大木昌の雑記帳

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(続)森友問題―外国人記者が見た日本の本当の闇―

2018-03-25 12:44:25 | 政治
(続)森友問題―外国人記者が見た日本の本当の闇―

森友問題の背後には、政治と官僚との間に、癒着、というより主従関係が定着してしまっていることが
明らかになりました。

官僚の出世街道をトップでひた走ってきた佐川前財務省理財局局長はエリート中のエリートのです。

その佐川氏でさえも、公文書偽造という絶対にやってはいけない行為に関わらざるを得ない状況に追い
込まれ、国会でも不自然で苦しい弁明を強いられてきました。

この姿をみて、エリートといっても所詮は、時の権力の使い走りに過ぎないんだな、と哀れを感じたの
は、私一人ではないでしょう。

官庁の中でも財務省は特別に重要な官庁であるとの誇りをもっていた財務省のトップですら、屈辱的な
答弁の姿を国民の前にさらす役割に甘んじている状態です。

そもそも官庁というのは、政治や政権が変わろうとも国の行政が国民の利益のために間違いなく維持さ
れるように働くことが使命で、官僚はそのことに誇りをもっていたはずです。

しかし今や、それは遠い過去の話になろうとしています。

これまでの、公文書改ざんに関して「森友 9つの疑念」という記事で整理されているので、そちらを
読んでいただくとして(注1)、森友問題を在日外国人記者はどうみているかを見ておこう。

一つは、『毎日新聞』が何人かの在日外国人特派員のコメントをまとめて紹介しています(注2)。

まず、イギリス『タイムズ』紙の東京支局長ロイド・パリー氏は、『「改ざん」は英語ではfalsifyなど
と訳される。これはたんなる書き換え(alter)ではない。 改ざん以外の言葉では語れない」と指摘します。

イギリス『フィナンシャル・タイムズ』(FT)紙の東京支局長、ロビン・ハーディングさんも「公文書
をあれほど大きく変えるのは『改ざん』以外の言葉では語れない」と言っています。

明治学院大教授でニューズウィーク誌日本語版などに寄稿してきたマイケル・プロンコさんは「官僚の改
ざんと聞いて、ショッキングなほど悪い印象を受けた。普段は真面目な人が、実は盗みを働いていたよう
な、裁判で偽証したような重さがある」と驚きのコメントをしています。

いずれにしても、世界の常識では、「改ざん」以外の表現はありえないのに、政府も財務省も、問題を小
さく見せるために必死で「書き換え」と繰り返しているところに、後ろめたさがはっきり表れている。

FTのハーディングさんは、かつて日本は政官がつながっている特殊な国との評価があったが「1990年代
からのルール改正などでじわじわと環境は良くなり、日本特殊論はなくなりつつあった。それなのに、公
文書改ざんを財務省がやったとなると、やっぱりまだ日本と付き合うのは難しい、独特のルールがあると
思わざるを得ないと思う」と述べています。

つまり、日本とはまだまだ通常のお付き合いができない特殊な国だ、との認識です。

前出のプロンコさんも「他の省庁でなく財務省が改ざんしたという衝撃が大きい。効率や管理、規律の高
さ、良きロボットのような正確さが日本政府のイメージだったが、その中心とも言える財務省があれほど
恥ずかしいことをしたとなると、『あれ、大丈夫?』となる。この先、信用できるのかと」。

やはり、日本という国は、その中枢の部分で改ざんという犯罪的なことをやって、本当に信用できるのか
な、と疑問を表明しています。

つぎに、タイムズ紙のパリー氏の的を射たコメントを紹介しよう。彼によれば、今回の問題は首相の妻が
土地取引に関与したかどうかという「小さな問題」なのに、ただそんな「比較的小さな問題」のために財
務官僚がこれほど必死に改ざんに手を染めたとなれば、昨年発覚した南スーダン派遣の自衛隊の日報隠蔽
(いんぺい)問題に見られるように、安全保障問題などでより深刻な情報を隠すだけでなく、都合のいい
ように変える可能性がゼロとは言えないだろう」と懸念を表明しています。

日本の政治全体が海外の信用を失いつつありことを、首相も官邸も官僚も、本当に真剣に考え直す必要が
あります。

二つ目の記事は、レジス・アルノー『フランス・ジャポン・エコー』編集長、仏フィガロ東京特派員の単独
記事です(注3)

アルノー氏は、まず日本のこの問題について欧米のメディアはほとんど関心を指名していないことを挙げ
ています(昨年、取り上げた記事は『ニューヨークタイムズ』は2本、『ワシントンポスト』は1本だけ
だった)。

アルノー氏によれば、海外でこの事件に無関心な理由の一つは、日本の政治家のほとんどが50歳以上の男
性で、英語が話せないうえ、外国の要人ともつながりが薄いため、国際的なレーダーにひっかかることが
ほとんどない、という事情がある。

「政治家たちのもめごとの多くが個人的なものであり、知的なものではない。外から見ると、日本の国会
はまるで老人ホームのようだ。そこにいる老人たちが時折けんかをするところも似ている」と辛らつです。

    こうした中、数少ない報道が日本についてのぶざまなイメージを与えている政府は、対外的には、
    日本では「法の支配」が貫徹していると説明し、これを誇ってきたが、森友スキャンダルは日本
    の官僚が文書を改ざんする根性を持っているというだけでなく、(これまでのところ)処罰から
    も逃れられる、ということを示しているのだ。

平たく言えば、日本という国では「法の支配」が実現していない、民主主義の基本がいまだに根を下ろし
ていない国、と海外では受け取られている、ということです。

最後にアルノー氏は、スキャンダルそのものよりも悪い、本当の闇は以下の点だ、と述べています。それ
は、こういった行為が処罰されなければ、もはや政府を信頼することなどできなくなるからです。
    
    もしフランスで官僚が森友問題と同じ手口で公文書を改ざんしたとしたら、公務員から解雇され、
    刑務所に送られるだろう。処罰は迅速かつ容赦ないものとなることは間違いない。

と、フランスの上級外交官は話したそうです。

また、
    改ざんにかかわった官僚の自殺、といった由々しき事態が起これば、その時点で国を率いている
    政権が崩壊することは避けられない。しかし、どちらも日本ではこれまでに起こっていない。麻
    生太郎財務相と安倍首相は、このまま権力を維持すると明言している。(中略)
    しかし、スキャンダルそのものより悪いのは、政府と官僚がスキャンダルを隠蔽しようとしたこ
    とだ。だがその隠蔽よりさらに悪いのは、隠蔽に対する国民の反応だ。ほかの国々から見ると、
    森友問題によって日本社会がどれほど政治に無関心になったかが示されたことになる。

アルノー氏は政府の府政に対する国民の反応に関して日本と韓国を比較しています。

韓国では朴大統領の不正に対する抗議として100万人をこす一般市民が、マイナス14度という厳寒の
なかで座り込みのデモを行い、ついに大統領を辞任に追い込みました。

そして裁判所も、朴元大統領を厳正に裁く姿勢を貫いています。

アルノー氏の指摘を待つまでもなく、もし、今回、公文書の改ざんに直接かかわった官僚、彼らに指示し
たり改ざんに圧力をかけた政治家や官僚が罰せられないとしたら、日本の統治機構は崩壊してしまったと、
言わざるを得ないでしょう。

そして、安倍政権が、数の力で何とか事態を抑え込んだとしすれば、安倍政権だけでなく日本という社会
全体が国際的な信用を失うことになります。

財務省だけでなく、安倍政権の働き方改革にそうように、残業時間1日45時間などと言う数字を平気で
出した厚生労働省、防衛省の日報隠しにしても、今や、行政全体が溶けだしてしまったような印象を持ち
ます。

本当に、日本は大丈夫なのでしょうか?

(注1)『朝日新聞 デジタル』(2018年3月18日05時00分)
 https://digital.asahi.com/articles/DA3S13408211.html?rm=150
(注2)毎日新聞2018年3月19日 東京夕刊
https://mainichi.jp/articles/20180319/dde/012/040/006000c?fm=mnm
(注3)『東洋経済 ONINE』レジス・アルノー : 『フランス・ジャポン・エコー』編集長、仏フィガロ東京特派員(2018年03月23日)http://toyokeizai.net/articles/-/213722?




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「森友問題」とは何なのか?―エリート官僚の哀しさ―

2018-03-18 16:25:59 | 政治
「森友問題」とは何なのか?―エリート官僚の哀しさ―

そろそろ世間の話題から消えてしまいそうになっていた、いわゆる「森友問題」が、今年に入って、
にわかに火を吹き始めました。

全ては、昨年2月17日の衆議院予算員会で、安倍首相が「私や妻が関係していたということになれ
ば、これはもうまさに総理大臣も国会議員も辞めるということははっきり申し上げておきたい」、と
いう言葉から始まりました。

この時から、政府と官僚との間で、前代未聞の、決裁文書の改ざんが始まったのです。

確認しておくと、決裁文書とは、各官庁が何らかの決定をした際に、その経緯や内容を記した公文書で、
そこには決裁に関係した官庁の役職者が内容を確認して確認印を押したものです。

これは、ある決定がなぜなされたのかを、後から歴史的な検証できるようにするために作成されるもの
で、もしろん、これは国民の知的共有財産であり、民主主義の根幹です。

もし、こうした決済文書を隠したり改ざんされるなら、国民には本当のことが知らされることなく、権
力を持つ者は何でもできてしまうのです。

森友学園に関連して、今年に入ってさまざまなことが、明るみに出てきました。

そのきっかけは、『朝日新聞』が今年の3月2日に、森友関連の公文書(決裁文書)が書き変えられた
疑いがある、と報じたことです。

政府は、もう森友問題は乗り切ったと思っていた矢先に重大な問題が勃発したのです。

その後の経緯は、メディアで繰り返して報じられているので、ここでくわしく説明するまでもありません
が、要点だけを整理しておきます。

① 佐川宣寿元財務省理財局長は国会答弁で、森友学園との土地取引に関する文書は、事案が終了したの
で全て破棄した、と何度も証言した。

② ところが、実際には、その時の決裁文書が存在していたことが後に判明し、財務省理財局も認めて、
決裁文書を国会に提出した。

③ しかし、この決裁文書は改ざんされたもので、それとは別の決裁文書(改ざんまえの文書)が存在す
ることも明かとなった。

④ 新たに明るみに出た決裁文書と国会に提出されたものと比較すると、国会に提出された方の文書から
は、政治家(安倍首相、麻生財務大臣、ほか政治家4~5名)、安倍昭惠夫人の名前、値段交渉の経緯な
ど、この契約が「特例的である」ことの記載などが大幅に削除されていることが判明。

⑤ 全14の文書、70ぺ―ジに300か所に近い改ざんが行われていた。

⑥ 現在まで、所管の大臣である麻生財務大臣は、森友関係の決裁文書書き変えは、財務省理財局の一部
の職員が勝手に行い、その責任は佐川元局長にあると繰り返し述べています。

さて、以上の中には多くの矛盾と虚偽が含まれています。

まず、①について、佐川氏は、事案が終了したから関連文書を廃棄した、と言っていますが、もし本当だ
としたら、これは明らかに問題です。なぜなら、この土地取引は売り払い前提の10年の借地契約です。
そして、1億円あまりの土地代金も10年の分割払い、という特例中の特例です。いずれにしても、10
年間はまだ取引は完結していないのです。

もし、何らかの問題が起こった場合、国の財産を管理する理財局は、契約条件の証拠として文書は残さな
ければなりません。

②改ざんした文書を国会に提出したことは、国権の最高機関であり国民によって選挙で選ばれた国民の代
表が構成する国会(したがって国民)を欺いたことになります。公文書を偽造した者は1年以上10年未
満の刑事罰に該当します。

付け加えると、財務省は、国会だけでなく国土交通省にも大阪地検にも改ざん後の文書を提出しています。

③決裁文書とは、最終決定の文書であり、一つの案件については「最終」文書はひとつしかないはずですが
全く同じ日付で同じ人物が承認印を押した文書が二通あるという事自体、絶対にあり得ないし、あってはな
らないことです。

④と⑤ 政治家や昭惠夫人の名前だけでなく、財務局とのやり取りなども削除されていたことは、これらの
事実が明るみに出ると政権にとってまずいからでしょう。

むしろ、これらの名前を消してつじつまを合わせるために文書全体の大幅な削除と書き変えが必要となった
としか考えられません。

⑥に関して、もし、国の行政に関わる決裁文書が、一部の職員によってどうにでも書き換えられたとすると、
それは民主主義の根幹を揺るがす大事件である、という認識が麻生氏の頭には全くありません。

とにかく麻生には、佐川氏個人に全ての責任を押しつけることしか頭にないようです。

官僚が、自分の判断で文書を改ざんすることはあり得ません。佐川氏は、決裁文書の改ざんが重大な罪にな
ることを十分知っていながら、それでも、なぜ、あのような虚偽発言をしなければならならなかったのか。
ここが問題の本質です。

つまり、自らを危険にさらしてもウソを言わなければならないほどの大きな力が働いていた、ということし
か考えられません。

これに関して自民党の村上衆議院議員は、防衛省(稲田防衛相当時)のPKO日報隠蔽問題、加計学園問題
の加計氏、今回の籠池氏をめぐる森友問題、これら全ては安倍氏のお友達関係、安倍さんから発している、
と、テレビカメラの前で率直に発言しています。

ところで、最近、二つの重要な事実が明らかになりました。

一つは、森友学園の小学校建設の工事を請け負った土木会社が大阪地検に、土地の地下から出てきたゴミの
量に関して、財務省理財局の方から虚偽の報告を書くよう要請され、そのように書類を作ったと証言してい
たことです。

つまり、8億円以上の値引きの根拠となる地中のゴミは、地下9メートルどころか3.8メートルでさえ確
認していなかったことが明らかになったのです。この部分はすっぽりと削除されています。

二つは、財務省がこれまで「本省には残っていない」と言い張っていた森友関連の決裁文書の改ざん前の原本
が本省の電子決裁システムに保存されていたことが分かったことです。

このシステムは中央省庁が採用している文書管理システムで、参議院財政金融委員会の委員の1人が先週、
この中に書き換えの記録が残っているのでは?」と質問すると、現太田充理財局長は
     
    文書を一元的に管理するシステムで、書き換えを行うと、書き換え後の文書とともに書き換え前の
    文書も保存される。更新履歴をたどれば確認できる。調査の過程でこのことを知った

と曝露してしまいました(注1)。

このような重要なことを佐川氏のようなエリート官僚が知らないわけはありません。

こうしてみてくると、一つの核心的な事実を隠そうとすると、次々と他の部分もつじつま合わせのために改
ざんが必要となることが分ります。

しかし、こうしてボロボロといろんな事実が明るみになっているということは、隠そうとしてもすべてを隠
すことはできない、という実態も明らかになりました。

佐川氏は国会で証人喚問に呼ばれるようですが、辞任と退職に追いやられてもなお、やはり死ぬまで本当の
ことを言わないでしょう。

佐川氏だけでなく、野党のヒヤリングに出席している財務省の富山一成氏も、佐川氏と同様、鉄面皮の顔で、
苦しい言い訳を言い続けていますが、内心ではどんな気持ちでいるのでしょうか?

東大を出て誇り高い財務省のキャリア官僚となった人物が、カメラの前で苦しい言い訳をしている姿をみて
いると、プライドも権威も失われ、哀れをもようします。

彼らは心の中で、自分は日本を背負って仕事をするために官僚になったのに、なぜ、こんなことのために自
分のようなエリートが恥をかかされなければならないのか、と思っているのではないでしょうか?

(注1)『日刊ゲンダイ デジタル』(2018年3月18日) https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/225274


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本の紹介 吉野源三『君たちはどう生きるか』―なぜこれほど読まれるのか―

2018-03-11 11:33:50 | 本の紹介・書評
本の紹介 吉野源三『君たちはどう生きるか』―なぜこれほど読まれるのか―

この本には、同じタイトルで二種類あります。一つは、原作に近い文字だけの版で、これは2017年8月に、
二つは漫画版(絵 羽賀翔一)で、マガジンハウス社から同時出版されました。

出版された昨年、大いに話題になりましたが、原作は、今から81年前の昭和12年(1937年)です。

この本の時代背景や出版の経緯については、池上彰氏が文字版の解説「“私たちはどう生きるか”」に詳しく
書かれているので、それに基づいて、やや詳しく紹介します。

原作者の吉野源三氏は明治32年(1899年)に生まれ昭和56年(1981年)、82才で亡くなってい
ます。

吉野氏はいったん東京帝国大学経済学部に入学したが、哲学への思いが強く後に文学部哲学科に移りました。

彼は社会主義系の団体と関係をもっていたため、昭和6年(1931年)に治安維持法違反で逮捕されました。

戦後は、戦後民主主義の立場から反戦の立場から反戦運動にも取り組みました。

岩波書店の雑誌『世界』の初代編集長を務め、岩波少年文庫の創設にも尽力しました。

今回紹介するこの本は昭和12年(1937年)7月に初版が出版された「日本少年国民文庫」(全16巻)
最後の刊行本です。

この時期が重要です。当時日本は中国大陸に軍事進出し、盧溝橋事件などを起こし、それ以後日中戦争の泥
沼に入っていった時期です。

国内では軍国主義化が進み、社会主義的な思想だけでなくリベラル(自由主義)的な思想の持ち主まで弾圧
を受けていました。

そして世界ではドイツとイタリアに独裁主義的政権が誕生し、第二次世界大戦が迫っていました。

池上氏は「そんな時代だからこそ、偏狭な国粋主義でなく、ヒューマニズムに根差し、自分の頭で考える子
どもたちに育てたい。そんな思いから、吉野氏は、この本に着手したのです」と、著者の気持ちを代弁して
います。

池上氏は本書を「これは、子どもたちに向けた哲学書であり、道徳の書なのです」と位置付けています。

私は、少し違った評価をしていますが、それは後で述べるとして、本書が時代を超えて訴える力をもってい
ることは、戦前の本にもかかわらず、現代まで、何回も改訂版が出版され、むしろ戦前より戦後の今日のほ
うが売れている事実に現れています。

1962年には新漢字かなづかい基準が定まった後の昭和37年(1962年)、著者の修正による改定版
が昭和42年(1967年)に、そして、ここに紹介する昨年の出版となっています。

ちなみに、漫画版の本の帯には「170万部突破」とを書かれています。多少の誇張はあるにしても、本書
は、このような堅い本がこれほど売れているのは、まさに驚異的です。

今回は、読みやすい漫画版を基に、本の概要を紹介し、合わせて私の感想を書いてみたいと思います。

本書は、二つの部分(表現)から成っています。一つは、漫画によるストーリーの表現であり、あと一つは、
文字による表現です。

このような構成になっているのは、本書の展開の仕方そのものとかかわっています。

主人公の本田潤一君は15才の中学二年生です。潤一君には叔父さん(父親の弟)がいて、いろんな問題に
ぶつかると叔父さんに相談します。

この叔父さんは、潤一君に「コペル君」というあだ名付けます。地動説を唱えたコペルニクスからとったあ
だ名です。

本は、コペル君が学校で経験したことを(これは大体、漫画で描かれます)叔父さんに話すと、一部は会話
で叔父さんが直接に答え、一部は、叔父さんがコペル君のために作ったノートに書き込んで、教え、諭し、
自ら考えるように導いてゆきます(この部分は完全に活字で)。

漫画と活字の割合は、ざっとみたところ、漫画3対文字1くらいの感じです。

さて、中身は読んでいただくしかありませんが、全体を通じて著者が言いたいことは次の1点に尽きると思
います。

つまり、物事の底にある最も大切なことは、自分が感じたこと、疑問に思ったこと、悩んだことを徹底的に
掘り下げて考えること、そして、自分なりの考えをもつことです。

たとえば、ニュートンのエピソードでは、リンゴが木から落ちるの見て引力の発見につながった故事です。

ニュートンは、木の高さをどんどん高くしていったことを想像してゆくと、やはり落ちてこなければならな
いのに、なぜ、月は地球に落ちてこないのか、というところに発想を展開します。

こうして分かり切ったことを突き詰めてゆくと、ものごとの大事な「根っこの」の部分にぶつかることがあ
るんだ、と叔父さんは教えます。

この著者の姿勢は一貫していています。たとえばコペル君は、友達が上級生にいじめられていたのに、他の
仲間は一緒に上級生のところに行くのに、自分だけこっそりと逃げてしまいます。

友だちを裏切ってしまったことの罪悪感にさいなまされて学校にも行けなくなります。

叔父さんにその胸のうちの苦しさを訴え、自分の代わりに誤りに行ってほしいと頼みますが、叔父さんは断
ります。

その代わり、後悔ばかりしていないで、同じ間違いを二度繰り返さないために、自分が何をすべきかをもう
一度考えなさい、と諭します。

コペル君は、友人たちに宛てて謝罪の気持ちをありのまま書いた手紙を書きます。

このエピソードでは、自分の弱さと卑怯さをしっかりと見つめ、友達に心からの謝罪のきもちを素直に相手
に伝えることの大切さが語られます。

結果的に、友達もその手紙を読んで、コペル君を許して元のように友だち関係は復活します。

現実には、これほどうまく事が運ぶとは思いませんが、大事なことは、自分の内面を真摯に見つめること、
何が本質かを徹底的に考えることだ、と著者は言いたいのです。

ところで、この本の『君たちは どう生きるか』というタイトルに、ちょっと気恥ずかしさ、というか、な
んとなく「青臭い」、今風に言えば「ださい」感じがないわけではありません。

あまりにもストレードすぎるのです。

しかし、80年も前に書かれたこの本が、なぜ今、170万部も売れ、一種のブームといっていいほど読ま
れているのでしょうか?

池上氏はこの本を、「子どもたちに向けた哲学書であり、道徳の書」、と位置づけています。最初の出版の
出版時には、確かに「子どもたちに向けた」かもしれませんが、その内容は子どもだけでなく大人へのメッ
セージが多分に含まれていると思います。

実際、今日この本を買って読んでいるのは(私自身も含めて)、中学生よりはむしろ大人の方が圧倒的に多
いのではないでしょうか。

正直言えば、私はこのタイトルを見た時、心の奥にドキリとした何かを感じました。

それは恐らく、自分自身と物事の本質を徹底的に考える(これこそ、著者が考える哲学なのでしょう)こと
から逃げていることがたくさんあることを、ひそかに感じているからです。

ひとつだけ引用します。それは、小学校を終えただけで知識もなく、ただからだを働かせて生きてきた貧し
い人たちにたいして、叔父さんがノートでコペル君に語りかける部分です。
    こういう点だけから見てゆけば、君は、自分の方があの人々より上等な人間だと考えるのも無理は
    ない。しかし、見方を変えてみると、あの人々こそ、この世の中全体を、がっしりとその肩にかつ
    いでいる人たちなんだ。君なんかとは比べものにならない立派な人たちなんだ。(人間であるから
    には―貧乏ということについて―のノートの最後尾)

吉野氏の経歴を考えると、実に重みのある言葉です。このような文章をみても分かるように、吉野氏は子ど
もに語りかける形で、「人間であるからには」という普遍的な哲学・倫理観を述べています。

現代は、あまり社会のこと自分のことを突き詰めて考えない雰囲気があります。

そんなことをすれば、やっかいを背負い込むことになるだけだ、という雰囲気があります。

しかし一方で、心のどこかに、それは「人間であるからには」、本当は逃げてはいけないことなんだ、とい
う後ろめたさが、私も含めて多くの日本人にあるように思います。

一読をお勧めします。



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平昌オリンピック―開会式にみる物語とメッセージ性―

2018-03-04 08:20:46 | 思想・文化
平昌オリンピック―開会式にみる物語とメッセージ性―


2018年の冬季オリンピックの前半は幕を閉じ、これからパラリンピックが始まります。

私はスポーツは大好きですが、なぜかこれまで冬季オリンピックにはあまり関心を持っていませんでした。

しかし、さすがにスピードスケートとフィギュアは好きで、オリンピックでなくても注目していました。

競技については、さんざんメディアで取り上げてきましたので、ここでは私が注目した開会式について書い
てみたいと思います。

というのも、開会式でどのようなメッセージをどのように伝えるかという問題は、開催国のセンスがはっき
り表れるからです。

思い出すのは、1998の長野で行われた冬季オリンピックの開会式です。

この時の総合演出は劇団四季の創設者、浅利慶太氏でしたが、当時も不評でしたし現在でも評判が良くあり
ません。

今回、改めて Youtubeで長野オリンピックの開会式の映像を見てみました。

まず、諏訪神社にまつわる御柱の儀式的が行われ、続いて相撲の力士が入場します。最後に藁で作った帽子
と蓑を見に着けた子どもたちが現れます。

私ががっかりしたのは必ずしも、豪華さを欠いた地味な演出だからだったからではありません。

そうではなくて、それぞれのパフォーマンスの間に何の関連性も物語性もなく、日本とはどのような歴史と
伝統と文化をもっているのか、そして、このオリンピックをさせる理念は何なのか、が少しも表現されてい
なかったからです。

私が開会式に注目するようになったきっかけは2000年のシドニー・オリンピックの時でした。

シドニー・オリンピックの開会式は、まず、この国の先住民であるアボリジニの登場から始まり、そこに最
初はイギリス人が、続いてあらゆる国の人びとが移民としてやってきてきた歴史が描かれました。

もちろん、白人がアボリジニを征服し、オーストラリアの大地を支配してきたことは事実であり、全体とし
てその過程を少しきれい事ごとに描きすぎている印象はありました。

しかし、それでも、アボリジニも含めて多人種、多文化主義、の融和と協調という、オリンピック精神その
ものが明確なメッセージとして伝えられたことでした。

では、今回の平昌オリンピックの開会式はどうだったのでしょうか?

実を言うと、私はこれまでも韓流ドラマ、とりわけ『朱蒙』やその続編である『風の国』その他の歴史ドラ
マを何回も観ています。

私がこれらの韓国の歴史ドラマに惹かれるのは、何よりも物語としての面白さとテンポの良さです。

たとえば1話を見ると、直ぐに2話を、3話を、と見たくなり止まらないのです。

さて、平昌オリンピックの開会式ですが、これは長野オリンピックと比べることには無理があります。

なにより、20年近い年月が経ち、コンピュータ技術と映像技術の進歩は以前とは格段の差があります。

それを考慮しても、今回の開会式は韓国の演出家、脚本家、映像技術者、その他あらゆる関係者の総合的な
力量が見事に結集し、全体として見応えのある物語性があり、メッセージもしっかり伝わってきました。

この物語は5人の子供たちが、山の神の使いである白虎に導かれて過去へ旅をするシーンから始まります。

虎が導いたのは白頭山でした。ここは、現在は北朝鮮の国境内に入っていますが、朝鮮半島に住む人びとに
とって、ここから民族が始まる起源の山、聖地です。

ここから、神話の世界が多数の女性の舞や踊りで表現され、その中から朝鮮の最初の国を創ったタングンが
紹介されます。

これから先は韓国(朝鮮)の伝統、農民の日々の暮らしの中から生まれ受け継がれてきた農楽が、上が白で
下が赤のチマチョゴリを着た300人を超す女性たちによって演じられます。

農楽は、チャングという太鼓を打ち鳴らしながら踊る民衆芸能で、お祭りや祝いの席で演じられるそうです。

太鼓が奏でる音とチマチョゴリの女性たちの演舞は音楽的にも視覚的にも実に楽しいパフォーマンスでした。

開会式で見せた芸術性は、多くの人に感動を与えたのではないでしょうか

次に、メッセージ性について考えてみます。

選手の入場の際に何度も解説されていましたが、韓国・北朝鮮の選手団の先頭を行進した人は、朝鮮半島全
体を描いた南北統一旗をもって入場したことです。

もちろん、今回は韓国が開催国でしたから、韓国の国旗を掲げても問題はなさそうですが、少数とはいえ北
朝鮮の選手が参加している以上、それはできなかったと思います。

これは、韓国側の配慮であり、南北対話を進めたい文在寅大統領のメッセージでもあります。

考えて見れば、今回のオリンピックで文大統領は北朝鮮に向かってホッケーの合同チームを作ることや、他
の競技に参加することを積極的に呼び掛け、実際にそのようになりました。

このこと自体が、世界のとりわけ、軍事行動も視野に入れているアメリカに対する重要なメッセージでした。

文大統領のメッセージは明らかで、「対話と融和」「統一と平和」です。

日本のメディアの一部には、オリンピックの政治利用だ、と文大統領を批判する声もありましたし、安倍首
相は、この「微笑み外交」に惑わされず、最高度の圧力をかけ続けよう、と繰り返して発言してきています。

日米政府は南北融和には否定的ですが、韓国には韓国の利害があり、万が一にもアメリカが軍事行動に出た
場合、最初に大きな被害を受けるのは、間違いなく韓国です。

私が、もう一つ、強いメッセ―ジ性を感じたのは、開会式の終わりの方で、4人の歌手が歌った、ジョン・
レノンの「イマジン」でした。

迫りくるアメリカの軍事行動という緊迫した状況の中で、「イマジン」の一節は次のように訴えます(以下
は、私の意訳であり、必ずしも直訳ではありません。)

想像してごらん 国境のない世界を          Imagine there's countries
それは難しいことなんかじゃないんだよ        It is not hard to do  
殺す理由もなければ殺される理由もない        Nothing to kill and die for
宗教も存在しない                  And no religion
想像してごらん すべての人が            Imagine all the people
平和の中で生きている世界を             living in peace 



誰が「イマジン」を選局して、この開会式で歌うことを決めたのかは分かりません。しかし、テレビ画面の
向こうで歌っている4人の歌声からは、心の底から平和を望む気持ちが強烈に伝わってきます。

「9・11」の後、アメリカ国民の大部分がイラク・アフガニスタンへの軍事攻撃をすべきだという熱気に
包まれました。当時アメリカでは、ジョン・レノンの「イマジン」を放送で流すべきではない、と言う世論
がわき上がったことを、この4人は十分知っていたと思います。

古代ギリシアでは、たとえ戦争中でもオリンピックが開催されている間は戦争を中断したという。だからこ
そ、この4人は「イマジン」を歌ったのではないでしょうか。

そして、彼らの歌を聞いていた韓国・北朝鮮の人びとはどのように聞いたのでしょうか。

文大統領のメッセージに賛成は反対かは別にして、何のメッセージ性もないことは、オリンピックの主催国
として、これほど情けないことはありません。

さて、2年後の東京オリンピックで日本はどれだけの芸術性とメッセージ性を演出できるのか、楽しみです。
少なくとも、長野オリンピックのような、両方とも欠けた開会式にはして欲しくないと思います。

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春の香りと言えば、何といても梅です。                           もう一つ私にとって春の香りといえば、土手に自生する「野びる」です。
  
                                              
                                             ざるの中の、白い球がたくさんある方が、摘んだばかりの「野びる」(野性のニンニク)で、
                                             もう一つの束はラッキョウの子どもです。両方とも味噌をつけて食べると、濃厚な春の香り
                                             がとは味が口いっぱいに広がります。私にとって春には欠かせない自然の贈り物です。







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