フランシスコ教皇の訪日メッセージ―現代社会への警告―
フランシスコ・ローマ教皇が昨年11月23日から26日に日本を訪れました。教皇の訪日は
38年ぶり二度目です。今回のテーマはProtect All Life (全ての命を守るために)でした。
フランシスコ教皇(法王)は、アルゼンチン出身でヨーロッパ大陸以外の地域から選ばれた初
めての教皇です。就任以来、教皇の妻帯を認めるなど、数々の改革を推進してきました。
また、庶民派教皇としてどこに行っても人気があり、「ロックスター」との愛称もあります。
言うまでもなく、教皇とはキリスト教カソリック教会の頂点に立つ存在で、13億人ともいわ
れる世界のカトリック教徒の宗教的・精神的指導者です。
フランシスコ教皇は、宗教的発言だけでなく、時には政治的な強いメッセージを発しています。
とりわけ、核兵器と大量破壊兵器に対しては強い批判を繰り返してきました。今回の訪日に際
しても、忙しい日程を割いて長崎と広島を訪れました(注1)。
広島や長崎でのスピーチは感動的でとても大きな意義があったと思いますが、ここでは、11
月25日 東京文京区東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた「青年との集い」で「次世代
へのメッセージ」をテーマにとして行った教皇のスピーチです(2020年1月16日 NHKB
S1放送)について書きます。これはとても叡知に満ちたスピーチです。以下に特に私が感銘
を受けた個所を以下に引用します。
世界には物質的には豊かでありながらも 孤独に支配されて生きている人のなん
と多いことでしょう。私は、繁栄した、しかし顔のない社会の中で、老いも若きも多
くの人が味わっている孤独のことを思います。
自分にとって最悪と思う貧しさはなんだろう。自分にとっていちばんの貧しさはなん
だろうか。正直に考えれば気づくでしょう。 抱えている最大の貧しさは孤独であり。
愛されていないと感じることです。
こうした言葉の背後には、教皇が常に言っている、「未来を担う若者の、誰一人として見捨て
られてはいけない」という強い信念があります。
この時、日本語の通訳を行ったイエスズ会日本管区長のデ・ルカ・レンゾ神父は、教皇に随行
して次のように感じたという。
何百人何千人と会った中で、一人一人に向き合ってその人の気持ちを受け取ろうとす
る。それもやはり会った人たちもそれを感じていたんですね。教皇が一つのパフォー
マンスとして決められた人たちと会うよりは、(今、目の前にいる)この人との話を、
すこしでもそれを感じたい。私たちがみていてもそれを感じました。
私は子どもの頃、たまたま当時の家の事情でキリスト教(ロシア東方教会)と多少の縁があり、
また私はキリスト教(プロテスタント)の大学に勤めていましたが、私はキリスト教徒ではあ
りません。
しかし、教皇のこれまでのスピーチやメッセージには、特定の宗教を離れて、人間一般にたい
する普遍的な原点、あるべき姿、核兵器のような非人道的兵器に対する強い批判などに共感し
てきました。
上に引用した教皇のメッセージをもう一度、見てみましょう。
教皇が現代社会ついて強く感じている危機感の一つは、繁栄した顔のない社会の中で、老いも
若きも味わっている「孤独」です。
教皇は自分にとって最悪と思う「貧しさ」とは何かを問い、そして、それは「孤独」であり、
「愛されていないと感じること」だと言います。
つまり、「孤独」と「愛されていない」ことは教皇にとって、そして恐らく私たち全てにとっ
て「最悪」である、と言っているのです。
私たちは、このことを薄々感じてはいるものの、それをはっきり意識することは、あまりにも
厳しく辛いので、なるべく意識しないようにしているのが現実です。
実際、現代では、知り合いはたくさんいるかも知れませんが、本当の「友」と呼べる人は意外
と少ないのかも知れません。
だからこそ教皇は、わざわざ「正直に考えればわかるでしょう」と、現実を直視してごらんな
さい、と念を押しているのです。
この孤独は、物質的には豊かな「繁栄する」、「顔のない社会」の中でまん延しているという。
ここで「顔のない社会」とは、一人一人が独立した人間として、その人格や個性や尊厳が社会
のなかで尊重されることなく、あたかも無名の人間のようにしか認識されない社会です。
では、どうすれば良いのでしょうか。教皇は、その場では答えていませんが、彼はいたるとこ
ろでいろいろな表現で語り、そして実践しています。
つまり、自ら他人に寄り添い(他の人の言葉に耳を傾け、寄り添い)、他人を愛する(他人を
心から大切に思う)ことです。この場合の「愛する」とは、「隣人を愛せよ」というキリスト
教的な意味合いを含んでいますが、一般的な意味でも十分理解できます。
今回の教皇のスピーチを聞いていて、私は今から30年以上も前に、偶然、テレビでマザー・
テレサがアメリカの大学で行ったスピーチを思い出しました。
正確な言葉は覚えていませんが、マザー・テレサは、おおよそ次のような言葉で大学生に向か
って話し始めました。
私はこの度、アメリカに飢えをいやしにやって来ました。しかし、この「飢え」とは
パン一枚を求めるという意味の「飢え」ではありません。今、この国の多くの人は、
愛に対する“絶望的”な飢え”を抱えています(注2)。
当時私はマザー・テレサの名前や活動について多少は知っていましたが、この言葉を聞いたとき、
その洞察の鋭さに本当にショックを受けました。
マザー・テレサは愛に関する多くの言葉を残しています。たとえば、上に引用したスピーチに関
連した言葉として、「愛に対する飢えは、パンに対する飢えよりも、はるかに取り除くことが難
しいのです」あるいは「愛の反対は憎しみではなく無関心です」などがあります(注3)。
しかし、教皇とマザー・テレサが、現代社会、とりわけ先進国と言われる国々においてまん延し
ている深刻な事態の一つを「愛の欠如」したがって「孤独」である、という点を指摘しているこ
とは偶然ではありません。
というのも、二人とも現代社会が抱える深刻な病理である「愛の欠如」と「孤独」のさらにその
奥底では、他人に対する無関心、言い換えれば「自分さえ良ければ」「自分だけが大事」という
意識が支配的になっていることを見抜いているからです。
個人と個人の関係においても、無関心・愛の欠如・孤独は、いわば相互に密接に関連して、私た
ちの心を蝕みます。これが国家単位になると、国際紛争や対立、悪くすると戦争にまで発展して
しまいます。
残念ながら、今、世界では「アメリカ・ファースト」に象徴される露骨な自国第一主義が横行し
つつあり、保護貿易主義や移民や外国人に対する排斥などが強まっています。
また、国際的な貧富の格差が大きくなっていますが、それを少しでも平等化しようとする動きは
ありません。
他方で、国内においても、貧富の格差はますます大きくなっていますが、たとえば現在の日本を
見れば、大企業や富裕層などごく一部の特権層は税制やその他の制度で守られている反面、普通
のサラリーマン、中小企業の経営者やそこで働く人たち、福祉施設で働く人たち、社会的・経済
的弱者にたいする配慮は、むしろ後退しています。
国際的には豊かな国と貧しい国、国内的には本の一部の豊かな階層と大多数の貧しい人びととの
分断が進行しており、互いに思いやる感情は希薄です。
このような分断された社会状況の中で、特権層ではない多くの人は、老いも若きも将来に希望を
もてないまま孤立し、孤独にさいなまされているように私には感じられます。
「自国第一主義」との対応でいえば、分断された社会では「自分第一主義」がじわじわと、しか
し着実に進行し個人と社会を蝕んでいるようです。
今から20年ほど前の2000年ころから、私は上に書いたような問題に危機感を感じ始め、そ
れをまとめて2005年に『関係性喪失の時代―壊れてゆく日本と世界―』(勉誠出版、2005)
というタイトルで出版しました。
そこでは、現代の社会的病理の根底に、人と人、人と自然、との間の関係性が壊れてしまったと
いう状況があることを指摘しています。
大切なことは、自分以外の人や自然に、そして政治や社会にも関心をもち、もう一度関係性を取
り戻す努力をすることではないでしょうか?
そうしないと、自分も政治も社会も閉塞状況から抜け出せないと思います。
今回の教皇が訪問中に発したメッセージをどりつつ、私は以上のような感想を持ちました。
(注1)長崎でのスピーチに関しては、さし当り『日経新聞』(デジタル)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52551350U9A121C1000000/?n_cid=DSREA001 を参照。
広島でのスピーチに関しては『日経新聞』(デジタル)2019/11/23 17:32 (2019/11/23 20:27更新)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52544370T21C19A1MM8000/?n_cid=DSREA001を参照。
(注2)違っているかもしれませんが、この時のスピーチで私の頭に残っている英語は、”desparate hunger for love”だったような気がします。
(3)マザー・テレサの言葉集はインターネットで簡単に見つけられます。たとえば、
https://iyashitour.com/archives/21434#page1 やhttps://iyashitour.com/meigen/greatman/mother_teresa を参照。
フランシスコ・ローマ教皇が昨年11月23日から26日に日本を訪れました。教皇の訪日は
38年ぶり二度目です。今回のテーマはProtect All Life (全ての命を守るために)でした。
フランシスコ教皇(法王)は、アルゼンチン出身でヨーロッパ大陸以外の地域から選ばれた初
めての教皇です。就任以来、教皇の妻帯を認めるなど、数々の改革を推進してきました。
また、庶民派教皇としてどこに行っても人気があり、「ロックスター」との愛称もあります。
言うまでもなく、教皇とはキリスト教カソリック教会の頂点に立つ存在で、13億人ともいわ
れる世界のカトリック教徒の宗教的・精神的指導者です。
フランシスコ教皇は、宗教的発言だけでなく、時には政治的な強いメッセージを発しています。
とりわけ、核兵器と大量破壊兵器に対しては強い批判を繰り返してきました。今回の訪日に際
しても、忙しい日程を割いて長崎と広島を訪れました(注1)。
広島や長崎でのスピーチは感動的でとても大きな意義があったと思いますが、ここでは、11
月25日 東京文京区東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた「青年との集い」で「次世代
へのメッセージ」をテーマにとして行った教皇のスピーチです(2020年1月16日 NHKB
S1放送)について書きます。これはとても叡知に満ちたスピーチです。以下に特に私が感銘
を受けた個所を以下に引用します。
世界には物質的には豊かでありながらも 孤独に支配されて生きている人のなん
と多いことでしょう。私は、繁栄した、しかし顔のない社会の中で、老いも若きも多
くの人が味わっている孤独のことを思います。
自分にとって最悪と思う貧しさはなんだろう。自分にとっていちばんの貧しさはなん
だろうか。正直に考えれば気づくでしょう。 抱えている最大の貧しさは孤独であり。
愛されていないと感じることです。
こうした言葉の背後には、教皇が常に言っている、「未来を担う若者の、誰一人として見捨て
られてはいけない」という強い信念があります。
この時、日本語の通訳を行ったイエスズ会日本管区長のデ・ルカ・レンゾ神父は、教皇に随行
して次のように感じたという。
何百人何千人と会った中で、一人一人に向き合ってその人の気持ちを受け取ろうとす
る。それもやはり会った人たちもそれを感じていたんですね。教皇が一つのパフォー
マンスとして決められた人たちと会うよりは、(今、目の前にいる)この人との話を、
すこしでもそれを感じたい。私たちがみていてもそれを感じました。
私は子どもの頃、たまたま当時の家の事情でキリスト教(ロシア東方教会)と多少の縁があり、
また私はキリスト教(プロテスタント)の大学に勤めていましたが、私はキリスト教徒ではあ
りません。
しかし、教皇のこれまでのスピーチやメッセージには、特定の宗教を離れて、人間一般にたい
する普遍的な原点、あるべき姿、核兵器のような非人道的兵器に対する強い批判などに共感し
てきました。
上に引用した教皇のメッセージをもう一度、見てみましょう。
教皇が現代社会ついて強く感じている危機感の一つは、繁栄した顔のない社会の中で、老いも
若きも味わっている「孤独」です。
教皇は自分にとって最悪と思う「貧しさ」とは何かを問い、そして、それは「孤独」であり、
「愛されていないと感じること」だと言います。
つまり、「孤独」と「愛されていない」ことは教皇にとって、そして恐らく私たち全てにとっ
て「最悪」である、と言っているのです。
私たちは、このことを薄々感じてはいるものの、それをはっきり意識することは、あまりにも
厳しく辛いので、なるべく意識しないようにしているのが現実です。
実際、現代では、知り合いはたくさんいるかも知れませんが、本当の「友」と呼べる人は意外
と少ないのかも知れません。
だからこそ教皇は、わざわざ「正直に考えればわかるでしょう」と、現実を直視してごらんな
さい、と念を押しているのです。
この孤独は、物質的には豊かな「繁栄する」、「顔のない社会」の中でまん延しているという。
ここで「顔のない社会」とは、一人一人が独立した人間として、その人格や個性や尊厳が社会
のなかで尊重されることなく、あたかも無名の人間のようにしか認識されない社会です。
では、どうすれば良いのでしょうか。教皇は、その場では答えていませんが、彼はいたるとこ
ろでいろいろな表現で語り、そして実践しています。
つまり、自ら他人に寄り添い(他の人の言葉に耳を傾け、寄り添い)、他人を愛する(他人を
心から大切に思う)ことです。この場合の「愛する」とは、「隣人を愛せよ」というキリスト
教的な意味合いを含んでいますが、一般的な意味でも十分理解できます。
今回の教皇のスピーチを聞いていて、私は今から30年以上も前に、偶然、テレビでマザー・
テレサがアメリカの大学で行ったスピーチを思い出しました。
正確な言葉は覚えていませんが、マザー・テレサは、おおよそ次のような言葉で大学生に向か
って話し始めました。
私はこの度、アメリカに飢えをいやしにやって来ました。しかし、この「飢え」とは
パン一枚を求めるという意味の「飢え」ではありません。今、この国の多くの人は、
愛に対する“絶望的”な飢え”を抱えています(注2)。
当時私はマザー・テレサの名前や活動について多少は知っていましたが、この言葉を聞いたとき、
その洞察の鋭さに本当にショックを受けました。
マザー・テレサは愛に関する多くの言葉を残しています。たとえば、上に引用したスピーチに関
連した言葉として、「愛に対する飢えは、パンに対する飢えよりも、はるかに取り除くことが難
しいのです」あるいは「愛の反対は憎しみではなく無関心です」などがあります(注3)。
しかし、教皇とマザー・テレサが、現代社会、とりわけ先進国と言われる国々においてまん延し
ている深刻な事態の一つを「愛の欠如」したがって「孤独」である、という点を指摘しているこ
とは偶然ではありません。
というのも、二人とも現代社会が抱える深刻な病理である「愛の欠如」と「孤独」のさらにその
奥底では、他人に対する無関心、言い換えれば「自分さえ良ければ」「自分だけが大事」という
意識が支配的になっていることを見抜いているからです。
個人と個人の関係においても、無関心・愛の欠如・孤独は、いわば相互に密接に関連して、私た
ちの心を蝕みます。これが国家単位になると、国際紛争や対立、悪くすると戦争にまで発展して
しまいます。
残念ながら、今、世界では「アメリカ・ファースト」に象徴される露骨な自国第一主義が横行し
つつあり、保護貿易主義や移民や外国人に対する排斥などが強まっています。
また、国際的な貧富の格差が大きくなっていますが、それを少しでも平等化しようとする動きは
ありません。
他方で、国内においても、貧富の格差はますます大きくなっていますが、たとえば現在の日本を
見れば、大企業や富裕層などごく一部の特権層は税制やその他の制度で守られている反面、普通
のサラリーマン、中小企業の経営者やそこで働く人たち、福祉施設で働く人たち、社会的・経済
的弱者にたいする配慮は、むしろ後退しています。
国際的には豊かな国と貧しい国、国内的には本の一部の豊かな階層と大多数の貧しい人びととの
分断が進行しており、互いに思いやる感情は希薄です。
このような分断された社会状況の中で、特権層ではない多くの人は、老いも若きも将来に希望を
もてないまま孤立し、孤独にさいなまされているように私には感じられます。
「自国第一主義」との対応でいえば、分断された社会では「自分第一主義」がじわじわと、しか
し着実に進行し個人と社会を蝕んでいるようです。
今から20年ほど前の2000年ころから、私は上に書いたような問題に危機感を感じ始め、そ
れをまとめて2005年に『関係性喪失の時代―壊れてゆく日本と世界―』(勉誠出版、2005)
というタイトルで出版しました。
そこでは、現代の社会的病理の根底に、人と人、人と自然、との間の関係性が壊れてしまったと
いう状況があることを指摘しています。
大切なことは、自分以外の人や自然に、そして政治や社会にも関心をもち、もう一度関係性を取
り戻す努力をすることではないでしょうか?
そうしないと、自分も政治も社会も閉塞状況から抜け出せないと思います。
今回の教皇が訪問中に発したメッセージをどりつつ、私は以上のような感想を持ちました。
(注1)長崎でのスピーチに関しては、さし当り『日経新聞』(デジタル)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52551350U9A121C1000000/?n_cid=DSREA001 を参照。
広島でのスピーチに関しては『日経新聞』(デジタル)2019/11/23 17:32 (2019/11/23 20:27更新)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52544370T21C19A1MM8000/?n_cid=DSREA001を参照。
(注2)違っているかもしれませんが、この時のスピーチで私の頭に残っている英語は、”desparate hunger for love”だったような気がします。
(3)マザー・テレサの言葉集はインターネットで簡単に見つけられます。たとえば、
https://iyashitour.com/archives/21434#page1 やhttps://iyashitour.com/meigen/greatman/mother_teresa を参照。