタグループの不祥事―

以前このブログで、日本経済の衰退を象徴する現象として、「通信事業で敗退濃厚な日本」
(2023年12月25日)と「彼岸の『日の丸ジェット』はなぜ飛べなかったのか」(2024
年1月24日)という事例をみてきました。

今回は同じ現象の延長線上で、日本の「モノつくり」に暗雲が立ち込めている実態を、自
動車産業(トヨタ自動車)を通して検証します。

昨年から今年に入って、トヨタグループの自動車メーカに相次いで不正が発覚しました。

まず、ダイハツですが、ことの発端は、2023年4月、ダイハツで認証試験における不正が
発覚したことがきっかけでした。

その不正から23年12月20日、新たに見つかった不正として174個もの不正行為が行
われたことがわかりました。

その不正は大きく以下の5点、いずれも命に係わる重大な不正です(注1)。

1 エアバッグのタイマー着火による不正加工。本来センサーで検知してエアバッグを
作動させるものを、届け出試験に間に合わないという理由でタイマーによる作動で試験
を通した。命に係わる重大な不正です。

2 試験結果の虚偽記載。後方からの追突時の影響を、運転手側については実験せず、
助手席側のデータを試験結果として試験成績書に記載した不正。

3 歩行者との衝突時の速度の虚偽記載。

4 タイヤの空気圧の虚偽記載。過去の試験成績をもとに正しいタイヤの空気圧で試
験を行っても試験結果に影響しないと判断し、試験成績書には指定値に20キロパスカ
ルを加えた虚偽のタイヤ空気圧が記載されていたのです。

5 助手席頭部加速データの差し替え。全面衝突試験において、頭部への影響を、事
前にリハーサルで試験データを差し替えて認証試験に合格するように行われた。

「ダイハツ工業」はトヨタが完全子会社化した会社で、トヨタそのものでもあります。

ダイハツは、豊田だけでなく他の自動車メーカーの車やパーツも生産しており、その
合計は64車種に及んでいます。

しかも、問題の是正に1年間はかかるとされ、それまでは一切販売できません。さす
がのダイハツ(=トヨタ)にとっても大打撃です(注1)。

続いてトヨタの源流企業である豊田自動織機の不正です。

トヨタ自動車グループの豊田自動織機は29日、トヨタ向けに生産している自動車用
ディーゼルエンジン3機種の性能試験で不正があったと発表しました。

トヨタは対象エンジンを搭載する「ランドクルーザー」「ハイラックス」「ハイエース」
など、国内外で人気の高い10車種の出荷を停止することとなりました。

また、エンジンの供給を受ける日野自動車とマツダも、それぞれ1車種の出荷停止を発
表しました。

実は、豊田織機は昨年3月、自動車用エンジンに加えて、フォークリフト用エンジンな
ど4機種の性能試験でデータを差し替えるなどの不正があったと公表していました。

自動車用の不正は2017年以降に型式指定を取得したエンジンで判明しました。調査
委員会が行った豊田織機社員への聞き取り調査では、「17年以前から不正は行われて
いた」との証言もあったとしている。

豊田織機の伊藤浩一社長は記者会見で、「弁明の余地がない行為。管理職に現場の情報
が届いていなかった」と謝罪しました(注2)

豊田自動織機は、グループの創始者・豊田佐吉が発明した「G型自動織機」を製造・販
売するため、1926年に創業。現在はグループの中核企業の一つとして、自動車の車
両製造を行うほか、エンジンや電子機器、フォークリフトなどの産業用車両などを製造
している。2023年3月期連結決算の売上高は3兆3798億円でした。

自動車の部品は2万5000~3万点と言われ、航空機の10万点には及びませんが、
それでも非常にすそ野が広い工業製品です。

自動車は、2023年から過去4年間、販売台数は世界一で、日本の製造業の基幹産業であ
ると同時に、「モノつくり日本」の原点です。

日本の全輸出に占める自動車の割合も17%近くに達し、自動車産業に直接間接にかか
わる労働者も554万人に達します(注3)。

これまで、日本の自動車産業の未来は有望で、「モノつくり」こそがこれからも日本経
済の牽引車としての役割を果たしてくれるものと考えられてきました。

しかし、今回のような不正やずさんな製造管理が明らかになってしまうと、これまで築
き上げてきた世界的にも評価が高いトヨタ・ブランドが大きく傷ついてしまったことは
間違いありません。

トヨタグループの豊田章夫会長は、不正が「お客さまの信頼を裏切り、認証制度の根底
を揺るがす極めて重いことだと受け止めている」と強調し、グループ各社が「成功体験
を重ねる中で、大切にすべき価値観やものごとの優先順位を見失う事態が発生してきた」
と述べました。

そして、原点を忘れ、やってはいけないことをやり、販売してはいけない商品をお客様
に渡してしまった、と謝罪しました。

今回の不祥事はたんにトヨタ・グループだけの問題ではなく、日本における「モノつく
り」に暗雲が立ち込め、黄信号が灯ったことを意味します。

ところで、日本の車が世界各国で受け入れられ優位性をもっていたのは、主としてディー
ゼル車、ガソリン車ないしは部分的に電力を組み合わせた「ハイブリッド・カー」の分野
でした。

しかし、世界の自動車産業の主戦場は今や「プラグ・イン・ハイブリッド」車や燃料電池
を含む「新エネルギー車」(その中核は電気自動車=EV)になっています。

世界最大の市場である中国では、欧米に先駆けて猛スピードでEV化が進み、2022年の
EVの販売台数56万台で「新エネ車」の8割を占めている。

この年の日本の新車販売がガソリン車を含めて420万台であったことをみれば「EV
大国」中国市場の圧倒的な規模感が分かります。

2022年の世界のメーカー別EV販売台数をみると、首位はテスラで127万台、2位が
中国EV最大手、比亜迪(BYD)の87万台とテスラを猛追している。

さらにBYDのEVは23年の上半期にはテスラの88万9000代を抜いて191万
台に達し、360万台という世界最大の目標をほぼ達成しそうだ。

これに対してEV戦略で大苦戦を強いられているのが日本勢だ。トヨタの22年の新車
販売台数は1048万台と世界首位でしたが、EV販売に限ればわずか2万台に過ぎません。

ホンダは22年に中国でEVの新車種を発売したが、販売実績は1000台程度にとど
まったのです。

日産も新型EVのコンセプトモデルを公開したが、発売時期は未定だという。

中国の消費者の間で日本車が「時代遅れ」という印象をもたれつつあります。それには
いくつかの理由があります。

ヨーロッパ連合では、ガソリン車など内燃機関車の新車販売を2035年までに禁止する方
針で、アメリカも自動車メーカーにCo2の大幅削減を迫っており、新たな排ガス規制を発
表するなど、自動車市場のEVシフトは世界的な流れとなっています。

こうした世界の状況をみると、日本はガソリン車とハイブリッド車で成功を収め、世界
の市場で大きな位置を占めていたが、その成功体験が、EVへの転換を遅らせ、今では
世界の自動車産業の潮流から取り残されてしまった感があります。

中国のEVは、ただ電気で走るというだけでなく、BYDの「元プラス車」に試乗した
日本人は、走行音がほとんどなく、車内の豪華さとデザインの良さに驚いている。

車内には大型ディスプレーが並び、ナビゲーションや空調、オーディオをタッチパネル
で操作できる。

音声認識機能にも対応し、声だけで操作可能となっている。中にはマッサージ機能がつ
いたものもあるという。

なにより中国で人気のEVの車内はAI(人工知能)などを駆使した「スマートカー」
が主流となっており、日本のメーカーがEVに切り替えただけでは中国の消費者の心を
つかむことはできません。

自動車そのものの豪華さや利便性のほかに、EVの普及を可能にする充電設備の整備が
中国全土で急ピッチで進んでいます。また自動車ディーラーも新しいバッテリーに短時
間で交換できるサービスを提供しておりEVのためのインフラが充実しています(注4)。

以上、自動車産業に見られるように、日本の「モノつくり」の優位性はもうとっくに消
えてしまっています。過去の成功体験が新しい分野への挑戦を遅らせてしまったのは、
日本経済だけでなくの他の多く分野でも見られます。

これを受け入れることは心理的に辛いことですが、やはり現実を見つめることは必要です。
そこからしか、新たな日本の発展を築きあげることはできないのですから。


(注1)『Yahoo News』2023/12/26
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/8a8ee1190b305bc4a52a6a138c23e17c466c0114
(注2)『読売新聞ONLINE』2024/01/29 20:22
https://www.yomiuri.co.jp/economy/20240129-OYT1T50204/
(注3)日本や世界の自動車の生産、販売などの実態については、
JETRO(日本貿易振興会)『主要国の自動車生産・販売動向』(2023年11月)
https://www.jetro.go.jp/ext_images/_Reports/01/a19dc4f66e89813e/20230020.pdf
「jama」(日本自動車工業会)  https://www.jama.or.jp/statistics/facts/industry/
を参照。
(注4)『毎日新聞』デジタル(2023/4/19 06:30 最終更新 4/19 14:11)
https://mainichi.jp/articles/20230419/k00/00m/020/002000c?utm_source=article &utm_medium=email&utm_campaign=mailyu&utm_content=20230419
『EV ENECHENGE』https://ev-charge-enechange.jp/articles/139/#sec5

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悲願の「日の丸ジェット」はなぜ飛べなかったのか―三菱重工の手痛い挫折に見る問題―

2024-01-24 10:56:51 | 経済
悲願の「日の丸ジェット」はなぜ飛べなかったのか
―三菱重工の手痛い挫折に見る体質と弱点―

2023年2月7日、三菱重工は、国産初のジェット旅客機「スペースジェット」(旧MRJ=三菱
リージョナル・ジェット)の開発から撤退することを正式に発表しました。

商用運行に必要な「型式証明」の取得に苦労する中、新型コロナ禍の市場の混乱も重なり、2020
年10月から開発を事実上凍結していましたが、再開しても問題の解決には時間も費用もかかるので
採算が合わないと判断した模様です。

国費まで投入して官民一体となり、総額1兆円も投入して日本の技術力・工業力の威信にかけても成
功させたかった巨大プロジェクト、国産初の「日の丸ジェット」はなぜ飛ばなかったのか?

挫折の背景をつぶさに見てゆくと、このプロジェクトだけでなく日本企業、さらには日本社会の体質
と弱点が浮かび上がってきます。

国産ジェット機製造の事業化を決定したのは2008年でした。国産のプロペラ機(YS11)以来、
約半世紀ぶりの旅客機開発で、当初はANAホールディングスに13機を年内に納入する計画でした。

ここで計画されたのは、いわゆる「リージョナル・ジェット」と呼ばれる小型ジェットで、一般的に
主要空港と地方空港、大型機では採算が取りにくい路線を運航する「座席数が100席未満の小型ジェ
ット旅客機」のことを言います。

「日の丸ジェット」は、三菱重工子会社の三菱航空機が設計を担い、90席級の初号機の納入は13年後
半を予定していました。

しかし、検査項目の不備や設計変更などの問題が次つぎに露呈してきたため、度重なる計画変更を余
儀なくされ20200年2月までに6回、納期を延長しました。

この間に、コロナ禍や市場の不確実性も加わって投資額も減らされ、18~20年度に約4000億
円だった開発費は21~23年年度には約200億円まで圧縮されました。

それでも、開発費の重みは三菱重工の業績を悪化させ、これまで国費500億円を含む総額1兆円近
い開発費が投じられてきた悲願の「日の丸ジェット」を断念し撤退する事態に追い込まれました。

三菱重工は、今回の挫折に至る背景として、気候変動対策にともなう設計変更やコロナ禍の需要不透
明化などを挙げています。しかも、行き先の見えない中で型式証明を取得するには、なお巨額お資金
が必要になるため、「事業性を認められなくなった」と説明しています(注1)。

これにたいして寺島逸郎氏は、「表向きはコロナ禍によって航空機需要が見込めなくなったと説明さ
れているが、現実には総合エンジニアリング力不足から頓挫したのが実態です」、と述べています。

ここで、「総合エンジニアリング力」とは、さまざまな部品を組み合わせて一つの完成体(ここでは
航空機)を作り上げる企画力、技術力、総合的に統括する組織的統合力のことです。すなわち、
    これまで日本は部品や部材を開発製造する要素技術は世界一流、ボーイングのパーツ委の半
    分以上は日本が作っているなどど胸を張っていましたが、実際にやってみたら、個々のパー
    ツを作ることと完成体をつくることでは次元が違うという事実に直面した
ということです。

自前でジェット機を完成させるには、個々のパーツを作る要素技術だけでなく、総合エンジニアリン
グ力が必要なのです。

その力不足のため、たとえば当初は最先端のパーツを投入して燃料費を2割削減するという大きな目
標を掲げて動き出したプロジェクトが、結局、アメリカの型式証明をクリアするためにはボーイング
で認証済の部材を使った方が早いという話になり、計画が徐々に矮小なものに収斂していったという
のが実際のところだったのです。

上に引用した寺島氏の指摘は、このブログの前回の記事「木は詳細に分かるが、森が見えていない」
という趣旨と同じです。つまり、日本は部品については自信をもっていたが、ジェット機全体が見え
ていなかった、ということです。

寺島氏によると、「日の丸ジェット」の挫折は、広く日本の経済界に影響をあたえたようです。彼が
企業の経営者と議論していて、コロナ危機を機に彼らが心の中に押しとどめていたトラウマが、はっ
きりと浮かび上がってきたことを感じたそうです。

最大のトラウマは、三菱リージョナルジェットの挫折だったという。

これは、三菱重工を中心とする中型ジェット旅客機の国産化計画であり、「自動車産業一本足打法」
と言われる日本の産業構造から抜け出て新たな宇宙航空産業を切り開くという、三菱重工だけでなく
日本産業界全体がビジョンを託した一大プロジェクトだったのです(注2)。

一つの事業が失敗にするには、いくつもの要因が関係していることが普通です。
まず、型式証明を取得できなかったのは、基本的に航空機を製造する技術がなかったからです。そし
て、寺島氏が言うように、優良部品が手に入ったとしても、それらを 組み立てて完成機を作る総合
エンジニアリング力がなかったことも主要因の一つです。

航空機には100万点もの部位品が必要で、三菱重工業は部品については豊富な経験をもっていたが、
完成機の組み立てではノウハウ不足が露呈してしまいました(注3)。

また、航空業界に詳しい桜美林大の橋本安男客員教授も「型式証明の取得の難しさを知らなかった。
市場が今後も伸びるという予測も甘かった。こうした変化に対応する経営の柔軟性も足りなかった」
と手厳しい(注4)。

三菱重工は2019年6月3日、当初のMRJ「三菱リージョナルジェット」から「スペースジェット」
へと名称変更したが、その理由は失敗を隠すためのイメージチェンジであったと言われる。

その時点での失敗とは、米国当局から依然として耐空証明(型式証明)が出されないことに加え、そ
れまでの90席仕様の「MRJ90」では、米国市場などでは勝負できないとわかったことです。
米国内には「スコープクローズ」と呼ばれるリージョナル機の座席数や最大離陸重量を制限する労使
協定があります。

その目的は一般のジェット旅客機とリージョナルジェット機との線引きをすることで、民間航空のパ
イロットの待遇を守ろうとすることです。具体的には、座席数では最大88席まででなければリージョ
ナルジェットとして認められないとされています。

三菱重工業もその協定の存在を知らぬはずはなく、なぜ90席仕様のMRJ90での開発を優先させたのか
は分からない。

いずれ早期にその協定もなくなるだろうと思ったのかもしれませんが、急遽70席クラスの機種の開発
を優先させるように変更を迫られました(注5)。

こうした変更が生じたため、設計段階からやり直しが行われ、ますます型式証明を取得する期間が延
び開発費がかさんでしまいました。

三菱重工の事実認識の甘さ、一方的な思い込み、楽観的憶測が事態を悪化させたのです。

リージョナルジェットの世界では、当時ブラジルのエンブライエル機が三菱重工のスペースジェット
の最大のライバルでした。

本来は、MRJの最大の競合相手はエンブラエルと考え、構想初期の段階から設計においてエンブラ
エルに勝るとも劣らない技術を取り入れる必要があったはずです。

しかし、「エンブラエルはブラジル製だから我が国の技術が負けるわけがない」。これは日本の国民
も素直に感じていた思いであったでしょう。

しかし、実は、エンブラエルはドイツの技術者たちが、ボーイング、エアバスとも一味異なる第三極
の航空機メーカーをつくろうと立ち上げた会社なのです。

第2次世界大戦の敗戦によって、祖国からブラジルへと移ったドイツの航空機メーカー、ハインケルの
技術者たちがブラジルの地でその知見を生かして、工科大学を創設し、その卒業生たちが立ち上げた
のがエンブラエルだった。

航空業界に詳しい清谷真一氏は、三菱重工はライバルの技術を過小評価する半面で、自分たちの技術を
過大評価していたのではないか、と推測している。

すなわち、三菱重工は「戦闘機を開発生産できるわが社の実力をもってすれば、リージョナルジェット
など簡単に開発できる」と思っていたかもしれない。

何人かの識者が言っているように三菱重工には、戦前に「零戦」を作った自負が働いていたのかもしれ
ません。

しかし実態は、防衛産業は防衛省が主たる顧客であり、事実上国営企業と同じで、その他はボーイング
など外国メーカーの下請けで言われた通りにコンポーネント(パーツ)を作ることが三菱重工の主な仕
事となっていたのです(注6)。

ちなみに、自衛隊などが使う航空機の場合は商用ではないので型式証明は要りません。

水谷久和・三菱航空機会長は以前、「三菱重工はYS11をつくり、今はボーイング機の主翼や胴体をつ
くっているが、完成機はまだつくれない。個々の技術に優れているだけではダメで、全体最適、全体
設計ができるところにノウハウがある」と話しています。

これは、寺島氏のいう「総合エンジニアリング力」が未成熟であることを意味しています。

また、ある航空アナリストは「三菱重工は『我々が技術で負けることはない』というプライドの高い
エンジニアが多い。プライドが邪魔をして、先輩の航空機メーカーから学ぶことをしなかったので
は」と見る(注7)。

また、航空機に詳しいジャーナリストの清谷真一氏は、三菱側は航空機産業をビジネスとして認識し
ていたのか、と疑問を呈しています。

つまり、航空機のメーカー側だけでなく、それを実際に運航する航空会社や乗客(つまり顧客)の側
からみての利便性や快適さにどれだけ配慮していたのかを疑問視しています。

実際、ANAのパイロットから操縦席の機器類の配置について使いにくいとの指摘も受けています。

パイロットこそが最初の航空機のユーザーであり、彼らの意見を謙虚に受け止めてこそ、航空機の販
売は伸び、ビジネスとして成功するのですが、三菱側にはプライドなのか、そのような姿勢が見られ
ません。

「日の丸ジェット」の挫折は、非常に残念でしたが、反省点も多く明らかになりました。たとえば、
型式証明に関する知識が不十分だったこと、根拠のないプライドが邪魔をしてライバル機について謙
虚に学ぶ姿勢が足りなかったこと、過去の成功体験(YS11機や古くは零戦)から精神的に抜け出
ることができなかったこと、などが挙げられます。

そして、致命的な弱点は、まだ日本で独自に完成機を作る能力と、全体をみて物事を組み立てる総合
エンジニアリング力が欠如していたことです。

以上の問題は、ほかの産業についても共通している可能性があります。

「物作り」日本のメンツをかけて挑んだ国産初のジェット機は残念ながら挫折しました。繰り返すよ
うですが、これは三菱重工だけでなく、日本の企業経営者に大きな精神的ダメージを与えました。

このブログの前々回でも書いたように、日本はすでに通信事業で世界の競争で敗退していますが、航
空機産業においても敗退は濃厚どころか決定的となってしまいました。

次回から、さらに他の分野(たとえば自動車産業)などについても検討してゆく予定です。

(注1)『毎日新聞』電子版(2023/2/7 21:15:最終更新 2/8 04:32)
     https://mainichi.jp/articles/20230207/k00/00m/020/307000c
    さらに詳しい、発足から断念までの記録は以下を参照されたい。
     『BIZ』 2022年4月26日 13:00(2023年7月10日 14:41 更新)
     https://biz.chunichi.co.jp/news/article/10/39656/
     『BIZ』2022年8月17日 00:00(2023年7月10日 14:21 更新)
     https://biz.chunichi.co.jp/news/article/10/46713/
     『BIZ』2022年11月29日 05:00(2023年7月10日 14:32 更新)
     https://biz.chunichi.co.jp/news/article/10/53591/ 

(注2)『日刊SPA』(電子版 2021年7月3日) https://nikkan-spa.jp/1763990/4 
(注3)『JIJI.COM』2023年02月08日07時08分
     https://www.jiji.com/jc/article?k=2023020701109&g=eco
(注4)『毎日新聞』電子版(2023/2/7 21:15:最終更新 2/8 04:32)
    https://mainichi.jp/articles/20230207/k00/00m/020/307000c
(注5)「JBress」(2023.1.27)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73684
(注6)『東洋経済ONLINE』(2023/02/15 6:20)
    https://toyokeizai.net/articles/-/652353 2023/02/15 6:20
(注7)『経済プレミア』2020年11月6日
    https://mainichi.jp/premier/business/articles/20201105/biz/00m/020/012000c
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2015年 MRJ の初飛行                                                スペースジェットの初飛行   


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全体が見えない 見せようとしない現代社会―情報の細分化と隠蔽が全体像を描くのを困難にする―

2024-01-19 09:58:55 | 社会
全体が見えない 見せようとしない現代社会
―情報の細分化と隠蔽が全体像を描くのを困難にする―

作家の高村薫さんは、「私たちは、木の細部はよく見えながら、森の全体を全くつかめ
ない時代を生きています」と、現代社会における認識の問題点を取り上げています。

それは、個々の問題や現象については詳細に分かっているのに、それらを含む全体像を
把握することができなくなっている、ということです。

このような状況をもたらした背景の一つは、「今や世界中どこからでもスマホで情報を
発信できる時代。細かな情報の解像度は格段に増した。なのに、リアル・非リアルを問
わず秩序もへったくれもなく拡張する世界の全体像は、ようとしてつかめない」という
現代世の情報社会の現状です。

つまり、人類の歴史がこれまでとは別の次元で動き出していて、未知のゾーンに入って
いるからで、とりわけ、その変化を推し進めたのがSNS(ネット交流サービス)による
「情報爆発」と指摘しています。

「民衆が信じられる権威が崩れた今の民主主義」においては、個人が発信するSNSの
ようなデジタルツールが、あたかも「下からの民主主義」を実現させるのだ、とも言わ
れてきました。

たとえ、どれだけ信用できる情報かは確認できなくても、現代の民主主義においては、
人びとが信じることができる権威はもはや崩れてしまっているからだ。

こうして、個人が発するSNSの「情報爆発」は社会の混乱を際立たせる道具になっ
てしまっている、と高村さんは見ています(注1)。

これまで私たちが、身の回りや世界で起こっていることを知る情報源は新聞、テレビ、
ラジオ、雑誌などの媒体が中心でした。

しかし、現代ではさまざまな形態の電子媒体、とりわけインターネット(スマートフォ
ンを含む)を通じた情報網の方が量的にも圧倒的に多く、瞬時に地理的空間を越えて世
界中に発信されます。

スマートフォンがあれば、世界や国内で起こっているニュースなど無数の情報をみるこ
とができます。

ここで、さまざまな媒体を通じて発信される個々の「情報」は、世界で起こっているこ
との、ごくごく一部を切り取った断片的なものであるという点を忘れてはなりません。

しかも、その「情報」の発信者は、何らかの意図をもって、そして何らかの価値観に基
づいて選別された特定の情報だけを発信しているのです。

最近では、私たちが検索したり閲覧した項目が「アルゴリズム」の網に取り込まれて、
勝手に特定のニュースや広告や情報を送り付けてきます。

やっかいなことに、その情報が果たして正しいのか、誰かの誤解に基づくものなのか、
あるいは意図的に流した「偽情報」(フェイク情報)なのか、を個人が確かめることは
非常に困難です。

「情報」とは、それ自身が何らかの意味や価値判断を示しているものではなく、社会に
拡散された断片的な「事柄」に過ぎません。

したがって、「情報」をどれだけ集めても、それは「知識」(あるいは単に「知」と表
現する)にはなりません。

「情報」が「知識」となるためには、それぞれの情報の受け手が自ら検討し、真偽を確
かめて納得することが必要です。

しかし、多くの人にとって日々、洪水のように押し寄せてくる情報をいちいち検討して
判断することは事実上不可能です。

そこで勢い、自分にとって関心があるトピックだけに絞って情報を収集することになり
ます。するとさらに、それに沿った情報を送り付けてきます。

こうして、国内外で起こっている事件や事象に関する私たちの理解は、どうしても個別
的、断片的になってしまいます。

高村さんの言葉を借りると、「木の細部はよく見えながら、森の全体を全くつかめない」
状態が出来上がってしまうのです。

それでは、個々の断片的な情報からどのようにしてそれら繋いで全体像を描いたらいい
でしょうか。

もし、誰か信用できる権威者がいて、その人が世の中に起こっていることを大所高所から
俯瞰して、全体像を示してくれるなら随分助かるのですが、残念ながら現実には、そんな
人はいません。

最終的には、世の中に流布している見解なり解釈を検討し、自分なりの全体像を描く努力
すること以外の解決策はありません。

実際問題として、現代日本が抱える問題や注目すべき事柄は数えきれないほどたくさんあ
ります。しかしそれらは、日本の中で起こっていることなので、濃淡の違いがあっても、
何らかの関連があるはずです。

私たち個人ができることは限界がありますが、まずは自分にとって関心がある問題につい
て正確に把握することに努めます。

そのうえで、その問題がほかの問題とどのような関係があるのかをできる限り思考を広げ
て考えてゆきます。

こうした作業を広げてゆくと次第に自分なりの全体像(「全体知」)に到達することがで
きるのではないか、と考えています。

これは、私が採用している方法なのですが、一つの問題を突き詰めてゆくと、その問題と
関連した問題や背景、根底にある“本質的な問題”や“真実”に突き当たる場合が珍しくありま
せん。

ただし、権力をもった政府や組織が意図的に「目くらまし」や隠蔽によって全体像を見え
にくくしていることが珍しくありません。

一つだけ例を挙げると、現在自民党のパーティー券収入の不記載に関連して派閥の解散が
注目されています。

その第一弾として、総裁派閥の岸田派の解散を首相自ら検討していることを公表しました
が、派閥解散は本筋ではありません。

本筋は、各政党は国民の税金から政党助成金をもらっていながら、なぜパーティーで集金
する必要があるのか、そして、「裏金」となったお金が誰に渡され、どのように使われた
のかが全く不明である、という点です。

しかも、収支の不記載が明らかになった場合でも、現行法では会計責任者だけが処罰され、
政治家がそれを支持した物証がなければ政治家は起訴も逮捕もされないという法律上の欠
陥があります。

さらに問題なのは、パーティー券の売り上げから「キックバック」された金の使途を「政
策活動費」という名目にすれば、その内容は一切公表する必要がない、という抜け穴です。

政治資金規正法という法律は多くの欠陥がある「ざる法」どころか最初から意図的に「大
穴」をあけられているのです。

法律的な欠陥とは別に、政治家(個人または派閥)のパーティーは自民党の資金作りの機
会となっていますが、それらは企業や業界団体に割り振られており、事実上の企業献金と
なっています。

パーティー券の売り上げのうち実際の経費(会場費など)は1割に過ぎず、9割が利益と
なりますから主催者は笑いが止まりません。

献金した側は何らかの見返りを求めることは当然で、そのことが国民の利益を損ねる可能
があります。

いずれにしても。現在自民党は、「政治と金」の闇を「派閥解消」という部分的な問題に
すり替えて国民の目をそらせて、全体の構図を描きにくくしています。

今年の私の個人的な課題は、あくまでも個々の「木」については詳細で正確に理解し、
つぎにそれに基づく「森」を明らかにしてゆくことです。


(注1)『毎日新聞 』(2024/1/12 東京夕刊) 。またWeb版ではhttps://mainichi.jp/articles/20240112/dde/012/040/008000c?utm_
    source=article&utm_medium=email&utm_campaign=maildigital&utm_content=20240114 でみることができます。


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八代亜紀 突然の訃報―優れた表現者が逝く―

2024-01-11 11:06:45 | 思想・文化
八代亜紀 突然の訃報―優れた表現者が逝く―

2024年1月9日、歌手の八代亜紀さんが2023年12月30日に死去したとの
ニュースが唐突に流れてきました。

八代亜紀は1950年熊本県八代市生まれ(本名 橋本明代)享年73歳でした。

わたしの最初の反応は、“え! 本当? なぜ?”というショックでした。それ
ほど八代さんの死は突然でした。

所属事務所によると、八代さんは2023年9月に膠原病の一種で指定難病である
抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎と急速進行性間質性肺炎を発症し、入院・治療を
続けていたという。

膠原病は自己免疫疾患の一つで、原因も治療法も確立していない指定難病です。

テレビ『徹子の部屋』の追悼番組で、昨年3月に八代さんが登場した時の映像
を見ると、八代さんはまだ元気で100歳まで生きて歌ってゆくと言っていま
した。

それから9か月後に亡くなるとは到底考えられない様子でした。おそらく本人
も、死については全く考えていなかったと思います。それだけ病気の進行は早
く激烈だったのでしょう。

八代さんの病状についてほとんどの人は知らなかったので、多くの人は私と同
様ただただショックを受けたのではないでしょうか?

私は八代さんの大ファンで、以前鹿児島へ調査に行った折、八代さんの故郷で
ある熊本県八代市までわざわざ足を伸ばして町の中を散策してきたほどです。

それだけに、今回の訃報は私にとって非常にショックでした。

私は八代亜紀さんの、女性としては低音でハスキーで深みがあり、そして説得
力のある歌がとても好きで、じっくりと聞き入ってしまいます。

しかも、「演歌の女王」と言われながらも、ジャズもブルースも歌う多彩な面
を持っています。これも、多くの人を惹きつける魅力の源泉にもなっています。

面白いのは、東日本大震災の余波がまだ漂っていた2012年の8月「真夏の夜の
JAZZ IN HAYAMA 2012」に、何と八代さんは臆することなく堂々と出
演して演歌を歌ったことでした。

八代亜紀の歌そのものについては個人的な好みの問題もあるので、ここでは、
もう少し人間・八代亜紀について書きたいと思います。

実は、私は八代さんの話を生の声で聞いたことがあります。それは、私が所
属していた学部の「市民講座」で八代さんを呼んだ時です。

この時は学部の担当教授(鉄道好きで著作もある)との対談という形でした。
この対談は、東日本大震災の2年後くらいだったと思います。

八代さんが、東北の復興のためには何が必要でしょうか、と問いかけ、その教
授は、まずは鉄道の復旧でしょう、と答えました。

それを聞いた八代さんは即座に、“それでは、(JR東日本)の社長さんに会い
に行って頼みましょう”と言ったのです。

この発言には私も驚きました。もちろん八代さんは、たとえ社長に頼んでもす
ぐに復旧できるわけがないことは承知の上ですが、この発言は、彼女の積極的
にかかわろうとする姿勢や行動力を見事に表しています。

八代さんは東日本大震災のあと、被災地に畳数千枚(といわれている)をトラ
ックで運んで寄付しました。

これは、出身地の熊本県八代地域の「イ草」(畳表の材料となる)が特産物だ
からでしょう。

決断力と行動力という意味では、八代さんが歌手への道を歩んだ過程にもあら
われています。

よく知られているように、彼女はバスガイドになれば、歌を歌うことができる
から、という思いから中学を卒業すると地元のバス会社のバスガイドとして働
きました。

しかし実態は歌を歌う機会はほとんどなく、結局3か月で退社してしまいます。

ただ、その間、八代亜紀は親に内緒でキャバレーで歌を歌っていましたが、ふ
としたことで親に分かってしまい、ひどく叱られてしまいました。

そこで、八代さんは熊本と実家に見切りをつけて上京します。東京では親戚の
家に世話になり、新宿で歌える喫茶店でアルバイトをしながら音楽学院で歌の
勉強をしました。

親はもとより周囲の反対を押し切って、15~16歳の少女が一人で上京する、
という行動も彼女の決断力と行動力、そして逞しさを示しています。

上京後、18歳のころ銀座のクラブで歌うようになりました。当時を振り返っ
て『徹子の部屋』で、彼女はクラブ歌手になることが夢だったと語っています。

当時は演歌ではなくスタンダード・ナンバーを歌っていたようです。

上に述べた大学での「市民講座」で彼女は、クラブ歌手をしていた時に見聞き
した、こんなエピソードを語ってくれました。

“クラブの給料日になると、出口のところに男の人が待っていて、ホステスさん
たちが、お金を渡しているんです、”と。

八代さんはその時、当然のようにお金を受け取る男性も、お金をわたすホステ
スさんたちも非難するでもなく、淡々と、しかし“ある種の感情を込めて”語り
ました。

八代さん何も言いませんでしたが、おそらく二十歳前後の女性として、理不尽
といえば理不尽な、それでいて切っても切れない男と女の関係のありように、
何とも言えない複雑な気持ちを抱いていたことは間違いありません。

こうした経験は、本人が意識すると否とにかかわらず、八代亜紀の歌の世界に
滲み込んでいったのではないか、と私は思います。

八代亜紀の歌の世界について、彼女が語っていた、とても印象に残る言葉があ
ります。

私は美しい日本語を大切にしたいんです。「ほかの言葉に翻訳できない、独特
な日本語の美しさ」を歌いたいんですと言ったあとで、たとえば(『舟唄』に
出てくる)“しみじみ飲めば しみじみと”という部分の“しみじみ”という言葉は、
日本語と日本人独特の表現なんです、と例を示してくれました。

これ以後私は、歌の中に現れた、日本語にしかない、ほかの言語に翻訳できな
い独特の表現に注意するようになりました。

ここに、演歌・歌謡曲と、J-POPとの分かれ目があるような気がします。

最後に、八代亜紀のボランティア活動に触れておきます。

東日本大震災の時、畳を送ったことは上にのべましたが、被災地への慰問や
募金集めなどの活動も続けていました。

八代さんがボランティア活動を始めたのはこれよりずっと早く、『なみだ恋』の
レコード売り上げが120万枚の大ヒット曲となった1973年に、社会へのお礼を
しなければ、との思いから、彼女は少年院への訪問を始めました。

そして1981年からは女子刑務所への慰問・公演を始めていました。

八代さんの所属事務所が発表した追悼文には、
    代弁者として歌を歌い、表現者として絵を描くことを愛し続けた人生の
    中で、常に大切にしていた言葉は「ありがとう」だった。「一人では何
    も出来ない、支えてくれる周りの皆様に感謝を」という両親からの教え
    を体現し続け、療養中も傍で支えるスタッフや医療従事者に「みんなあ
    りがとう」と感謝を伝え、「最期まで八代亜紀らしい人柄が滲み出てお
    りました」と伝えた。

ご冥福をお祈りします。

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2024年の悲しい幕開け―能登半島地震と羽田空港の航空機衝突事故―

2024-01-08 07:51:22 | 社会
2024年の悲しい幕開け―能登半島地震と羽田空港の航空機衝突事故―

2024年元旦の午後4時10分、突如、能登半島で大地震が発生し、大津波の危険性がある、
とのニュースが流れました。

言い古された表現を使うと、「おとそ気分を吹っ飛ばす」衝撃的な事態が発生したのです。

やがて、この地震はマグニチュード7.6、能登半島の志賀町では震度7を記録したこと、
その他の能登地方でも震度5~6くらいのが発表され、改めて地震の大きさを知りました。

当初、大津波の危険性が予測されましたが、実際に到達した津波は90センチとか80セン
チがほとんどでした。それでも輪島地域では1.2メートルにも達し、家屋や船が流された
ことがわかりました。

今回の地震で大きな被害を引き起こしたのは家屋の倒壊で、それによって多くの死者が出た
ことです。

映像で見ると、倒壊した家の多くはずっしりと重そうな屋根瓦を乗せた屋根が家を圧し潰し
ていました。

このような家は古いタイプの家で、近代建築のようにコンクリートの基礎の上に家を組み上
げるというより、むしろ礎石の上に柱を乗せ、瓦の重さで家を安定させる古い工法で建てら
れているように見受けられます。

以前、私も能登半島の調査に行ったことがありますが、半島中央部の東側の七尾湾は天然の
良港で、江戸時代には北前船の寄港地となっており、かつての繁栄を物語る海鮮問屋の屋敷
や家屋が残っていました。

現在、交通が途絶えた地域もあるので正確な数字は分かりませんが、1月7日現在、分かっ
ているだけでも石川県で死者128人、行方不明者195人、重軽傷者560人となってい
ます。

ただし、まだ交通が遮断されている地域もあるので死者もこれから増える可能性があります。
とくに、倒壊家屋数については調査が行われていませんん。

加えて、避難者が3万7000人もいますが、道路が寸断されており、支援物資を届けるこ
とが困難なため避難所では食料をはじめ、生活物資が不足しています。

また、避難所の狭い空間に多くの人が生活しているので衛生環境は悪く、インフルエンザ、
コロナ、その他の感染症などが蔓延する危険性もあります。

人的被害とは別に、輪島の朝市の一帯が火災に見舞われ、200軒以上も消失してしまいま
した。

輪島の朝市は奈良時代後期に発祥した、とても古い歴史をもつ市で、能登を代表する観光地
の一つであり、歴史遺産でもあります。

また、あまりニュースでは取り上げられませんが、今回の地震で倒壊した家屋の中に、能登
の代表的な伝統工芸品である輪島塗の工房も含まれていました。

テレビに登場した輪島塗の年配の職人さんは、もう工房を再建することはできない、と寂し
そうに語っていました。

今回の地震は、人の命を奪い、生きる希望に大打撃を与えたうえ、古い家、古い朝市、伝統
の輪島塗といった古い物に大きな損害をもたらしました。

他方、近代技術の粋を集めた原発(北陸電力志賀原発、現在は1、2号機とも運転休止中)
では、周辺の空間放射線量を測定するモニタリングポストが15カ所で測定できていません。

地震による道路寸断などで現地を確認できず、復旧の見通しは立っていません。このため原
発事故時に住民避難の判断根拠となる実測値を迅速に得られない状況で、原子力災害への備
えの難しさと、危険性を露呈しました(注1)。 

また5日現在、2号機で外部電源を受けるために必要な変圧器から漏れた油がもれ、その量は
当初発表の5倍超にあたる約1万9800リットルであったことが分かりました。これも、今後、
どのうような意味をもっているのか注視してゆく必要があります(注2)。

能登半島の西側には4つの活断層群があり、さらに今回の地震では珠洲市から輪島にかけて、
最大で4メートルもの土地の隆起が確認されています。

北陸電力は志賀原発に“異常”はなかったとしていますが、この隆起を考えると、原発の地盤に
隆起やズレが起こっている可能性があり、これからも余震の影響で“異常”が発生するかもしれ
ません。

能登半島の西隣には若狭湾沿岸の「原発銀座」と呼ばれる原発の密集地域があります。今回
の地震では原発の異常は確認されていませんが、地球的規模で見れば輪島西方の活断層群か
ら至近距離にあるだけに危険です。

能登地震のショックが冷めやらない1月2日、今度は羽田空港で、日航機と、海上保安庁の
航空機(以下「海保機」と略す)とが滑走路で激突・炎上するというショッキングなニュー
スが飛び込んできました。

この事故によって、海保機の乗員6人のうち機長を除く5人が亡くなる、という痛ましい惨
事となりました。

能登半島の地震は自然災害でしたが、羽田の事故は明らかに人間が起こした人災です。航空
機は近代的な精密機器を搭載し、航空機の離発着はコンピュータによる管制システムによっ
て管理されていますが、そんな中で、起こるはずのない事故が起こったのです。

両機のフライトレコーダーとコックピット・ボイスレコーダー(通称「ブラックボックス」)
の解析結果をみなければ確実なことは言えませんが、この事故はいくつかの誤解、見落とし、
勘違いなど人的なミスが重なって発生したようです。

管制塔と日航機、管制塔と海保との交信記録には、管制官は日航機に、そのままC滑走路で
の着陸を許可するメッセージを伝え、日航機側もそれを復唱しています。

一方海保機に対して管制官は、C滑走路の手前の停止線まで走行するよう指示を出しており、
海保機側もそれを復唱しています。

しかしその後、管制官から海保機にC滑走路からの離陸を許可するメッセージは記録されて
いません。

ところが、海保機はC滑走路に進入してしまい、着陸してきた日航機と激突・炎上してしま
いました。

問題は、なぜ海保機はC滑走路に進入したのか、という点です。海保機の機長はその後、管
制官からC滑走路から離陸の許可を得ていた、と語っていますが、管制塔側の記録とは異な
っています。

海保機がC滑走路に進入した理由の一つとして「ハリーアップ症候群」があった可能性が指
摘されています。

これは、急いでいると、様々な情報を自分の都合の良いように解釈してしまうことです。今
回の事故で、海保機は能登地震の被災地に物資を届ける任務を帯びていましたが、遅れがで
ていたので、早く出発しなければ、という気持ちがあったのかもしれません。

この点はこれからの調査で分かることでしょうから、現段階で軽々しく断定することはでき
ませんが、元日航機機長を長年務めた航空評論家の小林宏之氏は、テレビのインタビューで、
海保機側に「何らかの思い込み、勘違いがあったのではないか」とコメントしています。

いずれにしても、海保機の機長からは、南から(右手から)航空機がC滑走路に着陸しよう
としている航空機が見えなかったのか、また、日航機の機長と副機長は、滑走路の前方に航
空機が駐機していることを目視で確認できなかったのでしょうか?

さらに言えば、管制官は管制塔から海保機がC滑走路に止まっており、海保機と着陸のため
進入してくる日航機が衝突する可能性をレーダーや目視で確認できなかったのでしょうか?

後で分かったことですが、この時管制官は、日航機の次に着陸予定の飛行機をみていたため
海保機には気が付かなかったようです。

それではレーダーなどでは機体(この場合海保機)の位置を確認できなかったのでしょうか。

管制塔では空を飛んでいる航空機についてはレーダーで確認できますが、少なくともこの時
には地上にある物体をとらえるレーダーは設置されていませんでした。

一方の能登半島地震は自然災害で、圧し潰された古い家や歴史のある朝市の街並みが燃えさ
かる光景が脳裏から離れません。

他方、羽田空港の事故では、近代的システムの下でエアポケットのように生身の人の勘違い、
思い込み、誤解などによって生じた人災で、航空機が炎上している光景が目に焼き付いてい
ます。

最後になりましたが、日航機の乗員乗客379人全員が脱出に成功したことは奇跡に近く、
事故原因の解明とともに、なぜそれが可能だったのかも検証する必要があります。

いずれにしても、二つの出来事は私たちに自然災害と人的ミスによる事故にかんする多く
の問題を突き付けています。


(注1)『朝日新聞』デジタル(2024年1月5日 20時00分)
   https://www.asahi.com/articles/ASS156GB1S15ULBH00D.html 
(注2)『東京新聞』(2024年1月4日19時43分)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/300509


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