玉木雄一郎氏「尊厳死の法制化」発言の軽さと危うさ
今回の選挙の公示を前の10月12日に、日本記者クラブ主催の7党党首討論も行われました。
私もその模様をテレビでみていました。
そこでは各党の経済政策、安全保障問題、社会保障問題など多岐にわたる問題が議論され
ました。
その中で、私は国民民主党代表の玉木雄一郎氏の、社会保障、高齢者医療、尊厳死に関す
る発言に、疑問が次々と湧いてきました。とりわけ「尊厳死の法制化」については非常に
驚くとともに恐怖を覚えました。
以下に、日々現場で高齢者医療医に取り組んでいる木村 知医師の批判を手掛かりに、玉木
代表の発言の問題点を検討しましょう。
木村医師がもっとも恐怖に震えたのは国民民主党の玉木代表の以下の言葉でした(注1)。
社会保障の保険料を下げるためには、われわれは高齢者医療、とくに終末期医療の見直し
にも踏み込みました。尊厳死の法制化も含めて。こういったことも含め医療給付を抑え、
若い人の社会保険料給付を抑えることが、消費を活性化して、つぎの好循環と賃金上昇を
生み出すと思っています。
つまり玉木代表の発言は、高齢者医療、とくに終末期医療には金がかかるから、その医療
費を削って、その分、若い人の社会保険料を少なくし、彼らの消費を活性化して景気を向
上させようとしている、と読み取れるからです。
というのも玉木代表は、若者の社会保険の負担を低くして手取りを増やすことで、彼らの
支持を得ようとすることを党の戦略としているからです。
しかし、社会保険の負担の問題は、防衛費なども含めた国家予算編成全体の中で解決すべ
きで、この問題を選挙で若者世代の支持を得る宣伝材料に利用するのは筋違いです。
実際、この時の玉木氏の主張に恐怖を覚えたのは木村医師だけではありませんでした。S
NSには「姥捨山だ」「優生思想だ」として、玉木代表を批判する意見が溢れました。理由
は後述しますが、この主張はまさに「優生思想そのもの」であるとの意見がよせられ、木
村医師もSNSで批判を展開したという。
ここまで多くの批判を受けるとは思っていなかった玉木代表はあわてて
尊厳死の法制化は医療費削減のためにやるのではありません。本人の自己決定権
の問題なので、重点政策の中でも、社会保険料削減の項目ではなく、あえて、人
づくりの項目に位置づけています
とのコメントをSNSに投稿し、「尊厳死は自己決定権の問題」であることを繰り返し強調
しました。
また、2024年9月20日の国民民主党の代表記者会見での映像も引用し、あくまでも尊厳死
の法制化は医療費や社会保険料負担の軽減が目的ではないとの考えを強調、必死に「火消
し」に走りました。
しかし「しまった!」と思ってどんなに火消ししようとも、一度口から出てしまった言葉
は飲み込めません。無かったことにはできないのです。とくに政治家、しかも公党の党首
の言葉です。発言時間が短かったからなどとの言い訳もまったく通用しません。
上記の発言は明らかに「若者をつぶすな」との勇ましい言葉を掲げての高齢者医療、終末
期医療の見直し、高齢者を若者の生活に負担と迷惑をかけている象徴として攻撃目標にす
え、若者そして現役世代の票を獲得することを目的としているからです。
しかも、同党の政策パンフレットにも「現役世代・次世代の負担の適正化に向けた社会保
障制度の確立」との大項目のなかに「(13)法整備も含めた終末期医療の見直し」という
小項目が立てられており、そこには「人生会議の制度化を含む尊厳死の法制化によって終
末期医療のあり方を見直し、本人や家族が望まない医療を抑制します」との記載がありま
す。
木村医師は、
何回読んでも、社会保障の財源を語る文脈のなかで終末期医療の見直しと尊厳死
の法制化に言及している。これは誰も否定はできまい。玉木代表をいくら擁護し
ようと試みても、言い間違えレベルのものではなく、確固たる信念に基づいたポ
リシーを述べたものであるとしか解釈し得ない。
と、玉木代表の発言が、確固たる同党の基本戦略であることを指摘しています。
このように見てくると、やはり党首討論での玉木代表の主張は言い間違えなどではなく、
「尊厳死の法制化によって終末期医療のあり方を見直す」のは、やはり「現役世代・次世
代の負担の適正化」のためだったのであることが明らかになります。
すると、玉木代表に国民民主党の政策は、社会にとって役立つ者を「優」としそれらに負
担をかける者を「劣」とする人の価値に優劣をつける思考に依拠するものであることは、
誰の目にも明らかです。
この思考に基づいた政策こそが、もっともわかりやすく「優生思想」を「見える化」した
ものなのです。
どうやら国民民主党には、経済効率至上主義と、人間を経済的に「役に立つ者」と「負担
となる者」に分ける優生思想がその根っこにあるようです。
そこまで言わなくても、国民民主党の党員や支持者は、玉木代表の発言や政策パンフレッ
トの謳い文句に何の違和感も感じていないということになります。
なお、この党のパンフレットに出てくる「人生会議」(アドバンス・ケア・プランニング=
ACP)とは、日本医師会の資料によれば「将来の変化に備え、将来の医療およびケアにつ
いて、本人を主体に、そのご家族や近しい人、医療・ケアチームが、繰り返し話し合いを
行い、本人による意思決定を支援するプロセスのこと」とされています。
この規定にも問題はありますが、最も重要な点は、あくまでも本人が主体となっている点
です。
ところが同党の政策パンフレットでは「本人や家族が望まない医療を抑制」となっていま
す。うっかりすると読み流してしまいますが、「本人が望まない医療を抑制」とは書かず
に「家族」を滑り込ませています。これによって、ACPの本質を完全に捻じ曲げてしまっ
ています。
ACPの主体はあくまでも本人であり、かりにどんなに円満な家族であっても、家族は本人
とは別個人なのです。たとえば、終末医療を受け入れるのか否かは「自己決定権の問題」
との認識があれば、家族であっても、そこに意思決定者として同列に入れてはならないの
です。
木村医師は、
同党に医療ブレインがいるのか私は知らないが、ACPの本質を知りつつ意図的に
「家族」を組み込んだのだとすると非常に悪質であるし、知らずに入れたのであ
れば不勉強も甚だしい。その程度の知識でACPを語ることは、日々現場でACPを
実践している医療者から言わせると、迷惑きわまりない。
と非常に憤っています。
実際、木村医師自身の仕事場である在宅医療では、まさに高齢者医療や終末期医療がが主
体であるため、「してほしいこと」「してほしくないこと」を繰り返し本人に問い、医療チ
ーム全体でその意思に沿って治療とケアをおこなっていく努力をしている、と自分の日常
活動を述べています。
そして、本人の意思に反した延命治療を医師が無理やり押しつけるということはないばか
りか、法制化などされなくとも、現状でも、当事者本人の尊厳と意思を最大限に尊重した
「終末期医療」をおこなうべく、現場では日々努力と省察が繰り返されているのが現実で
ある」、と木村医師は断言しています。
「高齢者の終末期に何カ月も何年も人工栄養で生き永らえさせる」という医療は現実には
起こり得ない。もしこうした医療行為で何カ月も何年も生きている人がいるなら、その人
はそもそも「終末期」ではないのです。
木村医師は、玉木代表のいう「終末期医療の見直し」とは、何をどう見直すべきだと言っ
ているのか、まったく意味が不明なのである。どこが問題なのかいっさい具体的に述べな
いところを見ると、終末期医療の実態をご存じないのかもしれない、と断じています。
この点についても私は木村医師と同様、玉木氏の発言や政策に強い危うさを感じます。
玉木代表のいう「尊厳死の法制化」とは、治る見込みのない病に苦しむ人に、本人または
家族が同意すれば、いたずらに苦痛を長引かせるだけの終末期医療(延命治療)を合法的
に中断することが可能なように法律を作ることを意味します。
はっきり言ってしまえば、「終末期医療」を中断すれば、当の患者は死ぬことが含意され
ていますが、これこそが「尊厳」を守ることになる、という考えです。
この「尊厳死」は西欧では、苦痛を伴わない安らかな死、という意味で「安楽死」という
表現が使われます。
木村医師は、そもそも「終末期」の定義自体がきわめて困難であることを、私たちは自覚
しなければならない、医師はもちろん、とくに医療の専門家でない政治家が「尊厳死の法
制化」を語るのであれば、この点についてはきわめて謙虚かつ自覚的でなければならない、
と警告しています。
しかし、玉木代表も国民民主党も、「終末期」の定義はおろか、「尊厳死」にたいする具体
的な法案は全く示していません。まして、これまで同党が真剣に検討してきたという形跡
もありません。
私には、選挙に向けて「尊厳死の法制化」を語ったのは、それによって現役世代の保険料
負担を軽くして手取りの所得を増やしますよという、その財源として高齢者の“終末医療”
を抑制するという国民民主党の選挙向けの宣伝文句に過ぎないと感じられます。
しかし、「尊厳死の法制化」は人の命に係わる極めて重要な問題で、社会全体で時間をかけ
て議論すべき課題です(注2)。
とくに世代間の対立を煽り、人の命の価値に優劣をつける思考をうながそうとする主張に
は、最大限に警戒する必要があります。決して、選挙のための党首討論で、軽々しく口に
すべきではありません。
たとえ「尊厳死の法制化」とは、それが認められるための条件を条文化することです。た
とえば「死にいたることが確実な病」の状態にあり、言い換えると「回復の可能性がなく」
もしくは「死が間近」という表現になると思われますが、木村医師は、その判断はじっさ
いの臨床現場ではきわめて難しいと言います。
木村医師が恐れるのは、「尊厳死」の条件をどのように条文化しようと、医師は判断を条文
へ「当てはめ」ることを第一にと考えるあまり、これまで悩み熟慮することによって保たれ
ていた生命への倫理的思考が、マニュアル化・ショートカット化されていくことです。
そしてもっとも恐ろしいのは「自己決定」、つまり本人が死にたいと希望している、という
言葉です。
介護を要することになった高齢者の中には、家族に迷惑をかけまいとの配慮から「早く死
にたい」と言う人も少なくない。
「自己決定権」を尊重すべきだという人は、これらの人の「死ぬ権利」をも認めるべきだ
というのだろうか、という木村医師の言葉は非常に重い。
木村医師は最後に、自分の母親の例を書いています。
木村医師の90歳になる母はこの夏に急性腎不全で入院した。木村医師の目から見ても、今
回ばかりはもう長くないと覚悟したそうです。
当の母のほうは、病院の環境に耐えかね、入院2日目に「今すぐに退院させてほしい。家
に帰れないならもう死なせてほしい。退院させてくれないなら、ここで自死する」とまで、
半狂乱で私に訴えたのであった。
本人の希望通り退院し帰宅しましたが、しばらくの間は「もう早く死にたい。あなたたち
の世話になりたくない」ばかり繰り返していた。
しかし、そこに生まれて数ヶ月のひ孫を長男が連れてきて合わせると、退院当時の瀕死の
状態とは比較にならないほど活気出てきてその後、少しずつ食事を摂るようになり、非常
に危機的な状態からは少しずつ脱していったという。
その日から2カ月半の今、母親は退院当時の瀕死の状態とは比較にならないほど活気が出て、
少しずつ歩けるようにもなり、入浴もひとりでおこなえるようになってきたそうです。
このことからも木村医師は、「死にたい」との発言も、本心ではなく、つい一時的に口から
出てしまっただけのものかもしれない。家族に迷惑をかけている状況が本当にあるとして、
それが改善されるなら、やっぱりまだ生きていたいのだと実感したようです。
結論として、「自己決定」は、一度決めても、その時その時で、いくらでも変わりうるもの、
その認識が非常に重要なのだ、ということを心に留めておく必要があります。
従って、命に関することは、実情を知らない政治家が軽々しく「法制化」などと口にすべき
ではありません。まして、それを選挙の道具にするなどもってのほかです。
(注1)PRESIDENT Online (2024/10/22 7:00)
https://president.jp/articles/- 87372?cx_referrertype=mail&utm_source=presidentnews&utm_medium=email&utm_campaign=dailymail
(注2)「安楽死」を世界で最初に法制化したオランダでは、問題提起から30年かけて国を挙げて議論を積み上げてようやく認められました。これについては https://cellbank.nibiohn.go.jp/legacy/information/ethics/refhoshino/hoshino0069.htm を参照。
今回の選挙の公示を前の10月12日に、日本記者クラブ主催の7党党首討論も行われました。
私もその模様をテレビでみていました。
そこでは各党の経済政策、安全保障問題、社会保障問題など多岐にわたる問題が議論され
ました。
その中で、私は国民民主党代表の玉木雄一郎氏の、社会保障、高齢者医療、尊厳死に関す
る発言に、疑問が次々と湧いてきました。とりわけ「尊厳死の法制化」については非常に
驚くとともに恐怖を覚えました。
以下に、日々現場で高齢者医療医に取り組んでいる木村 知医師の批判を手掛かりに、玉木
代表の発言の問題点を検討しましょう。
木村医師がもっとも恐怖に震えたのは国民民主党の玉木代表の以下の言葉でした(注1)。
社会保障の保険料を下げるためには、われわれは高齢者医療、とくに終末期医療の見直し
にも踏み込みました。尊厳死の法制化も含めて。こういったことも含め医療給付を抑え、
若い人の社会保険料給付を抑えることが、消費を活性化して、つぎの好循環と賃金上昇を
生み出すと思っています。
つまり玉木代表の発言は、高齢者医療、とくに終末期医療には金がかかるから、その医療
費を削って、その分、若い人の社会保険料を少なくし、彼らの消費を活性化して景気を向
上させようとしている、と読み取れるからです。
というのも玉木代表は、若者の社会保険の負担を低くして手取りを増やすことで、彼らの
支持を得ようとすることを党の戦略としているからです。
しかし、社会保険の負担の問題は、防衛費なども含めた国家予算編成全体の中で解決すべ
きで、この問題を選挙で若者世代の支持を得る宣伝材料に利用するのは筋違いです。
実際、この時の玉木氏の主張に恐怖を覚えたのは木村医師だけではありませんでした。S
NSには「姥捨山だ」「優生思想だ」として、玉木代表を批判する意見が溢れました。理由
は後述しますが、この主張はまさに「優生思想そのもの」であるとの意見がよせられ、木
村医師もSNSで批判を展開したという。
ここまで多くの批判を受けるとは思っていなかった玉木代表はあわてて
尊厳死の法制化は医療費削減のためにやるのではありません。本人の自己決定権
の問題なので、重点政策の中でも、社会保険料削減の項目ではなく、あえて、人
づくりの項目に位置づけています
とのコメントをSNSに投稿し、「尊厳死は自己決定権の問題」であることを繰り返し強調
しました。
また、2024年9月20日の国民民主党の代表記者会見での映像も引用し、あくまでも尊厳死
の法制化は医療費や社会保険料負担の軽減が目的ではないとの考えを強調、必死に「火消
し」に走りました。
しかし「しまった!」と思ってどんなに火消ししようとも、一度口から出てしまった言葉
は飲み込めません。無かったことにはできないのです。とくに政治家、しかも公党の党首
の言葉です。発言時間が短かったからなどとの言い訳もまったく通用しません。
上記の発言は明らかに「若者をつぶすな」との勇ましい言葉を掲げての高齢者医療、終末
期医療の見直し、高齢者を若者の生活に負担と迷惑をかけている象徴として攻撃目標にす
え、若者そして現役世代の票を獲得することを目的としているからです。
しかも、同党の政策パンフレットにも「現役世代・次世代の負担の適正化に向けた社会保
障制度の確立」との大項目のなかに「(13)法整備も含めた終末期医療の見直し」という
小項目が立てられており、そこには「人生会議の制度化を含む尊厳死の法制化によって終
末期医療のあり方を見直し、本人や家族が望まない医療を抑制します」との記載がありま
す。
木村医師は、
何回読んでも、社会保障の財源を語る文脈のなかで終末期医療の見直しと尊厳死
の法制化に言及している。これは誰も否定はできまい。玉木代表をいくら擁護し
ようと試みても、言い間違えレベルのものではなく、確固たる信念に基づいたポ
リシーを述べたものであるとしか解釈し得ない。
と、玉木代表の発言が、確固たる同党の基本戦略であることを指摘しています。
このように見てくると、やはり党首討論での玉木代表の主張は言い間違えなどではなく、
「尊厳死の法制化によって終末期医療のあり方を見直す」のは、やはり「現役世代・次世
代の負担の適正化」のためだったのであることが明らかになります。
すると、玉木代表に国民民主党の政策は、社会にとって役立つ者を「優」としそれらに負
担をかける者を「劣」とする人の価値に優劣をつける思考に依拠するものであることは、
誰の目にも明らかです。
この思考に基づいた政策こそが、もっともわかりやすく「優生思想」を「見える化」した
ものなのです。
どうやら国民民主党には、経済効率至上主義と、人間を経済的に「役に立つ者」と「負担
となる者」に分ける優生思想がその根っこにあるようです。
そこまで言わなくても、国民民主党の党員や支持者は、玉木代表の発言や政策パンフレッ
トの謳い文句に何の違和感も感じていないということになります。
なお、この党のパンフレットに出てくる「人生会議」(アドバンス・ケア・プランニング=
ACP)とは、日本医師会の資料によれば「将来の変化に備え、将来の医療およびケアにつ
いて、本人を主体に、そのご家族や近しい人、医療・ケアチームが、繰り返し話し合いを
行い、本人による意思決定を支援するプロセスのこと」とされています。
この規定にも問題はありますが、最も重要な点は、あくまでも本人が主体となっている点
です。
ところが同党の政策パンフレットでは「本人や家族が望まない医療を抑制」となっていま
す。うっかりすると読み流してしまいますが、「本人が望まない医療を抑制」とは書かず
に「家族」を滑り込ませています。これによって、ACPの本質を完全に捻じ曲げてしまっ
ています。
ACPの主体はあくまでも本人であり、かりにどんなに円満な家族であっても、家族は本人
とは別個人なのです。たとえば、終末医療を受け入れるのか否かは「自己決定権の問題」
との認識があれば、家族であっても、そこに意思決定者として同列に入れてはならないの
です。
木村医師は、
同党に医療ブレインがいるのか私は知らないが、ACPの本質を知りつつ意図的に
「家族」を組み込んだのだとすると非常に悪質であるし、知らずに入れたのであ
れば不勉強も甚だしい。その程度の知識でACPを語ることは、日々現場でACPを
実践している医療者から言わせると、迷惑きわまりない。
と非常に憤っています。
実際、木村医師自身の仕事場である在宅医療では、まさに高齢者医療や終末期医療がが主
体であるため、「してほしいこと」「してほしくないこと」を繰り返し本人に問い、医療チ
ーム全体でその意思に沿って治療とケアをおこなっていく努力をしている、と自分の日常
活動を述べています。
そして、本人の意思に反した延命治療を医師が無理やり押しつけるということはないばか
りか、法制化などされなくとも、現状でも、当事者本人の尊厳と意思を最大限に尊重した
「終末期医療」をおこなうべく、現場では日々努力と省察が繰り返されているのが現実で
ある」、と木村医師は断言しています。
「高齢者の終末期に何カ月も何年も人工栄養で生き永らえさせる」という医療は現実には
起こり得ない。もしこうした医療行為で何カ月も何年も生きている人がいるなら、その人
はそもそも「終末期」ではないのです。
木村医師は、玉木代表のいう「終末期医療の見直し」とは、何をどう見直すべきだと言っ
ているのか、まったく意味が不明なのである。どこが問題なのかいっさい具体的に述べな
いところを見ると、終末期医療の実態をご存じないのかもしれない、と断じています。
この点についても私は木村医師と同様、玉木氏の発言や政策に強い危うさを感じます。
玉木代表のいう「尊厳死の法制化」とは、治る見込みのない病に苦しむ人に、本人または
家族が同意すれば、いたずらに苦痛を長引かせるだけの終末期医療(延命治療)を合法的
に中断することが可能なように法律を作ることを意味します。
はっきり言ってしまえば、「終末期医療」を中断すれば、当の患者は死ぬことが含意され
ていますが、これこそが「尊厳」を守ることになる、という考えです。
この「尊厳死」は西欧では、苦痛を伴わない安らかな死、という意味で「安楽死」という
表現が使われます。
木村医師は、そもそも「終末期」の定義自体がきわめて困難であることを、私たちは自覚
しなければならない、医師はもちろん、とくに医療の専門家でない政治家が「尊厳死の法
制化」を語るのであれば、この点についてはきわめて謙虚かつ自覚的でなければならない、
と警告しています。
しかし、玉木代表も国民民主党も、「終末期」の定義はおろか、「尊厳死」にたいする具体
的な法案は全く示していません。まして、これまで同党が真剣に検討してきたという形跡
もありません。
私には、選挙に向けて「尊厳死の法制化」を語ったのは、それによって現役世代の保険料
負担を軽くして手取りの所得を増やしますよという、その財源として高齢者の“終末医療”
を抑制するという国民民主党の選挙向けの宣伝文句に過ぎないと感じられます。
しかし、「尊厳死の法制化」は人の命に係わる極めて重要な問題で、社会全体で時間をかけ
て議論すべき課題です(注2)。
とくに世代間の対立を煽り、人の命の価値に優劣をつける思考をうながそうとする主張に
は、最大限に警戒する必要があります。決して、選挙のための党首討論で、軽々しく口に
すべきではありません。
たとえ「尊厳死の法制化」とは、それが認められるための条件を条文化することです。た
とえば「死にいたることが確実な病」の状態にあり、言い換えると「回復の可能性がなく」
もしくは「死が間近」という表現になると思われますが、木村医師は、その判断はじっさ
いの臨床現場ではきわめて難しいと言います。
木村医師が恐れるのは、「尊厳死」の条件をどのように条文化しようと、医師は判断を条文
へ「当てはめ」ることを第一にと考えるあまり、これまで悩み熟慮することによって保たれ
ていた生命への倫理的思考が、マニュアル化・ショートカット化されていくことです。
そしてもっとも恐ろしいのは「自己決定」、つまり本人が死にたいと希望している、という
言葉です。
介護を要することになった高齢者の中には、家族に迷惑をかけまいとの配慮から「早く死
にたい」と言う人も少なくない。
「自己決定権」を尊重すべきだという人は、これらの人の「死ぬ権利」をも認めるべきだ
というのだろうか、という木村医師の言葉は非常に重い。
木村医師は最後に、自分の母親の例を書いています。
木村医師の90歳になる母はこの夏に急性腎不全で入院した。木村医師の目から見ても、今
回ばかりはもう長くないと覚悟したそうです。
当の母のほうは、病院の環境に耐えかね、入院2日目に「今すぐに退院させてほしい。家
に帰れないならもう死なせてほしい。退院させてくれないなら、ここで自死する」とまで、
半狂乱で私に訴えたのであった。
本人の希望通り退院し帰宅しましたが、しばらくの間は「もう早く死にたい。あなたたち
の世話になりたくない」ばかり繰り返していた。
しかし、そこに生まれて数ヶ月のひ孫を長男が連れてきて合わせると、退院当時の瀕死の
状態とは比較にならないほど活気出てきてその後、少しずつ食事を摂るようになり、非常
に危機的な状態からは少しずつ脱していったという。
その日から2カ月半の今、母親は退院当時の瀕死の状態とは比較にならないほど活気が出て、
少しずつ歩けるようにもなり、入浴もひとりでおこなえるようになってきたそうです。
このことからも木村医師は、「死にたい」との発言も、本心ではなく、つい一時的に口から
出てしまっただけのものかもしれない。家族に迷惑をかけている状況が本当にあるとして、
それが改善されるなら、やっぱりまだ生きていたいのだと実感したようです。
結論として、「自己決定」は、一度決めても、その時その時で、いくらでも変わりうるもの、
その認識が非常に重要なのだ、ということを心に留めておく必要があります。
従って、命に関することは、実情を知らない政治家が軽々しく「法制化」などと口にすべき
ではありません。まして、それを選挙の道具にするなどもってのほかです。
(注1)PRESIDENT Online (2024/10/22 7:00)
https://president.jp/articles/- 87372?cx_referrertype=mail&utm_source=presidentnews&utm_medium=email&utm_campaign=dailymail
(注2)「安楽死」を世界で最初に法制化したオランダでは、問題提起から30年かけて国を挙げて議論を積み上げてようやく認められました。これについては https://cellbank.nibiohn.go.jp/legacy/information/ethics/refhoshino/hoshino0069.htm を参照。