家族という病

2015-07-17 21:22:42 | 日記

 新聞の広告欄に「家族という病」下重暁子さんと言う方が書いていて、読まれているという。本の内容もその広告欄の箇条書きしか知らないから、例のごとくはなはだあてずっぽうな言い方しかできないが、なにやら書きたいから書く。

 先日もたしか九州地方で、8人の子どもの親(自衛隊員の)が、発作的にか?灯油をまいて放火、子どもが4人だかが焼死との記事があった。そういう記事を詳しく見れないから、いい加減な内容になるけれど。その火を点けたお父さん、家が燃えてから、家の中に居る子どもたちを救い出そうとして、まわりの人から止められたとか、その家のそばでオレがワルかったと泣き叫んでいたとか。実際のさまは知る由もないが、こちらにその時の映像が勝手に見えてしまい離れない。こういう事件はしばしば起こる。もちろん近しさゆえに起こることである。

 どんなにイヤなタイプのものと出会っても、100mほど離れていればそう問題は起きることは無い。自分というものに近ければ近いほど、愛憎の念のなかでしか見れないものとしてあるようだ。だから逆にいえば袖振り合うご縁のまったくないものとは、おおよそなんの関わりも生じることがない。

 家族という病などと言う前に、自分という病があることを知らないのだと思う。この自分というものはいつも袖振り合う関係でしか自分と言うものが成立しないからである。人として生きることの機微はたがいに傷つき、慰め、邪険、安堵しながらなまなましくいつも寄り添うものとしてあるようである。一人きりではその機微を味わうこともできないのではないか。

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