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大木昌の雑記帳

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子どもの貧困(1)―子供の貧困率6人に1人―

2015-12-24 14:57:07 | 社会
子どもの貧困(1)―子供の貧困率6人に1人―


厚生労働省によれば、平成25年時点で、「貧困家庭」の子どもは6人に1人(16.3%)となっています。これは先進国の中で最悪の率です。

ここで、「貧困世帯」とは、経済協力開発機構(OECD)の定義で、その国の標準的な世帯が年間に得る手取り収入の半分以下で暮らす
18歳未満の子供の割合を示します。つまり、「最低限の暮らしに必要なお金」がない世帯の子供の割合です。

平成25年を例に考えると、1人世帯では122万円以下、2人世帯では173万円以下、3人世帯では211万円、4人世帯では244万円
以下の世ということになります。

食べ物や着る物がないという絶対的貧困率とは異なりますが、教育機会や文化的体験の格差が著しく、実質的に子どもの成長に大きな
ハンディとなることが問題視され、重要な政策課題として先進国で取り組まれています。

日本で貧困率が高いのは、ひとり親世帯で、その大半は母子世帯です。このような母親を就労につなげることで貧困から脱する政策を取
る国が多い中で、日本は仕事をすることが貧困の解消にならない特殊な状況が指摘されています。

というのも、母子家庭の場合、賃金水準の低い非正規雇用の親が多く、保育所不足もあって働く時間も制限されています。この点でも、
非正規雇用の抜本改革が迫られています。

2015年12月3日に放映されたNHKの番組『子どもの貧困「社会的損失4兆円」』は、子どもの貧困が、今のまま放置されるとどうなるか
を、主として経済的な観点から検証しています。

この番組の基礎となった元データは、今年7〜11月、日本財団と三菱UFJリサーチ&コンサルティングによる研究結果で、15歳の子ども
約120万人のうち、ひとり親家庭、生活保護家庭、児童養護施設の計約18万人を対象としています。

もし現状のままの教育支援などしなかった場合、将来、正社員として就職する人が9000人減るほか、無職になる人が4000人増えること
になり、生涯で得られる所得は学習支援を行った場合と比べて2兆9000億円、少なくなります。

他方、国の財政負担は税収や保険料が減ることから1.1兆円増え、経済や国の財政に与えるマイナスの影響=「社会的損失」は、15歳
の子どもの場合、4兆円に上ることが分かりました。

子どもの貧困について社会全体に与える影響が具体的に数値で示されたのは初めてだということで、日本財団は「子どもの貧困は経済に
も大きな影響を及ぼす問題としてきちんと対策をとることが重要だ」と指摘しています(注1)。

4兆円という金額は、15歳だけを対象にした推計値ですが、15歳に限らなければ損失額は何十倍にも膨れ上がる。日本財団は「慈善事業
でなく経済対策として捉え、官民で取り組むべきだ」と指摘しています。

子供の貧困と国全体の経済との関係をもう少し詳しく見てみましょう。

今日、大学や専門学校などへの進学率は80%に達していますが、貧困世帯の子どもは32%にとどまります。貧困家庭の
子ども18万人の就業状況を推定すると、64歳まで働くとして、その間に得る所得の合計は約22・6兆円でした。

一方、何らかの対策が行われ、高校の進学率、中退率が一般家庭の子どもと同じになり、大学などへの進学率が54%まで上昇したと仮定
すると、正社員は増加し、無職は減少して、合計所得は約25・5兆円に増えます。

したがって、この推定でも差額は約3兆円に上ります。

日本財団は「子どもの貧困を経済的観点から見た調査はこれまでなかった。官民の対策の後押しになれば」としている(『毎日新聞』(2015年
12月3日夕刊) 

ところで、日本における子供の貧困率は、いつ頃から、どんな経緯で進行したのでしょうか。

昭和60年(1985年)には10.3%でしたが、昭和年(1988年)にはバブルの絶頂期にもかかわらず、12.9%と2.5%以上も上昇しました。

その後は、一貫して上昇し続け、平成24年(2012年)には16.3%に達し、子どもの6人に1人が貧困家庭という状況になりました。

(厚生労働省 『国民生活基本調査』平成25年:15ページ)

上記期間に、平成3年(1991年)のバブル崩壊、平成20年(2008年)の「リーマンショック」という、景気後退の大きな出来事があり、現在でも
そこから完全には回復していない実態です。

それどころか、前回の記事で書いたように、労働者の実質賃金は減り続け、生活保護世帯も人数もが増えているのが現状です。

貧困率が上がったのは親の収入が減ったことが一因です。例えば,平成25年(2013年)でみると、母子世帯が働いて得る年収は,全ての
世帯平均(400万円)の半分以下の179万円にとどまり、数も平成22年(2010年)の70万8千世帯から,82万1千世帯へ増えました。

しかも、母子家庭の貧困率は50%強、つまり2人に1人が貧困家庭の子どもです。

この背景には、正社員よりも待遇が劣る非正規雇用の母親も多く,子どもの貧困につながっている、という事情もあります。

小中学校でも給食や修学旅行などは自費で,家計を圧迫します。高校でも教材や通学などの費用はかさみます。

経済的に自立するために十分な教育が受けられず,そのため不利な就職を強いられるかもしれません。そうした子どもの、そのまた子ども
も貧困となる可能性が大きく、「貧困の連鎖」に陥りかねなません。

実際、貧困家庭の進学率は極端に低い状態にあります。

このような状況は、社会にとっても大きな損失で,税金を納める人が減ったり,生活保護などの社会保障費が膨らんだりすることになります。

これは、経済的な面にだけ焦点を当てた問題ですが、社会公正や平等性という人権の面から見ても、大いに問題です。

とうのも、貧困は子どもの責任ではないのに、たまたま貧困家庭に生まれたために、社会的に不利益こうむらなければならないからです。

こうした状況にたいして、平成25年の通常国会では与野党の議員立法で提出した「子どもの貧困対策推進法」が全会一致で成立しました。

親を亡くした遺児の団体は,18歳までとなっている遺児年金や児童扶養手当の支給年齢の延長のほか,子どもの貧困率の削減目標を定め
たり,親の就労支援を強化しありするよう政府に求めています(『東京新聞』2014年8月3日)。

各方面からの要請もあり、政府はようやく、平成26年8月29日付けで、『子供の貧困対策に関する大綱~ 全ての子供たちが夢と希望を持って
成長していける社会の実現を目指して~』を決定しました(注2)。

この大綱の細かな内容については別の機会に譲るとして、全体として、項目だけは満遍なくならんでいますが、現時点では予必要な予算も確保
されておらず、支援体制もできていません。

そこで、貧困から抜け出すための一つの条件である、教育、とりわけ大学・大学院などの高等教育に対する国の支援についてみてみましょう。

日本の社会保障政策は年金や介護など高齢層に支出が集中しており、教育に対する支援は諸外国に比べても極端に少ないのが現状です。

先進国では多くの場合、大学や大学院の高等教育について返還する必要のない給付型の奨学金が充実し、授業料が無料あるいは低額ですが、
日本は高等教育を受ける子への公的支援がほとんどありません。

日本では授業料が高いため進学率は親の収入に強く影響されるので奨学金にたよることになりますが、その奨学金も返済型がほとんどで、卒業
後に返済に苦しむ人が多いのが実情です。

「貧困家庭の子どもが進学できない社会に未来はない」という毎日新聞の主張に私も同感です(『毎日新聞』2014.8月24日)

次回は、こうした貧困家庭の子どもの実態と政府の対応を見てみたいと思います。

(注1)http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151203/k10010328331000.html
    『日経デジタル』(2015年12月3日)
    http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG03H1O_T01C15A2000000/
(注2)内閣府のHP http://www8.cao.go.jp/kodomonohinkon/pdf/taikou.pdfで「大綱」の全文を読むことができます。

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日本人の貧困化―その背景と政治的意味を考える―

2015-12-17 07:40:22 | 社会
日本人の貧困化―その背景と政治的意味を考える―

最近の日本社会の生活実態を表す言葉に、「子どもの貧困」と「下流老人」があります。いずれも、日本社会の貧困を象徴する言葉です。

これらの言葉は、日本社会が本当のところ、豊かどころか貧しいのではないか、という状態を示唆しています。

とりわけ、子どもも老人も貧困ということであれば、人生の始めと終わりの部分に貧困が蔓延しているということになります。

しかし、貧困は世代を超えて現代日本の深刻な問題の一つです。



マスメディアなどでは、今年の企業は巨額の利益を計上している、あるいは株価が上昇していると囃し立てていますが、それが国民一般
の生活実態を反映しているとはとうてい思えません。

それが証拠に、下の表から分かるように、生活保護受給者数と生活保護世帯数はピーク時(1990年)が底で、最近ではその2倍以上に達しているのです。

              生活保護受給者数   生活保護世帯数
1970(昭和45年)          1,344,306      658,277
1990(平成2年)          1,014,842      623,755
2014(平成26年2月)       2,166,381     1,598,818
2015(平成27年7月 推計)   2,168,000     1,625,000

出所
http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12601000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Shakaihoshoutantou/051604.pdf (2015.4.10参照)
第17回社会保障審議会生活保護基準部会 平成26年5月16日

つまり、自力で生活できない貧困層が確実に増えつつあることを示しています。「アベノミクス」で経済が好調なはずなのに、なぜでしょうか?

まず、企業業績がいいといっても、それは一部上場の大企業、とりわけ輸出中心の企業のことで、それらの企業でさえ、得た利益を労働者の賃金の上昇に
向けるのではなく、内部留保としてため込んでしまっているのです。

財務省が今年9月1日に発表した2014年度の法人企業統計によると、金融・保険業を除く全産業の期末の利益剰余金は354兆3774億円と1年前に比べて、
実に26兆4218億円(率にして8%)も増加していたのです。

ところが、企業は増益分をせっせと内部留保し、今ではその額は300兆円をはるかに超える額に達しています。

大企業による内部留保資金はしばしば、富裕層の増加を見込む東南アジアの企業買収などに向けられているようです(『東京新聞』2014年7月29日)。 

しかし、中小企業は、まったく別で、円安政策の影響もあって、原材料費の高騰が経営を圧迫しています。

東京商工リサーチの調べでは、2015年3月期の状態は、赤字率(22.5)も減益企業率(45.5%)も前年度より上昇しており、経営の苦しさを表しています(注1)。

安倍晋三首相は、「戦後最大の経済と国民生活の豊かさ」を掲げ、「アベノミクス」を導入しました。

内閣府の試算によると、政権が掲げる「名目3%、実質2%以上の高成長」を続けると、5年後の20年度に名目GDPが594兆円に達するという。

総裁任期中の18年度にこの目標を達成しようとすれば、「平均で5・2%の成長率が必要」(SMBC日興証券の牧野潤一チーフエコノミスト)ですが、ここ
20年、日本の名目成長率が3%を超えた年は一度もありません。

それどころか、せいぜい潜在成長率が1%未満といわれる今の日本では、きわめて高い目標で、多くのエコノミストは、上記の目標はまったく非現実的だと
考えています。

それどころか、今年4~6月期のGDPの実質成長率は、3四半期ぶりのマイナス成長となってしまいました。

それは、中国経済の減速などによる輸出の落ち込みに加え、GDPの約6割を占める個人消費が減ったからです。

アベノミクスは企業を強くしたが、その恩恵が家計までは届かず、逆に円安による物価高が家計に負担になっているのです。

昨年4月の消費増税後、物価の影響を差し引いた実質賃金指数は、ここ2年以上、マイナス基調が続いています。

一時盛んに宣伝された、大企業の業績が向上すれば、やがて広く国民全体に滴り落ちるという「トリクルダウン」は起きていないのです。

この大きな理由は、相対的に賃金が低い非正社員(派遣社員、契約社員、嘱託、パート、アルバイトなど)の増加に歯止めがかからないことです。

首相は会見で「アベノミクスで雇用は100万人以上増えた」と胸を張ったものの、政権発足前の12年春からの3年間で、正社員は56万人減る一方、
非正社員は178万人も増えたのです(注2)。

今年の11月5日の厚労省の発表では、非正規雇用の割合が初めて40%を超えました。1990年の20%と比べると、この割合は倍増しています。
 
収入も減少しています。民間の平均給与は、ピーク時の1997年の467万円から、2013年には414万円へ、63万円も減少しています。

しかも、正社員と非正規との賃金格差は非常に大きく、国税庁の調べでは、2014年の実績で、正規社員の平均年収478万円にたいして非正規(派遣
を含む)社員は168万円と三分の一ほどです(注3)。

非正規雇用の場合、退職金はほとんどなく、厚生年金、健康保険、雇用保険などの面でも非常に不利な状況です。

改正労働者派遣法とならんで、労働者を解雇し、裁判で会社側が敗訴しても解決金によって解雇できる制度や、いわゆる「残業ゼロ法案」を目論む
政府と企業は、一般の労働者の地位を不安定化させ、所得水準を下げようとしているとさえ見えます。

この傾向は、今後もさらに進んでゆくと思われます。というのも、今国会で成立した改正労働者派遣法の施行で、企業は働く人を代えれば派遣社員
をずっと受け入れられるようになるため、正社員を派遣に置き換える動きが加速すると考えられるからです。

こうした、労働者に対する不利な条件が次々と押し付けられる一方で、企業に対する法人税の実効税率は現在、34・62%(標準税率)ですが、段階
的に20%台に引き下げることを決定しました。

税率の引き下げで税収が減る分は、ため込んだ内部留保からではなく、赤字の企業でも事業規模などに応じてかかる「外形標準課税」を強化するなど
して、段階的に穴埋めする、としています。

この措置で、大きな影響を受けるのは、赤字を抱える多くの中小企業と、そこで働く労働者です。

安倍内閣は、大スポンサーである経団連に加盟する大企業を優遇し、中小企業や一般の労働者には非常に過酷な負担を強いています。

その上、政府は貧しい人からも消費税を10%に引き上げようとしているのです。

これにたいして、いわゆる「軽減税率」の適用範囲を酒や外食を除くすべての食料品に適用する案が浮上していますが、これは実に国民をバカにした
話で、この問題については、来年の1月から始まる国会の審議過程で明らかになると思いますし、このブログでも再度取り上げます。

かつて日本人は「一億総中流」と言われましたが、近年は、ごく一部の恵まれた人たちを除いて、中流から下方へと転落する人が増えています。

冒頭で示した生活保護受給者とその世帯の増加は、このことをはっきりと示しています。

この点について内橋克人氏は、実に鋭い指摘をしています。 つまり、彼は安倍政権の本質は貧困層を広げる点にあるのではないか、と疑っています。

というのも、国民が日々の生活に困窮すればするほど、深く政治や経済政策について考える余裕がなくなり、政府にとってくみしやすくなるからです。

実際、格差や貧困を助長すらしている現政権の支持率は、依然として高い水準を保っています。その秘密にたいして内橋氏は次のような鋭い分析を
加えています。

    長きにわたる経済の停滞により、ただでさえ貧困層は増えている。そうした中で、株価などうわべの数字を信じ込む人が多くなっている
    のではないか。
    また「不安を持つとお上を頼る」という日本人の国民性も影響している。

アベノミクスが、一般の国民を豊かにする可能性が、現実問題として非常に少ないことは、これまでみた通りです。

むしろ格差は広がり貧困が浸透していることの方が事実に近いと思われます。

しかし、日本人には、貧しくなればなるほど、将来の生活に不安を持てば持つほど、政府に対する批判的な姿勢は薄れ、少しでも経済が良くなるような
幻想を与える言葉を信じたがる傾向にある、というのが内橋氏の主張です(『東京新聞』「こちら特報部」2014年11月8日)。

アベノミクスの失敗、従って貧困の浸透は、憲法改正や集団的自衛権の行使などに対する批判を弱める可能性があります。

この意味では、アベノミクスの経済的失敗は、政治的には安倍政権の思い通りということになります。

安倍政権が、政治的野心を達成するために、意図的に経済的な失敗を画策したとは思いませんが、結果的には、そのシナリオに沿って物事が進行し
ているようです。

(注1)『日経ビジネス』(2015年9月25日号) http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/238117/092400007/?rt=nocnt
(注2)朝日新聞デジタル版(2015年9月25日)http://digital.asahi.com/articles/DA3S11981465.html
(注3)http://www.nta.go.jp/kohyo/press/press/2014/minkan/
    http://blogs.yahoo.co.jp/norrie_sky/25383489.html

 

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不寛容の時代(3)―多文化主義は失敗したのか―

2015-12-10 08:57:00 | 思想・文化
不寛容の時代(3)―多文化主義は失敗したのか―

2015年1月のフランスにおける「シャルリ・エブド」事件や「イスラム国」の台頭がきっかけとなったと思われますが、「NHKBS1」は,2015年2月28日の
「Wisdom」で,「広がる“不寛容”―多文化は共生できるか―」という2時間番組を放送しました。

この番組は,日本の萱野稔人,津田塾大学教授をはじめ,4人の海外研究者を電波で結んでのテレビ討論会という形をとっています。

まず、多文化主義は失敗したのか、多文化主義の危機についてどう思うか、という質問にたいする4人の海外研修者の見解の要旨を示しておこう。

アラナ・レンティン氏(文化社会学者―ウエスタンシドニー大学准教授,アイルランド出身)は,「多文化主義は失敗だったのか」という質問にたいして,
そういう問題設定そのものが間違っていると答えました。

彼女は,多文化主義が終わったという表現は,政治的にも言いやすい,便利だからで,この問題を理解するためには,人種差別主義という観点から考
える必要がある,と指摘します。

多文化主義の失敗と言ってしまうと、自分たちとは異なる文化を持つ人々を「劣っている」「こうゆう輩は自分たちの一員にはとうていなりえないんだ」と
決めつけることになりかねない,というのです。

さらに彼女は,一般的には戦後の40年、50年に多文化、多民族の社会が発生したかのように言われるが、そうではない。過去の歴史を見れば,どの
国,どの時代においても,人間社会は多文化・多民族であり,国々は相互依存していた,と述べています。私も,この議論に賛成です。

ファブリス・エペルボワン(パリ政治学院教授,政治学)は,「人口の移動のペースが加速されています。世界において地域において北アフリカ,中東にお
いて色々なことが流動的です。そのことに欧米が介入している。それがグローバル対立になっている。その対立が社会に反映されている」と述べます。

こうした対立の極端な例がテロリズムであり、フランス社会の中核に対立をもたらしている。しかし、フランス人の政治家はどう対応していいか全く分かっ
ていません。政治的な解決方法を見い出すことができないでいる、というのがエペルボワンの分析です。

タリク・ラマダン(イスラム学者,オックスフォード大学教授,スイス出身)は、イスラムの立場から次のように述べます。

    「多文化主義の危機」というのは,本当の問題を議論するのを避ける言い訳に使われている。何百万の人々が今,社会に組み入れられ、統合
    されている。今や「ポスト統合化の時代」などということが言われているくらいだ。
    問題があると、ある特定の文化の問題であると決めつける,ということになっている。イスラム文化が欧米で目立つようになってきたからこそ,
    問題視されている。しかし、本当は、どう対処していいか分からないことが問題だ。ほとんどのイスラム教徒はきちっと法律を守っている社会に
    溶け込んでいる。したがって、多文化主義の失敗というのは、外交政策や国内政策や移民政策にどう向き合うのか,というその現実ということ
    で,言い訳にされ、イデオロギー的な組み立てて議論を導いているに過ぎない。

エリック・ブライシュ氏(アメリカ,ミドルベリー大学教授 ヨーロッパにおける人種と民族問題,ヘイトスピーチ問題)は、移民大国アメリカで、さまざまな
文化的背景を持った人たちが共存する多文化社会は実現できるか、との質問に、次のように答えています。

    多文化社会は実現できる。多文化主義という標語は欧州の政治家が、価値観が違うから社会が崩壊してしまう、という主張のために利用して
    いるが、現実の描写にはなっていない。
    現実は,欧州社会では多民族、多文化社会が共存している。暴力が日常的に起こっているわけではない。アメリカのカリフォルニア州は,多様
    な人種が住んでいるが,対立が起こることはほとんどない。多様性を誇りに思っている。これからのいいモデルになるかもしれない。経済的な
    余裕ができれば。

ところが、現代の国家は何を軸として統合を図るかの方法について対応を迫られています。

たとえば、民族の多様性を認め多文化主義を掲げてきたイギリスも、新たな政策に踏み出しています。

今では移民に対して,市民権資格テスト(ライフ・イン・ザ・UK)で、イギリスの歴史と文化に関する難しい試験を課しています、同様のことはオランダ,
ドイツも実施されていますが、これは差別を生みだしてしまいます。

しかし,レンティ氏は,これは必要ない,そこで生まれた人と移民との間にむしろ対立をもたらす。大切なことは、法律を守っているかどうか、働いて税金
を払っているかどうかといことだ、と述べています。

ラマダン氏は、移民は労働力として必要で,そのために移民を受け入れるが,宗教が違うからと言って差別するのは間違い。違いにばかり注目しないで,
共通の目標に向かって話し合うべきだと主張します。

最後に萱野稔人は、以上の4人とは異なり、ある種の現実主義的なコメントをします。

すなわち萱野氏は、人間は本来寛容で差別をするのはおかしい,という出発点を考え直すべきだ、という。人間はもともと異なるものに対して不寛容で,
排外的で差別をするものだ,それがこれまでたまたま経済成長があったり先進国が優位にあったために寛容になれていただけで,それが崩れたときに
は,もとの人間の本性が出ると考えるべき。

さらに彼は、理想を言って,問題解決した気分になって,しかし気が付いてみたらもっと事情が悪くなっていることが起こるから,それを一旦断ち切っ
て,出発点を見直すことが大事だ、と結論します。

以上が、不寛容と多文化主義に関する議論の要旨です。外国の討論者はいずれも、「多文化主義は失敗したか」という設問自体に疑問を抱いています。

というのも彼らは、一見、多文化主義は失敗したかにみえるが、実は欧米社会の、非西欧社会(とりわけイスラム社会)に対する差別と軽蔑こそが問題
である、と考えているからです。

寛容について、ブライッシュ氏はアメリカの現状を引用して、異民族、異文化の人たちが同時に生活していても、必ずしもお互いに不寛容になるわけでは
ない、と主張しています。

しかしヨーロッパでは、移民にたいする制限や差別、貧困、格差などが実態としてあります。

それは、政治的には、極右政党や団体の台頭、移民排斥運動などの形で表れています。

こうしたヨーロッパ側の動きに対する移民社会の側から反発が起こり、極端な場合、2005年のロンドンの地下鉄での爆発テロや、パリでの2回にわたる
テロになって噴出します。

こうした動きの底流には、ヨーロッパ経済の全般的停滞があるように見えます。

というのも、ヨーロッパの経済が順調な時には、移民にたいしても寛容で、むしろ必要な労働力として積極的に招いていました。したがって、両者の対立
は表面化していませんでした。

しかし、ヨーロッパ(幾分かはアメリカ)経済の全般的な停滞が長引くにしたがって、移民に対して非寛容になってきた経緯があります。

これは、萱野氏が言うように、教育,福祉,労働面で厳しくなってきており、移民を抱え込む余裕がなくなっているからいるからだろうと思います。

ただし、私は萱野さのように、「人間はもともと異なるものに対して不寛容で,排外的で差別をするものだ」という人間に関する本質論に、にわかに賛同す
ることはできません。

たとえば、東南アジア世界をみると、多人種、多文化の人々が、それぞれを認めて共生・共存してきた歴史の方が、対立した歴史よりもはるかに長いから
です。

不寛容は、内部に具体的な利害の対立が発生した時や、外部からの干渉などの要因によって、既存の共生・共存のバランスが崩れてしまった時に顕在
化してくるものだと思います。

この意味で、不寛容は何らかの歴史的条件の下で発生するものであるから、その原因を冷静に分析して行けば、解決策は見つかると思います。

ただ、その時重要な原則は、弱い者と強い者が対立した場合、強い者が譲ることが必要です。

しかし、現実は、その反対に動こうとしています。

パリでのテロが起こった直後、フランスの地方選が12月6日投開票されました。移民批判を重ねる極右翼政党・国民戦線(FN)が全13選挙区のうち6選挙
区の得票率で首位に立ちました。パリの同時多発テロで広がる国民の不安を取り込んで躍進したのです。

マリーヌ・ルペン党首(47)が2017年の大統領選で2大政党の候補と争う可能性が現実味を増しています。

移民の受け入れによってフランス人が職を奪われ、治安が悪化するなどと主張してきたFNの得票率は28%。サルコジ前大統領が率いる中道右派・共和党
の27%、政権与党・社会党の23%を上回わりました。

13日の第2回投票でもFNが選挙区で首位を守れば、首長にあたる地域圏議長を初めて出すことになります。

ルペン氏は7日、「(2大政党に)背を向ける時だ。(政権与党の)社会党は消滅に向かうのではないか」と語りました。

フランスは、これから移民とイスラムに対する排外主義的な不寛容をさらに強めるのだろうか? ヨーロッパに不気味な暗雲が漂い始めたようです。

また、アメリカでは、共和党の大統領候補のトランプ氏が公然と人種差別発言を繰り返しています。これに対する批判も多く出ていますが、こういう
発言が出ていること自体、アメリカ社会の一部に、極めて他文化・他人種に対する不寛容がくすぶっていることを示唆しています。

しかし、私には、この動きはヨーロッパ、アメリカだけでなく日本でも日々強まっているように思え、不安と恐怖と感じます。



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不寛容の時代(2)―移民と国内統合の難しさ―

2015-12-02 05:48:25 | 思想・文化
不寛容の時代(2)―移民と国内統合の難しさ―


現在、欧米世界(ロシアを含)と非欧米世界(とりわけイスラム世界)とが敵対している場面ばかりが表面化しています。

この敵対関係は、時にテロや報復攻撃としての爆破や銃撃という暴力的な形をとることがあります。

しかし、そこまでゆかなくても、民族や宗教の違う社会集団がお互いに他を受け入れない、不寛容な場面は世界の随所にみられます。

日本は、欧米諸国と比べると移民をあまり受け入れてこなかったので、これまで民族間あるいは宗教間の対立は,あまり表面化してきま
ませんでした。

しかし最近の,中国や韓国に対するヘイトスピーチ問題を考えると,日本も他の民族や文化に対する寛容性を失いつつあるように感じます。

この背景には,これら近隣諸国との政治的対立,領土問題がきっかけとなったことは間違いありませんが,「日本は単一民族・単一文化の
国」というナショナリズムもあると思います。

安倍首相が唱える「日本を 取り戻す」というスローガンは,「美しい」過去の日本への回帰、日本主義の強調と同時に,異文化との区別を
強く意識させます。

日本は国籍の取得を認める正規の移民はほとんど受け入れていませんが、近年の日本には,特に都市部においては,さまざまな民族や
文化的背景をもった人が住んでいます。

加えて,日本における急激な少子化のため,将来,多数の外国人労働者を受け入れることになることが予想されます。

すると,日本もいずれ,さまざまな民族や文化的背景をもった人たちと共存する多文化社会になってゆくことが想定されます。

日本と異なりヨーロッパ諸国は、かつての植民地とのつながりもあって、移民を積極的に受け入れてきました。

そこには、労働力不足を移民によって補うことが第一の目的であったことは確かですが、外国人を受け入れるからには、その根底には、異
なる文化、宗教多文化を受け入れ共存してゆく、多文化主義が当然あったと思われます。

「多文化主義」とは、異なる文化、民族、宗教が、お互いを尊重し共存してゆこうという考え方です。

多文化主義が機能するためには,そこに住む人々の,他民族・他文化にたいする「寛容性」が前提となります。

しかし近年,寛容性,したがって多文化主義が世界各地で根底から揺らいでいます。

ここで「寛容性」という言葉の意味を,もう少し補足しておきます。多民族,多文化国家といっても,全ての人たちが平等であるわけではなく,
実際には,数の上でも政治的にも優勢な多数派グループと,逆に少数派グループ(マイノリティ)とがあります。

このような状況の中で「寛容性」とは通常,多数派が少数派を尊重して受け入れる姿勢を意味します。

大雑把にいえば,20世紀末まで,多くの国で「寛容性」も「多文化主義」もある程度は満たされて,共存が保たれてきました。

1970年代に、多文化主義を国の基本的方針として定めたオーストラリアは、その代表的なくにです。

しかし,21世紀にはいると,寛容性や共存よりも不寛容と対立が目立つようになりました。

その一つの源泉が,イスラム世界の西欧世界に対する不満や反発、それにたいするアフガン、イラク攻撃のような西側からの報復です。

以上の事情を考えれば,日本よりはるかに民族的・文化的多様化が進んでいる欧米諸国が直面している問題について考えておくことは日本
の将来を考える上で大切だと思います。

ドイツは、多文化主義("multikulti")を掲げ、ヨーロッパ諸国の中でも最も多くの移民を受け入れてきました。

現在では、トルコその他の中東・アフリカからの移民が約1700万人もおり、国民の5人に1人が移民とその子孫です。

ところが、そのドイツのメルケル首相は、2010年10月、キリスト教民同盟の集会で「隣人同士が互いに幸せに暮らすという多文化のアプローチ
は失敗した。完全に失敗した。」と宣言しました。

いわば移民受け入れの優等生的存在であったドイツでも、メルケル首相に,「多文化主義」は完全に失敗したと言わせるほど,現実は理想から
は遠く離れてしまっていたのです。

同時に、ドイツで生活するからには、ドイツ語を話し、ドイツの文化価値を共有すべきである、という、フランスの同化主義と同じような主張もして
います。(注1)

イギリスのキャメロン首相も,「多文化主義政策のもと,さまざまな文化が共存できる社会を作ろうとした。しかし,その試みは失敗した。」と述べ
ています。

イギリスで最近注目されてきたのが「国家の価値」という考え方です。これは,もしイギリスに住みたければ,イギリスという国家の文化と歴史を
全面的に受け入れるべきである,という考え方です。

このため,最近では移民が完全な市民権を得るためには,イギリスの歴史や文化に関する試験にパスしなければならない制度となっています。
しかも,この試験は現地の住民にとってさえ難しい内容で,実質的に移民を排除する役割をもっています(3)。

最近の,ヨーロッパにおける,他民族・他文化の人々に対する「不寛容」の問題には,従来と異なる背景があります。

すでに述べたように,征服者としてヨーロッパ人は,最初は少数派として植民し,後に自分たちが多数派になった国では,先住民族,そして後か
ら移民として入ってきた人たちとの間に,長い間,差別や対立がありました。

しかし最近では,植民地から移民国家として独立したオーストラリアのような国ではなく,ヨーロッパ世界に取り込んだ移民と元々の住民との間
の差別や対立が噴き出してくるようになりました。

たとえばフランスの場合,主にアフリカの旧植民地からのイスラム系移民が宗主国フランス国内で,職を求め差別に反対する抗議デモなどを繰
り返しています。

また,フランス政府はイスラム系女子学生が学校にスカーフを付けて登校することを禁じており,これもイスラム系住民との間で宗教的・文化的な
摩擦を生んでいます。

イギリスにおいても,旧植民地からの移民とその子孫,さらにはイギリスからの分離独立を望む北アイルランドの住民の存在が,国の統一に大き
な障害になっています。上に述べたキャメロン首相の言葉は,こうした事情を反映しています。

また,かつては世界の多くの国から移民を受け入れ「多文化主義を」を実践してきたオランダやベルギーは,最近,「多文化主義」から「単一文化
主義」へと回帰しています(注3)。

今日,EUのように「統合」が推進されている場面がある一方,一つ一つの国の内部に立ち入ってみると,あちこちに亀裂と対立も見られます。

以上に見たように、移民を受け入れてきたヨーロッパ各国は、それぞれの社会に、不協和音を抱え、多文化主義が揺らいでいます。

次回は、こうした背景の中で、果たして多文化主義は失敗したのかどうかを、様々な立場から検討してようと思います。

(注1)http://www.bbc.com/news/world-europe-11559451)
(注2)http://blogs.yahoo.co.jp/kira_alicetear/27890580.html
    金田耕一「グローバリゼーションとナショナルアイデンティティ―多文化主義社会におけるシテxシズンシップ」『経済科学研究所紀要』
    (日本大学)第37号(2007年):41-52.  
(注3)オランダの多文化主義政策は「マイノリティ政策」と呼ばれたが,近年,これは批
 判されるようになっている。
http://www.unp.or.jp/images/age-of-migration/case11.3_aom.pdf

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