大木昌の雑記帳

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バブル超えの株価高騰に浮かれる危うさ―「貯蓄から投資」への背後に何が―

2024-02-27 07:03:46 | 経済
バブル超えの株価高騰に浮かれる危うさ
―「貯蓄から投資」への背後に何がー

2024年2月22日の東京株式市場は、日経平均株価が、バブルの絶頂期だった1989年12月
29日の3万8915円87銭を上回り、終値は前日比3万9098円68銭が34年ぶりに史上最高
値を付けました。

ここで、株価について引用される「日経平均株価」とは何かを確認しておきましょう。

日経平均株価とは、日本経済新聞社が、東京証券取引所プライム市場上場銘柄から選定した
225銘柄から構成される平均株価のことで、日経225とも呼ばれます。

つまり、これはあくまでも日本経済新聞が選んだ、225の優良企業の平均株価で、日本の
企業全体の傾向を示すものではありません。

したがって、特に高値を付けた企業がいくつか選ばれれば、平均株価も上がる仕組です。

この点は十分留意したうえで、図1を見ると、1989年のバブル絶頂期から、バブルがはじ
けて株価は劇的に下がり始め、2008年のリーマンショックを底に達し、その後は徐々に値
を上げ、ついに今回の史上最高値に達した経緯が分かります。


出典 『東京新聞」(2024年2月23日)

それでは、そもそも今回の株価上場はなぜ生じたのか、それはどんな意味を持つのか、そ
して私たち一般の国民の家計や経済事情にどんな影響があるのでしょうか?

バブル期の最高値を突破した瞬間、ある証券会社では「くす玉」を割って祝うお祭り騒ぎ
の様子がテレビで映し出されていました。

野村証券の親会社「野村ホールディングス」の奥田健太郎社長は、
    成長力や技術力、今後の期待を海外投資家から評価されている。デフレ脱却の
     信頼感を確認できて感慨深 い。4万3000円までいくとみている
と、興奮気味に報道陣に話しました。

証券会社のトップがこのように言うのは理解できますが、はたして今回の株高はそれほ
どおめでたいことなのでしょうか? 私はそうばかりとは言えない気がします。

このような高揚感は、金融業界や投資家を除くと日本国内に広く行き渡ってはいません。

実際、街の声を聞いても、大多数の人は日本経済がそれほど好調で、国民が豊かになっ
たという実感はないと言います。それはなぜでしょか?以下に、この疑問を考えてゆき
たいと思います。

その理由の一部は、現在日本での株取引の中身を見ると分かります。現在、海外投資家
が年明けから7連続で買い越し、取引の3分の2を占めています(『東京新聞』2024年
2月23日)。

したがって、株価上昇の恩恵は主に日本人ではなく、主として海外投資家の手に落ちて
いるのです。

たとえて言えば、地上では大部分の日本人が所得の減少と税金の負担に喘いでいるとき、
雲の上では一部の富裕な日本人投資家と海外投資家が繁栄を楽しんでいる、という構図
になります。

それでは、海外投資は日本の何を評価して株の買い越しに走っているのでしょうか?日
本経済が、名実ともにしっかりした基盤をもち今後も成長が期待できるからでしょうか?

残念ながら、そうではなさそうです。株価を押し上げるもっとも大きな要因は円安です。
以前にバブル期には、1ドルが100円前後でしたが、現在は150円へと、大暴落とい
ってよいほど、円が安くなっています。

このため、たとえば以前は150円した株が、今は100円で買えるのです。私に言わ
せれば、日本円と日本株の「たたき売り」状態なのです。

ほかにも、景気が停滞から下降している中国経済に見切りをつけた海外の投資家が、中
国(香港を含む)から割安な日本株へ資金を移したことも株価を押し上げました。

さらに、23年春には「投資の神様」と呼ばれる米投資家ウォーレン・バフェット氏が、
総合商社大手5社など日本株への積極投資を表明したため海外メディアでは「日本株ブ
ーム」の特集が相次ぎました(注1)。

彼の発言がどれほど影響したのかは分かりませんが、巨額のオイルマネーが日本株に流れ、
それが株価を押し上げたことも知られています。

ただし、今後のことを考えると、海外投資家による株購入は、長期間保持して日本企業の
成長に貢献するというより、株の売買によって、儲かると思えば直ちに「売り逃げ」に走
ります。「買うときはまとめて買い、逃げるときは一気に逃げてゆく」のがオイルマネー
の特徴です(注2)。

これは特に、オイルマネーについて言えることですが、海外の投資家というのは多かれ少
なかれ売買差益を目的としており、長期間にわたって日本の企業を育てることなど期待す
ることの方が無理です。

それでは、今回の株高と日本経済、とりわけ一般の国民にとってどんな意味があるのでし
ょうか?

国内投資の中で企業の自社株買いや銀行その他の企業による大口の投資筋を除いた、一般
の個人投資家は株高により大きな利益を得たのでしょうか?

確かに、以前から有望と思われる株を購入していた一部の投資家は恩恵を受けたはずです。
テレビなどのメディアでも、投資によって大きな利益を得た人の例がたびたび紹介されます。

しかし、日銀の資金循環統計によると、日本人の家計の金融資産に占める比率(2022年度)
は、53.8%の現金預金が最も多く、株式や投資信託は16.1%にすぎません。

新しいNISA(少額投資非課税制度)によって個人投資家が増えつつあるとはいえ、株や投資信
託の比率が約5割に上るアメリカに比べ、株高が一般家庭の家計に波及しにくい状況にありま
す(上記『東京新聞』)。

くわえて、円安は輸入物価の上昇によって家計を圧迫しています。2023年度の消費者物価は
バブル期の1989年に比べて2割以上増えたのです。

追い打ちをかけるように、昨年12月の実質賃金は22年4月以来、前年同月比率で21か
月連続マイナスでした。これでは、多くの日本人は株式投資をする余裕がありません。

日本の株価が34年ぶりに高値を更新したといっても、それは日本の経済が34年ぶりに強
くなったということではありません。

具体的には、2023年の日本のGDPが、それまでの米・中に続き3位であった日本のGDPが、
2023年にはドイツに抜かれ4位に転落したことに表れています。

しかも衝撃的なのは、ドイツの人口は日本の3分の2に過ぎないという事実です。

国民1人当たりの豊かさでいえばドイツは日本の1.5倍(日本は3分の2)と経済格差がつ
いたというのが、このニュースの本質です。

以下にIMFの2023年版で世界の情勢を整理すると、第1集団は1人当たりGDPで8万ドル(約
1200万円)を超える国々でアメリカはここに入りますし、アジア太平洋地域ではシンガポー
ルとカタールがここに入ります。第1集団は世界から投資が集まる国々です。

それに次ぐ第2集団が、1人当たりGDPが5万ドル(約750万円)前後の国々で、ドイツ、イ
ギリス、フランス、カナダなどG7の国々はほぼこのグループに入ります。ほかにオーストラ
リア、香港も入ります。第2集団は経済が順調な国々や地域です。

そして第3集団は、1人当たりGDPが一段低い3万ドル台前半(約500万円前後)の国々です。
日本は約3.4万ドル(約510万円)でこの集団に入ります。

近隣諸国・地域では韓国、台湾がほぼ日本と同列です。G7に所属するイタリアは3.7万ドル
とこの第3集団の先頭を走り、同じくEUに所属するスペインが3.3万ドルと、日本のすぐ後
ろにつけています。

この第3集団はイタリア、スペイン、日本のようにかつては世界のトップだった国が斜陽化
した国と、韓国、台湾のように経済が発展して追いついてきた国や地域が混在します。

第3集団で何が深刻かというと、第2集団と違って第3集団の国では輸入物価が上がるタイ
プのインフレが起きてしまうと、庶民の生活が貧しくなることです(注3)。

つまり、賃金の上昇が物価の上昇に追いつかない状況、これが、今多くの日本人が日々直面
している日本の現状なのです。

日本がなぜ、第3集団に転落してしまった理由については別の機会に詳しく検討したいと思
いますが、今回は、日本株が高騰したのは生産性も高く、多くの利益を稼ぎ国民の所得も多
い(つまり、経済が好調)からではなく、むしろじり貧に向かっているにもかかわらず、円
安のおかげで株価だけが突出していることを確認しておきます。

ところで、前回のバブル期の株高と今回の株高の背景をみると、明らかに異なっています。

まず、前回の為替レートは1ドルが100円ほどでしたが、それでも輸出は好調でした。し
かし現在は150円まで円安になり、これは輸出価格を30%以上安売りしてようやく輸出
できているのです。

つぎに、当時は多くの国民が「金回り」が良く、人びとは猛烈に働き、飲み・食い・遊び、
元気でした。多くの人は、今日より明日、明日より明後日の方が良くなると信じることがで
きました。

しかし、現在の株高の場合、日本経済と自分の生活が将来に向かって良くなって行くという
楽観的な見通しを持てにくくなっています。このため、株価が34年ぶりに最高値をつけて
も、大部分の日本人には高揚感がないのです。

岸田内閣は、盛んに「貯蓄から投資へ」と金融投資を煽っています。新NISAにせよ株式
投資にせよ、「投資」とは所詮はギャンブルでリスクを負うのは個人、つまり自己責任で、
政府は一切責任を負いません。

私には、投資を煽る政府の言動には、実物経済(実際経済)で経済がうまくいっていないの
で、金融投資で何とか経済を回そうとする意図がうかがえます。

しかし、国民にとっては、まず投資に回せるほど収入(賃金)が増えることが本質的な問題
なのです。

また、政府が投資を煽る背景には、国の公的年金では老後の生活を保証できないから、個人
個人が自己責任で財産形成をしてください、という隠された狙いが感じられます。

以上は、私の危惧に過ぎないかもしれませんが、国民の老後の最低限の生活を保障すること
は、仮にも「先進国」を自称するなら政府の最も大事な仕事のはずです。

身分不相応な軍備を、アメリカの要請のまま巨額の税金を使って購入しているのは、歴代の
政府はh、どこを向いて政治を行っているのか疑いたくなります。


(注1)『毎日新聞』デジタル版(2024/2/22 20:53(最終更新 2/22 22:24)https://mainichi.jp/articles/20240222/k00/00m/020/357000c?utm_source=article&utm_
     medium=email&utm_campaign=mailasa&utm_content=20240223
(注2)『Yahoo News』2/21(水) 12:04
https://news.yahoo.co.jp/articles/a46720b7fe388b2c54c5d6168285dae3b4afcb00
(注3)『DIAMOND』2023.11.3 6:00
https://diamond.jp/articles/- /331728?utm_source=daily_dol&utm_medium=email&utm_campaign=20231103

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現代医療の落し穴(2)―専門分化型医療と既得権益―

2024-02-20 09:22:35 | 健康・医療
現代医療の落し穴(2)―専門分化型医療と既得権益―

今回も前回に引き続いて「こころとからだのクリニック医院長」の和田秀樹医師(精神科)の論考
を参照しつつ、「現代医療の落し穴」について考えてみたいと思います。

論考の冒頭で和田氏は、「多くの人が信じている医学の進歩であるが、細かい点では確かにいろい
ろと進歩はしているのだが、全体のシステムとしては、まったく時代遅れのものだと私は考えてい
る」と述べています。

では和田氏は何をもって、「全体のシステムとしては、まったく時代遅れのもの」だと指摘してい
るのでしょうか?

その理由の一つは、前回も引用した「現在は人口の約3割、医者にくる患者さんの約6割が高齢者だ。
高齢者の場合、いくつも病気を抱えているために、各々の専門医が薬を出すと多剤併用が当たり前
に起こる。医療費の無駄でもあるし、副作用も多くなる」という事情です。

さらに、この背景には、現代の医学教育が臓器別診療と臓器別医療など専門分化に偏っているから
です。

和田医師によれば、専門分化は医学部教授たちの既得権益や専門分化型の医師たちのポストの確保
のために50年も専門分化型医療と、専門分化型教育が続いてきた結果だという。

この点が「まったくの時代遅れ」で、専門分化型ではなく総合診療へ医学教育をシフトすべきだと
いうのが和田氏の主張です。

少し補足しておくと、大学におけるポストは「講座」や「教室」(呼称は大学によって異なる)ご
とに教授、准教授、講師、助手といった教授・教員が割り当てられます。

たとえば、消化器内科講座には、教授1名、准教授2名、講師3名、助手4名、といった具合です。
「消化器内科講座」がさらに胃、大腸、小腸、すい臓などの臓器に細分化される可能性もあります。

さらに同じ消化器部でも、内科ではなく外科部門や腫瘍科(がん科)などに分かれることもありま
す。こうした専門分化の実態は、病院の診療科の一覧を見れば分かります。

医学部教授たちの既得権益とは、それぞれすでに「講座」という枠組の中でポストを得ている教授
・教員の地位が守られていることを意味しています。

もし、こうした専門分化型の教育システムが総合診療を前提としたものに変わると、自分たちの既
得権益であるポストがどうなるのか不安になるので、既存の専門分化型教育システムがずっと続い
ているというのです。

ただし和田氏は、高齢者が増えたからといって専門分化型の医者が必要なくなったというつもりは
ないが、総合診療医と専門医の割合がいびつであることを指摘しています。

たとえば日本よりずっと高齢化率が低いイギリスでもその比率は1対1くらいと言われていますが、
和田氏は、そのくらいが適正だと思うとのべています。

日本においては、いわゆる総合診療医(General Practitioner)の制度がありませんが、欧米では専
門化した医師の診察・治療を受ける前に、GPの診察を受ける必要があります。

総合診療医とは、病気を心身から全体的に診療する医師である。病気の予防にも携わる。 総合診療
は、患者の生活についての、生物学的・精神的・社会環境に着目し、ホーリズム的な手法である。
総合診療医は、患者の特定臓器に着目するのではなく、全体的な健康問題に向き合って治療を行い
ます(Wikipedia)。

以前、NHKで『ドクターG』という医療番組があり、私は毎回見ていました。これは、総合診療
のスペシャリスト医師(ドクターGeneral)が若い医師に、総合的な観点から診断を下すことができ
るよう訓練する内容でした。

いずれにしても、現状では、大学医学部も厚生労働省も総合診療医を増やすつもりはなさそうだ。
つまり、大学当局も政府の厚生労働省も、現在の専門分化型による既得権益を失いたくないからです。

しかも、既得権益で利益を得ているのは、すでにポストを得ている教授陣だけでなく、文部省や厚労
省の役人も同様です。

大学を管轄する文部科学省は患者を診ていないので、いまだに論文重視の医学教育を容認しています。
それなら、医療を監督する厚労省が、大学医学部にてこ入れすればいいのに、逆に審議会の委員の多
くは、和田氏のような臨床医でなく、研究ばかりしてきた大学教授たちなのです。

和田氏は、文科省も厚労省も大学医学部改革をやろうとしないことには別の理由があるとにらんでい
ます。

すなわち、文科省や厚労省の役人にとって大学医学部教授は重要な天下り先で、論文が一本もなくて
も教授になれるのです。

天下りが原則禁止になっているのに、医学部教授への天下りはフリーパスなのが現実です。和田氏は、
これを禁止しない限り、日本の医学教育は高齢者に適したものに変わるのは見込み薄だということは
伝えておきたい、と強調しています。

ここにも、信じられないような「天下り」の構造がまかり通っているのです。

臓器別診療が始まり、集団検診が始まった70年代から、医学教育の基本構造がまったく変わっていな
いので、前時代的と言われても仕方ないようになっています。

いずれにしても、現在の医学教育も医療システムも、患者の立場からすると、専門分化型医療体系は
とても不便です。というのも、必ずしも高齢者でなくても、一人の患者が抱える健康上の問題は一つ
だけとは限らず、複数の症状や関連する問題を抱えていることは、ごく普通にあるからです。その場
合、症状ごとに異なる診療科を回らなければならないのです。

和田氏の指摘の中で、もう一つ注目すべきは、医師には臨床医と研究医(仮の呼称ですが)とがあり、
大学に残って大きな既得権をもっているのは後者の方だという指摘です。

臨床医とは、実際に患者の治療を中心に活動する医師のことです。これに対して、主として実験や研
究を活動の中心においている医師は論文を書き、出世も早く上級の教授職につけますが、臨床医は、
日々患者と接して治療を行っているので、時間のかかる研究をして論文を書く余裕はありません。

しかし、大学という世界では結果的に生物学的な脳などの研究をしていた人のほうが論文の数が多い
などという理由で教授会の多数決で勝ちます。

そして、論文をたくさん書く医師の方が「格が上」のように扱われます。

もちろん、地道な基礎研究は医学の進歩にとって非常に重要であることはいうまでもありません。し
かし、だからといって臨床医(文字通り、患者のベッドに臨む医師)より格が上であるとか、重要だ
ということにはなりません。

少なくとも大学においては、医師は研究と臨床とを往復できる体制が必要だと思います。

医療の専門家と並んで和田氏が現状に大きな不満と問題を指摘しているのは、大学医学部の医学教育
において「心の医療」が軽視されていることです。

現在、日本には82も大学医学部があるが、精神科の主任教授の専門分野がカウンセリングとか精神療
法の大学は一つもありません。

教授のプロフィルの専門分野の一つに精神療法とか書いている教室はありますが、教授になってから
勉強したという程度で、教授になるまでに精神療法を学んできていないというのが実態だろう、と和
田氏は推測しています。

これは、精神科の教授を医学部の教授会における選挙で決めるからで、多くの大学医学部の教授たち
は、動物実験で書いた論文の数で教授になった人たちだから精神科の教授にもそれを求めます。

結果的に生物学的な脳などの研究をしていた人のほうが論文の数が多いなどという理由で教授会の多
数決で勝つ。82大学すべてで、これが起こっているという。

しかし、私自信のことを考えてみても分かりますが、私たちの病気というのは単に身体的な異常、と
いうだけでなく、心の問題をも同時に抱えているのが普通です。

さらに、ストレス社会といわれる現代、地震や性犯罪などのトラウマを抱える人が増えてくると、精
神科の患者さんのかなりの部分が、薬では治らなかったり、カウンセリングが必要になります。しか
し、現在、ほとんどの大学医学部では、心理学やカウンセリング法などは学べません。

大学6年間の講義の中で、「心の問題」を学べるのは、精神科の講義だけということは珍しくありませ
んが、その時に精神科の教授が生物学的精神医学の人だと、講義で脳内の神経伝達物質の話や精神障害
の診断基準の話ばかりを聞くことになって、患者さんとの接し方や患者さんの心の問題などを学ぶこと
ができません。そういう学生たちが、この20~30年医者になっているのです。

高齢者が増える中、もう一つ、大学医学部の教育でおかしいと思うのは栄養学が学べないし、学べても
時代遅れになっていることです。とりわけ高齢者にとっては、特定の病気(糖尿病などカロリー制限や
腎臓病に対する塩分の制限)を対象として栄養学や食事指導はあっても、健康の維持と増進のための栄
養学は必須です。

栄養学の軽視とならんで、免疫学の軽視もあいまって、いろいろと好きなものをがまんさせることでス
トレスが強まり、免疫力が低下する弊害が考慮されていません。

実際、塩分やお酒、コレステロールや甘いものをがまんさせることで、どれだけ病気を防ぐことができ
るかの大規模比較調査は日本にはないのです。


和田氏は、我慢することで「がん」による死亡者が増加する弊害について述べていますが、この点に関
して私はまだ十分なデータをもっていないので保留としておきます。

ただし、医療における「心の問題」が現代医療で軽視されているとの指摘に私は大賛成です。

というのも、私は現代医療(現代医学)が発展する過程で抱えこんでしまった非常に大きな問題は、そ
もそも「一つの存在」である人間を「身体(肉体)」と「心」に分けてしまったことだと考えているか
らです。

しかも、医学界全体においては、身体的な医学が圧倒的に優位に立っています。それは、心の問題は物
質(ある場合には化学的成分)として取り出して実証することができないからです。

もし、精神医学や心理学で、身体医学と同等の実証性を求めるとしたら、一部の生理心理学のような化
学物質の量やその変化を物質レベルで検証するという、ごく一部の領域に限られるでしょう。

私は、人間は「身体」と「心」に分けること自体が現代医学の大きな「落とし穴」だと考えています。
残念ながら、このような傾向は日本において特に強いように思います。

しかし現代社会では、心の問題と身体的問題とは対等でかつ不可分であることが世界的に認識されつつ
あります。

最後に、日本における現代医学においてはEBM(科学的な証拠に基づく医学・医療だけを正規のもの
のと認めており、中国の「東洋医学」やインドの「アーユルヴェーダ」などの非西洋医学、あるいは伝
統医療、民族医療を正規の医療とは認めていません。

私は、西洋医学的な現代医療と並行して東洋医学(具体的には針灸)の治療を30年ほど受けてきまし
たが、両方の治療の良さを実感しています。

西洋医学の方が優れている面は確かにありますが、東洋医学にもそれなりの利点と効果があります。

この点に関する私の見解は、西洋医学であれ東洋医学であれ、それぞれの利点を生かす「統合医療」こ
そが日本が目指す方法だと思います。欧米ではすでに統合医療は実際の医療に取り入れられています。

これと微妙に関係しているのは、医学部の教育に「心の問題」ほとんどないと同様、日本の医学部には
倫理学や宗教学などの科目がほとんどありません。

かつて私は、世界の有名大学の医学部のカリキュラムを取り寄せたことがありますが、ほとんどの大学
のカリキュラムにはこうした人間としての医師の人格に深い関係を持つ科目が置かれています。

日本では、検査至上主義が浸透していて、診察に先立って血液や様々な検査を行ない、実際の診察の際
にはそれらのデータをもとに医者が診断し治療の方向を決めることが多い。

その際、医者がパソコンの画面に映し出されたデータ(数値と画像)だけを見て患者の方を向かない、
ということが多々起こります(実は私もこのような経験があります)。

医療の原点は、医者も患者も対等な人間である、というところから出発すべきではないでしょうか?

(注1)『毎日新聞』「医療プレミアム」2024年2月10日
https://mainichi.jp/premier/health/articles/20240208/med/00m/100/005000c?utm_source=column&utm_medium=email&utm_campaign=mailasa&utm_content=20240211

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現代医療の落し穴(1)―薬がたくさん処方されるわけ―

2024-02-13 13:30:22 | 健康・医療
現代医療の落し穴(1)―薬がたくさん処方されるわけ―

現代医学は私たちの病との闘いに対して大きな武器をたくさん与えてくれています。

ここで「現代医学」という言葉は、「科学的根拠に基づく医学」(EBM=Evidence
Based Medicine)を指し、それはヨーロッパで近代以来発達してきた、いわゆる
「西欧医学」とほぼ同じ意味で使われます。

そして「現代医学」は、中国の東洋医学やインドのアーユルヴェーダのような、非
西欧医学とは異なる医学であることをも意味しています。

厳密にいえば「現代医学」は病気や疾病にたいする科学的根拠・理論と、それに基
づいて行われる治療(現代医療)から成っています。以下の記述では、私たちにと
って身近で切実な問題として現代医療を中心に説明してゆきたいと思います。

ところで、現代医学と現代医療には以下のような背景があります。

一つは、病気の原因や構造に関する科学的・理論的な解明(基礎医学)が進み、こ
の知見に基づいて、新たな治療法が開拓されてきたことです。

二つは、CTやMRIといった検査機器の発達し、これまで目で見ることができな
かった病変や体の状態を映像としてみることができるようになったことです。

たとえば、これらの検査機器は、ある臓器のがんが、どの位置にどれくらいの大き
さに広がっているのかを画像として見せてくれます。

三つは、手術の進歩です。従来の手技による職人的な技術に加えて新たな術式が開
発され、これまで不可能とされた治療も可能になったことです。

例えば、手術ロボット(ダヴィンチ)の登場により、脳内の微妙な位置にある腫瘍
を正確に摘出することが可能になりました。

四つは、病気の原因や構造に関する科学的な解明に基づいて、新たな治療薬(化学
合成薬)が次つぎと開発されてきたことです。ただし、後に説明するように、薬品
そのものにも副作用の問題があります。

現代医学は日進月歩で、今は治療できないが、近い将来は治療が可能になるという
希望を持たせてくれます。

ただし治療法が進歩しても、残念ながら病気そのものは減ってはいません。

それどころか、今までなかった病気が新たに発生したり、開発された薬が効かなく
なってしまうこともあります。

このように考えると、人間が存在する限り、病気と医学とは終わることのない闘い
が永遠に続くでしょう。

しかも、“闘うところ敵なし”にみえる現代医学にも泣き所があります。

たとえば、現代医学は急性の疾患に関しては抗生物質や手術など外科的な処置によ
り目覚ましい有効性を発揮しますが、慢性疾患にたいしてはあまりはかばかしい治
療効果を示してくれません。

また現代医学といえども、すべての疾患や病気を科学的に解明できているわけでは
ありません。また、たとえ病の原因などが分かっていても、確立した治療方法が分
からない病気もたくさんあります。

今日、“難病指定”を受けている病気(たとえば膠原病など)はほとんどが原因も治
療法も見つかっていない病気です。

現代医学は、「~病」とはっきり病名がつくほどではないが、確かに体の不調があ
る場合の治療、すなわち、東洋医学でいう「未病」を防ぐことにはあまり熱心では
ありません。

しかし実際には、多くの人は「未病」に悩まされています。

最後に、これも次回で触れようと思いますが、現代医学は病気を身体(臓器)の問
題だと考える傾向があり、精神的な側面(心の問題)と身体的な問題との関連や相
互の影響についてはあまり重視していません。

以上を念頭において、以下に、現代医療における薬の処方に関する「落し穴」問題
を考えてみます。

最近ではほとんど見ることが無くなりましたが、以前は、病院の待合室には薬がい
っぱい入った大きな袋をもった患者さんの姿があちこちで見られました。

これは、病院が処方する薬を院内で渡していたからです。しかし今は、薬は病院が
出す処方箋をもって院外薬局で購入することになっています。

薬の問題も含めて、和田秀樹医師(精神科)は現在の医療の在り方に疑問を提起し
ています。以下に和田医師の論考を参照しながら検討してみましょう(注1)。

和田氏が医学批判をしたり、高齢者の医療について論じていたりすると、「医者
がたくさん薬を出すのは金もうけのためでしょ?」という質問を受けるそうです。

しかし、たとえば開業医が薬を出す際に、今は原則的に院外処方です。いくら薬
を出しても入ってくる処方箋料は一定だし、一定以上の多剤併用だとむしろ保険
の点数を減らされることもある。だから薬をたくさん出しても金もうけになりま
せん。

しかし、薬の量が増えることには金儲けではない別の理由があります。和田氏に
よれば、そこには臓器ごとに専門化した医学の教育システムと医療システムの根
深い弊害があるといいます。

医学生時代は薬の処方のことは原則習わないが、卒業後に臓器別診療の病院で研
修を受けると、やはり各々の臓器に対して薬を出してします。

つまり臓器別診断に基づく薬の処方が行われるようになります。こうしてほかの
国では考えられないような多剤併用を当たり前のようにやるようになってしまい
ます。

現在は人口の約3割、医者にくる患者さんの約6割が高齢者です。高齢者の場合、
いくつも病気を抱えていることが多いので、各々の専門医が薬を出すと多剤併用
が当たり前に起こってしまい、これは医療費の無駄でもあるし、副作用も多くな
ります。

以上は高齢者を対象にした医療と薬の処方問題ですが、実は高齢者だけでなく、
医療全般について根底に横たわる問題でもあります。

臓器別診療が50年も続くと、新たに開業する医師たちもほとんどがその形での
トレーニングしか受けていないし、経験もしていません。

往診もするとか、かかりつけ医もやりますとかいって開業しますが、医者の多
くは、開業前は大学病院や大病院で、呼吸器の専門医とか、循環器の専門医を
やっていた人たちです。

たとえば循環器内科出身の医者は、高血圧とか、ほかの循環器の疾患について
は最新の知識で治療をしてくれるが、その患者さんが肺気腫のような持病をも
ち、血糖値もちょっと高いと、マニュアル本をみて薬を出すので、一人のかか
りつけ医であっても、各々の専門医が出すのと同じような薬の出し方になって
しまいます。

本来は、総合診療といって、患者さんを全体として診て、必要な薬を四つまで
選んでくれるとか(5種類以上の薬を飲むと転倒の発生率が4割にもなるという
調査研究がある)、生活背景や心理状態までも考慮してくれる医療が必要なの
だが、そういうトレーニングを受けている医師はほとんどいないのが現実だそ
うです。

私自身も、医者がマニュアル本を見て処方薬を決めていたことを目撃したこと
があります。実際、自分の専門外でも患者の症状や訴えを聞けば、マニュアル
にはそれらの症状に対して処方できる薬のリストがすぐに見つかります。

和田医師は経験上、薬の処方には大きな落とし穴があるような気がしてならな
いと述べています。それは、検査値が異常な場合、きちんとした生活指導や栄
養指導より、つい薬に頼ってしまうから薬の量がだんだん増えてしまう、とい
う実態です。

生活指導や栄養指導は効果がでるまで時間がかかり、治療という面からみると
間接的なアプローチです。それよりも、短期間に効果が表れる薬を処方した方
が手っ取り早い、という意識が医師の側にあるのかもしれません。

患者の方も、せっかく病院で診察を受けたのに、ただ生活指導や栄養指導のア
ドバイスだけで薬も出ないと、何もしてくれなかった、と失望してしまいます。

そんな患者の心理を知っていて、医者は“それでは一応、お薬を出しておきまし
ょう”といって薬を処方します。それで患者もようやく、診てもらってよかった
と一安心します。

これが、医者と患者の間で交わされる、一種の“お約束”のやり取りではないでし
ょうか?実は、私自身にもこうした経験があります。

日本で薬の処方が増えるのには、薬の副作用には無頓着だから薬が増えるという
側面もありそうです。

医者は必ずしも処方する薬剤にたいしてくわしい薬学的知識を持っているとは限
らず、マニュアルに書いてある副作用などを参考にする程度です。

アメリカでは、医者が薬の副作用を一生懸命勉強する。そして、なるべく薬を出
さないようにする。和田医師のアメリカ留学中もレジデント(研修医)が製薬会
社のMR(医療情報担当者)を捕まえては薬の副作用を根掘り葉掘り聞いていた。
彼は、日本でこのような風景をほとんど見た記憶はないそうです。

訴訟社会のアメリカでは、処方した薬の副作用で患者の症状が悪化した場合には
医者は法的に訴えられる危険性があるから、彼らは薬の処方には非常に神経質に
なるのでしょう。

薬の処方は「足し算」となるので、その数が必要以上に増えてしまう可能性があ
ります。極端な仮定の事例を挙げてみましょう。患者が風邪の症状を訴えれば、
総合感冒薬、のどが痛ければ炎症止めの抗生物質、抗生物質を服用すると消化器
内の微生物も殺してしまうので胃腸薬、咳が出ていれば咳止め、鼻水が出ていれ
ば鼻炎、熱があれば解熱剤、といった風にどんどん薬の数は増えてゆきます。

私は以前、うつ病の診断を受けた学生の処方箋を見せてもらったことがあります
が、驚いたことに、10種類ほどの薬の名前が書かれていて、それらを”ワンセッ
トとする”と添え書きがありました。

これだけ薬を毎日飲んだら、それだけで体に非常に大きな負担をかけ、かえって
健康を害してしまうのではないか、と恐ろしくなりました。

また、私の兄弟も含めて、周囲には食事のたびごとに数種類の薬を服用している
人がたくさんいます。むしろ、ある年齢以上になると、何の薬を常用していない
人の方が珍しいくらいです。

私の印象では、日本人はかなり薬好きで、たくさん処方してもらうと、それだけ
安心する傾向があります。

今回は薬に焦点を当てて、現代医療の「落し穴」についてみてきましたが、次回
は、薬も含めて、もっと全体的な観点から、現代医療の落し穴を検討したいと思
います。

(注1)『毎日新聞』「医療プレミアム」2024年2月10日
https://mainichi.jp/premier/health/articles/20240208/med/00m/100/005000c?utm_source=column&utm_medium=email&utm_campaign=mailasa&utm_content=20240211

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能登半島地震について思うこと―「物語」の喪失―

2024-02-06 09:03:27 | 社会
能登半島地震について思うこと―「物語」の喪失―

衝撃的な能登半島地震から早くも1か月以上経ちました。

2024年2月4日現在、石川県内の死者340人(うち災害関連死15人)、
行方不明者12名、負傷者1181人となっています。

100人を超す犠牲者が出た地震は2016年4月の熊本地震(死者276人)以来
です。

また人的被害の他に、住宅の被害は4万9440戸、避難者1万4481
人です。

こうして数字は地震によって生じた事態の、ごくごく一部を表していいる
にすぎません。さらに問題なのは、被害に関する数字だけに注目すると、
地震の影響をたんに統計上の問題として私たちの頭の中で記憶されてしま
う危険性があることです。

しかし、被災した現地の人たちの声を聞き、焼きつくされた町、倒壊した
家屋、コンクリートがめくれ上がったように破壊された道路の状態、壊さ
れた港や船などの光景を見ると、壊されたのはこうした「物的なもの」だ
けでなく、その背後にあった「生活」そのものだということを思い知らさ
れます。

中でも、肉親や親族を亡くした人たちの悲痛な声は胸を打ちます。

統計的な数の中に埋没してしまう、亡くなった人たちの周辺には、一人ひ
とり、一つひとつの「物語」があります。

以下に紹介する寺本さんのケースは、たまたま10人が一緒に亡くなった
という特別な事情があったためにマスメディアに取り上げられますが、す
べての「死」にはそれぞれの「物語」があることを忘れてはなりません。

この場合の「物語」とは、当事者とその周辺の人たちの想い、将来への希
望、悩み、喜び、苦労など、つまり生活の総体そのものです。

金沢市の寺本直之さん(52)一家は毎年妻の実家で年末年始を過ごしてい
ました。そこには妻(53)、19~23歳の息子3人、娘(15)、義父母、小
学生の男児を含む妻の弟一家10人がいました。

そして、元旦には料理の修行をしていた息子の一人が作った料理をみんな
で食べることになっていました。

寺本さん自身は、仕事の関係で遅れて参加することになっていて、仕事先
から皆のいる妻の実家に向かっている途中に、地震が発生し、妻の実家は
倒壊してしまったのです。

寺本さんはみんなの無事を願ってメールで無事を確認しましたが、誰から
も返事は来ませんでした。つまり10人全員が亡くなってしまったのです。

三男の京弥さん(19)は、7日に金沢市内で開かれた「二十歳のつどい」
に出席予定でしたが、参加することはかないませんでした。

生き残った寺本さんはインタビューに答えて次のように語っています。少
し長くなりますが、詳しい生の声なので以下に引用します。

    結局1日、年を越えてすぐに起こったこの地震で全員いませんっ
    てだったら、 今までおった人が次の日にはいないと思ったら苦
    しいでしょ。…なんか信じられんというよりも考えたくないって
    いうか…、何なんですかこれ…。

    なんで私がこんなことにならなきゃいけないんだなって。それも
    1日違いで。1日違いで本当に。会っとっただけで、生と死とのこ
    の境界線ってなんなんですかねって思って。

    一緒に俺も死ねばよかったんかなと思って、それならみんなと一
    緒に…。一緒にいれたんかなと思うねんけども…。

    これも結局1人残された身、あいつらのためにも私は絶対にあきら
    めない…。自分の命を本当に無駄にしないし、皆さん本当に気遣っ
    てくれて「大丈夫?」って言うけれども。いや絶対に、私はもうあ
    きらめませんよ、私は本当に。あいつらのために引き継いで、これ
    から命ある限りやっていきますし、頑張っていきたいなと(注1)。

寺本さんは、自分以外の親族が一度に亡くなってしまったことの不条理に対
する無念の思いをこのように吐露しています。

とりわけ私は「なんで私が・・・・。生と死の境界っで何ですかねって思っ
て」という部分に強く衝撃をうけました。

いくら「なんで私が」と問いかけても答えは返ってきません。それを承知の
上で、(おそらく神様に)問いかけずにはいられない寺本さんの深い悲しみ
と無念さが伝わってきます。

もちろん生き残ったのは幸運ですが、家族を失って残された自分は、何を生
きがいとして生きてゆけばよいのか、現時点では将来の「家族の物語」をと
うてい描けないのでしょう。

死とは別に、今まで住んでいた家を倒壊や火災で失ったしまった人がたくさ
んいます。

ある男性は、倒壊した家のがれきの中を探し、ついに妻の携帯を見つけて非
常に喜んでいました。

妻は亡くなってしまっても、かつて苦楽を共にし、楽しかったことや苦労し
た思い出が、携帯に保存されている写真に「過去の物語」が再現されている
からです。

これは、たとえ本人は亡くなっても、その人をめぐる「物語」は生き続ける
ことを意味しています。

いずれにしても、今回の地震によって亡くなった方は、人生の途中で突然、
人生の「物語」を中断させられてしまったわけです。

生き残っても、将来の夢や希望の物語を描けない人もたくさんいます。

輪島の朝市周辺に住んでいたある女性は、かつての家の痕跡さえ残っていな
い焼け野原を前にして、「今は、夢をみているようだ」とポツリと言いまし
た。

この言葉には、自分の家が焼けてしまったことを、とうてい現実のこととし
て受け入れられない、夢の中のことであってほしい、という悲痛な感情が表
現されています。

この女性の他にも、家が倒壊してしまった人たちの多くは、メディアのイン
タビューで、これからどうして生活していったらいいのか、分からないと答
えていました。

というのも、たとえ政府からの支援金があったにしても、それによって家を
新築することはできません。

さらに、たとえ家の新築ができたとしても、もう、かつてのような濃密な人
間関係から形成された地域社会(共同体)は戻ってこないだろう、という悲
観的な感情です。

能登地域では高齢化が進んでいて、住民の多くは高齢者です。こうした人た
ちの生活を支ええてたのは、人と人のつながり、地域社会(共同体=コミュ
ニティー)だったのです。

そこには、お互いに助け合う、喜びや悲しみを分かち合う「地域社会の物語」
があったのです。

その地域社会が壊れてしまうと、たとえ家は再建できても人と人のつなが
りで成り立つコミュニティーは簡単には再構築できません。

こうした現実に直面して、もう故郷には戻ってこれないだろうという悲観的な
声が多く聞かれました。

もちろん、「物語の喪失」だけが、今回の震災のすべてではありません。

たとえば、わずかに残った「輪島塗」を再建しようと頑張っている人もいます。

また、七尾市にある能登島は昔から、漁業と観光業で栄えた場所で、石川県民
にとってのリゾート地でもあります。島の人々は今、“自分たちの力”で“かつて
の生活”を取り戻そうとしています。しかし、獲った魚を保存する氷がないこと
が障害となっていました。そんな時、
    (金沢の市場が)トラックと運転手、便を出してくれて。ここまで
    (魚を)取りに来るんですけど、金沢の市場の氷も積んで来てくれる。
     それで再開できた。金沢の市場さんに頭が上がらない。
非常事態を前に、関係者が協力して、能登島の漁業を取り戻そうとしています
(注2)。

これは、拡大された地域社会の形成、という新たな「関係性の物語」の形成の
芽生えです。

さらに、輪島市の白藤酒造店は、店舗兼住宅が全壊し酒蔵の設備も壊れて酒造
りができない状況に陥ってしまいましたが、社長の白藤喜一さん(50)、妻
暁子さん(51)=伊達市出身=と同じ東京農大出身の蔵人が駆け付けました。

仕込み途中のもろみを石川県内の別の酒蔵に運び出し、なんとか搾ることがで
きました。暁子さんは古里の先輩の支援に感謝し「輪島の地で必ず酒蔵を再興す
る」と誓っています(注3)。

これまで見てきたように、震災は一方で多くの人の命と地域社会、したがって、
さまざまな「物語」を壊してしまいました。他方、あらたな「物語」も生まれつ
つあります。

しかし全体としてみれば、そして当分の間は「物語の喪失」の方が重くのしかか
ってきます。

私たちにできることは、少なくともこうした「物語」に寄り添って共感すること
です。

(注1)『FNN プライムオンライン』2024年1月8日 月曜 午後2:55
https://www.fnn.jp/articles/-/639573?utm_source=headlines.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=relatedLink


(注2)『テレ朝news』2/2(金)23:30 (魚)
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/tvasahinews/region/tvasahinews- 000335488?fm=topics&fm_topics_id=857e0835355852fef43a7d1baae4ad2e&redirect=1 
(注3)『福島民報』デジタル版 2024年2月6日
https://www.minpo.jp/news/moredetail/20240201114257


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