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大木昌の雑記帳

政治 経済 社会 文化 健康と医療に関する雑記帳

ツイッター・フェイスブック・ブログ考

2012-08-29 07:54:31 | 社会
ツイッター・フェイスブック・ブログ考



 ツイッター,フェイスブック,ブログはいずれも電子媒体ですが,それぞれ目的や条件がことなります。

 ツイッター(twitter)は名詞としては「さえずり,甲高い鳴き声,(ひどい)興奮,動揺,うろたえ」などの意味をもっています。

  また動詞としては「かん高い声で鳴く,ぺちゃくちゃしゃべる,興奮して小刻みにふるえる」などの意味があります。

 ただ,今日,コミュニケーションのツールとしてのツイッターは「つぶやき」「つぶやく」と訳されます。

 ツイッターは2006年に始まった,ごく最近のメデイアです。

 その特徴は,なんと言っても手軽さと,140文字という文字数制限をもつ短文であることです。

 発信者(主催者)はツイッターでは不特定多数に向けてメッセージを発信します。

 他方,他人のツイッター記事を誰でも自由に読むことができ,それに自分の感想や意見を同じツイッターのサイトへ匿名で書き込む
ことができます。

 こうして,緩やかなコミュニケーション・ネトワークができあがります。

 ツイッターの記事内容は,まさに個人のつぶやきですから,発信者がその時,その時,自分が感じたこと,思いついたことを,
そのまま書きます。

 ある国会議員が,「今私は,議員会館の食堂でカレーを食べています」と自分のツイッター・サイトに書き込んでいるところを
テレビで見ました。

 このようなメッセージにどれほどの意味があるのか私には分かりませんが,それは個人の自由ですから,第三者がコメントすべき
ことではありません。

 しかしツイッターは,そうした全くの個人的な「つぶやき」だけではありません。

 たとえば,「何月何日,何時から,何のデモが行われるから,どこどこに集合!」などというメッセージを発信する場合にも
ツイッターは利用されます。

 ここ数年,「アラブの春」や中国での反日デモなどの際には,ツイッターやフェイスブックが絶大な威力を発揮したようです。

 ツイッターは携帯電話があれば,従来のように部屋でパソコンを開く必要もなく,歩きながらでも,いつでもどこでも情報を発信し,
受信することができます。

ツイッターのもつ簡便さと発信力の大きさは現代のコミュニケーションに革命をもたらしました。

ただ,私は今のところ誰のツイッターもフォローしていないし,自分でも発信していません。

それには個人的な理由と,社会的ツールとしてのツイッターにある種の警戒心をもっているからです。

まず,個人的な理由としては,私が何か思いついたことを140文字で「つぶやいた」ところで,
他の人にとってはほとんど意味がないし,関心をもつ人もいないでしょう。

 そうはいっても,自分の個人的な「つぶやき」には社会的な意味があると考える人もいるでしょうし,
実際に大きな影響を与えている人もいるとは思います。

次に,社会的コミュニケーション・ツールとしてのツイッターについて考えてみます。

ツイッターは,不特定多数への連絡(たとえばイベントの告知)したり行動への参加などの点では絶大な威力を発揮します。

また,日々の社会の出来事に関する意見や感想を発信することもできます。

ただ私は,ツイッターというメデイアにちょっと警戒心をもっています。

ツイッターには140文字という文字数制限があるので,何かを言いたいときには,結論だけを端的に発信することになります。

この際,「なぜ,そうなのか」,「それはどんな根拠に基づいているのか」,といった実証も論証しません 。

人によっては,あるいは取り上げるトピックによっては,140文字あれば実証も論証もできるということもあり得ます。

しかし実際には,ほとんどのツイッターのメッセージは,実証も論証なしで言い放しのことが多いようです。

ツイッターにリンクを張りつけて,別の場所(ブログやホームページ)で綿密な検証をすることも可能ですが,それはあまりしません。

私が気にしているのは,証拠も論拠もなく,特定の民族,団体,個人がツイッターで避難,中傷,さらには攻撃されることです。

たとえば,「あの首相は国民の敵だ,奴を倒せ」といったメッセージが発信させられたとしましょう。

そして,もし,その首相のどこがどのように悪く,それはどんな根拠に基づいているのかといった証拠なり論拠を示してないとしたら,
このようなキャッチコピー的なメッセージはとても危険です。

幸い,これまでのところ,日本ではツイッターが大きな役割を果たして多数の人が過激な行動に出た例はありません。

しかし,最近の領土問題に関連して,中国,韓国,ロシアにたいする不満や苛立ちが多くの日本人の間に鬱積していると思われます。

韓国の大統領が竹島に上陸したり,北京で日本の大使が乗った車が襲撃されるなどの事件が続くと,政府は弱腰だ,もっと強く出るべき
だという声が高まってきます。

こんな時,影響力のある人のツイッターが過激なメッセージを発信すると,一気に火がついて,反中国,反韓国,反ロシアといった行動
に表れる危険性もあります。

短いメッセージは理屈より感情に訴えるほど衝撃力が大きくなるので,最近の日本はちょっと危ないな,怖いな,と感じます。

ツイッターに関しては,他にも気にしていることがあります。

若者特有の現象かも知れませんが,携帯のメールと同様,ツイッターのメッセージは短文なので,

短文に慣れてしまっていて,長い文章を読むことが苦手になってしまうのでは,と心配になります。

長い文章を読むには,論拠を確かめつつ時間をかけて,じっくり考える必要があります。

しかし,140文字以下の短文は,深く考えるよりも,キャッチコピー的な短いメッセージを受け取ることになりがちです。

この点では,立ち止まってゆっくり考えることが面倒な現代人にはピッタリかもしれません。

もちろん,140文字以下でも,しっかりと論拠も根拠も書ける人もいるでしょう。

ちなみに,この私のブログ「大木昌の雑記帳」は,卒業生との卒後学習のために,共通の場を作ろうと始めたのですが,
長すぎるという苦情を言われたことがあります。

それでも,私には,何かまとまったことを書くには140文字ではどう考えても無理です。

このため,このブログ記事は毎回の記事が,長くなってしまいます。

最後に,フェイスブックについてです。

フェイスブックはツイッターとちがって,相互に承認し合った仲間だけで成立するコミュニケーションの場です。

私にも,国内外から,参加を呼びかけるメールが何回もきましたが,特別な理由もなく,何となく今までどれにも加わっていません。

フェイスブックを利用している人たちに聞くと,離れた所にいる仲間の近況を知ることができるので,この点ではとても便利のようです。 

ツイッター,フェイスブック,ブログ,ホームページ,などの電子メデシアは,それぞれ特徴があります。

最終的には個人個人が自分に合った媒体を利用する事になるのだと思います。

それにしても,新聞やテレビなどの巨大資本と組織ではなく,個人が自由に情報を発信し,受信するこれらの媒体が存在することは,
素晴らしいことだと思います。
 
しかし,このネット時代には,おびただしい情報を選別し,批判する力をつけることが絶対に必要です。
 
そうでないと,個人も社会も,知らないうちに思わぬ方向に引っ張られていってしまう危険性があります。

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セミにも「草食系男子」の波?-昆虫が教える生態環境の変化

2012-08-25 06:35:11 | 自然・環境
セミにも「草食系男子」の波?-昆虫が教える生態環境の変化- 


 今回は,夏の風物詩,セミの鳴き声の変化を入り口にして,気候や生態環境などの変化について考えてみたいと思います。

日本には,確認されているだけで30種類前後のセミがいます。そのうち,多くは沖縄・八重山地域,北海道,小笠原諸島などに生息し
ています。

ただし,同じ本州でも,地域によって生息するセミの種類が違うので,一つの地域で日常的に見たりその鳴き声を聞くことができるのは,
せいぜい9種類くらいです。

私は静岡に生まれ,主に関東圏で生活してきましたので,東海・関東圏についての事情を中心に書いてみたいと思います。

この地域の住宅街や近くの森や公園で良く見かけるのは,ミンミンゼミ,アブラゼミ,ニイニイゼミ,ツクツクボウシ,ヒグラシ,チッチゼミ
の6種類くらいです。
 
私が子どもの頃,一番人気は断然,クマゼミでした。クマゼミは「シャン,シャン,シャン」と鳴くため,私たちはこれを「シャンシャン」
と呼んでいました。

「シャンシャン」は子どもにとっては,セミ界の王様で,体は大きく,羽根は透明で,何より鳴き声が大きくダイナミックです。

他のセミを捕まえても自慢になりませんが,「シャンシャン」を獲ったときには大いに自慢できました。

私にとって「蝉しぐれ」といえば,この「シャンシャン」の大合唱です。この鳴き声を聞くと,たちどころに子どもの頃の記憶がよみがえってきます。

昭和40年代(1960年代)くらいまで,「シャンシャン」の生息地は箱根の西の地域に限られ,箱根以東の関東圏にはいなかったと記憶しています。

ところが,今から15年くらい前,クマゼミが箱根を越えた,というニュースを目にしました。
 
また,最近のセミの分布をみると,箱根以東の神奈川,東京,千葉も,このセミの生息地域に含まれています。
 
セミの生息域は確実に北上しているようです。これは言うまでもなく,温暖化の影響でしょう。こんな所にも,気象の変化が現れているのです。

ところで,セミの鳴き方をじっと聞いたことはありますか? どうやら,生息地域だけでなく,鳴き方も変化してきているようなのです。

静岡県掛川市で森林組合組合長を歴任し,市長も永年勤めた榛村純一氏(昭和11年=1934年生)は,
平成9年(1998年)に同地で行われたシンポジウムで,セミの鳴き方の変について興味深い話をしています。

榛村氏は子どものころ(おそらく昭和20年ころ),セミの鳴き声をじっと聞いて観察していたそうです。

当時,ツクツクホウシは,「オーシンツクツク」と鳴き始めて,その鳴き声を18回繰り返し,その後に「オイヨース,オイヨース」と5回,
そして「ジー」と鳴き終わるのが普通でした。

しかし,最近では乱れて,13回とか16回でや止めてしまったり,「オイヨース」を3回でやめてしまうようになったといいます。

ツクツクホウシの例で言えば,18回プラス5回が「ひと鳴き」,1サイクルです。

 ちなみに,セミが鳴くのは,オスが交尾相手のメスを呼び寄せるためで,1サイクル鳴いてみてメスが寄って来なければ,
さらに何サイクルか試すか,他の場所に,ばっと飛び立ってしまいます。

私も家の近くでセミ鳴き方を注意深く聞いてみましたが,ツクツクホウシは,とうてい18回も鳴いてくれませんでした。「オイヨース」
も5回は鳴いていません。

これはオスが淡泊になって,すぐにあきらめてしまうようになったのか,セミに聞いてみないと分かりません。

もう一つ,榛村氏が挙げている例は,ミンミンゼミです。昔は「ミンミンミン」と7回鳴いて,それを5回繰り返す(合計35鳴いて)
のが1サイクルでした。

それでもメスが寄ってこないと,飛び立ってしまうパターンが多かったようです。

ところが最近は,それも乱れて,「ミンミンミン」と3回鳴いて,4~5回力無く繰り返すだけになっているといいます。

ミンミンゼミの鳴き方も家の近くで聞いてみたのですが,「ミ~ン」から始まり,続いて「ミン」を3回からせいぜい4回ほど鳴いて,
「ジー」を1回鳴きます。

それをせいぜい4回ほど繰り返すのが1サイクルでした。従って,全体では16回ほど鳴くのが1サイクルとなっています。
以前の35回からすると半減です。


回数が減っただけでなく,セミの鳴き方には,規則性がなく,時にはもっと数多く鳴くセミもいますし,数回で突然鳴き止んでしまう
セミもいます。

鳴き声も,「力無く」という表現がピッタリで,心なしかとても弱々しく響きます。

セミの世界も「草食系男子」の傾向が進行しているのでしょうか? 何が何でもメスを獲得するぞ,という強い意欲が感じられません。

しかも鳴く回数を減らす「省力化」志向が強くなっているようです。何だか日本人の,とくに男性のありようと似ていますね。

「一応,鳴いてみたけど,誰もこなかったから,まっ,ここらへんで一休みするか」といった感じなのです。

この変化がどんな理由で起こったのか,私にも分かりませんし,昆虫の専門家も真剣に考えてこなかったようです。
しかし,昆虫の生態は気候や環境の変化を敏感に反映しますから,何か理由があるのでしょう。

もう夏も終わりに近づいてきていますので,一度,セミの鳴き声に耳を傾けて,どんな風に鳴いているか観察してみませんか?
ツクツクホウシはこれからが本番です。

ところで,しばらく前に小学生のキャンプの引率で,夏の真っ盛りに市内のキャンプ場に泊まったことがありました。
 
このキャンプ場は全体が森の中にあり,周囲を水田に囲まれていています。

このような環境では夜になると,蛍光灯の周りに,さまざまな蛾や,カナブンやカブトムシなどがいっぱい集まってきます。
 
しかし驚いたことに,私が泊まった時,虫の姿も見えず,鳴き声も聞こえず,シーンと静まりかえっていました。辺りはシーンと
静まりかえって,
それはそれは不気味な静寂でした。

私はとっさに,環境問題のきっかけとなったレイチェル・カーソンの「沈黙の春」を思い出しました。

「沈黙の春」は,農薬や化学物質のため,鳥が死に絶え,春になっても鳥の鳴き声が聞こえなくなった,という環境汚染の象徴です。

レイチェル・カーソンのひそみにならって言えば,このキャンプでの光景は「沈黙の夏」でした。

実は,このキャンプ場の周囲の水田には,農薬の空中散布が行われていたのです。昆虫が直接に農薬によって死に絶えたのか,
他の地域に移動したのか,あるいは,食物連鎖で間接的に死んでしまったのかは分かりません。

しかし,この「沈黙の夏」をもたらしたのは,気候の変化のせいではなく,間違いなく農薬の使用による人間の仕業です。

虫の世界に起こっている変化は当然,周辺に住む人間にも影響を与えているはずです。

変化が起こっているのは昆虫の世界だけではありません。植物の世界でも変化が起こっています。気候の変化は,むしろ植物の方が
直接の影響を与えます。

かつて,「美味しいお米」といえば新潟県の「魚沼産こしひかり」と相場は決まっていました。

しかし,最近では魚沼地域の気温が上昇したため,美味しいお米の産地は,津軽海峡を越えて北海道にまで北上しています。

今年は北極の氷の面積が観測史上最も小さくなったという発表がありました。確実に温暖化は進行しています。

温暖化に加えて干ばつも深刻で,穀物生産に大きな打撃を与えています。とりわけ,今年は大豆,小麦,トウモロコシ
の主要な輸出国であるアメリカで,干ばつのため収穫が大きく減少しました。

日本はこれらの穀物の90%以上を輸入に頼っており,他人事ではありません。このため,この秋からは小麦製品(パン,
麺類,菓子など)の価格が上がります。

大豆は,味噌,醤油,豆腐,納豆など,日本の食文化を根底で支えている食材ですから,大豆不足となれば,日本の食文化が危機に
瀕します。

また大豆はトウモロコシとともに,家畜の配合飼料の原料でもありますから,国産牛肉や乳製品の価格にも値上げの波が押し寄せる
でしょう。

気候の変化も環境の変化も,理論や理屈の問題ではなく,私たちの日々の生活に密接に関連し影響を与えているのです。

日本経済の基幹は「物つくり」でしたが,今までそれは工業製品,先端技術製品を意味しました。

しかし,世界は食糧不足の時代に入り,お金を払えば必要な食糧が買える時代は過ぎ去ろうとしています。

以前にも書きましたが,水,気温,日照という農業にとって最も重要は自然資源に恵まれた日本にとって「物つくり」の基本は農業
だと思います。

まずは自分たちで食べる物を確保できて,1人前の国家といえるのではないでしょうか。

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ジャーナリスト山本美香さんの死を悼む-紛争報道を考える-

2012-08-22 21:18:58 | 社会
ジャーナリスト山本美香さんの死を悼む-紛争報道を考える- 



 2012年8月の20日,日本はまだオリンピックの余韻にひたり,銀座では選手のパレードに50万人の人が集まっていました。

そんなお祭り気分の中で,突然,独立系通信社に所属する女性ジャーナリスト,山本美香さんが,
政府系民兵集団とみられる一団に銃撃され亡くなったという,ニュースが飛び込んできました。

この日,山本さんは反政府軍「自由シリア軍」に同行して北部のアレッポの取材委に向かう途中でした。

アレッポは両勢力が掌握を目指して,激しい戦闘を繰り返していた都市です。「自由シリア軍」は,
20日だけで150人が亡くなったと発表しています。
 
ほとんど秩序が崩壊し内戦状態にあるシリアで取材することがどれほど危険なことであるかは,美香さん本人が一番よく分
かっていたと思います。

実際,昨年の3月に民主化闘争が本格化してから,既に英紙の特派員3名が亡くなっています。

 しかも,武力では圧倒的に優位に立っている政府軍に抵抗している反政府軍に同行しての取材となれば,危険は飛躍的に高
くなります。

このような状況で紛争地域に取材で入ることについては,無謀だという見解と,危険だけれど必要だ(あるいは仕方ない)
という見解があります。

これら二つの見解のいずれが正しいかは,その戦場の状況によって異なるので,いちがいには言えません。

しかし,今回の山本さんのケースで言えば,危険ではありますが,フリーに近いジャーナリストの取材は,
やはり必要だと思います。少なくとも私には無謀だとは言えません。

というのも,現在のシリア政府は報道規制をしていて,シリア内部で起こっていることがほとんど外部に出てこないからです。

山本さんのような立場のジャーナリストは多くの場合,正規のビザも取材許可もとっていない不法入国ですし,何の保護も
ありません。

日本の大手の新聞記者は通常,シリア政府から正式な報道ビザを取得して現地入りします。

しかし,このような手続きを経て入国できたとしても,この場合には記者には情報省職員が同行するので,
自由な取材はできず,政府側に都合が悪いところは当然,取材できません。

 
山本さんは,大学院卒業後,CSテレビの「朝日ニュースター」の記者を経て,独立して事実上フリ-ランスとなった,
根っからのジャーナリストです。

おそらく,大手のメディアによる報道に限界があることを実感して,安定したメディアを離れたのだと思います。

現在のシリアのような状況で私たちが,何が起こっているかを知るためには,フリーや山本さんのような,
独立系のジャーナリストに頼らざるを得ないのです。

とりわけアサド政権は,生物・化学兵器の所有を公式に認めており,もし使用されたら,
はかり知れない犠牲者が出る可能性があります。

だからこそ,常に,事実を伝える監視の目が要なのです。

アサド政権は,生物・化学兵器を国民に対して使うことはない,と今は言っています。しかし,
状況が自分にとって不利になれば,それを反政府系勢力や,一般市民にたいして使わない保証はありません。

アサド大統領は,隣国イラクのサダム・フセインが処刑されたことを身近で知っているだけに,もし自分が負ければ,
どんな運命が待っているかをよく知っているはずです。

だから,自分の権力と支配体制を維持するためなら,どんなことでもやりかねないのです。

シリアは,国連の停戦監視団もついに撤退せざるを得ないほど危険何状態になっています。こうなると,
ますます外部の監視の目が必要になってきます。



戦争と報道という意味では,ベトナム戦争当時,女の子が裸同然で走って逃げ回る姿をとらえた写真が,
今でも鮮明に記憶に残っています。

この1枚の写真が,ベトナム戦争の悲惨さ,残酷さを告発する国際世論に大きな影響を与え,ピューリツァー賞を受賞し
ました。

山本さんが大学で行っていた講義の中で,なぜ戦場のような危険な場所で取材をするのかという問いに,
写真や報道が事態を伝え,それを変化させる可能性があるから,と答えています。

また,山本さんは,戦争の陰で犠牲になる女性や子どものことをいつも気づかっていました。

ここには,弱い者に対する温かな心と,命を賭して真実を伝えようとするジャーナリスト魂ともいうべき強い意志が現れて
います。

戦争報道とジャーナリストに関して,私には非常に辛く悲しい記憶があります。大学時代,同じ部活で一緒に山をやってい
た私の後輩が,ベトナム戦争当時,米軍のヘリコプターに同乗し,撃墜されて亡くなってしまったのです。

当時,多くのフリーランスのジャーナリストが,競って戦場に入って取材合戦を展開していました。
後輩の死を知ったとき,さまざまな「なぜ?」が心に浮かび,とても複雑な思いをしました。

 
ところで,今回の山本さんの訃報に接して,日本の原発事故報道のことが頭をよぎりました。

原発事故の報道と戦争報道とを一緒にすることはできませんが,ジャーナリストの側からみると,
取材に命をかけるという意味では共通性があります。

昨年の3月12日に最初の原発事故が確認され,政府は次々と非難地域の指定範囲を広げてゆきました。

4月21日には,原発から半径20キロから30キロ圏内は警戒区域とし,30キロ圏より外ならば,
放射能の心配はそれほどないとの発表をしていました。

この区域の線引きが本当に安全であったどうか,今の時点で考えれば疑問は残ります。
しかし,問題はそこにあるのではなく,その当時の大手メディアの対応です。

後に,上杉隆氏によってメディア各社の「内規」が明らかにされました。朝日新聞やその他の主要新聞は原発から50キロ,
時事通信に至っては60キロ圏内へ自社の記者が立ち入ることを規制する「内規」を出していました。

テレビでは,NHKが40キロ,民法は50キロ圏内への立ち入り禁止でした。

朝日新聞は自社の紙面では,政府が20キロから30キロ圏内を警戒区域にしたことに対してさえ,
放射線量は国際基準よりも低く危険はないのに,30キロまで警戒区域にする必要があるのか,と批判していたのです。

ところが,その裏で朝日新聞社は,自社の記者たちを,いち早く遠くへ退避させてしまうという矛盾した行動をとったのです。

実際に,より近い場所で実査に取材したのは,フリーランスや外国のジャーナリストたちだったのです。

朝日新聞は,もし,社員を50キロより遠くへ退避させるなら,紙面でもやはり,
住民の警戒区域を50キロまで拡大すべきであるという主張をするべきです。

また,現地のあるフリーの記者は,原発事故に関する捜査活動のビデオ撮りをNHKに頼まれ,
それを40キロ圏外まで届けさせられた,と証言しています。(以上,『週間文春』2011年5月GW特大号)

この場合でも,NHKは,放映する映像を誰ががどのようにして撮ったものであるかをはっきりと視聴者に伝えるべきで
しょう。

とうのも,もし映像が社員以外の第三者が撮ったものであったら,それはNHKの視点を反映したものとは限らないから
です。

大メディアが,社員を危険にさらすことができないという立場は,労働組合との関係もあり理解できないわけではありません。

しかし,取材を第三者に託したことを隠したまま,あたかも自社の記者が取材したかのように紙面の記事を作り映像を放映
するのは,ずるさを感じます。同時に,メディアとして倫理も気概も非常に弱いと思います。

こうした事情を考えると,山本さんの「自らの目で見た事実を伝えよう」というジャーナリスト魂がいっそう輝いてみえます。

元朝日新聞の記者だった美香さんの父親は,娘の訃報に接して泣きながらも,取材に答えて,

「娘は,紛争で最も犠牲になりやすい女性や子どもの生活を世界に知らしめることを一番に考えた
『ヒューマンジャーナリスト』だった。誇りに思っている」とコメントしています。

美香さんのジャーナリスト魂は,父親譲りのDNAなのかもしれません。
 
山本美香さんのご冥福を心より祈ります。
 
 そして,山本さんが気遣い続けた,女性や子ども達の犠牲がこれ以上増えないことを祈ります。

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ロンドン・オリンピック-男女のメダルを比べてみると-

2012-08-19 13:04:23 | 社会
ロンドン・オリンピック-男女のメダルを比べてみると-

 2012年7月27日の開会式から8月12日の閉会式まで17日間にわたって行われたロンドン・オリンピックが終わりました。

 今回のオリンピックで日本が獲得したメダル総数は38個で,アテネの37個より多い,史上最多です。

 メダルの中身についてはその都度くわしく報道されているので,ここでは,日本にとってのロンドン・オリンピックの成果を,
男女別のメダル獲得数という,通常の評価とはやや異なる視点から振り返ってみたいと思います。

 というのも,私のまったく個人的な印象ですが,どうも日本の女子選手方が男子選手より勢いがあったという印象をもったか
らです。

 これは単なる私の個人的な印象かもしれません。まず,獲得したメダルの数と内容をみましょう。

 比較のために,メダル獲得数がこれまで最も多かった2004年のアテネ・オリンピックの成績をみると,女子が18,男子が1
9個の計37個,内訳は金16(女子9,男子7),銀9(女子4,男子5),銅12(女子5,男子7)個でした。

 そして参考までに,前回の北京オリンピックでは女子13個,男子12個,合計25個,うち,金が9(女子5,男子4,),
銀6(女子2,男子4),銅10(女子6,男子4,)でした。

 以上を頭においておいて,今回のロンドン・オリンピックのメダルの内訳をみておきましょう。
  
      金      銀     銅    計
  女子  4      6     7   17
  男子  3     10    10   21
  計   7     16    17   38


 上に書いたように,男女別では女子17で男子21で,メダル数は男子の方が4個上回っていますが,金だけをみると,
女子が男子を1つ上回っています。

 これを,アテネ・オリンピックと比べてみると,メダル総数では今回の方が1つ多かったのに,金メダルの数をみると,
16個から7個へと半分以下になっています。

 男女別でみると,アテネの時は女子のメダル総数が18個,男子が19個でほぼ同数でしたが,金メダルでは,
女子は9個で男子は7個で女子が男子を2つ上回っていました。また,アテネでは,今回とちがい,男女とも柔道がメダル
の稼ぎ頭でした。

 ところで,今回のオリンピックを通して,日本の女子は男子より頑張った,という印象をもったのは私だけでしょうか?

 そこで,メダルの内容をもう少し細かくみてみましょう。まず,なんと言っても金メダルの獲得は私たちに強い印象を残
しますので,この種目をみてみると,

  女子の金メダルは
  松本 薫 (柔道 57キロ級)
  小原日登美(レスリング フリースタイル 48キロ級)
  吉田沙保里(レスリング フリースタイル 55キロ級)
  伊調 馨 (レスリング フリースタイル 63キロ級)

  男子の金メダル
  内村航平 (体操個人総合)
  村田諒太 (ボクシング 75キロ級)
  米満達弘 (レスリング フリースタイル 66キロ級)

となっています。

 金メダル男女合わせて7個のうち4つまでがレスリングのフリースタイルで,うち3つが女子でした。女子レスリングは,
アテネの時にも伊調姉妹と吉田選手を擁していて,日本が強い種目でした。

 しかし,私が「日本の女子は強い」という強烈な印象をもったのは,大会初日の柔道で松本選手が,
いきなり金メダルを獲ったことが大きく影響しています。

 松本選手について全く予備知識がなかった私は,入場の時からの,あの相手を射抜くような鋭い目つきと闘志を全面に出した
形相に,テレビを見ているだけなのに思わず体をのけぞらしてしまうほどの迫力を感じました。

 本当に,久しぶりに,日本人が忘れていた闘う意志,絶対に勝つという強い意志を見た思いです。

 松本選手の金メダルは,かつて日本のお家議芸とまでいわれた柔道で,男子が一つも金メダルを取れなかったことで,
余計に強烈なインパクトを与えました。

 実際,テレビで見ていると,男子の柔道は銀メダルを2つ獲っているのですが,結果はともかく,
むき出しの闘志や気迫に欠けていたような印象をうけました。

 こんなこともあって,男子柔道は,私の中では意外と印象が薄かったような気がします。

 今回,女子が金メダルをとった柔道もレスリングのフリースタイルも,直接に相手と組み合う格闘技でした。
日本人が世界レベルでトップに立ったのは,女子の格闘技だったのです。

 なお男子では,ボクシングの村田選手とレスリングの米満選手が日程の終盤で金メダルの獲得という事情もあって,
男子の格闘技種目で何とか面目保ちました。

 とりわけ村田選手の場合,この級のボクシングでは48年目の金メダルだったので,テレビなどでも盛んに取り上げ
られました。

 彼の場合,強いというイメージとは別に,妻の激励と支えが美談として彩りを添えました。

 次に,銀メダルに関して,私たちに強い印象を与えた種目を見てみましょう。銀メダルでは,
なんと言っても初の銀メダルを獲った女子サッカーが大きな注目を集めました。

 女子サッカーは,ワールドカップで優勝した実績があったので,今回のオリンピックでの「なでしこ」にたいする期待の大きさ
を反映しています。

 女子サッカーに対する期待と関心はテレビの視聴率にもはっきり表れています。決勝戦の日本対アメリカ戦は,
前半こそ19.4%でしたが後半は29.1%(いずれも関東地区)という驚異的な高さでした。ちなみに,視聴率が最も高かったのは,
女子サッカーの日本対スウェーデン戦の30%でした。

 男子のサッカーも,44年ぶりに4強に入ったという意味では素晴らしい成績だと思います。しかし,
こちらは,選手たちも観戦していた多くの日本人も,残念,悔しい,という思いの方が強かったようです。

 女子の卓球団体戦で日本は銀を獲得しましたが,何と,この種目でメダルは始めてです。しかも,今や国民的なアイドルと
なっている,「愛ちゃん」こと,福原愛選手のひたむきな姿と,決勝進出が決まった時の号泣の姿が,
見ている私たちも思わずもらい泣きしそうになるほど感動的でした。

 最後に女子バレーは,銅メダルながら,3位決定戦では大健闘し,28年ぶりにメダルを獲得しました。

この試合も,実に力の入った迫力満点の試合で,私は「女子は強い」,「女子はよく頑張った」という印象を一層強くもちま
した。

 以上,今回のオリンピック全体を通して,男女間でそれほど成果に圧倒的な差があるわけではないのに,
女子の強さを強く感じたのは私の個人的な偏見かも知れません。

 どうやらこの背景には,私が教師という職業をとおして,近年,女子学生の積極性,企画力や行動力に対して,男子学生
(ひょっとしたら多くの日本人男性)のひ弱さ,元気のなさを感じているという事情が反映しているようです。

 これは私の思い過ごし,杞憂であって欲しいと思います。

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憂鬱な数字-描きにくい将来の生活設計図-

2012-08-16 13:56:02 | 社会
憂鬱な数字-描きにくい将来の生活設計図―


 税と社会保障の一体改革と称して,実際には消費税の値上げの法案が,8月10日の参院本会議で、民主、自民、公明3党などの
賛成多数で可決、成立しました。

 既に衆議院では通過しているので,現行5%の消費税率は平成26年4月に8%、27年10月に10%へ2段階で引き上げられることが
最終的に決まりました。

 
法案成立に至る今回の政治決定プロセスは,民主・自民・公明3党の,談合としか言いようのない最悪の禁じ手です。

新聞やメディアの多くは,とにかく政治が決定した,自民と公明がよくぞ民主党に協力して事態を動かしてくれた,と評価していますが,
これはメディアとしての見識の無さを図らずも露呈してしまいました。


 物事は,決まればよい,と言うのものではありません。原発の再稼働にしても,オスプレイの受け容れにしても,直ぐに決め手はいけない
こともたくさんあるのです

もちろん,税と社会保障の一体改革にしても,さらに詰めるべき問題は山積みなのです。

今回の法案成立で問題なのは,社会保障については将来「国民会議」で議論する,ということで棚上げされてしまいました。

 これでは,税の負担だけが増えて,私たちの将来の生活がどうなるか,まったく示されていません。

 こんな不安な気持ちでいるとき,8月14日の『毎日新聞』(朝刊)を読んだ人は,我が目を疑い,唖然とし,そして最後に不安が入り
交じった深いため息をして肩を落としたのではないでしょうか。

 社会保障サービスの給付総額の差額を内閣府が試算したところ,2005年に90才の世代(存命なら今年で102)以上の人は1990万円の
「受け取り超過」になるのに対して,0才(今年で12才)の人は3500万円の「支払い超過」になります。

 そして,さらに恐ろしいのは,これから生まれてくる世代は1億800万円!!の支払い超過になるのです。これはもう,社会保障制度
とは言えませんね。
 
 全体を見渡してみると,「受け取り超過」になる世代は,2005年(平成12年)時点で80才以上,それ以下の世代は「支払い超過」
という恐ろしい現実があります。

 こんなにひどい状態になった要因の一つは少子化であることは間違いありません。

 高度経済成長期の1965年は,高齢者1人を9.1人で支える「胴上げ型」でした。これは,プロ野球で優勝した瞬間にチームのメンバーが
監督を持ち上げる,あのイメージです。

 しかし,現在は高齢者1人を2.5人で支える「騎馬戦型」,2050年には現役1.2人が高齢者1人を支える「肩車型」になってしまのです。

 この試算通りだと,これから生まれてくる子どもは,収入の半分以上を税金と社会保険料に吸い上げられてしまうことになります。

 これらの数字をみると,若い世代の人は,とてもバカバカしくて保険料など払う気はしない,と思うかも知れません。

 しかし,社会保障というのは,もともと現役世代が,現役を引退した高齢者を支える,世代間の助け合い,という性格の制度ですから,
これは仕方ありません。

それにしても,支える人と支えられる人の比率は,現実離れした状態です。

 それでは,消費税を上げることによって,この深刻な問題は解決するのでしょうか?残念ながら,そう簡単には解決できないのが現実です。

 まず,現在の社会保障に関する財政状態をごく大ざっぱにみておきましょう。

 消費税が10%になっても,毎年の増収分は13.5兆円です。これに対して,社会保障給付(実際に国民に支払われる年金,医療費など)は
平成23年度の109.5兆円から,25年度には148.9兆円に膨らむとみられています。

 単純に計算すると,今より毎年39.4兆円,社会保障給付が増えることになりますから,消費税の増収分(13.5兆円)があっても,
年間25.9兆万円足りなくなります。

この分は税金で補填(実際には赤字国債で借金)か,保険料やその他の税金を値上げすることで埋め合わせることになります。

現在でも,税金でまかなっている社会保障給付は財政を圧迫しているのに,今後はさらに厳しくなります。

 ちなみに平成23年度の社会保障給付の財源としては,国庫から27.8兆円,地方自治体から9.5兆円,資産からの収益9.5兆円,残りの58.7兆円が
国民の社会保険料(年金や医療保険料)でした。

 もちろん,消費税の増税がなければ,事態はさらに悪化しますが,消費背の増税をしても給付の増加分を埋めることはとうていできません。

では,なぜこんな状態になってしまったのでしょうか?これには,大きく4つの原因があると思います。

 一つは,言うまでもなく,少子化の影響です。上にみたように,給付を受ける人(支えられる人)に対して支える現役・若年層の数が極端に少なく
なっていることです。
 
 二つは,長期にわたる景気の低迷のため,給与所得も法人税も,税収全体が減っており,社会保障に回す分のゆとりがなくなっていることです。

とりわけ,若年層の失業率が7%台と,高くなっています。当然,彼らが本来なら支払う税金も社会保障料も減少します。

 三つは,長年にわたる政府と官僚による,国民財産の食いつぶしです。日本が高度経済成長を謳歌していた1960年代から80年代にかけては社会
保障料収入も順調で,その資金を,全国の保養所建設など,まるでお金をドブに捨てるような無茶苦茶な使いかたをしてきました。

 これは主として霞ヶ関の社会保険庁の官僚が自分たちの利権として,国民の財産を食いつぶしてきた結果です。このため,社会保障に回すお金が
なくなってしまったのです。

 四つめは,政府による長年の無駄遣いです。現在,国と地方自治体がかかえる債務は約1000兆円です。この償還と利払いが,国家予算の4分の1
を占めています。

 それでは,なぜこれほどの債務が増えてしまったのでしょうか? 実は,これらの大部分は,箱物行政と言われた,道路,橋,その他の箱物の
建設,「公共事業」のための赤字国債です。

 これまで,長い間の自民党政権の下で,地方も国会も,選挙のさいの票田を確保するため,選挙対策として地元に公共事業をもってくることを
大きな仕事としてきました。

 赤字国債の全てとは言いませんが,景気浮揚のためという口実で,自民党政権下の過去20年間,こうした公共事業に莫大なお金を使ってきましたが,
それでも景気憂浮揚にならないことはすで証明済みです。残ったのは借金だけです。

 このため,平成23年度でみると,一般会計の歳出総額92.4兆円のうち,なんと23%に相当する21.5兆円が,国債の償還と利払いなのです。

 国庫からの社会保障関連の歳出総額が27.8兆円であることを考えると,赤字国債の償還・利払いがなければ,その分社会保障へかなり予算を回せる
はずなのです。

ところが現在,自民党は「国土強靱化法案」を国会に提出し,それによれば200兆円の公共事業を行う,というとても正気の沙汰とは思えないことを
実行しようとしています。

 「夢よもう一度」ということでしょう。しかし,絶対に日本を再び「土建屋国家」にしてはいけません。

 それでは,私たち個人としてはどうすれば良いのでしょうか。もう国の給付は当てにならないので,国民年金の払い込みも止めて,資金を金融商品
で運用している若者もいます。

 しかし,これは個人にとってあまりにもリスクが大きくて誰でもできるわけではありません。対応策はいろいろ考えられますが,今回は一つだけ,
医療費について考えてみたいと思います。

 平成23年度に給付を受けた医療費給付総額は32.1兆円で,うち,国家予算から8.4兆円支出されました。残りは国民が払った健康保険料で賄われて
います。
 
 国家予算の3割に相当する金額が医療に使われているのです。

 高齢化が進む現在,医療費は増加の一途をたどっています。高齢者は医者や病院のお世話になる回数が増えることになります。しかし,全ての人は
いずれ高齢者になるのです。

 しかし,医療機関は,保険点数を増やすために,むやみに薬を処方することは控えるべきでしょう。風邪を引いただけで,山ほど薬を処方しますが,
やはりこれは異常ですし,家計も国の財政も圧迫します。


 収入は減り,税金は増え,社会保障給付は減り,年金支給開始年齢を引き上げる,という四重苦,五重苦状況の中で,将来の生活設計をたてることが
非常に難しくなっています。

 これに対して個人個人ができることは,それほど多くはありません。せめて,ちょっとしたことで直ぐに医者にいったり薬に頼ったりするのを,
少しだけ控えるだけで,家計も国庫もかなり負担が軽くなると思います。

 もちろん,医者のお世話にならないよう,普段から健康的な生活を営む心がけることが何より大切だと思います。

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「江戸文明」のその後-開国と明治維新は日本文化に何をもたらしたのか-

2012-08-12 20:01:47 | 思想・文化
「江戸文明」のその後-開国と明治維新は日本文化に何をもたらしたのか-


 ここまで,渡辺氏の『逝きし世の面影』をテクストとして,「江戸文明」について3回書いてきました。

私がこれほど江戸時代と「江戸文明」にこだわるのには幾つかの理由があります。

前回の記事で書いたように,渡辺氏は,「近代日本は古い日本の制度や文物を精算し,その上に建設されたのだが,その精算が
ひとつのユニークな文明の滅亡を意味したことは,十分に自覚されていない」(10ページ)と述べています。

この事実を鋭く自覚していたのは,むしろ同時代の異邦人たちでした。その代表的人物が,1873年(明治6年)から1905年(明治44年)
まで32年間日本に滞在した高名な日本研究者 バジル・チェンバレンでした。

チェンバレンは著書『日本事物誌』(1905)の中で「著者は繰り返し言いたい。古い日本は死んでしまった,そして若い日本の世の中に
なったと」(11ページ)断定しています。彼はこの本を古い日本の「墓碑銘」であると呼んだのです。

これはたんに,時代は移ったとか,日本は変わったという意味ではなく,ひとつの文明が死んだと言っているのです。

しかし渡辺氏は,当時も現代の日本人は,文明の滅亡を十分に自覚していないし,多くの日本人は,古い日本は伝統として残っている
と錯覚していることに警告を鳴らしているのです。

現代でも茶の湯・生花,羽根つき,凧が存在すしていることをもって「伝統」と呼ぶのは,なんとむなしい錯覚だろう」(16-17ページ)
とも書いています。

渡辺氏の著書は,在りし日の江戸文明を異邦人の目を通して再現し,そして,その個性のある文明が幕末・明治維新の変化によって死滅
したところで終わっています。

もしそうだとしたら,この文明の死滅をもたらした幕末・明治維新に何が起こったのか,そして,それはその後の日本の文化・文明に何を
もたらしたのでしょうか。

これらの疑問に答える前に,まず,ひとつの個性をもった「江戸文明」がどのように形成されたのか,あるいは,なぜ成立することが
できたのかという問題から考えてみます。

なお,ここで「江戸文明」とは必ずしも「江戸」という都市の文明という意味ではなく,「江戸時代の文明」という意味です。

 さらに渡辺氏の「文明」の定義(前回のブログで書きました)は,私の中では「文化」に相当しますので,以後は「江戸文明」ではなく
江戸時代の文化という意味で「江戸文化」という言葉を使うことにします。

さて,江戸文化を生み出したとはどんな時代だったのでしょうか。

江戸時代は徳川家康が1603年に江戸幕府を開いた時から1868年の明治維新までの約260年間です。

しかし,この260年という時間は,それ以前の時代とは少なくとも次の3点で大きく異なります。

第一点は,江戸時代には人々の生活を混乱させる戦がなく平和が続いたことです。江戸時代前の「戦国時代」は文字通り戦に明け暮れた時代
ですし,さらにそれ以前の鎌倉時代から室町時代までの376年も争いが絶えませんでした。

第二点は,平和が続いたこととも関連して,江戸時代には都市だけでなく農村地域でも農業や商工業が発達し,武士以外の民衆の生活にもある
程度の豊かさと安定をもたらしました。これは,さまざまな民衆文化を発展させました。

第三点は,江戸時代の大部分の期間は,鎖国を維持したことです。鎖国政策によりヨーロッパの影響を最小限にとどめ,武士だけでなく民衆の
文化を育むことができました。

以上の3点のどれが欠けても,個性ある江戸文化は成立しなかったでしょう。

これらの条件を壊してしまう新たな要素を持ち込みました。

まず,幕末には開国を迫る外国の圧力が日に日に強まり,まさに「太平の眠りを覚ます蒸気船,たった四はいで夜も眠れず」という状況で
日本中はパニックに陥りました。

これを契機に,国内は開国派と幕府維持派との戦争に突入し,1868年の戊辰戦争で前者が後者を一掃して新生明治政府が成立します。

しかし,間もなく西南戦争が勃発しました。

こうして,幕末・維新の戦争は,260年以上も続いた戦のない平和の時代に終止符を打ったのです。

次に,明治政府の基本戦略は「富国強兵」「殖産興業」でした。このため,ヨーロッパの科学技術,近代的工業が「和魂洋才」の名の下に全面的に
導入されました。

近代的工業は,たとえば製鉄所から生み出される鉄を使って軍艦や大砲を作り,軍事大国のへ道をサポートしました。

これと関連して見過ごせないのは,徴兵制度が導入されたことです。

経済・軍事以外の分野でも,議会制度,政党政治,教育制度,郵便制度,鉄道など次々とヨーロッパの制度を取り入れ近代化と西欧化を急ぎました。

文化の面でも,西洋絵画や文学,音楽,そして人の命を扱う新しい医療などの領域でヨーロッパ文化が怒濤のように日本社会の隅々に押し寄せた
のです。

社会的には,それまでの「士農工商」は廃止されましたが,新たな身分としてヨーロッパの貴族制度が創設されました。ヨーロッパ風のドレスに
身を包んで踊る「鹿鳴館」での舞踏会は,日本の上流社会がヨーロッパの上流社会を真似た象徴です。

こうしたなかで,「脱亜入欧」思想のように,日本はもはや遅れたアジアの一員ではなく,進んだヨーロッパの一員になるのだ,という欧化思想
が浸透してゆきます。まさに「文明開化」の時代に入ったのです。

しかし,全てが平和の中で進行したわけではありません。植民地獲得競争に乗り出した日本は,日清・日露戦争へと突き進んでいったのです。

これらの一連の変化は,日本の文化にどんな影響をもたらしたのでしょうか?

今まで戦争とは無縁だった一般の日本人は,地方の農民も含めて突然,兵士として駆り出され見知らぬ外国で殺し合うことを強制されるように
なったのです。

一方,物作りでは,製鉄所,造船所,織物工場など,以前の手工業の時代よりはるかに大規模な工場生産が始まりました。

そこで働く人たちも,その日の具合で仕事をしていた職人から,定時に出勤する労働者に代わりました。

以上の変化全てが,日本人の「生活総体」(渡辺氏のいう「文明」)を徐々に,しかし,決して後戻りできない方向に変えていったのです。

他国との戦争,徴兵,工場労働,公教育,選挙や政党政治が浸透するにつれ,平和で,屈託なく生活し,チマチマと小さな物事に美意識を感じ,
貧しいながらも笑いに満ちていた日本人から笑みが消えてしまいました。

そして「妖精が棲むおとぎ話の国」は消滅し,厳しい生存競争にさらされた人々は,緊張の中で眉間に皺を寄せ,まなじりを決して生活するように
なったのです。

幕末・維新の時代に日本にいたヨーロッパ人は,彼らの祖国がたどってきた歴史を十分に知っていたので,開国と明治維新による西欧文化の流入が
もたらすであろう,古い日本文化の危機を敏感に感じ取っていたのです。

日本は古くから中国・朝鮮から仏教をはじめ,政治制度や絵画,詩歌,漢方医学など数え上げればきりがないほど多くの文物を輸入してきました。
しかし,それらはおおむね東洋的文明の範囲のもので,日本人にはそれほど違和感がありませんでした。

しかし,幕末・明治以降に入ってきた西洋的な科学技術,個人主義思想,合理主義などは,日本人にはなじみのない,それまでとは全く異質な文化
でした。

ところで渡辺氏は確かに,古い日本人の文化(「江戸文化」)の死滅を確認しましたが,それ以後日本の文化がどうなったのかについては語って
いません。

ただ彼は,「日本人は古い文化は明治末期には死滅したことを十分に自覚していない」,という重要なメッセージは残しています。

私たちは,安易な「伝統」の復活ではなく,新たな状況のもとで,もう一度「個性ある日本文化」の創造に向かう必要に迫られています。

そうしないと,日本人はアイデンティティを確立できないまま根無し草のように漂流することになってしまいます。これこそ渡辺氏が本当に
言いたかったことではないでしょうか。

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「江戸文明」の終焉?-外国人が見た江戸文明の残光-

2012-08-10 09:42:36 | 思想・文化
「江戸文明」の終焉?-外国人が見た江戸文明の残光- 


 江戸期に日本を訪れた外国人が書き残したさまざまな文章からみると,江戸時代の庶民は,実にゆったりと,屈託なく,笑みを浮かべて,
チマチマとした小さなこととに美意識を見いだしながら平和のうちに生きていた様子が伝わってきます。

長崎海軍伝習所の教育隊長を2年務めたオランダ人,カッティンディーケ(1816-66)が,咸臨丸の航海練習を指揮して,1856年(安政5年)に
鹿児島を訪問した際のことでした。「妙かにすき透るような薄物のあでやかな夏着に,房ふさとした黒髪を肩に垂れた」女たちを見て部下の
水兵たちはカッティンディーケに,

「こんな場面に出会わしたことはない。もう,ここへ錨をおろして,どこへも出航したくない」と耳打ちしました。(342-43)

これは,男性が日本女性の虜になった特別な事例のようにもとれますが,全体の文脈でいうと,彼らにとってまったく異質な日本という世界
に触れて,多くの外国人と同様,身も心もすっかり日本に魅せられてしまったのです。

しかしこの当時すでに,ヨーロッパの「近代文明」が持ち込まれ開国の圧力にさらされていた日本の将来に危惧を抱いていた外国人もいまいた。

下田の玉泉寺のアメリカ領事館に赴任したタウンゼント・ハリス(1804-78)は,1856年の領事館開設日の日記に「厳粛な反省-変化の前兆-疑い
もなく新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福となるだろうか」と記しています。(13ページ)

この時,ハリスは日本に滞在してわずか2週間しか経っていませんでしたが,日本の根本的な変化を予感していたようです。

ただし彼はまだ,何がどう変わろうとしているのかを具体的に分かっていたわけではありませんでした。

これにたいして,ハリスの通訳として江戸で幕府と交渉していたヘンリー・ヒュースケン(1832-61)は1857年,ハリスより具体的に日本の変化
を記しています。

「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにおまえのための文明なのか。

この国の人々の質僕な習俗とともに,その飾りけのなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見,いたるところに満ちている子どもたちの愉しい
笑い声を聞き,そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は,おお,神よ,この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており,
西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない。」(14ページ)

日本語を話し日本をよく知っていたヒュースケンは,ヨーロッパ世界が日本にもちこもうとしていた近代的なるも(彼の表現を使うと「悪徳」)が,
すでに日本という幸福な国に,終わりをもたらそうしていることを肌で感じていたようです。

前出のオランダ人カッティンディーケも同様に,

    私は心の中でどうか,今一度ここに来て,この美しい国をみる幸運にめぐりあいたいのだとひそかに希った。しかし同時に私はまた,
    日本はこれまで実に幸福に恵まれていたが,今後はどれほど多くの災難に出会うかと思えば,恐ろしさに耐えられなかったゆえに,
    心も自然に暗くなった。

と危機感を表しました(15ページ)

彼は,自分がこれから日本にもたらそうとしている文明が,日本古来のそれよりいっそう高いものであることに確信をもっていましたが,それが,
「果たして一層多くの幸福をもたらすかどうか」自信がなかったのです。

おそらく彼は,西洋式海軍の訓練指導者として,これから日本が世界で戦争に巻き込まれたり仕掛けたりしてゆくようになると,今の幸福が消えて
しまうのではないかという不安を抱いたのでしょう。

カッティンディーケの下で医師として働いていたポンペ(1829-1908)は,別の観点から,日本の危機をさらに具体的に把握していました。

ポンペには,日本に対する開国の強要は,十分に調和のとれた政治が行われ国民も満足している国に割り込んで,「社会組織と国家組織との相互関係
を一挙に打ちこわすような」行為に見えたのです。

また,1856年(安政2年)に下田に来航したプロシャのリュードルフは,

「日本人は宿命的第一歩を踏み出した。しかし,ちょうど,自分の家の礎石を一個引きとったと同じで,やがては全部の礎石が崩れ落ちることになるであろう。
そして,日本人はその残骸の下に埋没してしまうであろう」と日本社会が根底から崩壊してしまうのではないかと感じました。(15-16ページ)

これら外国人が「感じた」日本の将来にたいする予感は,今の時点から考えると,非常に鋭い洞察だったといえます。

ここで,ヨーロッパ人がなぜ,江戸時代の日本をこれほどまでに,微笑みの国,美しく,礼節を尊び,妖精が住む幸せな国として賞賛したのかを少しだけ
考えてみたいと思います。
  
幕末の19世紀後半といえば,ヨーロッパ世界では産業革命が浸透し,多くの人々が工場労働者として過酷な労働に従事させられ,貧困が蔓延し,労働者と
資本家との対立も激しく,社会は常に緊張に満ちていました。

このような背景を考えると,当時の日本はヨーロッパ人目には,いかにもゆったりとした幸せに満ちた国に見えたのでしょう。
 
ところで,『逝きし世の面影』の著者,渡辺氏は,政治社会的変化よりも,文化・文明の変化に注目しています。

彼によれば,幕末の日本にいた外国人が見た「江戸文明」とは,江戸盛期の文明というより,その「残光」であり,それは徐々に死に向かいはじめていた
のです。

本のタイトルの「逝きし世」とは死滅しつつある江戸文明のことであり,彼は幕末明治に見られた「美しく幸福な」日本の姿は,江戸文明の「残光」,
すなわち「面影」だったと言いたいのです。

「江戸文化」という表現は一般的ですが,江戸「文明」とはあまり言いません。ただ,渡辺氏は「文明」にたいして独特の定義をしています。

彼は「文明」を「歴史的個性としての総体のありようである。ある特定のコスモロジーと価値観によって支えられ,独自の社会構造と生活様式を具体化し,
それらのありかたが自然や生き物との関係にも及ぶような,そして食器から装身具にあたる特有の器具類に反映されるような,そういう生活総体」
と定義します。(10ページ)

つまり,文明とは,歴史のある時代に成立していた,精神的・物質的な生活総体ということです。この定義はむしろ「文化」と呼んだ方が適切かも知れませんが,
ここでは彼の定義にしたがって考えることにします。

これにたいして「文化」とは,知的訓練を従順に受けいれる習性,国家と君主に対する忠誠心,付和雷同を常とする集団行動,外国を模範として真似するという
国民性の根深い傾向,など,「民族的特性」と呼ぶものである,と定義されています。これは非常に変化しにくく持続する性質を持っています。

文明が歴史的な存在であることから渡辺氏は,「歴史は滅びるが,文化は滅びない,ただ変容するだけだ」と繰り返し述べています。

 さて,渡辺氏は上に定義した意味で,18世紀初頭から19世紀にかけて存続したわれわれの祖先の生活は,確かに文明の名に値した,と考えます。

 続いて彼は,「近代日本は古い日本の制度や文物を精算し,その上に建設されたのだが,その精算がひとつのユニークな文明の滅亡を意味したことは,
十分に自覚されていない」と考えています。

 さらに,「明治以降も,近代以前の文明は変貌しただけで,同じ日本が時代の装いを替えて今日も続いていると,おめでたくも錯覚しているのではあるまいか」,
とも述べています。ここは,私も含めて多くの日本人は「錯覚」している点かもしれません。

「江戸文明」は幕末には死滅に向かい,その余韻は昭和前期においてさえまだかすかに認められるにせよ,明治末期にはその滅亡がほぼ確認されたとされます。

文明というのは,個々の事象を関連させる意味の総体的な枠組なので,たとえ超高層ビルの上に稲荷が祀られようが,茶の湯・生け花が現代まで続いていようが,
それらは新たな寄せ木細工の一部として現代文明的な意味関連のうちに存在させられているにすぎない,ということになります。(16ページ)

もう少し分かり易くいえば,かつて存在した羽根つきは今も正月に見られる羽根つきではなく,かつて江戸の空に舞い上っていた凧は今も東京の空を舞うことのある
凧とは同じではない,ということです。

江戸時代に晴れ着を着て,新年を祝うワクワクするような気持ちで子ども達が遊んだ羽根つきと現代の羽根つきとは意味合いがまったく異なります。

彼は日本人が好んで使う「伝統」という言葉にたいしても,「寄せ木細工の表す図柄が全く変化しているのだ。新たな図柄の一部として組み替えられた古い断片の
残存を伝統と呼ぶのは,何と虚しい錯覚だろう」,と強い口調で異議を唱えています。

それにして,もし,「江戸文明」という一つの文明が死滅した,ということを認めたとすると,これは私たちに重大な問題を突きつけることになります。

つまり,明治維新以降の日本の「文明」に何が起ったのか,という問題です。次回は,この問題を考えてみたいと思います

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妖精が棲むおとぎ話のような国-外国人の目に映った江戸期の日本

2012-08-06 11:23:15 | 思想・文化
妖精が棲むおとぎ話のような国-外国人の目に映った江戸期の日本- 


 「微笑みの国 日本」はどこへ, という前回の記事に続いて,今回は,江戸期の日本人は外国人の目にどのように映ったのかを,
渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社,平凡社ライブラリー,初版2005年)を手掛かりに考えてみたいと思います。(以下のページ数は,
この本のページを示す)

著者の渡辺氏は,江戸時代と明治初頭に日本に滞在した外国人が書き残した膨大な著作を参考にして,当時の日本人および日本人の文化の
有り様を詳しく紹介しています。

もちろん,こうした資料に基づいて当時の日本を描くことにたいする批判もあります。つまり,外国人が日本または日本人を見る場合,
エキゾチズムから表面的な美点だけを見て,政治経済的な厳しい現実をみていないという批判です。

これにたいして渡辺氏は,ある文化の内部にいる人は,自文化について客観的にみることは難しい,むしろ「よそ者」の方がその文化をより
良く見ることができる,という人類学の経験を援用して,この方法の妥当性を主張します。

渡辺氏の方法的立場は,95人もの外国人が書き残した記録(日記,滞在記,旅行記などをまとめた著作)を参照しているのでいっそう説得力
があります。

以下に外国人は江戸期の日本と日本人の姿をどのようにとらえ,表現したのかを幾つか紹介しておきましょう。

1867年(慶応3年)に日本を訪れたフランス人の21才の青年,リュドヴィック・ボーヴォワル(1846-1929)にとって,日本は妖精風の小人国だった。
少し長くなりますが,とても具体的に書いているので,その部分を引用しておきます。

    街行く「殿様」(「侍」のことか?)をみると,その腰には「あらゆる異様な小道具がぶら下がっている」。火打ち石,ほくち,
    煙管などの「喫煙用の複雑な道具」で,煙管の火皿は娘の指ぬきの半分ぐらい,「模造皮の煙草入れは,ほれぼれするような可愛い
    青銅製金具で閉じられている。
    当時西洋人が必ず案内された梅屋敷(亀戸の?)は「まさに地上における最も奇妙な庭園で,望遠鏡を逆さにして高いところから
    眺めた妖精の園」としか言いようがない。紫紅色や緑色をした一寸法師のような低木が,赤い魚のいる小さな池の上に枝をさしのべ,
    溝川には,鼠が一匹やっと通れるくらいの橋がかかり,「最後のトンネルと緑のアーチには兎が巣をつくるのがやっとだと思われた。
    (29ページ)

この青年は,見たままの姿を描き,感じたままを書き記しています。彼は「殿様」(おそらく「侍」)が腰の周りに「あらゆる異様なもの」を
じゃらじゃらとぶら下げている様子にとても興味を引かれたようです。しかし,そこには文化程度の低い日本人に対する軽蔑のような感情は
いっさいありません。

むしろ,喫煙用具は,あくまでも小さく,それでいて細かく繊細な,「ほれぼれするような」「可愛い」細工に感嘆しています。

彼は日本人の細かなも,小さな物に対する美意識に惚れ込んでさえいるのです。

渡辺氏は,「人間にとって政治経済的諸関係はたしかに,その中で生きねばならぬ切実な所与であろう。しかしそれに劣らず,いやあるいは
それ以上に,煙草入れや提灯やこまごました飾りものは,一個の人間にとって生の実質を満たす重要な現実なのだ」と述べています。

そしてそれをとおして私たちは「ある文明の肌ざわり」を再現できるのだ,とも言っています。(30ページ)

続いて梅屋敷の描写ですが,「一寸法師のような低木」とは,池の縁に植えられ,枝が池の水面に被さるようしつけられた松の木のことでしょう。
また,「鼠一匹がやっととおれる橋」とは日本庭園にはよくある丸い太鼓橋で,「トンネルと緑のアーチ」とは藤棚のようなものだと思われます。
それは「兎の巣がやっとの大きさ」だった。

これらを総合すると,このフランス人青年には,梅屋敷全体が,望遠鏡を逆さにして覗いたような,したがって全てが小さく見えるニチュアの
ように映ったようです。それはまるで,物語に出てくる小人と妖精が,ちまちまと,ままごと遊びをする箱庭のように感じたことでしょう。

江戸時代に日本を訪れた外国人の記録には,「こまごまとした」,「ちいさな」,「いとおしい」「可愛い」「妖精のような」といった表現が
随所に出てきますが,そうした言葉で現される姿が彼らの偽らざる印象であり,日本人の「現実」なのです。
 
もうひとつ,外国人が受けた衝撃は,日本人の無防備さと好奇心の強さです。とりわけ彼らは,日本の女性が裸を人前にさらすことを余り気に
しないことに,衝撃を受けました。

安政5年(1858年)に日英修好通商条約の締結のため来日したイギリス人使節団の一委員,シェラード・オズボーン(1822-75)は,江戸から川崎まで
馬の遠乗りをした夕方の帰り道に目撃した行水の様子を書き残しています。

    浴槽から踏み出し,たぶん湯気を立てて泣きわめいている赤児を前に抱いて,我々を見ようとかけ出してくるそのやりかたには,
    少々ぎょっとさせられた」とオズボーンは困惑を記しています。 (35ページ)

また,彼らが上陸した初日に,既に以下のような光景に遭遇していました。

    群衆の方は,興奮して夢中になっていた。・・肩に赤児をつるした母親たちが,その子のことなど気にかけず,走ってきて群衆に加わる。
    ・・・入浴中の男や女は,石鹸またはその日本的代用品のほかは,身にまとうものもないことを忘れて,戸口に集まっている。
    民衆は少なからず無秩序である。笑ったり,じろじろ眺めたり,また柵で止められるところまで,われわれと並んで走ってくる。(35ページ)

 
これらの記述から男も女も,外国人のような珍しいものにたいする好奇心を抑えきれず,裸のまま表に飛び出してしまった様子が,
手に取るようにわかります。そして,異人を見て,天真爛漫で無邪気にはしゃぐ民衆の雰囲気が生き生きと伝わってきます。

こうした江戸時代の身体感覚と現代の日本人の感覚と比較すると,とうてい同じ日本人とは思えないほど大きな違いがあります。

そして,いかにも屈託のない,自然児のような江戸庶民の日常の有り様は,緊張と不安人に満ちた現代の日本人のそれとは大きく異なります。

それにしても,現代と比べてはるかに貧しかったにちがいない江戸庶民が,なぜこれほど,屈託なく,無防備に生きてゆけたのでしょうか?

前回のブログ記事で,江戸末期から明治初期にかけて日本に滞在した外国人,また日本の東北を旅した外国人が,日本人はおしなべて貧しいけれど,
 どこへ行っても笑顔がみられたことを書きました。

この点は,江戸期の記録もまったく同じで,ほとんどの外国人がこのことに触れています。上に触れたオズボーンは「不機嫌でむっつりした顔には
ひとつとて出会わなかった」と言い,ボーヴォワルは「この民族は笑い上戸でこころの底まで陽気である」「日本人ほど愉快になり易い人種は殆ど
あるまい」と述べています。 (76ページ)

そして,貧困とくったくのない生活態度との関係について,明治9年に来日して大学の教員を務めたイギリス人は,東京の該当を描写した後で,
次のように述べています。

   上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。群衆のあいだでこれほど目につくことはない。彼らは明らかに世の中の苦労をあまり気にしていないのだ。
   彼らは生活のきびしい現実にたいして,ヨーロッパ人ほど敏感ではないらしい。西洋の都会の群衆によく見かける心労にひしがれた顔つきなど
   全くみられない。・・・彼ら老若男女を見ていると,世の中には悲哀など存在しないかと思われる。(77ページ)
 
人々が苦労や心労をあまり感じていないらしいことと関連すると思われる状況も合わせて記録されています。
一つは,ヨーロッパ人が日本に来て一様に驚くのは,乞食がいないことでした。

もちろん,全くいなかったとは思いませんが,長期滞在者の記録にも乞食がいないことに触れているのです。
これは,ヨーロッパ世界との対比で日本には極端に少なかったことを反映しているのかも知れません。

もう一つは,庶民の家に鍵がかかっていないことも外国人が驚きの眼で記録しています。この理由は,庶民は盗まれるほどの財産を
もっていなかったという事情があるのかもしれません。

英国商船の船長,ヘンリー・ホームズ(生没不詳)は安政6年(1859)に長崎に上陸した際,「家は通りと中庭の方向に完全に開け放たれている。
だから通りを歩けば視線はわけなく家の内側に入り込んでしまう。・・人々は何も隠しはしない。」ことに驚いた(256-57ページ)。

つまり,生活が近隣に対して隠さず開放されている,近隣には強い親和と連帯と相互信頼が生じていたのです。

こうした共同体的なつながりの他に,庶民はおしなべて貧しかったという事情が,貧しくても何の不満もなく,その日その日を比較的気楽に,
物事に思い煩うことなく暮らすことができたもう一つの理由ではないかと思います。

渡辺氏は,人々の生活状況について「簡素とゆたかさ」というい一章を設けて,江戸時代の都市だけでなく,農漁村の人々の暮らしぶりを
丹念に検証しています。

ここで,それらを詳しく紹介はしませんが,おおよそ,次のような表現につきると思います。

1861年春,オールコックは香港からの帰りに長崎から江戸まで陸路でたびをしましたが,その時農村地帯の通り,彼が見た日本人の生活ぶりを
つぶさに観察し,

   「村は貧しく見え,農民の家(そこには家具が全然ない)はまったく快適さを欠いていた」。にもかかわらず「人びとはみな,
    雨露をしのぐ屋根ばかりか,食べる米くらいは持っているぞといいたげな顔をしていた」(107ページ)

と記しています。

人々は決して経済的にゆたかではないが,簡素で清潔で,全体として満ち足りた生活を営んでいる,というコメントがもっとも一般的です。

私たちは,江戸時代の農民や庶民は封建制の圧政と税の重圧のもとで,貧困と苦悩にあえいでいたような印象をもっていますが,必ずしも
全ての地域が常にそのような状態であったわけではないという事を知っておく必要があります。

近年,ブータンの王様が提唱した「国民総幸福量」(GNPよりGNHを)についての議論が日本では盛んですが,すくなくとも,江戸時代
の庶民の有り様をみると,物質的な豊かさ(金銭や持ち物の量の多さ)と幸福(感)とは直接には関係ないことがわかります。

このように考えると,江戸時代の人びとが,なぜいつも笑いと笑顔をたたえ,屈託のない生活を営んでいたのかが分かります。

しかし,実は,江戸の末期の開国を経て明治に時代が移ると,日本社会は次第に変化してゆきます。次回は,開国,富国強兵,産業社会化などが,
日本という社会とどのように変えたかを,渡辺氏がいう,日本の「文明が終わった」という観点からみてみます。

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「微笑みの国 日本」はどこへ-外国人が見た幕末から明治の日本-

2012-08-02 23:46:23 | 社会
「微笑みの国 日本」はどこへ-外国人が見た幕末から明治の日本-


 最近の国内ニュースは,「いじめ」,ストーカー行為の末の殺人,男女関係を含む人間関係のもつれを原因とする殺人,金銭トラブル
からの殺人,経済苦からの自殺,孤独死などなど,暗くて,時には凄惨な事件を毎日のように伝えています。

また最近,首都圏の電車に乗っていると,人身事故があまりに多いことに驚きます。

事件や事故とは別ですが,私が使っている電車の中で,突然,大声で喧嘩が始まったのを何回か目撃しました。それも,ごく普通の
サラリーマン風の男性が,少し体が触れただけで大声で怒鳴ったり,ラッシュアワーの電車のドア付近で,乗る人と降りる人がぶつ
かっただけで,取っ組み合いの喧嘩になったりしたこともありました。

多くの人は疲れているのか,どことなく神経がピリピリしている感じがします。

電車の中の人も,町を歩いている人も,そして大人だけでなく子ども達もふくめて,最近の日本人から笑顔が消えて
しまったような気がします。

鬱病をはじめとして,さまざまな精神疾患や気分障害の増加も,昨今の日本人の精神状態が蝕まれていることを示しています。

上のような状況は首都圏だけの問題なのか,日本全体の状況なのかは分かりませんが,首都圏以外の地域でも,多かれ少なかれ
同様の問題を抱えています。

このように考えると,はたして現在の日本は幸せの国といえるだろうか,日本人は幸せな国民と言えるだろうか?

もちろん,いつの時代にも幸せな人もいれば,不孝な人もいる。だから,このような設問は,あまり意味がないのかも知れません。

ただ,江戸から明治に移るころまでの日本人は,明らかに現在の日本人とは違っていたことは確かです。


今年(2012年)2月に,NHKハイビジョンで,「にっぽん微笑みの国の物語」というタイトルで,二つのセミ・ドキュメンタリー番組
が放映されました。

一つは,明治11年に東北地方を旅したイギリス人女性,イザベラ・バード(1831-1904)が見た日本と,明治10年に東京大学の教師として
赴任したエドワード・モースが見た日本(この場合は東京が中心)の映像です。

NHKがどのような理由で,これらの映像をこの時期に放映したのかは分かりませんが,震災で大きな心の傷を負い,経済的にも不況
が日本社会をおおっていた背景を考えると,例え偶然であったとしても,まことにタイムリーだったと言えます。

バードは帰国後,この旅行記を出版しています。彼女は田舎の民家に泊めてもらいながら旅を続けたのですが,最初のうちは,民家の汚さ
とシラミなどがいる不潔さに驚き,民衆の貧しさを軽蔑のまなざしで見ていました。

しかし,その見方が次第に変化しました。彼女は,ヨーロッパの貧しさというのは,怠け者やアルコール中毒者などが陥る貧しさだが,
日本の貧しさはそれとは違うと考えるようになりました。

彼女は著作の中で,東北地方の人は「貧しくても暮らしを楽しんでいる」,また「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」
とも記しています。

実際,彼女が残した写真を見ると,人々は実に質素で,ぼろぼろの服を着ていますが,大人も子どももみんな笑顔で映っています。
これは決して,「やらせ」の写真ではありません。

また彼女は日本人を,子どもも大人も「満ち足りた穏やかな」生活をしており,日本独特の美徳や幸せ観をもち,礼儀正しく親切,
そして勤勉な人々であると絶賛しています。

さらに「この日出ずる国ほど安らぎに満ち,命をよみがえらせてくれ,古風な優雅があふれ,和やかで美しい礼儀が守られている国は,
どこにも他にはありはしないのだ」と手放しで褒めちぎっています。

彼女は山形県米沢から北上する途中の,田畑と山が織りなす風景を見て,これぞ「東洋のアルカディア(桃源郷)」とまで言っています。
バードがそこに見たものは,自然と調和した日本人の穏やかな生活ぶりだったのです。

エドワード・モース(1838-1925)は東京に住み,人々の暮らしを徹底的に観察し,そして,目に止まった生活用具を片っ端から買い集めました。
その中には,女性の髪を飾るクシやかんざし,ろうそく,団扇,キセル,その他ありとあらゆる生活用品や家具や調度品が含まれます。

ここには「優れた芸術作品を作る人がおり,それらの作品を楽しむ人があふれている」が,アメリカでは「大都市に行かなければ作る人も
鑑賞する人もいない」と述べています。

つまり,当時のアメリカ人の生活水準は日本人のそれよりずっと高かったのに,美術品を作り,またそれを楽しむ人ははるかに少なかった
ことを嘆いています。

しかしモースは,大らかで微笑みにあふれ,簡素で洗練された芸術品を庶民までも楽しむ文化も「この国のありとあらゆるものは,
日ならずして消えてしまうだろう」と予想しています。

モースは,明治初期にまだ残っていた「微笑みの国」は,古き良き日本の「最後の輝き」であろうと総括しています。
 
貧しくても人と人が助け合い,笑顔を絶やさなかった明治初頭の日本人を見て,当時の欧米の人たちは驚くのですが,他方でそのような日本が
近いうちに消えてゆくであろうという予想は見事に的中してゆくのです。

明治中期以降の日本は,産業社会化と個人主義化,競争の激化という大きな変化に直面してゆきます。それと共に,多くの日本人から微笑みが
消えてゆきます。

次回は,江戸末期から明治初期にかけての「微笑みの国」がどんな状況にあったかを,外国人の目を通して,もう少し詳しく紹介したいと思います。

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