言葉のこと 4

2020-06-12 20:39:45 | 日記

 われながら相変わらず読みずらい、下手くそなものを書いている、誰か編集をやってくれ!と言いたくなるが。そのままもう少し書いてみる。自分そのもの、生きていることそのものは、言葉で言い表せないものとしてあると書いた。それはいつでも現生、生成され続けているものとしてこの身があるからだ。言葉で追いつかない、クリップできない、ものとしてあるということ。と了解するしか手がない。しかもこのこともすぐアタマで納得する。そのことが論理、概念として「哲学」や「宗教」のはなしになる。その途端、自分ということから外れて違う脳内作業に活性しだす。哲学や宗教を学問として専攻している人たちはそれが仕事だからそれでいい。しかしながら、その専門にやってきた人たちから学ぶことは、自分ということが理りとしてあるということを学ぶためである。この学びは仕事などではなく自分という生の不思議さ、不可解さに触れることでここに深さやとんでもない広さがあるということであり、われを生きることそのものが謙虚にならざるを得ないことを習っているのだと思う。

 もう一方で、言葉で言い表せないとなんとなく了解すると、言葉を軽んずるというか、探さなくなる向きもある。このありようもだめなんだと思う。ここはどういうてもその言葉に引っかかってしまうが、あえてそれでも言えば、どこまでも無知である。知りようがないものとしてある。それゆえかえってけんめいに言葉を探し求めつづけなければと思う。明らかにできないものとしてあるがそれゆえにこそ明らかにするものとして、どこまでも掘り続けるということがどうやら人としてここにあるということなのだと思う。この深さや広さに果てはないし、いうてみればこのわれの掘り続け方じゃ先人たちと比べると浅すぎてはなしにもならない。がこのわれというもの、どんなに程度が知れていようが、何であろうがこのわれでするより他なきもの、各々がそれぞれのそこで習っていくものとしてあるということもはっきりしている。

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