大木昌の雑記帳

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当世ペット考(1)―イヌ・ネコと人の関係史―

2019-05-26 05:54:03 | 社会
当世ペット考(1)―イヌ・ネコと人の関係史―

日本でも世界でも、街や家の中でさまざまな小動物をペットとしで飼っている人は増え続けています。

ペットの代表は、イヌとネコですが、中にはヘビやトカゲなどの爬虫類、カメなどの両生類、モルモ
ットやウサギなどの哺乳類(小動物)など、数え上げればきりがないほど、多種多様なペットが「愛
玩」されています。

それは、それで、個人の好みの問題なので、特に問題になることはありません。私自身は、子どもの
時からネコとイヌを飼ったことがあるので、この二つについては多少の意見をもっています。

しかし、私が最近、日本人のペット(以下は、特に断らないかぎりイヌとネコ)との関係に、なにや
ら奇妙な関係というか、主従が逆転している減少が生まれつつあるように思えるのです。

これらについては次回以降で具体的に書きますが、その前にこの際、ペットとしてのイヌ・ネコとヒ
トの関係史をおさらいしておきます。

言い換えると、そもそもイヌやネコはどういう経緯でヒトと出会い、そしてペットとなっていったの
か、という歴史です。

実は、これを調べてゆくと、同じペットといっても、人間との関係でみると、イヌとネコではそもそ
もの出合いの経緯が異なっており、そのことが現在の両者の関係に影響を与えているように思えます。

まず、生物としての歴史をみると、イヌとネコの祖先は、4000~6500万年前に、ヨーロッパ
や北米に登場したミアキスという、20~30センチのイタチに似た食肉目の動物でした。

この時代は、まだ樹上の生活をしていましたが、3000万年まえころ、寒冷化によりヨーロッパの
森林が後退し草原が広がってゆきました。

この時、地上の生活に適したグループが草原に出て、イヌとその仲間(オオカミ、コヨーテなど)と
なってゆきましたが、森に残ったグループがネコの仲間(トラやヒョウなど)となってゆきました。

草原は、森林とちがって身を隠す樹木がないので、草原に出たイヌは、周囲360度、どこから敵に
襲われるかも知れないという脅威にさらされることになりました。

このため、イヌもイヌの祖先であるオオカミも、集団を組み、しかもリーダー(ボス)には絶対服従
と忠誠が生き残るための条件でした。これらの特性は本能的な習性(DNA)としてイヌ族に刻まれ
ました。

群れを離れて勝手に行動したり、ボスの統率に従わないと外敵に襲われてしまう危険性があります。

この習性は現代の飼い犬でも、飼い主の家族の中で、誰がボスで自分(イヌ)は、どの位置にいるの
かを必ず認識します。

実際には、自分に常にエサを与え散歩に連れて行ってくれる人、つまり自分の面倒を最もよく見てく
れる人をボスと認識します。

これに対してネコ族が選んだ環境は森林の中では、イヌ族のように群れを組んで生活するメリットは
ないので、ネコ族は、部分的には樹上の生活も残しながら基本的にはそれぞれが個別に生活するスタ
イルを身につけました。

さて、問題は、イヌ(あるいはオオカミ)やネコはどのようにして人間と接触するようになり、さら
に人間と共に暮らすようになったのでしょうか?

まず、イヌの問題から考えてみましょう。現在までの遺跡に残された骨のDNAの分析から、恐らく2~
4万年前にオオカミからイヌが進化しましたが、しれは人間による家畜化を意味します。

オオカミからイヌへの進化がどのようにして起こったのかは、推測の域を出ませんが、現在、科学者
の間では次のように考えられています。

オオカミの群れが人間の残飯をあさるために狩猟採集民の集落のはずれに移動したことがきっかけと
なった。その際、比較的従順でおとなしいオオカミの方が残り物にありつけたのではないか、という
ストーリーです(注1)。

以前、NHK(BSプレミアム)「イヌと人 3万年の物語~絆が生んだ最強の友」(2018年3月31
日放送)によれば、体の弱いあるいは獲物を狩る能力が劣っているオオカミが人間の集落に近づいて、
食べ残しなどを食べるようになったのが、人間がオオカミを家畜化して、いわゆるイヌへ変化してゆ
くきっかけとなった、と推測される。

その後は、イヌにとっては餌にありつける、という非常に大きなメリットがあり、人間にとっては、
猟などの際には、人間より早く走るイヌの存在は獲物を追うために好都合だったにちがいない。

恐らく、以上の説はそのとおりだと思いますが、私は敢て、尊敬する漫画家、東海林さだおさんが描
く説を支持したいと思います(注2)。
    
    犬は、生まれながらに忠実であった。
    そこのところに目をつけた人間が、
    「どうだひとつ、忠実という事でやってみる気はないか」
    と声をかけ、犬の方も、
    「そうか、忠実で食っていけるのか」と、初めて気づき、イヌの仲間の間に
    「忠実が商売になるらしい」ということが知れわたり、そうして家畜として採用されること
    になったのである。
    だから、家畜の数はその後たくさん増えたが、忠実で商売しているのは犬だけある。
    猫をみるがいい。猫には忠実のかけらもない。
    犬は数ある家畜商売の中でも、非常に特異な忠実業としてその生計をたてているわけなのだ。
    犬は忠実屋だったのである。

もちろん、東海林さんの描写は、あくまでも漫画的ではありますが、かなり本質を突いているのでは
ないか、と私は密かに思っています。

イヌ好きな人は、飼い主(ご主人)にたいするイヌの忠実・忠誠を高く評価しているのでしょう。

これは、まちがいなく、オオカミ時代以来、イヌがボスに対する忠実・忠誠というDNAを受け継い

でいるからで、そこに目を付けた人間がイヌをペットとして愛玩するようになったのでしょう。

何しろイヌは、忠誠・忠実で人間界で確固たる地位を築いてしまったので、徹底的にその性質を人間
に利用されるようになってしまいました。

特にヨーロッパでは、ダックスフンド(文字通りの意味は「穴熊犬」)のようにアナグマ狩りに特化
した脚の短い姿に造られたり、獲物を驚かせないように、吠えることなく獲物の方向だけを顔で指し
示す(ポイントする)ポインター犬、牛に噛みついても呼吸ができるように鼻が極端に低いブルドッ
グ(文字通りの意味は「牛犬」)などなど、数え上げればきりがないほど、多様な人間の要望によっ
て姿かたちを変えられてきました。

これにたいしてネコは犬とはまったく違った経緯をたどりました。

最近の研究によって、ネコは人間が家畜化したのではなく、自ら人と暮らす道を選んでいたことが明
らかになりました。その間、彼らの遺伝子は、野生のヤマネコの遺伝子からほとんど変わっていない
ことが分っています。

ネコは、人間が農耕を始めたころ(1万年前くらい)に人間に近づいたと考えられています。

ネズミは、人間の文明が生み出す穀物や農業の副産物に引き寄せられました。ネコはネズミの後をつ
いてきた結果、人間の居住地域に頻繁に近づくようになったと考えられます。

この問題を研究してきたベルギーのクラウディオ・オットーニ氏は、「おそらくはこれが人間とネコ
との最初の出会いでしょう」「人間がネコを捕まえてきて檻に入れたわけではありません」。つまり
人間は、いわばネコが自ら家畜化するのを、ただ好きなようにさせておいただけということになりま
す(注3)。

これらのネコの中で、イエネコには2系統あったようです。一つは、4000年頃に、ティグリス川とユ
ーフラテス川が流れる中東の「肥沃な三日月地帯」の農村周辺をうろつくようになり、そこでネズミ
を退治したい人間たちと、互いに利益のある共生関係を築いていった系統です。

二つ目には、エジプトで優勢だったアフリカのネコで、彼らは紀元前1500年頃から、地中海や旧世界
のほぼ全域へと生息範囲を拡大していった。このエジプトのネコは、人間にとって魅力的な、社交性
や従順さといった習性を持っていたものと思われます(注3)

日本においても、狩猟採集の生活をしていた縄文時代には、すでに「縄文犬」といわれるイヌが家畜
化されて、人間と共に暮らしていました。

しかしネコが人間に近づいてイエネコ化したのは、やはり農業が始まった弥生時代以降のことでした。

ここでもネコは勝手に人間の生活圏に入ってきただけで、イヌのように忠実・忠誠を示して人間に取
り入るわけでもなく、あくまでも自らの欲求や気分で行動してきました。

以上、みたように、イヌとネコでは人間との関わりに大きな違いがありました。次回は、現代のイヌ
とネコと私たちの関係について考えてみたいと思います。

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------

日本の「縄文犬」(複製)                                          日本のイエネコ(複製)

   

千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」所蔵 どことなくオオカミの面影を残しています              「国立歴史民俗博物館」 稲作の時代に入り、貯蔵された米ネズミの害から守るネコのイメージ。



(注1)BBC NEWS JAPAN (2017年07月21日)
    https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-40679096
Peco (2019.03.16) https://peco-japan.com/52285
(注2)東海林さだお『食後のライスが大盛りで』文春文庫420、1995:78-79ページ。
(注3)『日経新聞』(デジタル版)(2017年7月3日)https://style.nikkei.com/article/DGXMZO18021730T20C17A6000000?channel=DF130120166020&nra&page=1,2 



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堺屋太一氏の遺言(2)―今の日本は「まるで監獄国家」―

2019-05-19 05:28:30 | 社会
堺屋太一氏の遺言(2)―今の日本は「まるで監獄国家」―

前回に続いて、堺屋太一さんの遺言を手掛かりに、戦後日本の栄枯盛衰をたどりました。

要約すると、70年までの日本は、一方で高度成長による繁栄に酔いしれ、この間に新しい産業、
経済社会体制を作るべきだったのに、その時はまだイケイケどんどんの香りが高かったから、政治
的にはロッキード事件など気色悪いことがあったけれども、経済的にはみんなまっしぐらに規格大
量生産を追求していました。

しかし当時すでに、大きな人口を抱える戦後ベビーブーマーが将来高齢化し重荷になる、という不
気味な時限爆弾が日本社会に埋め込まれていたのですが、一部の人を除いて多くの日本人はまだ、
真剣にこのことを考えていませんでした。

堺屋さんは、「ベビーブーマー」を「団塊の世代」と名付けたことは、あまりにも有名な話です。
では、「団塊の世代」の何が問題だと考えたのでしょうか?

当時の厚労省の官僚は、人口過剰を解消するための居住地を広げ、食糧生産のため農耕地を広げ、
働くための工場や職場を確保しなければ、と考えていたのです。

「何としても土地を作らないといけない」、という観念に支配され、公共事業をどんどんやるべ
きだ、というような考え方です。田中角栄首相(当時)はその代表でしょう。

いわゆる「列島改造」です。道を作り、沼沢を埋め、山を削り、土地を増やし日本の隅々まで開
発してゆきました。「それが、その後のバブルに繋がっていくんですね」。

そもそも敗戦で日本人のメンタリティーは、物量崇拝と経済効率礼賛に180度変わってしまいま
した。戦争に負けたのはアメリカの物量に負けたのだ、と。それが規格大量生産で高度成長を引
っ張る原動力になっていました。

実際、大阪万博(1970年)は、日本が規格大量生産社会を実現したことを世界に知らしめた行事
でした。

しかし、その一方で70年代に世界の文明は転換します。きっかけは、ベトナム戦争でした。ベト
ナムで規格大量生産の武器で完全武装した米軍が、サンダルと腰弁当のベトコンに勝てなかった。
なぜだということが盛んに議論されたんですね。その結論がまさに、規格大量生産の限界でした。
アメリカで草の根運動や反戦運動が盛んになったのは、そうした文明の転換が背景にありました。

堺屋さんによれば、20世紀の技術というのは、大型化と大量化と高速化、この3つだけを目指して
いた、というものでした。いわゆる「重厚長大産業型技術」です。

ジャンボジェット機ができて、50万トンのタンカー船ができて、5000立米の溶鉱炉が出來た。ま
さに、あらゆる分野で最高速度、最大規模の製品が生まれたのが、70年代でした。そこが限界だ
ったんです。
 
それから以後、世界はジャンボジェットより大きな飛行機は、最近のエアバスの超大型機ぐらい
までありませんし、50万トンのタンカーなんてもう造らなくなった。溶鉱炉も石油コンビナート
も大きくなくなり、多様化の時代に文明が一気に変わったのです。

しかし日本は、その後もまだ高速化、大型化、規格大量生産を続けました。だがら、80年代まで
は輸出が猛烈に伸びたわけです。

つまり、欧米と日本の文明のズレが、一時の繁栄をもたらしたんです。前回も書いたように、こ
れが1つの日本の頂点、戦後の頂点ですが、それでそれが行き過ぎてバブルになって大崩壊した。

晩年の堺屋さんは、「3度目の日本」を提唱するようになりました。1度目の日本は明治日本。明
治維新で誕生した、軍人と官僚が専制した日本です。この日本は、ただひたすら「強い日本」、
つまり「富国」(経済発展)と「強兵」(軍事大国化)を追求した時代でした。

   2度目の日本というのは、戦後日本。これは「豊かな日本」を目指しました。規格大量生
   産で、官僚主導で東京一極集中、終身雇用、年功賃金。社会は核家族で住宅は小住宅・多
   部屋式。生まれたらすぐに教育を受けさせ、教育が終わったら直ちに就職。就職したら蓄
   財をして、その後で結婚して子供を産んで、家を買って、老後に備えるために年金を掛け
   ろと。

官僚が個人の人生設計まで全てを決めていた時代です。ました。それに従っていれば、それなり
の中流になれた。これが、いわゆるジャパニーズドリームでした。

終身雇用の部分を除けば、現在でも、理想的な一生の一つのモデルかもしれません。

逆に、「役人の言う通りに生きるのが良い国民で、それに反するのは悪い国民だと。だからニー
トとか、パラサイトとか、もう散々悪く言われるんですよ」。

しかしここにこそ、日本が抱える時限爆弾が埋め込まれていた、というのが堺屋さんの認識です。

つまり、官僚が作った人生設計では、教育年限が延びるに従って結婚が遅くなり、結果、人口減
少が急速に進んでしまった。

これを数字で見ると、アメリカは1000人の女性のうちで140人が24歳以下で子供を産むのに、日本
は40人しか産まない。「この差が今の日本の人口減少の最大の理由なんです。これはもう、全部
役人が決めたんですね」。

個人個人は、役人が決めた人生設計にしたがっているという意識はないと思いますが、「いい大
学」(つまり偏差値が高い大学)に入って、いい会社(大きくて安定している会社)にはいるか、
官僚となって、とにかく豊かな生活を手に入れる、という方向は今でも多くの日本人が目指して
いるモデルであることは確かです。

それでなければ、これだけ塾が繁昌することはないでしょう。しかも、「出来るだけ早く教育を
付けさせる」風潮は、幼稚園から「名門」を目指し、塾に通わせる親が少なからずいるのです。

    頭脳活動に関わりたい人は、東京に住まなきゃいけない。地方では住めない。例えばマ
    スコ ミであるとか、貿易関係であるとか、国際関係だとか、これは必ず東京へ来いとい
    うような、官僚の思うがままの日本をつくったわけです。一人ひとりの官僚はそんな大
    げさなことをしているつもりじゃないんだけど、全体としてはそういう官僚の意志が働
    いている。いわゆる「大いなる凡庸」という状態になっている。

官僚としての長い経験に基づいて、堺屋氏は、「今、日本がやらなきゃいけないのは、この官
僚システムを壊すことです」、という結論に達します。

官僚は皆、ものすごい正義感を持っている。ちょうど戦争中の軍人が中国に侵略することも、真
珠湾を不意打ちすることも、正義感を持ってやっていたのと同じように。
 
「3度目の日本」とは、この官僚の制度を破壊し、本当の主権在民を実現する「楽しい日本」に
することです。今、日本は「安全な日本」なんですよ。安全という意味では世界一安全です。だ
けど全然楽しくない。

堺屋さんがいう「楽しい日本」とは、例えばリオのカーニバルやアメリカの自動車レース・デイ
トナ500」のように、多少の死者もでる危険性をはらんでいるけれども、この楽しさは捨てられ
ない、というようなイベントを楽しむ心をいっているのです。

ところが日本は、どんなに楽しくても、少しでも危険があったらやめておけ、やめておけと、官
僚が統制してしまう。それがマスコミや世間でも通っているんですよ」。

いかにも堺屋さんらしい言葉で私が気に入っているのは、つぎの言葉です。

    安全だけでいいなら、監獄に入ればいい。それでもみんな入りたがらないのは、監獄に
    は幸福を追求する選択性がないからです。その意味で、今の日本はまるで監獄国家とも
    言えるほどです。その監獄国家から、幸福の追求ができる選択国家にしなきゃいけない。
    そうすると、ベンチャーを起こす冒険心も復活する。この官僚主導からいかにして逃れ
    るかが、これから0年までの最大の問題なんですね。

堺屋さんは元官僚らしく、直接的な表現は避ける人ですが、今の日本を「監獄国家」と、晩年に
なってついに本音が出た、という感じです。つまり、社会のあらゆる分野が閉塞状況にある、と
の認識を示したのです。

以上紹介したように私は堺屋さんの指摘に異論はありませんが、二つだけ私のコメントを書いて
おきたいと思います。

まず、現在の官僚は、あるべき姿を長期的・巨視的視点から国民に向かって提示するほどの意欲
と能力があるかどうか疑問です。むしろ、場当たり的に首相や官邸の意向をうかがい、それに合
うように忖度することにエネルギーを割いているような印象があります。

次に、「楽しい日本」も大賛成ですが、それは一過性の祭りやイベントではなく、日常生活その
ものが本当の意味で楽しく充実したものでなければ意味がないと思います。

それには精神的な余裕と同時に、経済的な余裕が必要ですが、現代の多くの日本人にはどちらの
余裕もありません。とりわけ、実質賃金が減少している現在の日本では、格差が拡大しており、
老後に不安を抱えています。

確かに、日本はGDPで2位から3位に転落しただけでなく、一人当たり実質GDPでは、シン
ガポール(4位)は別格だとしても、香港(11位)、台湾(17位)に対して日本は31位、
(ちなみに韓国は32位)、という具合に、かつてアジアの「新興工業国」といわれた国よりも
ずっと下位に甘んじています。

これは、かつて日本は欧米よりも人件費が安いという比較優位を活かして規格大量生産による輸
出で繁栄したのですが、今やこの比較優位は他のアジア諸国に奪われ、日本は比較劣位というマ
イナスを抱えてしまっています。

経済同友会代表幹事の小林善光氏は、このままでは日本は「五等国」になってしまう。それを避
けるために、従来型の物造り経済から、日本が先行している環境や医療問題に関連した、AI、
バイオ、量子の三分野に力を入れるべきだと提言しています(『毎日新聞』2019年5月10日)

日本を愛し、日本が進むべき道を指し示してくれていた堺屋太一さんを失ったことは、本当に
残念ですが、堺屋さんが残してくれた「遺言」をしっかりと受け止めてゆきたいと思います。

心よりご冥福をお祈りいたします。




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堺屋太一氏の遺言(1)―敗戦・繁栄・「青春の終わり」―

2019-05-12 06:58:35 | 社会
堺屋太一氏の遺言(1)―敗戦・繁栄・「青春の終わり」―

元号が「平成」から「令和」に変わり、何か一つの時代が終わり、新しい時代がやってくるような
雰囲気を、政府もメディアも一生懸命ショーアップしている感じがします。

しかし、前回の2回にわたって書いたように、過去30年、「経済の失敗」によって世界の中で日
本は相対的に陥没し、「失われた30年」は続いたままです。

また自民党による長期政権、とりわけ安倍一強政権の下で政治家も官僚も「自己保身」と「忖度」
だけが突出し、日本のあるべき方向や、国際社会の中でどのような役割を果たしてゆくべきか、と
いった本質的な議論もないまま、今日に至ってしまった。これは「政治の失敗」です。

これら「経済の失敗」も「政治の失敗」も、元号が変わったからと言って、良い方向に進むはずも
なく、本気になって「成熟なき老化」した日本を変えることを考えなければ、「失われた30年」
は「失われた40年」になりかねません。

こうした、閉塞状況を打開するために、先人が残してくれた貴重な遺産として、今回は堺屋太一さ
んの「遺言」から学ぶことはたくさんあります。

堺屋さんは、1960年に旧通商産業省(現経済産業省)に入省し、大阪万博、沖縄海洋博の企画など
に関わり、経済企画庁長官として国家経済全体のプランニングも担当しました。

こうした行政的仕事のかたわら、堺屋さんは作家としても数多くの小説を書き、評論家としても活
躍し、「団塊の世代」という言葉で時代を切り取る鋭い感覚をももっています。

その、堺屋太一さんは、今年の2月8日、惜しまれつつ83才の生涯を閉じました。

堺屋さんの優れた特質は、現在の、現実の問題にたいする適切な評価や処方箋を提言できると同時
に、長期的な視野の中で現状を位置付け、そこから日本の将来について指針を示したことです。

一言でいえば、官僚出身者としては珍しく歴史感覚を持った人でした。

幸いにも、堺屋さんは2014年12月25日号の『日経ビジネス』の特別企画(「遺言 日本の未来
へ」)で、“遺言”として、「官僚主導の日本を壊し、『楽しい日本』をつくろう」というインタ
ビューのメッセージを残してくれました。

そして、『日経ビジネス』は堺屋さんが亡くなった4日後、今年の2月12日に、この特別企画を
再掲載しました。今回は、それを手掛かりに、日本の過去・現在・未来について考えたいと思いま
す(注1)。

インタビューは今から5年前のことで、当時から少し事情が変わっている面もありますが、過去を
振り返り、未来を展望しようとする場合、その中身は十分、現在的な意味をもっています。

インタビューのタイトルのうち、「官僚主導」の部分は、この5年間に「官邸主導」に変わってし
まっていますが、それでも、彼の「遺言」には耳を傾ける言葉がたくさんあります。

インタビューで堺屋さんは戦後を「敗戦で日本人のメンタリティーは、物量崇拝と経済効率礼賛に
180度変わった」「欧米が文明を転換している間に、日本はひたすら規格大量生産を続け、それ
一時の繁栄をもたらし、バブルとなって大崩壊した」と総括しています(赤字は筆者)。

堺屋さんの言う「物量崇拝と経済効率礼賛」のメンタリティーは現在も変わっていません。自民党
が「成長戦略」を頻繁に口にするのは、その端的な表れです。

というのも、堺屋さんが明確に言っているように、60年代から80年代にかけての日本経済の成
長は、「一時の繁栄」にすぎなかったのに、政治家も産業界も、日本人の多くは、それが、あたか
も本質的な経済の強さ「ファンダメンタルズの強さ」であると勘違いしてしまっているのです。

日本が生きる道は「モノづくり」で規格品を大量生産し安く売る、という80年代までの古い経済
モデルにしがみついています。

その間に、欧米が文明を転換していたのです。この点を補足すると、欧米(アメリカはちょっと違
うと思いますが)ではすでに、物量崇拝と経済効率礼賛、規格大量生産から離れ、エネルギー消費
を抑え環境保全をはかりつつ、福祉の充実、教育・文化の奨励、少子化への対策などへ方向転換を
図っていたのです。

このため、原発と化石燃料再生エネルギー(風力・太陽熱など)の開発に力を入れてきているのに、
日本では、停止した原発を再稼動させたり、それも経済的に引き合わなくなってきたので、小型原
発の開発に乗り出そうとしています。

それだけでは物足りず、政府がセールスマンとなって、海外に原発を輸出しようと必死に努力して
きました。幸か不幸か、原発輸出の交渉は全て頓挫し、現在、一つも受注できていません。

はっきり言って、今の政府の方針は先進国の趨勢から一周も二周も遅れています。本当は「一時的
な繁栄」にすぎなかった、かつての虚像の成功体験が忘れられず、「夢よ もう一度」ともがいて
いるのです。

堺屋さんは、日本の失敗の原因を、戦時中の体験から解きほぐしてゆきます。

堺屋さんは小学校の時、「我が大和民族は極東尚武の民であり、帝国軍人は忠勇無双である。よっ
て我が陸海軍は無敵、不敗」と教えられてきました。

しかし、小学校2年生の時には「日本は負けているのではないか」と思うようになったそうです。

昭和19年、つまり敗戦の前年の11月か12月ころには、大阪の中心街では、多くの人が負け戦を感じ
始めていました。

そして昭和20年1月、先生が『一億玉砕』ということを言い出した時、堺屋さんは一瞬考えて、
「日本国民一億が玉砕したら、この戦争は負けではありませんか」と先生に聞いて、ぽかぽか殴ら
れた記憶があります」。

堺屋さんは、
    私がこうした戦争中の経験から今に思うのは、なぜ一億玉砕が言い出されたのか。これが
    官僚システムの恐ろしいところだ、ということです。官僚というのは、消去法で可能性の
    ある道だけを探る。要するに、この戦争は勝てない。しかし、日本は降参しない。
    そうすると玉砕よりほかはない。だから悪人でもアホでもない軍人や官僚が、真剣に一億
    玉砕だと言っていた。小学校の先生まで同じことを言い触れていた。
    誰が考えても、一億玉砕したら日本は負けだということは分かっていたはずです。しかし、
    そういうことを言うと殴られる。それが、今の日本と非常によく似ている。

戦後、堺屋さんは大学を卒業し、経済官僚になりました(1960年)。その当時、日本は成長一途で
走っていたので、官僚の方針と日本の国益は一致していました。この状態が1980年まで続きました。

この間に、大阪万国博覧会、沖縄復帰、石油ショック、阪神大震災の復興。経済企画庁長官をして
いた時の大不況など、戦後の大事件の多くに傍観者としてではなくて主体的に関わりました。

これらの仕事を通して、
    戦後日本というのは、官僚が東京一極集中政策を猛烈な勢いでやっていたんですね。それ
    で特に全国規模の頭脳活動、つまり、経済産業の中枢管理機能と情報発信と文化創造活動
    の3つは東京以外でしちゃいけない、ということになっていた」ことに気付きました。
    だから金融貿易は東京以外でしちゃいけない。
    大きな会社の本社も東京に置け。そのために各種業界団体の本部事務局は東京に置けと。
    地方は頭がないんだから、手足の機能に専念しろ。つまり、農業や製造業、建設業の現場
    になれ、というわけです。その代わりに東京はお米を高く買い、建設補助金をばら撒き、
    公共事業を盛んにするという仕掛けにしていたんですね。

近年の安倍政権下で「地方創生」の掛け声にもかかわらず、それは掛け声だけで、地方は衰退の一
途をたどっています。

それにしても、政治も官僚も、なんと地方を蔑視しているのか、驚くほどですが、これは今でも本
質は変わっていないように思えます。

大きな会社の本社は東京に集中し、地方の工場が営々として生み出した富(本来の付加価値)は東
京に送られ、本社決算ではあたかも東京が生みだしたかのような仕組みになっています。

反面、本来、富を生み出した地方は、「現場」として働く人の賃金が払われるだけになっています。

政府や一部の経済学者が、いずれ豊かさは「シャンパン・グラスの上の方から滴り落ちる」ように
地方や中小企業にももたらされる、と、まことやかしに喧伝してきました。

いわゆる「トリクルダウン理論」という、とうてい「理論」などと言えない言説がいかに、いい加
減であったかは、今日の地方の現状をみれば明らかです。

この構造は今でも基本的に変わっていません。これでは、いくら「地方の時代」「地方創生」を謳
っても、地方は浮かばれません。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の絶頂にあった「一時の繁栄」が形となったのが1970年の大阪
万博であり、76年の沖縄海洋博でした。

しかし、日本の繁栄に、強烈な一撃が加えられます。「そして石油ショックが来て、これで日本の
青春が終わります」(1970年)。

「その後の10年を私は『紫雨の季節』と呼んでいるんです。温度は高いけれども、ロッキード事件
が起こるなど何となく気色悪い。そんな時代が10年も続いたわけです。

それからの日本については次回以降に考えます。

(注1)『日経ビジネス』(2019年2月12日)
    https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00015/021200001/?





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平成とはどんな時代だったか(2)―成熟なき老化と「政治の失敗」―

2019-05-05 06:52:03 | 社会
平成とはどんな時代だったか(2)―成熟なき老化と「政治の失敗」―

前回は、四人の識者による総括を手掛かりに平成の30年がどんな時代であったかを考えました。

特に、経済に焦点をあててのコメントを求めたわけではないのに、期せずして、四人ともバブル
崩壊以降の「経済の失敗」「経済の後退」を指摘しています。

「経済の失敗」と表裏一体の関係で平成の30年は「政治の失敗」が続いた時期でもありました。

平成が始まった年の暮れ、米ソ(現ロシア)の首脳がマルタで会談し、冷戦の終結を宣言しまし
た。これと時を同じくして、グローバル経済も始まりました。

この頃日本ではリクルート事件が起きて自民党が下野し、細川政権が誕生しました。

当時は政治改革熱の真っただ中にあったのに、冷戦の終わりに何をすべきか、という認識が著し
く欠けていた。そのツケが平成の政治を実りないものにした。田中秀征氏(注1)は、その理由
を次のように述べています。
   世界の大変動に合わせて日本の針路を考える好機だったのに、前向きな議論はせず、関心
   の中心は小選挙区制の導入で、逆に政治劣化を招いた。30年たっても日本は国際社会で
   どんな役割を果たすのか、少子高齢化の中でどんな社会を築くのか、新時代の進路につい
   て国民の多くが合意するような政治の方向性を打ち出せないでいる(『東京新聞』2019年
   4月30日)。

全く田中氏の指摘どおり、日本は内政においても、日本は国際社会の中で方向性を見失ってしま
いました。

日本はバブル経済崩壊後の後始末に追われ、技術革新や投資など、前向きな施策が遅れてしまっ
たのです。この状況の中で政治を劣化させる動きがさらに進行します。

選挙で必要な地盤(組織)、看板(知名度)、カバン(資金)、を政党から供給され、政治家と
して鍛えられないまま、国会に出てくるようになった。党に異を唱えることもない。自分の党と
闘えない政治家は政治家じゃないね。政治家は小選挙区で勝つことに目を奪われ、長期的な課題
にとりくまなくなった。日本の針路を示せない要因の一つである(同 上記の『東京新聞』)。

とりわけ安倍晋三政権下(2006-2007年、2012年から現在まで)で、安倍一強体制ができ上がっ
てしまい、政治・行政が安倍政権の官邸支配の下に置かれるようになってしまいました。

小選挙区制の下で、国会議員(候補者)は選挙での公認を得るため、議員となれば大臣その他
の重要ポストに就かせてもらうため、安倍政権の意向に逆らうことができない状況にあります。

それだけでなく、行政機関(各省庁)の幹部(官僚)も官邸によって任命されるようになった
ため、安倍首相の意向に反する言動はせず、むしろ進んで意向に沿うように行動する、つまり
「忖度」するようになってしまいました。

こうした背景の下で、「モリカケ」問題のような、」が発生し、本来国のために働く官僚が、
安倍政権のために文書の改ざんまでしているのです。これは、日本国民に対する重大な裏切り
行為です。

反面、国民は政治家の言葉を信用しなくなってしまいました。安倍首相は、ことあるたびに、
「住民の皆様の声に真摯に耳を傾ける」と言いつつ、たとえば沖縄の辺野古新基地建設に関し
て、沖縄の住民は知事選と県民投票と、補選で3度も「ノー」を突きつけたのに、まったく耳
を傾けることなく、「粛々と」工事を続けています。

次に、国際社会の中で日本はどのような役割を果たすべきか、を考えてみましょう。

それは、端的にいえば安全保障面でアメリカとの連携と一体化を強化し、そのための法制化を
整備し続けていることです。

具体的には、外国の戦争に参加できるようにする、集団的自衛権の行使を可能にする、いわゆ
る「集団的自衛権容認」の閣議決定(2014年7月1日)、そして安保関連法案の参議院での強
硬採決(2015年9月19日)は、戦後の安全保障政策の大転換でした。

しかし、これらの安保関連法制は、戦争の放棄、国際紛争の解決のための戦力の保持を禁止す
る憲法9条に抵触する可能性が極めて高いのです。事実上の、9条の無効化でした。

しかし、このような重大な政策変更を、憲法改正の手続きを経ず、閣議決定と強硬採決で決め
てしまったのです。これも、安倍一強の表れでもあります。

また、最近では敵基地攻撃可能な巡行ミサイルを持つとか、事実上の空母とか、イージスアシ
ョアーのようなミサイル防衛レーダーシステムとか、「専守防衛」ではなく、積極的に戦争行
為に突入しかねない軍備に巨額の国費を費やしています。

加えて、直接的な軍備ではありませんが安倍政権は、特定秘密保護法や共謀罪など、国民の知
る権利や思想・行動の自由を抑制する可能性がある法律を次々と通過させました。

さらに、それまで国是とされてきた武器輸出禁止三原則は「防衛装備移転三原則」という名称
に変えられ、実質的に武器輸出が大幅に緩和されました。

こうした一連の法制度の変更に関して、党内で活発な議論が展開されることもなく、まして反
対意見などがでることもなく、首相の思い通りに進められたのです。

安倍首相が推進する、安全保障政策の背景には、日本は軍事的にも「強国」でなければならな
い、という民族主義的思想がある一方で、アメリカからの圧力・要請に積極的に応えるという
姿勢があります。

安倍首相は、とりわけトランプ氏が大統領になってからは、傍目にも恥ずかしくなるくらい、
トランプを持ち上げ、こびへつらうような言動をしています。

記憶に新しいところでは、ノ-ベル平和賞にトランプ氏を推薦したり、先の中間選挙では、ト
ランプ氏の共和党が、上院では現状維持でしたが、下院では逆転されたにもかかわらす、「歴
史的な勝利おめでとうございます」と言って、現地のメディアからも嘲笑されています。

また、4月26日のワシントンでのトランプ氏との会談の際には、メラニア夫人の誕生に出席
し、昭惠夫人が手作りのお茶をプレゼントしたり、新天皇の即位後の最初の国賓としてトラン
プ大統領を招待することを約束するなど、トランプ統領への「抱き着き外交」を精一杯演じま
した(注2)。

他方、アメリカからの武器を、予算が厳しい状況にもかかわらず、アメリカの言い値で、とん
でもない額(来年度予算で5兆円超)を購入することを決定しています。

そして、おそらく現在進行中の貿易交渉(物品だけでなくサービスや関税などを含む総合的な
貿易交渉 FTA)でも、大幅な譲歩を迫られ、理屈をつけて受け入れるでしょう。

安倍首相の外交は、「ジャパン・ファースト」ではなく「国際協調主義」でもなく、皮肉なこ
とに、愛国主義を標榜する安倍首相の言動は、トランンプ大統領と同じ「アメリカ・ファース
ト」のように見えます。

ある外務省幹部は正直にも「トランプ大統領を、どう気分よくさせるか苦心し続けている」と
本音を漏らしています(『毎日新聞』2019年4月30日)。

これに対して、党内から何の異論も出ませんが、これは安倍一強の結果です。

高村薫氏は、これまでの30年を振り返って、実に適切な評価をしています。
    世界は猛烈なスピードで変わり続ける一方、この国は産業構造の転換に失敗、財政と
    経済の方向性を見誤ったまま、なおも経済成長の夢にしがみついているのだが、老い
    て行く国家とはこういうものかもしれない。自民党の一党支配に逆戻りして久しい政
    治がそうであるように、この国はもはや変化するエネルギーがのこっていないのだ(
    『朝日新聞』2019年4月30日)

私自身の評価は、この30年間の日本は、経済的にも政治的にも、本当の意味で成熟すること
なくただただ、活力を失って「老化」した時代だった、というものです。

これから「老化」を防ぎ、活気を取り戻すためには、何よりも過去の成功体験(規格品の大量
生産で輸出を伸ばす)にしがみついている政治・行政や経済人には退場してもらう必要があり
ます。

そして、「変わる意志と力をもった新しい日本人が求められる。どんな困難が伴おうとも役目
を終えたシステムと組織を順次退場させなければ、この国に新しい芽は吹かない。伝統を打ち
破る者、理想を追い求める者、道の領域に突き進む者の行く手を阻んではならない」(高村氏、
上記の記事)。

(注1)田中秀征(細川内閣、橋本内閣で要職を歴任し、現在福山大学客員教授)
(注2)『朝日新聞』デジタル版 (2019年4月27日)
   https://www.asahi.com/articles/ASM4W2VCJM4WUTFK005.html?iref=pc_extlink

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滝のように咲き誇る藤の花                                よく見ると、本当に小さな手毬のように見えるコデマリ

 





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